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9.伊勢の残滓
9-5. 善をなすに、倦まざれ
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翌朝、忠三郎は持参の香炉に灰を入れ、香を炷いた。
「忠三郎様、お呼びで?」
帷幕内に滝川助太郎が現れる。忠三郎は笑顔で、こちらへ、と手招きする。ある日を境に忠三郎や町野左近が不審な態度を取るようになった。
(あの夜以来…)
助太郎が阿武船にいる一益の元に戻っていたとき、夜陰に紛れて大鳥居から逃げた門徒たちが討ち取られた。騒ぎがあったと聞いて、助太郎が急いで戻ってくると、すでに大鳥居が落ちた後だった。
その日を境に、町野左近は度々、日野から使いが来ていないかと従者に尋ねてはため息をつき、忠三郎も落ち着かない様子で、町野左近の報告を待っている。
「助太郎、香十徳なるものを存じておるか?」
「いえ…それは何でござりましょう」
助太郎が香炉を覗き込むと、忠三郎は嬉しそうに笑って、
「北宋の歌人、黄庭堅が香の効用を謡ったものじゃ」
感格鬼神 感覚は鬼神の如く研ぎ澄まされ、
清浄心身 心身を清浄にし、
能除汚穢 汚れ、穢れを取り除き、
能覚睡眠 よく、眠気を覚ます
静中成友 孤独な心の友となり、
多而不厭 忙しきときにも心和ませ、
寡而為足 少なくあれども充足する
久蔵不朽 長く蓄えても朽ちることなく、
常用無障 常に用いても差し障りがない
「戦さの前に香は欠かせぬ。助太郎もよう心得よ」
「ハ、ハハッ」
助太郎はなんと返事をしてよいものかと戸惑いつつも、神妙に頭を下げる。
「香木とはいとも不可思議な自然の産物なのじゃ」
「いとも不可思議とは、どのような?」
助太郎が尋ねると、忠三郎は我が意を得たりとばかりに笑顔になり、
「知りたいか?そうであろう。よしよし、助太郎もだんだんと雅な素破になってきたのう」
得意げな顔をする。こんなときの忠三郎は、普段の老成した姿はなりを潜め、少年のように目を輝かせる。
(雅な素破…)
褒められた気がしない。
「すべての木が香木になるわけではない。香木は、木が己の傷を癒そうとすることでできる。それも一年、二年ではない。五十年、百年たち、香木となる。人の手によってできるものではなく、天が樹木に与えたもうた不可思議な力によりできるものなのじゃ」
「然様なもので。それはまことに不可思議な…」
風を支配し、風を止めることのできる人はいない。天が下で人が作り出し、支配できるものは、ほんの一部しかない、と忠三郎は言う。
「助太郎。戦さを終えて日野に戻ったら、もっと多くを教えてやろう」
「は…それは…有難き…幸せにて…」
正直、あまり有難くない。これ以上、聞いていては眠くなりそうだ。
(素破のわしが香道などと、助九郎が聞いたら腰を抜かすわい)
弟には知られたくない。助九郎だけではない。義太夫や新介にもからかわれてしまう。
二人が香木の香りに浸っていると、静寂を打ち破るような音が響いてきた。
「若殿!一大事でござります」
町野左近が慌てふためき、躓きながら走ってきた。
「爺。今、香を炷き、心鎮めていたところじゃ。爺も少し心鎮めて…」
「織田大隅守様が、華々しく、御討死なされたと」
「な、なに。それはまた、何故に…」
信長の兄・織田大隅守信広。信長本隊にいて、長島城を取り囲んでいた。
「上様のだまし討ちに怒った一揆勢が、決死の覚悟で斬りこみ、織田家の皆々様の陣営に突撃したとか」
「やはり騙し討ちだったのか」
長島城から出てきた者たちに銃弾の雨を降らせ、生き残った者をなで斬りにしたという。しかし、騙し討ちを覚悟していた者たちは怯むことなく、隠し持っていた武器を手にして、織田連枝衆の陣営に突撃した。これにより討死したのは信広を含めて十人を超え、全体では戦死者千名を超えた。
