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12.紀州の烏
12-2. 風を操る者
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天正五年
この年、例年であれば年賀の挨拶に安土に現れる筈の滝川一益は、何故か姿を見せなかった。
何かがあると思っているところに、伊勢への使いを命じられ、峠を越えて一益の居城・伊勢長島城へ向かった。
「やはり伊勢は暖かい地でござりますなぁ」
峠を越える間中、冷たい風に晒され、身を縮めていた町野左近は寒さから解放され、息をつき、ほっと安堵の表情を浮かべた。
ところが長島の手前、桑名にいる義太夫の元へ行くと、義太夫は留守をしており、一益も長島にはいないという。
「皆、何処へ…」
正月早々、どこへいったのか。町野左近と顔を見合わせていると、同行していた滝川助太郎が進み出た。
「恐らくは四日市・日永の実蓮寺では…」
「日永か」
日永にある実蓮寺は、一益の弟・休天和尚のいる安国寺の末寺で、滝川家の菩提寺でもある。
桑名を後にし、伊勢湾の青く広がる水面を横目に南へと街道を下れば、やがて日永の地へと辿り着く。そこは古より旅人たちが足を休め、息を整えた伊勢街道の起点。時折吹く海風が頬を撫で、松並木の間を渡る音が峠の向こうの古里の森を思わせる。
日永は、ただの追分とは何かが違う。歴史が折り重なる土地に、旅の疲れもどこか薄れるような、不思議な静けさが漂う。
「この辺りはその昔、海だったとか」
助太郎が眼下に広がる海を見つめ、静かにそう呟いた。 海原はどこまでも青く広がり、そのはるか彼方にはうっすらと三河の地が見えていた。 遠く霞む大地は、まるで水平線の向こうから見えるように静かに佇んでいる。
「海?この辺りが?」
「はい。それゆえ、場所によっては今でも、掘れば砂が出て参ります」
一益がこの地を選んだわけがわかった。ここは伊勢街道の起点であるばかりではない。水害に弱い難点はあるものの、土壌は肥沃で、農耕には最適な場所と思われた。
「…で、皆、寺で何を?」
忠三郎と町野左近が助太郎に案内されて行ってみると、一益をはじめ、風花、三九郎、八郎、それに弟の休天和尚、連枝の義太夫、佐治新介、道家彦八郎など一族が皆、一堂に会していた。
「先祖供養か何かで?」
忠三郎が尋ねると、一益はなんとも言いにくそうに義太夫を見る。義太夫は頭を掻いて、
「婆様が危篤じゃと言うので、皆で慌ててきてみれば、これが真っ赤な嘘偽り。正月じゃというに、誰も姿を見せぬと臍を曲げ、仮病を使って皆を集めたのじゃ」
ため息まじりに言うと、新介は怒り心頭で
「全く面倒なお方よのう。甲賀から呼び寄せてみれば、早速、騒ぎを起こしてくれたわい」
道家彦八郎とともに、馬屋に向かおうとする。一益の母、滝御前が皆を集めたらしいが、仮病とわかったのでさっさと帰るところだったようだ。
「待て、二人とも。ここまで来たのじゃ。皆で母上に顔を見せてから帰れ」
「へ?あの…殿は…」
「わしはよい。ここで待つ」
何だろうか。一益は随分と滝御前を避けているように見える。
「父上、それは…」
と三九郎が異を唱えようとすると、風花が何かを察して割って入った。
「致し方ありませぬ。では殿はここへ置いて、お婆様の顔を拝んで帰ると致しましょう。さ、八郎…」
八郎の手を取り、奥の母屋へと向かっていくと、休天和尚がその後に続いていく。
「何ゆえに顔を見せないだの、挨拶くらいせいだのと、長々小言を言うにきまっておる。なんとも気が重いのう」
新介がぶつぶつと文句を言いつつ後に続く。一族の話に首を突っ込むのも躊躇われ、ここで一益とともに皆を待とうとすると、義太夫が忠三郎を振り返る。
