獅子の末裔

卯花月影

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9.伊勢の残滓

9-4. 長袖者

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 翌朝、一晩中降り続いた雨が上がり、青空が広がっていた。

 昨夜、豪雨が荒れ狂う中、逃れようとした一揆勢千余名が次々と討たれ、その悲鳴や嘆き声は雨音にかき消された。
 激しい風雨に打たれながらも、彼らの足音は虚しく、もがき苦しむ影は闇に溶けていった。そして、大鳥居砦が、ついに力尽きて崩れ落ち、壮絶な戦いの跡は静寂に包まれた。降り続ける雨は、その場に流れた血と無念を洗い流そうとしているかのように、砦の瓦礫に音を立てて打ち付けていた。
 
 大鳥居砦が陥落するのを見届けた忠三郎は、柴田勝家とともに、屋長島、別名柳ヶ島と呼ばれる地にある砦の包囲に向かった。
 屋長島砦を見下ろす場所に陣を張って、さらに半月が経過した。
 いい加減、将兵にも疲れが見え始めた頃、柴田勝家に呼ばれた。
「忠三郎殿。若いおぬしにはかような兵糧攻めは物足りぬのではないか」
「いえ、然様なことは…」
「ちと使いを頼まれてくれぬか。上様の元へ行き、この文を届けてほしい」
 勝家が何故、忠三郎を指名してきたのか分からなかったが、町野左近と供に船に乗り、長島輪中にある信長本陣へと向かった。

 信長の本隊は総勢二万。付近にあった一揆勢の砦は尾張・美濃衆によってすでに落とされていた。
(やはり落ち着かぬな)
 尾張・美濃の家臣で埋め尽くされた信長本陣は、とても居心地が悪い。
 信長の傍には側近中の側近から選び抜かれた母衣衆と呼ばれる親衛隊が揃って並んでいた。母衣衆は尾張以来の信長の家来で、忠三郎の父・賢秀とは同年代になる。

 信長は勝家からの書状に目を通すと、
「鶴、屋長島は如何じゃ?」
「付近の村落だけではなく、大鳥居等、他の砦から逃れた者が逃げ込んだために、兵糧が尽きるのも時間の問題かと」
 信長が鼻先で笑うと、傍らにいた黒母衣衆筆頭の佐々成政が
「長島も同様に、まもなく降伏を願い出て参りましょう」
 というと、信長は居並ぶ家臣たちを見回し、
「皆、心得ておるな。降伏などは断じて許さぬ。長袖者と、それに従う虫けらどもを一人残らず地獄へ叩き落せ」
「ハハッ」
 家臣たちは一斉に膝を正し、その瞳に決意の光を宿しながら、力強く声を揃えた。長島の地に響き渡るその声は、大地を揺るがすかのように重く力強く、忠誠と覚悟がその一言一言に込められていた。
(長袖者か…)
 長袖とは、法衣のことだ。武士が着る小袖は袖が短いのに対し、法衣の袖が長いことを指して揶揄している。
 勝家もそうだが、尾張以来の信長の家来たちは皆、盲目的なまでに信長に忠実であり、信長が一向衆を長袖者・虫けらと呼ぶので、それに倣って、彼らも長袖者・虫けらと呼んで門徒を見下している。
「ではそれがしは戻ります」
 居心地の悪さを感じ、信長本陣を後にした。

(どこへ行っても余所者か)
 岐阜でも時折、そう感じていた。織田家の諸将が集まる場では常のことではあるが、どうしても異なる風を感じてしまう。今回は猶のこと織田家に染まりきれないものを感じた。
 表立って言うことはできないが、日野の領内、そして家臣の中にも門徒が大勢いて、その中には江南の一揆に加担したものもいるだろう。しかしそれらすべてを処罰していては領国は成り立たない。…とここまで考え、あれ、と気づいた。
(いつからかような考えに…)
 叔父を討たれたときは、信長や他の者と同じように長島願証寺殲滅すべしと、そう思っていた。それが変わったのは
(あれ以来か)
 いつのことだったか、一益に諭されてからだ。