「長島ひとつのために、かような犠牲を払うことになるとは…」
騒ぎに紛れて大坂本願寺へと逃れた者も少なくはないだろう。
残り二つの砦はどうなるだろうか。皆が今後を危惧する中、忠三郎をはじめとする近江衆は柴田勝家に呼ばれた。
「皆、すでに聞き及んでおろうが、上様の怒りも頂点に達しておる」
勝家が厳めしい顔で告げる。一益とは異なり、感情が表に出やすい勝家がこんな顔をしてのは、よくない知らせが舞い込んできている証拠だ。
「は…それはよく…。して、屋長島と中江は如何なさるおつもりで?」
どちらの砦もすでに食料は尽き、降伏を願い出る使者が何度となく訪れている。
「幾重もの柵を築いて砦を取り囲み、一人も逃さぬようにせよとの仰せじゃ」
「…逃がすなと。そのあとは?」
「火をかけ、一人残らず焼き殺せと仰せじゃ」
勝家の一言で、皆、息をのみ、その場は静まり返る。屋長島と中江、ふたつの砦に籠る一向衆門徒は二万は下らない。その中には女子供や生まれたばかりの乳飲み子もおり、それを全員焼き殺すなど、いかに乱世とはいえ、すんなりと従うことは躊躇われた。
ちらりと周りを伺うと、父の賢秀も、従弟の後藤喜三郎、青地四郎左、池田孫四郎など、近江衆は皆、冷酷な命令に色を失い、戦慄しているように見えた。
「では…足軽共に木を伐りださせ、早速用意いたしましょう」
何か言わなければと思い、そういうと、勝家は大きく頷き、
「おぉ、忠三郎殿。おことの言うとおりじゃ。皆、聞いていたであろう。ぐずぐずしていては上様からお叱りを受ける。今日中に柵で取り囲み、明日には火をかけられるように支度せい」
織田家の連枝が数多く討たれている。信長の命令が覆ることはないだろう。勝家にせかされ、皆、力なく返事をして立ち上がるが、父の賢秀だけは青ざめたまま、微動だにしない。
「父上。如何なされました。我等も早う戻って…」
「そなたはお爺様によう似ておる」
賢秀が突然、そうつぶやいた。忠三郎は少し驚いたが、意に介せず、
「急に何を仰せに…」
「お桐は心根の優しい女子であったがのう…」
そう言って勝家の本陣から去っていった。
父は何が言いたいのだろうか。自分は優しかった母とは似ても似つかないと、そう言っているのだろうか。
(その母上を離縁したのは父上ではありませぬか)
そのことで今まで父を恨んだことは一度もない。すべては家を守るため、祖父が仕向けたことだと分かっている。
しかし、今更ながらに父にそんなことを言われ、にわかに怒りがこみ上げた。
外に出ると、町野左近が心配そうな顔をして待っていた。
「若殿。なにやら殿のお顔の色が優れず…。軍議の席で何かござりましたか」
「いや、案ずるな。我等も戻ろう」
忠三郎は笑顔でそう返事をする。ふと気づくと、すぐそばで従弟の青地四郎左と池田孫四郎がこちらを見て何か話をしている。
どうも自分のことを話しているらしいと思ったが、そしらぬ顔して二人に声をかけ、馬に乗ろうと鐙に足をかける。
すると、陸の滝川勢を取りまとめている一益の甥、道家彦八郎が青ざめて忠三郎に話しかけてきた。
「初陣の三九郎様にはいささか荷の重いご命令でござりまする」
道家彦八郎は滝川家の家人ではなく与力で、信長の直臣だ。先ほどの軍議の席に同席していたのだろう。
「されど…三九郎も上様の禄をはむ滝川の者。ここは重い荷を負うてもらうしかなかろう」
忠三郎が穏やかにそう言うと、道家彦八郎は少しじれたように
「忠三郎殿。我が家の三九郎様を忠三郎殿や奉行衆と同じと思うてもらっては困る」
奉行衆とは信長側近の堀久太郎や万見仙千代のことだ。
なんでも卒なくこなす一方、信長の言うことであれば非情なことも眉一つ動かすことなく実行するので、家中では傀儡と揶揄されている。
(わしは、あの連中と同じと思われているのか)
あからさまに言われ、一抹の寂しさを感じて、ふと空を見上げた。気づくといつのまにか夕暮れが静かに近づいている。空は茜色に染まり、遠くの雲は金色に広がっている。