「なにをくつろいでおる。鶴も共に参れ」
「わしが?な、なにゆえに…」
「四の五の申すな。呆けておるゆえ、孫の顔も分かってはおらぬ。枯れ木も山の賑わいじゃ。早う参らぬか」
相変わらずの無茶な論理で忠三郎の腕を引き、無理やり母屋へと連れて行った。
諸々の事情は分からないが、どうやら滝御前は皆に煙たがられているらしい。
(何故にわしまでが…)
一益の母にして、皆の祖母なる人物は、どんな人物なのか。不安が頭をもたげたが、意を決してその奥の間を訪れてみると、そこにいたのは意外にも、どこにでもいそうなごく普通の老婆だった。腰の曲がった背中、皺の刻まれた顔、そして穏やかに笑みを浮かべるその姿が、拍子抜けするほどに平凡で、どこか安心感さえ覚えるものだった。
「賢そうな子じゃ。こっちへ参れ。菓子を取らせて進ぜよう」
滝御前は上機嫌で八郎を呼び寄せ、手づから菓子を渡した。八郎は教わった通り、丁寧に頭を下げて礼を言う。
「いくつになった?」
「七つでござります」
八郎が幾分緊張した面持ちで答えると、滝御前が満足そうに八郎の頭をなでる。
義太夫、新介、彦八郎の三人の孫が並んで座り、忠三郎は目立たぬよう、義太夫の横にそっと腰を下ろした。
老婆はちらりとこちらに目を向けたが、義太夫たちにはまるで興味がないかのように視線をすっと外し、そのまま忠三郎に視線を据えた。その眼差しには鋭さがあり、まるで心の内を見透かすかのように凝視している。
(義兄上と同じ目じゃ)
忠三郎もその視線を避けることができず、何かを見定められているかのような、妙な緊張感が走る。老婆の沈黙が、時間をゆっくりと引き伸ばしているかのように感じられた。
(これは…余所者であると露見し、怒りだすのでは…)
内心、肝をつぶしていたが、必死に平静を装った。柔らかな笑みを浮かべ、滝御前に向き直る。冷や汗が背中を伝う中で、笑顔だけは崩さぬようにと気を配りつつ、老婆の反応を慎重に伺った。
張り詰めた空気が一層重く感じられたとき、滝御前はにわかに立ち上がり、忠三郎の前に座った。
(何が起きた?義太夫!誰か、助けてくれ!)
隣に並ぶ義太夫たちに視線を送るが、皆、驚いてこちらを見るだけだ。忠三郎は致し方なく、滝御前に微笑を返す。
「なんとも高貴な若武者。まるで絵巻から飛び出したような雅な姿。さすが我が孫。どこぞの公達かと思うたわ」
と上機嫌で皺だらけの手を伸ばし、忠三郎の手を取った。
(誤解されている…)
しかし、今更違うとも言えない。こんなとき、なんと返すべきだろうか。この場にいる者は何故か、誰も助け船を出してはくれない。むしろ、滝御前の勘違いが面白いらしく、クスクスと笑う声さえ聞こえてくる。
ちらちらと視線を泳がせていると、一益が部屋の外からそっと様子を伺っているのが見えた。その様子を鑑みるに、声をかけるつもりはなさそうだ。
(義兄上まで、助けてくださらぬとは…)
この滝川家は一体、どうなっているのか。
「名は?なんと言うたかのう?」
「忠三郎でござります」
「おぉ、そうであった」
滝御前は満面の笑顔を称え、嬉しそうに忠三郎の手を何度も握りしめる。その掌は驚くほど軽く、かつ温もりを帯びていた。忠三郎は一瞬、戸惑いながらもその手に応じる。老婆の細く節くれだった指が、長年の労苦を物語るかのように忠三郎の手を包む。
柔らかな手には、想像していた威圧感とは違い、どこか母のような優しさが宿っていた。忠三郎は思わず安堵の息をついた。
「忠三郎、待っておったぞ。よう来た、よう来た」
(待っていた…)
その言葉が耳に届いた瞬間、忠三郎の胸の奥に静かな衝撃が走った。これまでの人生で、誰からもそんな言葉をかけられたことはない。
忠三郎が生まれたとき、祖母はすでにこの世になく、唯一生き残っていたのは父方の祖父、快幹だけだ。
