獅子の末裔

卯花月影

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10.越前の白き想い

10-5. 世の不条理

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 九月末になり、織田勢は柴田勝家に加賀平定を任せ、越前から引き揚げ、再び花城山に戻ってきた。

 大勝利に湧く花城山では祝宴が開かれ、身分の上下を問わず、信長から労をねぎらわれた。
(おさちは何処へ行ってしまったのか)
 ひと月以上も越前にいたというのに、全く手掛かりを得ることはできなかった。この戦さで取った首の数は一万を超える。そのほとんどが在地の土豪に雇われた雑兵・足軽か、女子供であり、送られてきた首はすでに首実験を終え、葬られている。
 万が一にもあの中におさちや子の首があったかもしれないと思うと、祝宴の席で勝利を祝う気持ちもどこかそぞろだ。

 祝宴の場では、越前衆の一人が上機嫌の信長の前に進み出て、能楽の一節を披露した。演目は平安のころに一之谷で散った平家の公達・平敦盛をシテ(主役)とする「敦盛」。
 修羅物の場合、武士がシテになることが多いが、その多くは弓矢とる者の家に生まれた武士が殺生の罪業を重ね、成仏できずにいることを描いたものが大半だ。

 戦勝祝いの場には不適切で、その場は急に静まり返った。舞手は信長が日ごろから「敦盛」を気に入って舞っていると聞き及び、選んだと思われた。
 信長が好んでいるのは越前幸若の「敦盛」であり、能楽の「敦盛」ではない。誤解していることは明らかだ。
「敵に討たれて失せし身の、因果はめぐりあいたり…」
 朗々と謡い上げられている間も、忠三郎をはじめ分かってる者たちは、いつ、信長が怒りだすかと案じていたが、予想に反して信長は最後まで上機嫌で、見事であったと褒めると、手づから舞手に褒美を渡した。

 宴もたけなわとなり、忠三郎はそっと立ち上がって、一人、広縁に出た。庭の向こうを見ると、陪臣たちにも酒が振る舞われているらしく、楽し気な笑い声が聞こえてくる。
(爺や義太夫、新介も楽しんでおるのか)
 よかったな、と忠三郎は一人、微笑む。
 松もなければ、梅もない。雑木と思しき木々が点在する寂しい庭に、雪がしんしんと降り積もる。
 数本の木の枝にも白い雪が静かに積もり始めている。風はほとんどなく、空から降りてくる雪のひとひらひとひらが、時を忘れたようにゆっくりと舞い降りてくる。

 ぼんやりと雪を見ていると、庭先に降りてきた武藤宗右衛門に声をかけられた。
「酒はもう充分堪能されたので?」
 忠三郎に気を遣ってくれていることが分かる。
「はい。もう充分すぎるほど。家人どもも喜んでおるようで、先ほどから笑い声が聞こえて参ります」
 ひと際大きな声で笑っているのは新介だろうか。町野左近が癖の悪い新介に絡まれているのではないかと案じられる。
「各々方、明日には国へ戻られるとのことで、今宵は存分に楽しんでいただかねばなりますまい」
「いささか楽しみすぎておるようにて…」
 忠三郎が苦笑いすると、宗右衛門が頷き、
「此度の戦さでは心乱されることも少なくはなかったものかと」
 宗右衛門の見立て通りだ。今回の越前攻めは戦さが始まるとすぐに敵が逃げてしまったため、それからは一方的な戦さになった。平定するのにさしたる苦労はなく、命の危険にさらされることもなかった。
 しかし各処に火を放ち、逃げたものを執拗に探し出して討ち取るという凄惨な殲滅戦であり、将兵たちは少なからず心をすり減らしていただろう。