風は心地よく滲むが、その風が心に触れることはない。 風が自分を避けて通るようにすら感じられる。
忠三郎は、常の笑顔で道家彦八郎を見る。
「然様か。それはわしの考えが足りなかった。そなたのいうこと尤もじゃ。柴田殿にはわしから申し上げておこう。三九郎を船に戻せ。もはやこれは戦さではない」
忠三郎は道家彦八郎にそう言うと、自陣に戻った。案の定、賢秀から家臣たちには何の指示もでていない。致し方なく、町野左近を呼び寄せ、木を伐りだして砦を柵で取り囲むようにと命じた。
翌日未明、目の前の屋長島に火がかけられ、砦に面した川に浮かぶ阿武船から容赦ない銃声が響き渡った。炎が空を焼き尽くし、宙を舞う灰が昼と夜の区別を消し去る。泣き叫ぶ子供の声も、激しい銃声と火の咆哮にかき消えられ、無数の命が霧と化していく。
(白骨の上に国を築くとは、かようなことであったか)
一益はこうなることを予想していたのだろう。終始浮かない顔をしていたのは、そのためだ。空から降り注ぐ灰は、破壊された魂の残滓であるかのように、大地に降り積もっていく。
「これは耐えがたき臭いで…」
町野左近が逃げるように砦から離れていく。
熱さに耐え切れず、逃げてくる者を撃つ兵の中にも、肉の焼ける臭いに耐え切れず、鼻や口を覆っているものも見えた。この臭いは、ただの焦げた肉の臭いではない。火が燃え盛り、生きたまま焼かれる人々の苦しみ叫ぶ悲鳴や臭いは、風に乗って広がり、逃れることのできない現実を突きつけてくる。 何かが永遠に失われ、取り返しのつかないことをしている事実を五感に焼き付けるように。
(所詮、どう抗っても、こんなことしかできぬのか)
無骨な武士には作ることのできない泰平の世を築いてほしいと願った佐助。佐助が今の自分を見たら、なんというだろうか。佐助の知っている忠三郎はもう過去のものであり、触れることのできない幻影に過ぎない。佐助とともに過ごした日々が果てしなく遠い過去に感じられ、心に広がる寂しさは、静かに、確実に忠三郎の心を包み、その全てを覆い尽くしていく。
火の勢いは夜になっても留まることを知らず、ただ無機質な破壊が無作為に人々を飲み込んでいく。
「鶴」
にわかに呼びかけられ、振り向くと一益が立っていた。
「義兄上、なにゆえにかようなところへ?」
忠三郎が笑いかけると、一益はその問いには答えず、視線は燃え盛る砦へと向けられる。遠目にも、砦が無残に燃え尽き、灰となっていくのが見えた。
「義兄上はこれまでずっと、兵糧攻めを考えて敵を逃がしてこられた。それは最初から、焼き殺すつもりで?」
答えを聞きたかった。しかし、一益は口を開こうとしない。
(義兄上のまことの心が知りたい)
何が正しいことなのか。織田家の家臣である以上、こうする以外に方法はなかったのか。一益は自分の行いについて、何も感じてはいないのか。知りたいことはたくさんある。しかし一益は燃え盛る砦から目を離さず、一言も発してはくれなかった。
「義兄上、答えてくだされ」
何故、何も答えてくれないのか。他の誰でもない。一益の答えが聞きたい。
「鶴。わしはそなたが思う以上に、伊勢の民を可愛いと思うておる」
その寂しい声の奥に、どこか諦めとも取れる響きがあった。
(義兄上は、わし以上に心を痛めておられるのか)
一益の悲しみが流れ出し、忠三郎の心に流れ込んでくる。忠三郎は返す言葉もなく、ただ黙って一益の背中を見た。
「世に従えば身苦し。従わねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」
忠三郎が方丈記の一節を口にすると、一益は初めて、こちらを向いてくれた。
「義兄上、このようなことが平然とできることが、武士たるものでありましょうか」
答えてほしい。もし、忠三郎と同じように、感じているのであれば。
「このようなことが平然とできるのであれば、それはもはや人ではない。犬畜生と同じになり下がったということじゃ」
