獅子の末裔

卯花月影

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10.越前の白き想い

10-4. 民は天の親

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 八月。越前攻めの陣振れが出た。総勢五万の大群が、海から、そして陸から集まり、越前を目指す。

 忠三郎をはじめとする江南衆も、信長に従い、一路、敦賀に向かった。
 十八日には武藤宗右衛門の居城である花城山城に到着。若狭から来た軍勢と合流した。ここで諸将が揃い、軍議が開かれた。
「この先の木ノ芽峠。木ノ芽城、鉢伏城には多くの門徒たちが集まり、その周辺にある砦にも弓・鉄砲を手にした門徒が大勢、籠っておるとの知らせでござります」
 いち早く物見を出していた武藤宗右衛門が敵の動向を説明する。信長を挟んで左右に柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀と層々たる面々が並び、その後ろに美濃・尾張・伊勢・近江の部将たちが並んでいる。

 重臣たちが一堂に会すると、忠三郎のような若い武将には発言の機会は訪れない。最初から末席にいるので、宗右衛門が広げて指し示す地図を見ることも叶わず、話し声が途切れ途切れに聞こえてくる程度だ。
 時折、信長の口から飛び出す、根切、佞人兇徒といった言葉だけが耳元に響いてくる。

 あれからひと月がたつ。新介から聞き出せなかったのか、新介が何も知らなかったのか、義太夫からの知らせはこない。
(最早、一向宗であるかどうか等、さしたることではない)
 おさちが争いを望んで越前に落ちのびたとは思えない。日永の寺で会った者たち同様、織田家と本願寺の争いに巻き込まれ、白か黒かの選択を迫られただけだろう。そんなおさちが佞人兇徒と見なされ、根切りの対象になるなど、この上もなく理不尽な話だ。
(義太夫…)
 忠三郎は軍議が終わると足早に広間を後にし、詰所で待つ義太夫の元へ向かった。

 花城山城。元々は櫓程度の建物しかなかったらしいが、信長がここを拠点にして越前統治を行うために、一帯を武藤宗右衛門に与えて城郭を整備させた。
(調度品が何もない…)
 評定が開かれていた大広間にかろうじて掛け軸があったが、開け放たれた他の部屋は畳も襖もない。板戸と木戸で囲われた部屋ばかりだ。
(まるで桑名の城のような…)
 完成して間もないためだろうか。桑名ほど簡素な城はないと思っていたが、花城山は桑名の上をいくような簡素な城だ。襖絵どころか、大広間以外には襖すらない。武藤宗右衛門の人柄がよく分からなくなる。

「義太夫」
 詰所にいる義太夫に声をかける。その対面には佐治新介もいて、ちらちらと義太夫のほうを伺っては睨んでいる。
(まだ仲違いしたままか)
 これでは新介から情報を聞き出すことなどできそうにない。
「おぉ」
 義太夫が気づいて詰所から出てきた。
「その分では新介から何も聞いてはおらぬであろう?」
「あやつは存外に執念深い奴じゃからのう。あれでは妻帯するなど夢のまた夢よ」
 目の前にいる忠三郎にではなく、背後の新介に言っているようだ。
「そのような大きな声で言うては…」
 新介に聞こえてしまう。忠三郎が義太夫の肩越しに新介の方を伺うと
「妻帯できぬのは天下無双のうつけ者のその方であろう!」
 新介が大声を張り上げる。義太夫は負けじと大声を張り上げ、
「わしほどの益荒男ますらおを掴まえて何をいうか!」
 織田家の諸将が大勢いる城で喧嘩を始めては拙い。忠三郎は慌てて義太夫の袖を引き、奥座敷のほうへと連れていった。

