獅子の末裔

卯花月影

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8.謀略の谷

8-2. 酒は天の美禄

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 天正元年九月、忠三郎は再び北伊勢の地に降り立った。

「大湊からの船は如何相なったのであろうか」
 柴田勝家が湊を遠望して唸っている。
 軍勢を率いて桑名から長島へ渡河する予定で伊勢へ来たが、ここへきて、桑名に船がないという知らせが届いた。

 大湊の船主へは北畠家から再三、桑名へ船を送るようにと要請しているはずだ。しかし、待てど暮らせど、桑名へは一隻の船も届いてはいなかった。
「時をかけては我らに不利となろう。忠三郎殿。桑名へ行き、船の調達が進んでいるのかどうか、確かめてきてくれぬか」
 信長は今回、前回を上回る総勢八万もの大軍を動員して長島を攻略しようとしている。兵が多いのは良いことばかりではない。時をかければかけるほど、いたずらに戦費を浪費してしまう。

 忠三郎は柴田勝家の命を受け、桑名にいる一益の元へと向かった。
 しかし集めた兵をどこに隠しているのか、滝川勢の姿は見えず、湊にも姿がない。
「助太郎、義兄上がどこにおられるか、分かるか?」
 供に来ていた滝川助太郎に尋ねると、ムムムと首を捻り、
「殿は最初から長島攻めを諦めておられるやもしれませぬ」
 身も蓋もないことを言う。
「では兵を集めておらぬと?」
「いえ、そうではありませぬ。桑名にはおられぬものかと」
 では一体、どこにいるというのか。

 四方八方手を尽くして探させていると、夕暮れ時になり、義太夫がふらりと姿を見せた。
「鶴。伊勢に来てから、あちらこちら、うろうろしておったのう。見目麗しい女子を探して居ったか?」
 人の気も知らず、ふざけたことを言い始めた。
「どこにおった。ずっと義兄上を探しておったのじゃ」
 義太夫は惚けた顔をして、然様か、と気のない返事をすると、忠三郎を桑名からは少し離れた坂井城の近くまで連れて行った。

「今度こそは長島へ渡河するものと思うて来てみれば、かように長島から離れた城を落とすと仰せになるか」
 忠三郎が顔を見るなりそう言うと、一益は当たり前のように頷く。
「大湊からの船の調達は難しい」
 いつも同じことしか言わない。北畠に圧力をかけ、強制的にでも船を調達すべしと、皆がそう思っているのに、一益ひとりは他人事のように構えている。

「鶴。そなた、美濃からここへ来るまでの間、何も見なかったか?」
 美濃から伊勢続く揖斐川に沿って下る細い道・御行みゆき街道。前回の長島攻めでは退却時に敵に襲われ、柴田勝家が負傷、氏家ト全が討死している。
「敵がいたと?」
 無論、道中、目を光らせていたが、怪しい人影を見た覚えがない。しかし一益は、あの道こそ危険だという。
「戦さの難しさは先陣よりも退陣にある。先ずは北勢四十八家を従わせ、帰りの道の安全を担保せねば、前回の二の轍を踏むこととなろう」
 それは確かにそうだが、だからといって船の調達が滞ったままではどうにもならない。
(義兄上は、何か隠しておるような…)

 義太夫をはじめ、滝川家の家臣たちは風や影のように捉えどころなく、ふらりふらりと出たり現れたりを繰り返している。行く先は桑名、そして
(大湊か)
 味方をも欺くのが素破なのかもしれないが、供に戦うのだから、もう少し手の内を明かしてくれてもいいではないか。
「義兄上。義兄上のお考えをお聞かせくだされ。皆が大湊や南伊勢へ何度も出向いているのは見ていれば分かること。義兄上は何を考え、義太夫たちを動かしておられるので?」
 忠三郎が一歩も何度もしつこく尋ねると、一益はしばらく黙っていたが、
「殿。いちいち煩いので、教えてやっては如何なものかと…」
 義太夫が促す。いちいち煩いとは、なんとも無礼な言い方だ。

「よかろう。…美濃の斎藤家の旧臣・日根野備中を存じておるか?」
 その名は聞いたことがある。美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の時からの斎藤家の家臣だ。信長が斎藤家を降したとき、西美濃三人衆と呼ばれた氏家ト全、稲葉良通、安藤守就はこぞって織田家に臣従した。しかし日根野備中こと日根野弘就は西美濃三人衆とは犬猿の仲であり、信長に降ることを潔しとせず、美濃から姿を消したという。
「その日根野なるものが何か?」
「長島願証寺に組し、砦に籠っておる」
「長島に?されど、斎藤家の旧臣が、今の織田家にとって脅威となるとは思えませぬが」
「大湊衆は日根野備中に手を貸し、船を調達しておる」
「それがまことのことであれば・・」
 織田家には一隻の船も用意せず、本願寺のために船を用立てているとは。