「これも世に泰平をもたらすため。上様の決められたことに誤りなどはありますまい」
 これまで自分に言い聞かせてきたことが、ふと口をついて出た。宗右衛門はおや、と首を傾げる。
「権威に従うことは武士であれば当然のこと。されど、権威を拠りどころし、絶対とするのは些かよろしくはないものと存じ上げる」
 宗右衛門は柔らかくも深い思慮に満ちた眼差しで忠三郎に微笑みかける。
「人は皆、不安や孤独、無力な己を嘆き、絶対的な拠りどころ、確固たるものを求めるもの。そうして己の無力を克服すると、その絶対なるものを盾とし、権威を揺るがすものに必要以上に攻撃的になるのでござります」
 人は自ら、権威を欲し、その権威を笠にするものだと、宗右衛門は説く。
「そして己と同じ権威に従順な者たちに囲まれることで身を守り、そこに属さぬものを佞人と一括りにして排除するもの。されど、己の行いに誤りがないかどうか日々顧み、己の中にある絶対なるものを打ち壊さなければ、道を踏み外すこととなりましょう」
 宗右衛門の話は言い得て妙だ。自分のことは見えにくい。しかし織田家の他の将を見ていると、信長を絶対視して、過度にその要求にこたえることで、流さなくてもいい血を流している。

(彦八郎は、わしを奉行衆と同じと、そう言うていた)
 長島攻めのとき、道家彦八郎に言われた言葉が頭から離れない。いかに自分は万見仙千代や堀久太郎とは違うと思っても、周りはそうは見ていない。
(それは、わしが上様を絶対と思うておるからか)
 自分では善悪の判断もできないものと、そう見下しているのだ。

「蒲生殿はまだ、冬芽が葉を開き始めた頃かと。されど、時がくれば芽吹き、織田家を背負って立つお方。今はまだ心を磨くとき。どうか、何事も己の目で見て考え、天が下で暮らすものたちに穏やかなまなざしを向けてくだされ」
 宗右衛門はすべてを悟っているかのように忠三郎を見る。
 宗右衛門には忠三郎の焦りや悩みが見えていたのだろうか。遠い昔から語り継がれてきた知恵を授けるように、語ってくれた。
 夜の帳が静かに降りる中、宗右衛門の言葉が深く染み込む。忠三郎はゆっくりとうなずき、少しずつ自分の中で何かが変わっていくのを感じた。


 十月。越前平定を終えた忠三郎は信長に従い、岐阜へ戻ってきた。
 信長はこれで、伊勢長島、越前と二つの大きな一向宗の拠点を攻略したことになる。
 
 越前でも何度か雪を見たが、岐阜でも雪が降ったらしい。城下が雪で覆われ、町を行き交う人々もすっかり冬の装いだ。
 そんな中、城下の滝川家の屋敷には先に戻った滝川家の家臣たちが忙しく立ち働いている。
 馬屋を見ると、また見慣れない鞍をつけた馬が繋がれていた。
「助九郎。今日はどなたがお見えじゃ?」
 今日の馬屋番は助九郎らしい。せっせと馬に餌やりをしていた助九郎が手を止める。
「知らぬ顔でござりました。義太夫殿と新介殿がお連れしたので、甲賀のお方やもしれませぬ」
 犬猿の仲の義太夫と新介とは。
(ようやく和解したのか)
 人騒がせな二人だ。事あるごとにいがみ合っているせいで、周りは散々迷惑しているし、家老同士で喧嘩をしていては家中の足並みも揃わない。

「気まずい空気がなくなったのは喜ばしいことで」
 助九郎も安心したようだ。二人の間に立たされていては心労も絶えなかったろう。
 忠三郎が館に足を踏み入れると、噂の義太夫がひょいと姿を見せた。
「よいところに参った。殿がお呼びじゃ」
「義兄上が?」
 今日はなんだろうか。取り立てて叱られるようなことをした覚えもない。

 はてと首を傾げて広間へ行くと、一益の傍には新介と、見慣れない顔の郎党らしき者、それに侍女が乳飲み子を抱いて座っている。
「義兄上、お呼びとか」
 一益は難しい顔をして、手招きする。なんだろうかと義太夫を見ると、そしらぬ顔をして明後日の方向を向いた。いつもながらに惚けた態度だ。
 忠三郎が襟を正して座ると、目の前の郎党が神妙な顔をして頭を下げた。
「それがしは江州、後藤家にお仕えする喜八と申す者でござります」
 後藤家とは。まさかこんなところに後藤家の者がいるとは思いもよらなかった。
「後藤…。では、もしや、その赤子は…」
 恐る恐るそう尋ねると、喜八と名乗った郎党は言い淀み、一益の顔色を伺う。