(祖母とはかような存在か。これが慈愛というものか)
ここにいる皆が羨ましいと思う反面、皆が持っていて、自分に欠落しているものが何なのか、うっすらと分かった。
人は皆、この世に生まれついたときには、誰かの手を借りなければ生きることはできない。誰かのために何かをすることもなく、そこに存在するだけで受け入れられる。そのようにして物心つく前から、言葉にすることのできない安心感に包まれる。
幼い頃に得た安心感は、自分自身を肯定し、生きる力になる。しかし、その中に不安や恐れが入り、安心感を得ることができないと、それは一生の傷になる。心は乱され、何か有益になることをし続けなければ身の置き所ない不安に襲われる。心を穏やかに保つことができなくなり、自分の存在意義を見失っていく。
「御婆様。皆で急に押し掛けたため、お疲れでしょう。あまり無理なされぬよう、そろそろお休みくだされ」
皆、早く帰りたいと思っているのが伝わってきたので、そう声をかけると、滝御前は感極まり涙ぐんだ。
「なんと心根の優しい子じゃ。久助の子とは思えぬ」
一益の子だと思われている。ちらりと一益を見ると、どうやら困惑しているようだ。
ここまで喜ばれて嬉しくないはずもないが、一益には何とも申し訳がない。
「忠三郎、供にきておくれ」
滝御前がなかなか手を放してくれないので、忠三郎は供に立ち上がり、滝御前を支えて奥の部屋へと向かった。
翌朝、滝御前に暇乞いして母屋を出ると、一益と義太夫が待っていた。他の皆は長島に引き上げてしまったようだ。
「鶴、婆様の相手をさせてすまなんだ。婆様があのように喜んでしもうて、年寄りの儚い夢を壊すのも不憫と思うてのう」
義太夫は悪びれもせず笑ってそういう。皆、滝御前を避けているようだが、忠三郎の目から見ると、滝御前は温厚な老婆であり、昨日の様子からは、皆に煙たがられる理由が分からなかった。
「儚い夢?何やらよう分からぬが、お優しいお方ではないか」
「婆様が?お優しい?…まぁ…知らぬが仏じゃな」
なにやら意味深だ。如何なる意味かと一益の顔を見ると、今の会話を軽く聞き流していたようだ。
「鶴、わざわざ峠を越えてきたのは母上の顔を見るためではあるまい。上様の命で参ったか?」
「はい。紀州攻めの時期についてお尋ねでござりました」
一益はやはりそうかと言いたげに頷く。
「根来衆は問題ない。して、問題は…」
紀伊半島の西側を拠点としている雑賀衆。雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負けるとも、雑賀を制すものは天下を制すとも唄われている雑賀衆には何度となく煮え湯を飲まされてきている。
雑賀は大きく分けて五つに分かれる。雑賀荘、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷。
このうち雑賀荘、十ヶ郷は海側にあり、一向宗門徒が多いことでも知られ、本願寺の影響力が強い。残りの中郷、南郷、宮郷。この三つは三緘衆とも呼ばれ、紀州の内陸側を支配している。三緘衆は地理的にも真言宗の支配下にある根来衆や神道の影響力が強いため、これまでも何度か雑賀衆と争ってきている。
「三緘衆、そして根来寺からは来るべき雑賀攻めの折には先陣を務めるとの申し出があった。これで足がかりはできた。残るは雑賀衆」
雑賀衆の頭目である鈴木孫一と土橋若大夫。この二人を争わせ、鈴木孫一を取り込もうと画策しているが、いささか時間が足りない。
「見えぬ糸を巧みに操り、二人の絆をほつれさせるには、もう少し雑賀の内に食い込まねばならぬ。そのためには…」
兵を挙げ、雑賀に攻め入り、織田家の力を見せつけて恭順させる。