そうなるなと、言っているように聞こえた。
(義兄上は、そのようにお考えなのか)
この戦いの中でずっと孤独を感じていた。しかし、自分以外にも深く苦悩し、葛藤を抱えているものがいることで、わずかでも慰めを得られる。
「僧を逃がしたか」
唐突にそう聞かれ、一瞬、ドキリとした。
そっと一益の顔を見るが、咎めるつもりはなさそうだ。
「早、存じておいでか…。上様の目はごまかせても、義兄上の目はごまかせぬ」
忠三郎はか弱く笑う。顕忍の一行が無事、音羽城についたとの知らせが来たのは今月に入ってからだ。少し肩の荷が下りて、町野左近もホッとしていた。
「…で、その僧を如何いたす所存か」
「家来をつけて日野に逃がしました。折を見て寺を建て、この戦で死んだ者の霊を弔ってもらおうかと」
一益はにわかに笑い出した。何を笑われているのか分からず、一益を見る。
「大した奴よ」
感心したように言う。
「咎められるかと思うておりました」
「いや、そなたは正しいことをした」
忠三郎はエッと驚き一益を見る。
「槍働きばかりが勇士の証ではない。いかに狂せる者と言われようとも、よいではないか。上様に背いてまで、正しいことをしたいと、そう思ったのであれば」
「義兄上…」
「そなたが傀儡ではない証じゃ。誇りを持て。善をなすに倦まざれ、もし撓まずば、時いたりて刈り取るべし」
何故だろう。何故か突然、涙がこみあげてくる。
忠三郎が俯くと、一益の声が聞こえてきた。
「冬は、雪をあはれぶ。積もり、消ゆるさま、罪障にたとえつべし」
冬には積もる雪を見る。積もっては消える様は、罪障を積み重ねていく人の姿に例えられる。
「もうこの地にも冬が訪れつつある。わしもそなたに倣って、この地で死んでいった者たちの霊を弔わねばなるまい」
一益は戦乱が収まった後もここに留まり、燃えつくされたこの地を治め、再び生き返らせなければならない。
(この先は我等よりもよほど、苦汁を嘗なめることとなるのか)
傷ついた民の心が癒える日は来るのだろうか。
「忠三郎様、お呼びで?」
帷幕内に滝川助太郎が現れる。忠三郎は笑顔で、こちらへ、と手招きする。ある日を境に忠三郎や町野左近が不審な態度を取るようになった。
(あの夜以来…)
助太郎が阿武船にいる一益の元に戻っていたとき、夜陰に紛れて大鳥居から逃げた門徒たちが討ち取られた。騒ぎがあったと聞いて、助太郎が急いで戻ってくると、すでに大鳥居が落ちた後だった。
その日を境に、町野左近は度々、日野から使いが来ていないかと従者に尋ねてはため息をつき、忠三郎も落ち着かない様子で、町野左近の報告を待っている。
「助太郎、香十徳なるものを存じておるか?」
「いえ…それは何でござりましょう」
助太郎が香炉を覗き込むと、忠三郎は嬉しそうに笑って、
「北宋の歌人、黄庭堅が香の効用を謡ったものじゃ」
感格鬼神 感覚は鬼神の如く研ぎ澄まされ、
清浄心身 心身を清浄にし、
能除汚穢 汚れ、穢れを取り除き、
能覚睡眠 よく、眠気を覚ます
静中成友 孤独な心の友となり、
多而不厭 忙しきときにも心和ませ、
寡而為足 少なくあれども充足する
久蔵不朽 長く蓄えても朽ちることなく、
常用無障 常に用いても差し障りがない
「戦さの前に香は欠かせぬ。助太郎もよう心得よ」
「ハ、ハハッ」
助太郎はなんと返事をしてよいものかと戸惑いつつも、神妙に頭を下げる。
「香木とはいとも不可思議な自然の産物なのじゃ」
「いとも不可思議とは、どのような?」
助太郎が尋ねると、忠三郎は我が意を得たりとばかりに笑顔になり、
「知りたいか?そうであろう。よしよし、助太郎もだんだんと雅な素破になってきたのう」
得意げな顔をする。こんなときの忠三郎は、普段の老成した姿はなりを潜め、少年のように目を輝かせる。
(雅な素破…)
褒められた気がしない。