「かようなところでいさかいは拙い」
「確かにおぬしの申すとおりじゃ。…で、何ぞ用か?」
 心配する忠三郎とは打って変わった、常日頃と変わらぬ、風に吹かれるままの自由さだ。
「何ぞ用か…とは。おさちのことは…」
 まさか忘れているとも思えなかったが、心配になってきた。
「新介から聞き出せてはおらぬであろう?」
 図星のようだ。義太夫はウーンと唸る。眉はわずかに寄せられ、唇は無言のまま動いている。
「そのことであるが…。ちと時をくれぬか」
「明日、明後日には進軍となろう。さすればおさちが危険に晒される」
 ぐずぐずしていては手遅れになる。すぐにでも行動を起こさねば。
「いや、それはない。それはないが…」
 何をもってそれはないなどと言い出すのか。忠三郎にせかされ、義太夫は何やら言いにくそうにしている。
「義太夫、何を隠して居る?」
 気になって尋ねるが、義太夫はまた、ウームと唸るばかりだ。
(全く、頼りにならぬ)

 こうなったら、自分で探すしかない。先陣を務め、他の部将たちよりも先を行けば、行った先で行方を捜すことができるかもしれない。そう思い、先陣を願い出る機会を伺っていると、思いがけず武藤宗右衛門に声をかけられた。
「蒲生殿。此度の戦さでは我等と供に上様の傍近くにいてはくだされぬか。何分、我らは粗忽な田舎者。不手際があっては上様に申し訳がたたぬ。上様の近侍を務めていた蒲生殿がおられれば、心強いのじゃが」
 越前の事情に詳しく、軍略にも通じている宗右衛門は、信長から軍師のような扱いを受け、こうした戦さ場では信長の元にいて意見を求められることが多い。
「それは…構いませぬが…」
 断ることもできずにそう返事をすると、宗右衛門は喜び、
「まこと忝い。では、よろしゅう御頼み申し上げる」
 丁寧に頭を下げて去っていった。

 翌日は朝から雨風が激しかった。越前衆を先頭に、一揆勢の防衛線である木ノ芽峠を目指した。
 先陣を務める羽柴秀吉、明智光秀が杉津砦の攻撃を始めると、城将・堀江景忠が内応したため、砦はあっけなく落とされた。これを知った他の城の城将が雪崩をうって城を捨てて逃亡すると、付き従う者たちも次々に逃走を始めた。
「一人も逃すな。山中に兵を出し、見つけ出してなで斬りにせよ」
 冷え切った声でそう命じる信長からは、ひとつの迷いも感じられない。信長本陣には、連日、諸将が討ち取った首が送られてくる。
(おさちは無事であろうか)
 不安に駆られる中、粛々と事務処理をこなす武藤宗右衛門を見ていて、ハタと思い当った。
 宗右衛門は関所で、義太夫が放った素破たちを見つけた。素破を見つける程であれば、おさち一行が近江から越前に入ったことを知っているかもしれない。なんといってもおさちは足が悪く、多少目立つとしても輿に乗るしかない。

「武藤殿、お伺いしたき義が…」
 宗右衛門が信長の元から離れたときを狙い、近づいて声をかけた。すると何かを察したのか、宗右衛門が人目を憚るように、「こちらへ」と忠三郎を帷幕の外へと誘った。
 装飾のない甲冑に身を包んだ宗右衛門は、静かな威厳を漂わせている。
「もしや、後藤家の者が関所に現れたのではないかと思い…」
 宗右衛門の眼差しは誠実な人柄を現すように柔らかく、穏やかな風がそよぐように、忠三郎の言葉を包み、一つ一つを丁寧に受け止める。
「さぞや案じておられることと、危惧しておりました」
 忠三郎の心情を察するような、穏やかな言葉を返した。