「今すぐやめさせるべきでは?」
「大湊には一向宗の門徒が多い。やめろと言うてやめるはずもない」
「そのような手緩きことでは、何度攻め入ったとしても長島を制圧することなどできますまい。大湊衆を脅してでもやめさせるべきと存じ上げる。義兄上が大湊を焼き払うと、一言そう言えば、大湊衆は恐れおののき、長島に組するなどという愚かなことは考えなくなりましょう」
 一益は何を躊躇しているのだろうか。忠三郎がいくら言っても、難しい顔をしたまま、否も諾も言わない。

「それがしは柴田殿に何と言えば・・・」
 このまま何の収穫もなしで戻れば、面目丸つぶれではないか。
「長島攻めにはまだ早い。付近の城を落とし、あの長島に籠る門徒どもの士気を下げねば、いかに船を調達したとしても苦しい戦いになる。正面から押すばかりでは敵味方に損害を出すだけになる」
「されど義兄上は大湊衆が願証寺に船を調達するのを見て見ぬふりをしておられる。なにゆえでござりましょう」
 忠三郎が不満げに言うと、義太夫が制する。
「もうよいではないか。さ、早う坂井城を落とすと柴田殿に伝えてくれ」
 と忠三郎の背中を押し、強引に幔幕の外へと連れ出した。

「義太夫、教えてくれ。このままでは船の調達などままならぬ。義兄上は何を考えておいでなのか」
 人気のないところまできて再度尋ねると、義太夫はウムムと唸り、
「致し方ない、教えてやろう。大湊の連中は足弱を運んでおる」
 足弱とは女子供のこと。日根野備中の妻子と思われた。
「されど、そのようなことが上様の耳に入れば・・・」
 信長は激怒して、大湊を焼き払えと、そう命じるのではないか。
「然様。なんというても第六天魔王じゃからのう。焼き討ちだけは避けたいがいつまでも上様の目をごまかしておくこともできぬ。それゆえ、我等も船主どもに話をつけようと再三、足を運んでおるが、船を貸すとは言うてはくれぬ」
「奪い取ろうというのではなかろう。何故、そこまで拒むのか」
「貸せとは表向き。返すつもりがないことをよう分かっておるゆえ」
「それならば…」
 武力をもって従わせるしかない。

「鶴、存じておるか。桑名の町の連中も、大湊の連中も、そして長島の連中も、大半は戦さなんぞはどうでもよいと、そう思うておる」
「どうでもよい?」
「然様。勝ち負けを気にしているのは一部の本願寺でも身分の高い者だけ。他の者は我等と戦えば極楽に行けると焚きつけられて盲信しているか、早う戦さなんぞは終わってくれと、そう思うておるのじゃ」
「そう…なのか」
 忠三郎が半信半疑といった目で義太夫を見ると、義太夫は笑って、
「来るか?」
「どこへ?」
「ついて参れ。あぁ、あの口うるさい町野も連れて参れ」
 義太夫がさっさと馬の支度をはじめる。どこへ連れていくというのか。

 振り返ると、もう坂井城攻略のために軍勢が動き始めている。こんなところで戦線離脱して問題ないのか、不安になるが、
「殿に使いを送っておいた。案ずることはない」
 義太夫は軽くそう言って、馬を走らせるが、どこへ行くかは告げないままだ。
 ひたすら南へと馬を進めると夕暮れ近くなって一面に広がる青々とした畑が見えてきた。
「これは…」
「菜種じゃ」
「菜種?」
 奈良時代に大陸からもたらされた菜種。稲の裏作としてこの時期になると苗が植えられる。海に面したこの辺りは山裾にある日野谷よりも暖かく、潮の匂いがした。
 青々とした菜種畑は、日永の大地に広がる緑の絨毯のように生命力に満ち溢れている。風に揺れる菜の花の細やかな葉が、ささやくようにそよぎ、空と大地の間で静かな対話が繰り広げられる。
 菜種の茎は力強く立ち上がり、その上には小さな蕾が日差しを浴びて輝き、遠くまで続く広大な風景に穏やかな拍子を刻む。
「この辺りは随分と民家が多い」
「然様。伊勢街道と東海道の追分があるからのう。ほれ、ついた。あそこじゃ」
 義太夫が指し示したのは菜種畑の中にポツンとある寺。

 四日市・日永の安国寺。広々とした馬屋があり、その横にはこじんまりとした寺には不釣り合いな大きな土蔵があった。
「随分と物々しい寺じゃ」
「殿の弟がおるからのう」
「エッ?」
 私邸と思しき館に入ると、稚児が気づいて義太夫の来訪を告げる。ほどなく、寺の住職らしき僧侶がでてきた。
「誰かと思えば義太夫ではないか」
 なるほど、一益に似ている。これは見まごうことなく兄弟だ。