「すべての木が香木になるわけではない。香木は、木が己の傷を癒そうとすることでできる。それも一年、二年ではない。五十年、百年たち、香木となる。人の手によってできるものではなく、天が樹木に与えたもうた不可思議な力によりできるものなのじゃ」
「然様なもので。それはまことに不可思議な…」
風を支配し、風を止めることのできる人はいない。天が下で人が作り出し、支配できるものは、ほんの一部しかない、と忠三郎は言う。
「助太郎。戦さを終えて日野に戻ったら、もっと多くを教えてやろう」
「は…それは…有難き…幸せにて…」
正直、あまり有難くない。これ以上、聞いていては眠くなりそうだ。
(素破のわしが香道などと、助九郎が聞いたら腰を抜かすわい)
弟には知られたくない。助九郎だけではない。義太夫や新介にもからかわれてしまう。
二人が香木の香りに浸っていると、静寂を打ち破るような音が響いてきた。
「若殿!一大事でござります」
町野左近が慌てふためき、躓きながら走ってきた。
「爺。今、香を炷き、心鎮めていたところじゃ。爺も少し心鎮めて…」
「織田大隅守様が、華々しく、御討死なされたと」
「な、なに。それはまた、何故に…」
信長の兄・織田大隅守信広。信長本隊にいて、長島城を取り囲んでいた。
「上様のだまし討ちに怒った一揆勢が、決死の覚悟で斬りこみ、織田家の皆々様の陣営に突撃したとか」
「やはり騙し討ちだったのか」
長島城から出てきた者たちに銃弾の雨を降らせ、生き残った者をなで斬りにしたという。しかし、騙し討ちを覚悟していた者たちは怯むことなく、隠し持っていた武器を手にして、織田連枝衆の陣営に突撃した。これにより討死したのは信広を含めて十人を超え、全体では戦死者千名を超えた。
「長島ひとつのために、かような犠牲を払うことになるとは…」
騒ぎに紛れて大坂本願寺へと逃れた者も少なくはないだろう。
残り二つの砦はどうなるだろうか。皆が今後を危惧する中、忠三郎をはじめとする近江衆は柴田勝家に呼ばれた。
「皆、すでに聞き及んでおろうが、上様の怒りも頂点に達しておる」
勝家が厳めしい顔で告げる。一益とは異なり、感情が表に出やすい勝家がこんな顔をしてのは、よくない知らせが舞い込んできている証拠だ。
「は…それはよく…。して、屋長島と中江は如何なさるおつもりで?」
どちらの砦もすでに食料は尽き、降伏を願い出る使者が何度となく訪れている。
「幾重もの柵を築いて砦を取り囲み、一人も逃さぬようにせよとの仰せじゃ」
「…逃がすなと。そのあとは?」
「火をかけ、一人残らず焼き殺せと仰せじゃ」
勝家の一言で、皆、息をのみ、その場は静まり返る。屋長島と中江、ふたつの砦に籠る一向衆門徒は二万は下らない。その中には女子供や生まれたばかりの乳飲み子もおり、それを全員焼き殺すなど、いかに乱世とはいえ、すんなりと従うことは躊躇われた。
ちらりと周りを伺うと、父の賢秀も、従弟の後藤喜三郎、青地四郎左、池田孫四郎など、近江衆は皆、冷酷な命令に色を失い、戦慄しているように見えた。
「では…足軽共に木を伐りださせ、早速用意いたしましょう」
何か言わなければと思い、そういうと、勝家は大きく頷き、
「おぉ、忠三郎殿。おことの言うとおりじゃ。皆、聞いていたであろう。ぐずぐずしていては上様からお叱りを受ける。今日中に柵で取り囲み、明日には火をかけられるように支度せい」
織田家の連枝が数多く討たれている。信長の命令が覆ることはないだろう。勝家にせかされ、皆、力なく返事をして立ち上がるが、父の賢秀だけは青ざめたまま、微動だにしない。
「父上。如何なされました。我等も早う戻って…」
「そなたはお爺様によう似ておる」
賢秀が突然、そうつぶやいた。忠三郎は少し驚いたが、意に介せず、
「急に何を仰せに…」
「お桐は心根の優しい女子であったがのう…」
そう言って勝家の本陣から去っていった。
父は何が言いたいのだろうか。自分は優しかった母とは似ても似つかないと、そう言っているのだろうか。