「はい。輿の中には女子と幼い子がいたはず。不躾ながら、武藤殿がその者たちの行方を存じてはおられるのではないかと思い、お尋ねした次第でござります」
「かようなみぎり。さぞやご心痛のことかと。確かに後藤殿の家の者らしき従者が敦賀に現れ、越前目指して立ち去ろうとしておりました。して、輿を担いでいたことも事実。されど、関所の番人が中を改めたところ、中には誰もおらず、輿は空だったと聞き及びます」
「中は空?誰もいなかったと?」
 そんなはずはない。喜三郎は確かに、おさちは越前へ行ったと告げた。
(関所に兵がいるのを見て、逃げたのか)
 それにしても、足の自由がきかないおさちが輿を使わず逃げたとは思えない。
(あるいは武藤殿が斬ったのか)
 一向宗は皆、根切せよとの命が下っている。斬り捨てられたとしても不思議はない。
(何もかも承知の上で、わしが一向宗に通じていると、武藤殿がそう考え、わしを監視するために上様本陣に留めたのか)
 そう考えると、今回の宗右衛門の不可解な頼み事にも合点がいく。信長の近侍を務めた者なら堀久太郎や万見仙千代らの馬廻衆がいる。何故、わざわざ、忠三郎を指名してきたのか。
 一度湧いた疑念は容易には晴らされることはない。考えれば考えるほど、宗右衛門の挙動が怪しく感じられた。
(喜三郎ならば、何かを存じておるやもしれぬ)
 忠三郎は供に従軍している後藤喜三郎の元へと向かった。

 今回の戦さは江南からは遠征になるため、江南衆は賦役を軽くされ、わずかな兵しか連れてきてはいない。後藤喜三郎も百人程度の兵を連れ、信長本隊に組み込まれていた。
「喜三郎、おさちのことであるが…」
 忠三郎は武藤宗右衛門から聞いた話を、そのまま喜三郎に伝えた。
「おぬしであれば、何か存じておろう?」
 と問うと、喜三郎がにわかに暗い表情を浮かべる。
「おさちの身に何か?」
 不安に襲われ、喜三郎の返事を待つ。
「共にいた者から伝え聞くところによると、武藤宗右衛門の手の者に斬られたと聞き及んだ」
 冷たい現実の声が忠三郎の耳に響いた。時が止まったかのように、周囲の音が消え、心臓の鼓動だけが、深い谷間に響く鐘の音のように感じられた。おさちの笑顔、優しい声、二人で過ごした日々の温もりが、まるで水面に浮かぶ蜃気楼のように、目の前から消え去っていく。
「そんな…」
 一瞬、信じられないほどの虚無感に襲われる。世の全てが色を失い、灰色と化していく。
「忠三郎、騙されるな。あの武藤という男は、上様同様、冷徹な男。おぬしの妻子と知りながら、姉上とその子を無慈悲にも斬り捨てたのじゃ」
 喜三郎の口惜しそうな声が響く。忠三郎は言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。

 自陣に戻った忠三郎は、一人、床几に腰かけて、喜三郎の話を反芻する。
(武藤殿がおさちを斬った)
 宗右衛門は何と言っていたか。
(輿には誰もいなかったと…)
 宗右衛門か喜三郎、どちらかが嘘を言っていることになる。しかし宗右衛門が嘘をつくのは分かる。忠三郎の妻子と気づいていながら斬ったのであれば、忠三郎には伝えずらいだろう。
 一方、喜三郎はどうだろうか。忠三郎に嘘を言う理由がない。そもそも、喜三郎の言ったことが嘘であれば、おさちは今もってなお、どこかに生きていることになる。
 武藤宗右衛門の人畜無害な顔を思い浮かべる。希代の知恵者と称され、信長に用いられている宗右衛門。ああして滝川家に出入りしているところを見ると、一益も信頼を置いているようだ。
(上様の命とあらば、いかに非道な命であっても冷酷無比に従う。それゆえに上様に気に入られているのではなかろうか)
 