「さすれば我が家の者が雑賀に出入りすることも容易となろう。孫一には餅を投げる。土橋若大夫の耳に、孫一の陰謀めいた動きが囁かれれば、かの若大夫は怒りに目を曇らせ、自ら不和の淵へと進んでいく」
「されど、そう容易く孫一なるものが織田家に従いましょうか」
「従わせるのじゃ」
戦わずして敵を屈服させるための安土城であり、そのために国を覆いつくすほどの大軍勢を揃えている。
「金の如く輝く未来を、孫一に見せる」
目もくらむほどの財、土地、名誉、そのすべてを見せれば、孫一の心は瞬時に傾く。戦火をくぐり抜けた強者にとって、具体的な報酬は何よりも魅力的だ。
「そして最後の、とどめの一手は…」
密かな使者の声。夜の静寂に包まれた空間の中で、土橋若大夫の陰謀が孫一の耳に届けば、孫一は一益の差し出した手を取らざるを得なくなる。
「時は我らの敵である。されど、風を味方にすれば、火は急速に燃え広がる。上様には以上のことを申し伝えよ」
忠三郎は、静かに一益の横顔を見つめていた。その瞳には、深く澄み切った湖の底に隠された、冷徹な計略が渦巻いているのが見て取れた。
(まことに恐ろしいのは上様ではなく、義兄上かもしれぬ)
争いの火種を巧みに撒き、誤情報を操り、人の心を駆け引きの駒とするその手腕。一益が思い描く策は、現実を変え、無理矢理にでも意図した方向へとねじ曲げる力を持っていた。
「では…紀州攻めは…」
「二月頃となろう」
人々の心の隙間に忍び込み、疑念を植え、信頼を崩し、やがては自らの掌にすべてを収める。そこに感情はあるのだろうか。鈴木孫一も、土橋若大夫も、ただの駒として見ているかのような無機質な冷たさが、忠三郎には恐ろしく感じられる。
(されど、義兄上の冷徹な知略こそが、勝利を確実なものとする)
風を操る者は、時にその風に呑まれることもあるだろう。しかし、一益は違う。
(義兄上は風そのものだ)
冷たく、容赦なく、計算され尽くした策を前にして、忠三郎は心底恐怖を感じる。
人の情すらも超越し、ただ結果だけを追い求めるその姿に、一抹の、逃れようのない運命を感じた。
この年、例年であれば年賀の挨拶に安土に現れる筈の滝川一益は、何故か姿を見せなかった。
何かがあると思っているところに、伊勢への使いを命じられ、峠を越えて一益の居城・伊勢長島城へ向かった。
「やはり伊勢は暖かい地でござりますなぁ」
峠を越える間中、冷たい風に晒され、身を縮めていた町野左近は寒さから解放され、息をつき、ほっと安堵の表情を浮かべた。
ところが長島の手前、桑名にいる義太夫の元へ行くと、義太夫は留守をしており、一益も長島にはいないという。
「皆、何処へ…」
正月早々、どこへいったのか。町野左近と顔を見合わせていると、同行していた滝川助太郎が進み出た。
「恐らくは四日市・日永の実蓮寺では…」
「日永か」
日永にある実蓮寺は、一益の弟・休天和尚のいる安国寺の末寺で、滝川家の菩提寺でもある。
桑名を後にし、伊勢湾の青く広がる水面を横目に南へと街道を下れば、やがて日永の地へと辿り着く。そこは古より旅人たちが足を休め、息を整えた伊勢街道の起点。時折吹く海風が頬を撫で、松並木の間を渡る音が峠の向こうの古里の森を思わせる。
日永は、ただの追分とは何かが違う。歴史が折り重なる土地に、旅の疲れもどこか薄れるような、不思議な静けさが漂う。
「この辺りはその昔、海だったとか」
助太郎が眼下に広がる海を見つめ、静かにそう呟いた。 海原はどこまでも青く広がり、そのはるか彼方にはうっすらと三河の地が見えていた。 遠く霞む大地は、まるで水平線の向こうから見えるように静かに佇んでいる。
「海?この辺りが?」
「はい。それゆえ、場所によっては今でも、掘れば砂が出て参ります」
一益がこの地を選んだわけがわかった。ここは伊勢街道の起点であるばかりではない。水害に弱い難点はあるものの、土壌は肥沃で、農耕には最適な場所と思われた。