(その母上を離縁したのは父上ではありませぬか)
そのことで今まで父を恨んだことは一度もない。すべては家を守るため、祖父が仕向けたことだと分かっている。
しかし、今更ながらに父にそんなことを言われ、にわかに怒りがこみ上げた。
外に出ると、町野左近が心配そうな顔をして待っていた。
「若殿。なにやら殿のお顔の色が優れず…。軍議の席で何かござりましたか」
「いや、案ずるな。我等も戻ろう」
忠三郎は笑顔でそう返事をする。ふと気づくと、すぐそばで従弟の青地四郎左と池田孫四郎がこちらを見て何か話をしている。
どうも自分のことを話しているらしいと思ったが、そしらぬ顔して二人に声をかけ、馬に乗ろうと鐙に足をかける。
すると、陸の滝川勢を取りまとめている一益の甥、道家彦八郎が青ざめて忠三郎に話しかけてきた。
「初陣の三九郎様にはいささか荷の重いご命令でござりまする」
道家彦八郎は滝川家の家人ではなく与力で、信長の直臣だ。先ほどの軍議の席に同席していたのだろう。
「されど…三九郎も上様の禄をはむ滝川の者。ここは重い荷を負うてもらうしかなかろう」
忠三郎が穏やかにそう言うと、道家彦八郎は少しじれたように
「忠三郎殿。我が家の三九郎様を忠三郎殿や奉行衆と同じと思うてもらっては困る」
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なんでも卒なくこなす一方、信長の言うことであれば非情なことも眉一つ動かすことなく実行するので、家中では傀儡と揶揄されている。
(わしは、あの連中と同じと思われているのか)
あからさまに言われ、一抹の寂しさを感じて、ふと空を見上げた。気づくといつのまにか夕暮れが静かに近づいている。空は茜色に染まり、遠くの雲は金色に広がっている。
風は心地よく滲むが、その風が心に触れることはない。 風が自分を避けて通るようにすら感じられる。
忠三郎は、常の笑顔で道家彦八郎を見る。
「然様か。それはわしの考えが足りなかった。そなたのいうこと尤もじゃ。柴田殿にはわしから申し上げておこう。三九郎を船に戻せ。もはやこれは戦さではない」
忠三郎は道家彦八郎にそう言うと、自陣に戻った。案の定、賢秀から家臣たちには何の指示もでていない。致し方なく、町野左近を呼び寄せ、木を伐りだして砦を柵で取り囲むようにと命じた。
翌日未明、目の前の屋長島に火がかけられ、砦に面した川に浮かぶ阿武船から容赦ない銃声が響き渡った。炎が空を焼き尽くし、宙を舞う灰が昼と夜の区別を消し去る。泣き叫ぶ子供の声も、激しい銃声と火の咆哮にかき消えられ、無数の命が霧と化していく。
(白骨の上に国を築くとは、かようなことであったか)
一益はこうなることを予想していたのだろう。終始浮かない顔をしていたのは、そのためだ。空から降り注ぐ灰は、破壊された魂の残滓であるかのように、大地に降り積もっていく。
「これは耐えがたき臭いで…」
町野左近が逃げるように砦から離れていく。
熱さに耐え切れず、逃げてくる者を撃つ兵の中にも、肉の焼ける臭いに耐え切れず、鼻や口を覆っているものも見えた。この臭いは、ただの焦げた肉の臭いではない。火が燃え盛り、生きたまま焼かれる人々の苦しみ叫ぶ悲鳴や臭いは、風に乗って広がり、逃れることのできない現実を突きつけてくる。 何かが永遠に失われ、取り返しのつかないことをしている事実を五感に焼き付けるように。
(所詮、どう抗っても、こんなことしかできぬのか)
無骨な武士には作ることのできない泰平の世を築いてほしいと願った佐助。佐助が今の自分を見たら、なんというだろうか。佐助の知っている忠三郎はもう過去のものであり、触れることのできない幻影に過ぎない。佐助とともに過ごした日々が果てしなく遠い過去に感じられ、心に広がる寂しさは、静かに、確実に忠三郎の心を包み、その全てを覆い尽くしていく。
火の勢いは夜になっても留まることを知らず、ただ無機質な破壊が無作為に人々を飲み込んでいく。