「若殿。武藤殿がお見えで」
 町野左近に声をかけられ、ハタと我に返った。忠三郎がいつまでも信長の元に戻らないので、宗右衛門が様子を見に来たのだろう。
「蒲生殿。如何なされた?上様が案じて、それがしに様子を見てくるようにと仰せられました」
 信長の前では悟られないようにしていたつもりだが、越前に入ってから、忠三郎はそわそわとして落ち着きがなかった。信長は、そしてこの様子では宗右衛門も、忠三郎が何か心にかかることがあると、少なからず気づいていたようだ。
「これは…大変失礼をば…。すぐに参りまする」
 宗右衛門がおさちと子を斬ったのだろうか。宗右衛門はそんなことはおくびにも出さない。喜三郎の話が本当だとすれば、こうも平然と、何事もなかったかのように忠三郎の前に立てるものなのか。
(だとすれば、かような親切な振る舞いも、何もかもが計算ずぐめ)
 とんだ策士だ。宗右衛門を見ていると、腹の底から何かが湧いてきて、無意識のうちに刀の柄に手が伸びる。
(如何に腹がたつとはいえ、これは拙い)
 忠三郎は自らに言い聞かせるように、手を後ろに回した。
(では如何にして、おさちの無念を晴らすことができる)
 このまま手をこまねいていていいのか。

「蒲生殿にはご心痛のことと存じあげる」
 何気なく振り返った宗右衛門が、そう言ったので、忠三郎は何のことかと宗右衛門の顔を見た。
「それは如何なることで?」
「越前に入ってからこのかた、躯を見ぬ日はなく、軍勢の通り道にも躯が山と積まれておりました。先陣を務める方々は皆、上様の命に従い、一向衆の門徒をなで斬りにして進んでおるものかと。蒲生殿は他の方々とは少し異なる。かような光景を目の当たりにしては、そのように気鬱になされていても致し方なきことかと存じ上げる」
 自分では意識していなかったが、宗右衛門には気鬱にしているように見えていたようだ。
「それは…これもまた天命かと…」

 忠三郎が心ここにあらずという顔をして、当たり障りないことを口にすると、宗右衛門は穏やかに微笑み、
「天命とは民の幸福や平穏な暮らしを守ることにかかるもの。民の声が天に現れるものだと、孟子はそう説いておりまする」
 天命とは民貴君軽、すなわち民は貴く、君は軽し。君主が権力を振りかざすことではない。国の基礎は領民にあり、君主は領民のために在るべきだと、孟子はそう説く。
「民は天の親とも申します」
「民は天の親…」
「はい。天命を守るとは、君主が民を慈しみ仁政を行うこと。不法な君主は天命を失い天から見放される。民は君主にとって親のように慈しみ深いものとすべきで、それによって天命は全うされます」
 宗右衛門は、さながら古の知恵をもった老木のようだ。枝葉が風に揺れる様は、忠三郎に話しかける宗右衛門の姿に重なり、静かな共鳴を生む。
「それゆえ国を治める君主は手にした力を己の欲のために使うことなく、領民のために使う責務がある。己一人の行いが領民にとって、如何なる影響を与えるのかを考え、領民を守らねばならぬ。これが天命思想なるものでござります」
 皆がよく口にする天命とは、君主のあるべき姿を説いていたのか。権力には常に責任が伴う。このことを深く理解し、重く受け止めているものは、世にどれほどいるだろう。
「蒲生殿が君主として、民を慈しみ、その暮らしを守ることで、天命は全うされましょう」
 宗右衛門の言葉が心に届くたび、霧の中から光が差し込むように、自分の成すべきことが見えてくる。これまでおさちや家中のこと、信長のことばかりに目を向けていて、領民が見えていなかった。理に聡い宗右衛門には、忠三郎が己を見失っていることが分かっていたのだろうか。
「武藤殿の仰せのとおりかと。天命を失わぬよう、わしももっと委ねられた民に目を向けねばなりますまい」
 そのためには、戦さを避ける努力を怠ることなく、民を守る政を行わなければならない。戦さの後に最も苦しむのは無辜の民なのだから。
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