「…で、皆、寺で何を?」
忠三郎と町野左近が助太郎に案内されて行ってみると、一益をはじめ、風花、三九郎、八郎、それに弟の休天和尚、連枝の義太夫、佐治新介、道家彦八郎など一族が皆、一堂に会していた。
「先祖供養か何かで?」
忠三郎が尋ねると、一益はなんとも言いにくそうに義太夫を見る。義太夫は頭を掻いて、
「婆様が危篤じゃと言うので、皆で慌ててきてみれば、これが真っ赤な嘘偽り。正月じゃというに、誰も姿を見せぬと臍を曲げ、仮病を使って皆を集めたのじゃ」
ため息まじりに言うと、新介は怒り心頭で
「全く面倒なお方よのう。甲賀から呼び寄せてみれば、早速、騒ぎを起こしてくれたわい」
道家彦八郎とともに、馬屋に向かおうとする。一益の母、滝御前が皆を集めたらしいが、仮病とわかったのでさっさと帰るところだったようだ。
「待て、二人とも。ここまで来たのじゃ。皆で母上に顔を見せてから帰れ」
「へ?あの…殿は…」
「わしはよい。ここで待つ」
何だろうか。一益は随分と滝御前を避けているように見える。
「父上、それは…」
と三九郎が異を唱えようとすると、風花が何かを察して割って入った。
「致し方ありませぬ。では殿はここへ置いて、お婆様の顔を拝んで帰ると致しましょう。さ、八郎…」
八郎の手を取り、奥の母屋へと向かっていくと、休天和尚がその後に続いていく。
「何ゆえに顔を見せないだの、挨拶くらいせいだのと、長々小言を言うにきまっておる。なんとも気が重いのう」
新介がぶつぶつと文句を言いつつ後に続く。一族の話に首を突っ込むのも躊躇われ、ここで一益とともに皆を待とうとすると、義太夫が忠三郎を振り返る。
「なにをくつろいでおる。鶴も共に参れ」
「わしが?な、なにゆえに…」
「四の五の申すな。呆けておるゆえ、孫の顔も分かってはおらぬ。枯れ木も山の賑わいじゃ。早う参らぬか」
相変わらずの無茶な論理で忠三郎の腕を引き、無理やり母屋へと連れて行った。
諸々の事情は分からないが、どうやら滝御前は皆に煙たがられているらしい。
(何故にわしまでが…)
一益の母にして、皆の祖母なる人物は、どんな人物なのか。不安が頭をもたげたが、意を決してその奥の間を訪れてみると、そこにいたのは意外にも、どこにでもいそうなごく普通の老婆だった。腰の曲がった背中、皺の刻まれた顔、そして穏やかに笑みを浮かべるその姿が、拍子抜けするほどに平凡で、どこか安心感さえ覚えるものだった。
「賢そうな子じゃ。こっちへ参れ。菓子を取らせて進ぜよう」
滝御前は上機嫌で八郎を呼び寄せ、手づから菓子を渡した。八郎は教わった通り、丁寧に頭を下げて礼を言う。
「いくつになった?」
「七つでござります」
八郎が幾分緊張した面持ちで答えると、滝御前が満足そうに八郎の頭をなでる。
義太夫、新介、彦八郎の三人の孫が並んで座り、忠三郎は目立たぬよう、義太夫の横にそっと腰を下ろした。
老婆はちらりとこちらに目を向けたが、義太夫たちにはまるで興味がないかのように視線をすっと外し、そのまま忠三郎に視線を据えた。その眼差しには鋭さがあり、まるで心の内を見透かすかのように凝視している。
(義兄上と同じ目じゃ)
忠三郎もその視線を避けることができず、何かを見定められているかのような、妙な緊張感が走る。老婆の沈黙が、時間をゆっくりと引き伸ばしているかのように感じられた。
(これは…余所者であると露見し、怒りだすのでは…)
内心、肝をつぶしていたが、必死に平静を装った。柔らかな笑みを浮かべ、滝御前に向き直る。冷や汗が背中を伝う中で、笑顔だけは崩さぬようにと気を配りつつ、老婆の反応を慎重に伺った。
張り詰めた空気が一層重く感じられたとき、滝御前はにわかに立ち上がり、忠三郎の前に座った。
(何が起きた?義太夫!誰か、助けてくれ!)