「鶴」
にわかに呼びかけられ、振り向くと一益が立っていた。
「義兄上、なにゆえにかようなところへ?」
忠三郎が笑いかけると、一益はその問いには答えず、視線は燃え盛る砦へと向けられる。遠目にも、砦が無残に燃え尽き、灰となっていくのが見えた。
「義兄上はこれまでずっと、兵糧攻めを考えて敵を逃がしてこられた。それは最初から、焼き殺すつもりで?」
答えを聞きたかった。しかし、一益は口を開こうとしない。
(義兄上のまことの心が知りたい)
何が正しいことなのか。織田家の家臣である以上、こうする以外に方法はなかったのか。一益は自分の行いについて、何も感じてはいないのか。知りたいことはたくさんある。しかし一益は燃え盛る砦から目を離さず、一言も発してはくれなかった。
「義兄上、答えてくだされ」
何故、何も答えてくれないのか。他の誰でもない。一益の答えが聞きたい。
「鶴。わしはそなたが思う以上に、伊勢の民を可愛いと思うておる」
その寂しい声の奥に、どこか諦めとも取れる響きがあった。
(義兄上は、わし以上に心を痛めておられるのか)
一益の悲しみが流れ出し、忠三郎の心に流れ込んでくる。忠三郎は返す言葉もなく、ただ黙って一益の背中を見た。
「世に従えば身苦し。従わねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」
忠三郎が方丈記の一節を口にすると、一益は初めて、こちらを向いてくれた。
「義兄上、このようなことが平然とできることが、武士たるものでありましょうか」
答えてほしい。もし、忠三郎と同じように、感じているのであれば。
「このようなことが平然とできるのであれば、それはもはや人ではない。犬畜生と同じになり下がったということじゃ」
そうなるなと、言っているように聞こえた。
(義兄上は、そのようにお考えなのか)
この戦いの中でずっと孤独を感じていた。しかし、自分以外にも深く苦悩し、葛藤を抱えているものがいることで、わずかでも慰めを得られる。
「僧を逃がしたか」
唐突にそう聞かれ、一瞬、ドキリとした。
そっと一益の顔を見るが、咎めるつもりはなさそうだ。
「早、存じておいでか…。上様の目はごまかせても、義兄上の目はごまかせぬ」
忠三郎はか弱く笑う。顕忍の一行が無事、音羽城についたとの知らせが来たのは今月に入ってからだ。少し肩の荷が下りて、町野左近もホッとしていた。
「…で、その僧を如何いたす所存か」
「家来をつけて日野に逃がしました。折を見て寺を建て、この戦で死んだ者の霊を弔ってもらおうかと」
一益はにわかに笑い出した。何を笑われているのか分からず、一益を見る。
「大した奴よ」
感心したように言う。
「咎められるかと思うておりました」
「いや、そなたは正しいことをした」
忠三郎はエッと驚き一益を見る。
「槍働きばかりが勇士の証ではない。いかに狂せる者と言われようとも、よいではないか。上様に背いてまで、正しいことをしたいと、そう思ったのであれば」
「義兄上…」
「そなたが傀儡ではない証じゃ。誇りを持て。善をなすに倦まざれ、もし撓まずば、時いたりて刈り取るべし」
何故だろう。何故か突然、涙がこみあげてくる。
忠三郎が俯くと、一益の声が聞こえてきた。
「冬は、雪をあはれぶ。積もり、消ゆるさま、罪障にたとえつべし」
冬には積もる雪を見る。積もっては消える様は、罪障を積み重ねていく人の姿に例えられる。
「もうこの地にも冬が訪れつつある。わしもそなたに倣って、この地で死んでいった者たちの霊を弔わねばなるまい」
一益は戦乱が収まった後もここに留まり、燃えつくされたこの地を治め、再び生き返らせなければならない。
(この先は我等よりもよほど、苦汁を嘗なめることとなるのか)
傷ついた民の心が癒える日は来るのだろうか。
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