『そなたは己が骨折らず、育てもせず、生まれながらに得た日野の町と民を惜しんでおる。ましてわしは長年労苦して手にした伊勢の地を惜しまずにいられようか。あの長島の地には右も左もわきまえもしない二万以上の民と、数多くの家畜とがいるではないか』
 そう言われて思い当ることがあり、日野に戻った時に調べてみれば、案の定、鎌掛の大半の民は一向宗の門徒であり、鎌掛に屋敷をもつ家臣もまた同様だった。
(かような話は迂闊に口にもできぬ)
 注意深く見守るしかない。災いが起きねばよいと祈るような日々だったが、恐れていたような事態は起きなかった。そこへきて、この三度目の長島攻め。戦さが終わって日野へ戻った時、どうなるだろうか。

 九月になり、暑かった長島にも木枯らしが吹く。家臣たちが冬支度を整えていると、陣営に滝川三九郎が姿を現した。
「三九郎…そうか、おぬし、初陣であったか」
 屈託ない笑顔を向けると、三九郎は生真面目な顔をして
「父上がお呼びじゃ。船へ参れ」
 と告げた。
(義兄上が…)
 もしやと不安になり、町野左近と顔を見合わせる。なぜ、急に呼び出されたのか。まさか顕忍兄弟を逃がしたことが発覚したのだろうか。
「若殿…も、もしや…」
 町野左近は歯の根も合わぬほどに震えだした。二人の只ならぬ様子に三九郎は怪訝な顔をする。
「そこまで恐れずとも、船は動いてはおらぬのじゃ。さほど酔うこともあるまい」
 船酔いを心配していると思われている。忠三郎はおぉ、と笑って
「では何も案ずることはない。のう、爺。早う船へ参ろう」
 平然と町野左近に声をかけ、従者に続いていこうとすると、三九郎が心配して町野左近に声をかける。
「町野殿。なにやら顔色が悪い。さほどに船が恐ろしいか?」
「ハッ!い、いえ、さ、然様なことは…、あると申しますか、ないと申しますか…」
 どうやら町野左近は隠し事が苦手らしい。これでは却って三九郎に怪しまれてしまう。
「三九郎。爺は長陣で疲れておるのじゃ。爺は置いて、我等だけで行こう」
 町野左近に目配せすると、三九郎を促し、船へと向かった。

 一益の船団は大川に沿って屋長島を囲んでいた。小舟に乗って阿武船へ近づくと、上から梯子が下りてきたので、一人ずつ乗船する。
「おぉ、鶴。よいところに参ったな。飯の支度ができたところじゃ」
「義太夫はわしの顔をみると飯と申すのう」
 義太夫の味付けは毎回、塩味が濃く、酒が飲みたくなる。
「まぁ、まずは飯じゃ。こっちへ参れ」
 一益と話をしようとすると、義太夫が船の天守台のほうへと連れていく。
(こやつも何か嗅ぎつけておるのか)
 内密な話をするために人気のない場所を選んだのかと思ったが、行ってみると佐治新介、篠岡平右衛門といった毎度おなじみの顔ぶれが食事をしているだけだった。

「義兄上は何故、わしを呼んだのか、存じておるか」
 義太夫が大口を開けて飯を口に放り込む。
「〇△◇※%じゃ」
 義太夫の口から飛び出した飯粒が忠三郎の鎧直垂よろいひたたれに張り付き、忠三郎はウッと眉をひそめた。こんな無作法なことをする者は見たことがない。
「わ、わかったから…せめて飲み込んでから話せ」
 義太夫は頷き、ゴクッと飲み込んで、
「親心じゃ」
「またか。ようわからぬ」
「戦場で酒ばかり飲まず、しっかり飯を食えということじゃ」
「それだけか?」
 そうは思えない。何かを察知して呼んだのではないか。
「息抜きさせてやれと、そう仰せであった」
「息抜き…」
 本当にそれだけなのだろうか。陸にいる蒲生家の家臣たちは暑さ・寒さに加えて雨風にさらされ疲れ切っているが、ふと周りを見ると、義太夫をはじめ、滝川家の面々はいつもながらに食欲旺盛だ。
「我が家中の者とは違うて、皆、よう食うのう…」
 これは五合どころか、日に六合は食べているのではないだろうか。忠三郎がため息交じりに言うと、義太夫は笑う。
「なぜか、分かるか?」
 滝川家の家臣たちが戦さ慣れしているからだろう。ところが義太夫は、それだけではない、という。