隣に並ぶ義太夫たちに視線を送るが、皆、驚いてこちらを見るだけだ。忠三郎は致し方なく、滝御前に微笑を返す。
「なんとも高貴な若武者。まるで絵巻から飛び出したような雅な姿。さすが我が孫。どこぞの公達かと思うたわ」
と上機嫌で皺だらけの手を伸ばし、忠三郎の手を取った。
(誤解されている…)
しかし、今更違うとも言えない。こんなとき、なんと返すべきだろうか。この場にいる者は何故か、誰も助け船を出してはくれない。むしろ、滝御前の勘違いが面白いらしく、クスクスと笑う声さえ聞こえてくる。
ちらちらと視線を泳がせていると、一益が部屋の外からそっと様子を伺っているのが見えた。その様子を鑑みるに、声をかけるつもりはなさそうだ。
(義兄上まで、助けてくださらぬとは…)
この滝川家は一体、どうなっているのか。
「名は?なんと言うたかのう?」
「忠三郎でござります」
「おぉ、そうであった」
滝御前は満面の笑顔を称え、嬉しそうに忠三郎の手を何度も握りしめる。その掌は驚くほど軽く、かつ温もりを帯びていた。忠三郎は一瞬、戸惑いながらもその手に応じる。老婆の細く節くれだった指が、長年の労苦を物語るかのように忠三郎の手を包む。
柔らかな手には、想像していた威圧感とは違い、どこか母のような優しさが宿っていた。忠三郎は思わず安堵の息をついた。
「忠三郎、待っておったぞ。よう来た、よう来た」
(待っていた…)
その言葉が耳に届いた瞬間、忠三郎の胸の奥に静かな衝撃が走った。これまでの人生で、誰からもそんな言葉をかけられたことはない。
忠三郎が生まれたとき、祖母はすでにこの世になく、唯一生き残っていたのは父方の祖父、快幹だけだ。
(祖母とはかような存在か。これが慈愛というものか)
ここにいる皆が羨ましいと思う反面、皆が持っていて、自分に欠落しているものが何なのか、うっすらと分かった。
人は皆、この世に生まれついたときには、誰かの手を借りなければ生きることはできない。誰かのために何かをすることもなく、そこに存在するだけで受け入れられる。そのようにして物心つく前から、言葉にすることのできない安心感に包まれる。
幼い頃に得た安心感は、自分自身を肯定し、生きる力になる。しかし、その中に不安や恐れが入り、安心感を得ることができないと、それは一生の傷になる。心は乱され、何か有益になることをし続けなければ身の置き所ない不安に襲われる。心を穏やかに保つことができなくなり、自分の存在意義を見失っていく。
「御婆様。皆で急に押し掛けたため、お疲れでしょう。あまり無理なされぬよう、そろそろお休みくだされ」
皆、早く帰りたいと思っているのが伝わってきたので、そう声をかけると、滝御前は感極まり涙ぐんだ。
「なんと心根の優しい子じゃ。久助の子とは思えぬ」
一益の子だと思われている。ちらりと一益を見ると、どうやら困惑しているようだ。
ここまで喜ばれて嬉しくないはずもないが、一益には何とも申し訳がない。
「忠三郎、供にきておくれ」
滝御前がなかなか手を放してくれないので、忠三郎は供に立ち上がり、滝御前を支えて奥の部屋へと向かった。
翌朝、滝御前に暇乞いして母屋を出ると、一益と義太夫が待っていた。他の皆は長島に引き上げてしまったようだ。
「鶴、婆様の相手をさせてすまなんだ。婆様があのように喜んでしもうて、年寄りの儚い夢を壊すのも不憫と思うてのう」
義太夫は悪びれもせず笑ってそういう。皆、滝御前を避けているようだが、忠三郎の目から見ると、滝御前は温厚な老婆であり、昨日の様子からは、皆に煙たがられる理由が分からなかった。