「鶴、そなたの子じゃ」
 まさかとは思ったが、唐突にそう告げられても容易に理解できない。目の前の子が自分の子とは。恐る恐る、その顔を覗き見ると、赤ん坊が無垢な顔をして眠っている。
「さ、されど、喜三郎が…」
「武藤家の者が関所で捕らえたとき輿の中にいたのは、この赤子と侍女だけだったそうな」
「武藤殿が?で、では…輿が空だったというのは…」
 やはり嘘だったのか。
「宗右衛門はそなたに赤子を渡すと言うたが、わしがそれを留めた」
 そして忠三郎には、輿の中身が空だったと伝えるよう、宗右衛門に言い含めた。
 越前出兵の前、宗右衛門が屋敷に来たのは、その話だったようだ。
「義兄上、何故、そのような偽りを?」
「それは…」
 輿の中におさちはいなかった。おさちがいないと分かれば、忠三郎は動揺する。そのため忠三郎には伏せて、義太夫と新介におさちの行方を探させた。

「義太夫、それ故、おぬしはわしに隠れて…」
「それはまぁ…。どこかに隠したにしても、江南しか考えられぬ。そう思うて新介と二人で江南を探したが…」
 刺客が館を襲うと聞いて、後藤家の家人が逃がしたのは喜八と侍女、そして忠三郎の子だけ。おさちは産後の肥立ちが悪く、臥せっていた。留守居の家人はおさちを越前へ送り出すことを諦め、納屋に隠して事無きを得た。
「ではわしが館を訪ねたとき、おさちは母屋にいたと?」
 長島攻めを終えて後藤館に行ったとき、おさちが暮らしていたときとは異なり母屋はひっそりとしていた。人がいるようには見えなかったが。
「いや…それが…」
 義太夫が新介と顔を見合わせる。なにやら不安を煽る態度だ。忠三郎は戸惑い、義太夫に詰め寄る。
「おさちの身に何かあったのか?」
「然様。鶴、これはちと言いにくいことではあるが…」
 義太夫が言葉を選んでいるのが一目でわかった。 その顔には珍しく緊張が走り、時折視線が泳ぐ。 口元が少し開いては閉じる、何かを言いおうとしては言葉を飲み込み、また言い淀む。その姿を見て、よくない話であることは明らかだった。
「わしから話そう。皆、下がれ」
 一益が見かねて声をかけると、居並ぶ者は皆、心得たように立ち上がり、広間を去っていく。皆、一様に暗い表情を浮かべている。
「鶴、あちらで待っておるゆえ、来たいときに来るがよい」
 義太夫は心配そうに一言、そう告げると広間を出て、静かに襖を閉めた。

 広間に一益と二人だけになると、水を打ったように静まり返る。微かな息遣いや衣擦れの音が聞こえるほど静かだ。
「おさちは死んだと?」
 忠三郎が寂しそうに言うと、一益が静かに頷いた。
 元々、下半身の自由がきかない状態での出産であり、相当な難産だったようだ。
「赤子を生んでから、高熱が続き、臥せっていたとのことであったが、蒲生家の者が来てひと月もたたぬうちに、容態が悪化し、そのまま後藤館で息を引き取った。義太夫、新介の二人が後藤家の者、数名に確認しておる」
「では喜三郎は何故、偽りを…」
 宗右衛門がおさちを斬ったなどと嘘を言ったのだろう。
「蒲生家から刺客まで送られておるのじゃ。あの者は姉の死が、そなたのせいと思うておるのであろう。それ故に、上様の信頼厚い宗右衛門に恨みを抱かせれば、揉め事になると考えたやもしれぬ」
 喜三郎がそんなことを考えていたとは。
 いずれにせよ、おさちがもうこの世にいないことに変わりはない。

 忠三郎は悲しみに胸を押しつぶされそうになりながら、一益に一礼すると、広間を出た。
 廊下の向こうはしんしんと雪が降り積もっている。風に吹かれて舞い上がる雪は、おさちがどこか遠くに旅立っていく様を思わせる。忠三郎が行くと見せてくれた笑顔、優しい声、温もり。その全てが、今はもう手の届かない場所にある
「おさち…」
 胸の奥に渦巻く痛みは、鋭い刃物で心を切り裂かれているかのようだ。忠三郎の目には涙が溢れ、頬を伝う。それは、おさちとの幸せな思い出を引き裂く悲しみの象徴だった。
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