「ずっと船にいて、敵を見ておらぬからじゃ」
「敵を見ていない?」
「然様。船の上から大筒・大鉄砲を撃ちかけているだけじゃ」
 己を殺そうとする者の顔を間近で見、殺意を向けられることは、相当な精神的負担を強いられる。
「通常、先に立って戦うのは雑兵・足軽。将は後方にいて指揮を取り、号令をかけのみ。それゆえ、戦さはさほどに苦にはならぬ。されど蒲生勢の場合はそうではない。常に、大将が前にでて足軽に交じって戦うがために、家臣たちは嫌でも前に出て、敵の顔を見、命の危険にさらされる。疲れを覚えてもおかしくはなかろう。戦さが終わり、戦場を離れても、脳裏に焼きついたものは容易には離れぬ。それに…」
「それに?」
 義太夫が視線を宙に泳がせる。
「甲賀では身分の低い者ほど生きることに難儀しておる。幼い頃から僅かな食べ物を奪い合い、命を落とすものもいる。散々地獄をみて育つゆえ、多少の地獄を見せられても動じぬのじゃ」
 甲賀の土は水を溜め込みにくい地質だ。痩せた土地では稲作はできない。僅かな食料を巡っての奪い合いは絶えることがない。手をこまねいていれば、痩せこけて死んでいくため、盗みや略奪は日常的に行われている。
 身分の高いものは人を雇って自衛する。その結果、身分が低く、力の弱いものが狙われる。皆、生きるために倫理を犠牲にするので、そんな生活を幼い頃から送っていると、だんだんそれに慣らされ、弱いものを踏みつけることを厭わなくなる。
「まぁ、そんなところじゃ。この先は、追々話してやる。殿がお待ちじゃ、参ろう」

 今の義太夫の話で、思い当ったことがある。
(義兄上はそれで、わしを船に乗せようと…)
 戦さが終わり、戦場を離れても…とはまさに忠三郎のことだ。忠三郎が度々悪夢にうなされていることを知って、船に乗せようとしたのではないだろうか。
「義兄上、長島から知らせは?」
「届いておる。もう餓えて死ぬものがでておるようじゃ。直に落城となろう」
 各処に散らばる砦が落とされ、そこにいた者はみな、長島城に引き上げている。城に籠る者が増え、いよいよ兵糧も底をついたようだ。
「されど城から降伏を願い出てきたとしても、上様はお許しにはならぬのではありますまいか。長島にいる悪しき奸賊を根絶やしにすることがそもそもの目的だったはず」

 しかしそんなことが実際にできるだろうか。この長島の地には何万人もの門徒や付近に住む土豪、百姓がいる。できなければ、情け容赦ない仕打ちにより生き残った者たちの憎悪は増大し、かえって仇となる。
(義兄上は如何なされる所存か)
 それを知りたかった。伊勢を治める一益であれば、他の者とは違う考えを持っていることは分かっている。
「白骨の上に、国を築くことになるやもしれぬ」
 一益が誰にともなくそう言ったとき、
「ご注進!」
 甲板を走ってきたのは滝川助九郎だ。
「長島城に籠る下間頼旦がついに音を上げて降伏を申し入れて参りました」
「…で、上様はなんと?」
「降伏を受け入れると。明日、城明け渡しとなりましょう」
 居並ぶ者からどよめきが起こる。
「ついに長島が落ちるか」
「殿。ついにやりましたな」
 義太夫が感慨深げにそう言う。
「長うござりましたな」
 佐治新介も感慨深げだ。
「義兄上、祝着至極に存じまする」
 忠三郎も常の笑顔でそう言う。
「いや、まだ戦さは終わっておらぬ。この屋長島と中江を終わらせねばな」
 皆、手を打って喜んでいるが、一益は一人、浮かない顔をしている。
(もしや義兄上は、上様がそう易々と願証寺を許すはずがないと、そうお思いなのでは…)
 信長は騙し打ちするつもりなのかもしれない。
(明日は、どうなるのであろうか…)
 残っているのは長島、屋長島、中江のみ。この三カ所に籠る門徒は二万人は下らない。もしや、前代未聞の殺戮を命じられるのではないだろうか。
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