「儚い夢?何やらよう分からぬが、お優しいお方ではないか」
「婆様が?お優しい?…まぁ…知らぬが仏じゃな」
なにやら意味深だ。如何なる意味かと一益の顔を見ると、今の会話を軽く聞き流していたようだ。
「鶴、わざわざ峠を越えてきたのは母上の顔を見るためではあるまい。上様の命で参ったか?」
「はい。紀州攻めの時期についてお尋ねでござりました」
一益はやはりそうかと言いたげに頷く。
「根来衆は問題ない。して、問題は…」
紀伊半島の西側を拠点としている雑賀衆。雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負けるとも、雑賀を制すものは天下を制すとも唄われている雑賀衆には何度となく煮え湯を飲まされてきている。
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「三緘衆、そして根来寺からは来るべき雑賀攻めの折には先陣を務めるとの申し出があった。これで足がかりはできた。残るは雑賀衆」
雑賀衆の頭目である鈴木孫一と土橋若大夫。この二人を争わせ、鈴木孫一を取り込もうと画策しているが、いささか時間が足りない。
「見えぬ糸を巧みに操り、二人の絆をほつれさせるには、もう少し雑賀の内に食い込まねばならぬ。そのためには…」
兵を挙げ、雑賀に攻め入り、織田家の力を見せつけて恭順させる。
「さすれば我が家の者が雑賀に出入りすることも容易となろう。孫一には餅を投げる。土橋若大夫の耳に、孫一の陰謀めいた動きが囁かれれば、かの若大夫は怒りに目を曇らせ、自ら不和の淵へと進んでいく」
「されど、そう容易く孫一なるものが織田家に従いましょうか」
「従わせるのじゃ」
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「そして最後の、とどめの一手は…」
密かな使者の声。夜の静寂に包まれた空間の中で、土橋若大夫の陰謀が孫一の耳に届けば、孫一は一益の差し出した手を取らざるを得なくなる。
「時は我らの敵である。されど、風を味方にすれば、火は急速に燃え広がる。上様には以上のことを申し伝えよ」
忠三郎は、静かに一益の横顔を見つめていた。その瞳には、深く澄み切った湖の底に隠された、冷徹な計略が渦巻いているのが見て取れた。
(まことに恐ろしいのは上様ではなく、義兄上かもしれぬ)
争いの火種を巧みに撒き、誤情報を操り、人の心を駆け引きの駒とするその手腕。一益が思い描く策は、現実を変え、無理矢理にでも意図した方向へとねじ曲げる力を持っていた。
「では…紀州攻めは…」
「二月頃となろう」
人々の心の隙間に忍び込み、疑念を植え、信頼を崩し、やがては自らの掌にすべてを収める。そこに感情はあるのだろうか。鈴木孫一も、土橋若大夫も、ただの駒として見ているかのような無機質な冷たさが、忠三郎には恐ろしく感じられる。
(されど、義兄上の冷徹な知略こそが、勝利を確実なものとする)
風を操る者は、時にその風に呑まれることもあるだろう。しかし、一益は違う。
(義兄上は風そのものだ)
冷たく、容赦なく、計算され尽くした策を前にして、忠三郎は心底恐怖を感じる。
人の情すらも超越し、ただ結果だけを追い求めるその姿に、一抹の、逃れようのない運命を感じた。
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