「この怪しげな寺では、毎晩のように村の者を集めて酒盛りしておるのじゃ。今宵は我等も酒盛りに加わろうと思うてのう」
「怪しげな寺とは無礼な。列記とした寺じゃ」
 半僧半士だと聞いていたが、確かにこの休天和尚からは研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあり、火縄銃を手にしてもなんの不思議もない。
「酒盛り?」
 忠三郎は酒と聞いて食指が動く。
「然様。今宵は我等も末席に加わり、村の者の話を聞こうではないか。あ、その前にその恰好では目立つ。休天殿。見すぼらしい小袖があろう。貸してはくれぬか」
「黙って聞いておれば言いたいことばかり言いおって。小童、こっちへ参れ」
 休天はぶつぶつと言いながらも小袖を貸してくれた。忠三郎と町野左近が着替えていると、門の方から賑やかな人の声が聞こえてきた。

 行ってみると七・八人が連れ立って境内に入ってくるのが見えた。
「こっちへ参れ」
 義太夫が手招きする。傍にいた一人が、童か、また親なし子を拾うてきたのか、云々言い始めると、周囲にいた数人が集まってきて、自分も拾い子だと言い始める。
「器量のよき童じゃ。ほれ、飲め、飲め」
 忠三郎が勧められるままに盃を受け取ると、並々と濁酒が注がれた。
 皆が浴びるように飲む酒はなんとも奇妙な味がした。和やかな雰囲気の中、誰ともなしに、居並ぶものが、ここに流れ着くまでの話を語り始めた。

 長島、尾張、三河など、戦火を逃れた者もいれば、飢饉で食うに困り、口減らしのために親に売られたという者もいる。中には驚いたことに、一向衆の門徒だというものも数名いた。
「長島にいれば死ぬほど働かされる。されど食いっぱぐれはない。飢えて死ぬものもおらぬ」
 忠三郎と同じ年くらいの農夫はそう言った。どちらが勝ってもさして気にはならない。それよりも田畑が荒らされたり、家を焼かれることのほうが深刻だと言う。

「菜種を無事に収穫できればよいのじゃが…」
「いつになったら戦さは終わるかのう」
 誰かがそういうと、皆、口々に、戦乱が収まったら尾張に行って嫁を連れてくるとか、漁師になって毎日魚を食うとか、桑名で商売をはじめるとか、生まれてくる子のために家を広くするとか、そんな話が延々と続いた。
 夜も更けた頃、皆、上機嫌で休天に礼を言って帰っていった。

「ここで酒を振る舞うのは、民の動向を知るためか?」
 一益の内命を受けてのことと思われた。一益の頭にあるのは当面の戦さのことよりも、戦さのあとの領国統治のことだ。長島が壊滅しても、戦さはまだ続く。信長が新たな戦略を練り、次の駒を進める中、一益は破壊の後始末を押し付けられ、傷ついた領民たちが再び立ち上がることができるように、手を差し伸べなければならない。

 義太夫が今日、ここに忠三郎を連れてきたわけも、なんとなくわかった。
(どちらが勝つかなど、どうでもよいことなのか)
 言われてみると、それは至極当たり前のことのように思えた。織田家の領地になろうと、願証寺の領地になろうと、暮らしぶりはそう変わりはない。いずれにせよ、年貢の取り立ては厳しく、米を口にすることもできない領民たちにとっては今日、明日を生きることが最も大切なことであり、裏作は生命線になる。
 今回の戦さで麦や菜種が燃やされれば、次の収穫までもちこたえることができなくなる。そうなれば、養ってくれる願証寺に身売りするしかなくなり、結果、あの長島に門徒を増やすことになる。
「にしても妙な味の酒じゃ。あれは?」
「おぉ、あれは酒に忍冬スイカズラという薬草を漬け込んだ薬酒」
「薬酒?」
「然様。疲れを癒し、体内の毒を溶かす効果がある。今宵は皆、よう眠れるであろう」
 酒に弱い義太夫が大あくびをする。十月というのに日永の夜は、岐阜よりも、日野よりも暖かい。心地よい酔いが身体を包み込み、風がそっと頬を撫でていく。柔らかな夜風に身をゆだねていると、穏やかに揺れる木々のざわめきが遠くから聞こえてきた。一益や義太夫がこの地に目を付けた理由もわかる。
 静寂とともに、日々の煩わしさは消え去り、無垢な時の中で漂うような安らぎが広がっていく。目蓋は自然と重くなり、心地よい眠気が襲ってきた。
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