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7.手足之愛
7-4. 悲しみの人
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九月になり、木下秀吉、明智光秀とともに越前を任されていた一益が引き上げてくると聞き、忠三郎は城下の信楽院に向かった。
信楽院。蒲生家を象徴する大きな松の木がある。蒲生家十四代当主の蒲生貞秀が自らの墓所とするために植えた松で、いつのころからか標の松と呼ばれている。貞秀は出家して知閑と号してからも戦場で戦い続け、『知閑の念仏、無益』と揶揄されていたらしい。
(我が家は代々、俗物が多いのであろうか)
形ばかりの出家であることは、誰もが分かっていたのだろう。重丸の墓の前にきて、ふとそんなことを思ってしまう。
その蒲生貞秀の子の代で、熾烈な家督争いが起きたことを思い返せば、忠三郎と重丸が争い、そして片方がこうして葬られていることも不思議ではない気がしてくる。
そんな蒲生一族の血塗られた歴史を避けるように、少し離れたところにある墓石。これは母・お桐が一益から預かった亡骸を葬り、据えたものだ。
(そうか、あの日…)
母が死んだ年だから、今から十年前になる。
この信楽院にお桐を葬った日。なにげなく、この墓石を見たときに、真新しい花が供えられていることに気付いた。その時はじめて、ここに来ているのは誰なのだろうかと興味を持った。
(わしと同じように痛んでいる誰かが、毎年ここに来ていると、そう思った)
返らない嘆きを重ねている誰かがいるのだと気づいた。言い知れぬ喪失感の中で、求めていたのは慰めや励ましの言葉ではなく、力強く、勇ましい声援でもない。
(悲しみの人を求めていた)
そうだ。だから興味を持った。一体、誰なのだろうかと。悲しみの人でなければ、病を知っている人でなければ、この心を吐露することなどできない。
(もしや佐助は…)
佐助の手紙には、秋の日に信楽院に現れる人物について、なんと書いてあったか。胸元から佐助の手紙を取り出してみると、その人物が佐助に変わり、忠三郎の力になってくれるだろうと書かれていた。
(あるいは佐助は、ここに来るのが誰なのか、気づいていたのかもしれぬ)
うっすらと気づいていたのだろう。しかし確信がなかったために明言を避けた。
(知っていたのか、佐助は)
忠三郎が求めていたものが何なのかを知っていた。それは見とれるような姿をもつものでもなく、輝き、慕うような見栄えのするものでもなかった。
「鶴」
突然、名を呼ばれ、ハタと我に返る。振り返るとやはり、一益だった。
「義兄上」
戦さが終われば、来てくれると思っていた。
「前々から、聞きたいと思うていたことじゃが…」
忠三郎は笑顔でうなずく。その先の言葉は、聞かなくても分かっている。
そろそろ聞かれるだろうと思っていた。
「そなたはここでわしに会う前から、毎年、すみれの墓に花を手向けてくれていた。何故、そのようなことをしていた?」
改めて聞かれると、なにやら気恥ずかしくなった。忠三郎はつと一益から視線を移し、墓石に目をやる。
「人の命がたやすく捨てられるこの乱世においても、母を失った悲しみは計り知れず、同じように誰かを失って、悲しんでいるお方が毎年ここに来ているのであれば…誰かが一人、ここで悲しんでいるのであれば…共にいたいと、そう思うて」
あの日、失ったのは母・お桐と、供に遊んでいた兄・重丸。
不安に怯える忠三郎をそっと抱きしめ、泣きじゃくる忠三郎の涙を拭って、大きな手で、手を引いて間道を歩いてくれた。井戸の底から間道出口まで、重丸はずっと忠三郎の手を握り、離さなかった。しかし、間道を抜けた先、鎌掛谷にでたとき、重丸はその手を離した。
供に行くことはできないのだと、そう告げたときの重丸の寂しそうな顔。そして鎌掛谷で手を振る重丸の姿が、いつまでも目に焼き付いて離れなかった。
どれほどの月日が流れたか。時が経つにつれ、その姿は徐々に霞み、声や仕草も、手を伸ばしても触れることのできない霧のように遠のいていった。
一人になって悲しんでいたのは忠三郎自身だ。
毎年ここに来て、同じように悲しむ人がいると気づいたとき、一人ではないのだと、何故かそう思えた。
「それは誰であってもよかったが…。誰なのか、知りたくもありました。よもや義兄上だったとは」
これが単なる偶然とは思えない。自分たちを結び付けたものは、何なのだろう。
「母上が、義兄上に会わせて下された。ここで会うたのが義兄上でよかった」
母を葬ったあの日。墓石の前に手向けられた花が、一人ではないのだと教えてくれたように、今日こうして重丸の死を悼んでいるときに一益が現れた。
「鶴、そのような顔をして一人で抱えるな」
その言葉は、かつて佐助が自分の前では無理に笑う必要はないと言った言葉と重なる。
一益が忠三郎の肩を掴む。
「そなたの痛みは、ようわかっておる」
誰もがその名を口にするだけで震え上がる猛将の声とは思えぬほど、優しい声色だった。忠三郎はジッと一益を見上げた。
(またこの目…)
この人は、なんと優しい目をして見るのだろう。不器用ながらも確かに伝わるその優しさは、冷たい乱世の風にさらされて凍りついた心の奥深くまで染み込んでいく。春の陽光が雪解けを促すように、気付かぬうちに凍りついた心は、その優しさに触れることで少しずつ解けてゆき、胸の奥からこぼれ落ちる涙は、自分でも忘れていた本当の想いに気付かせるかのようだった。
「しばし、この場で月を楽しむとしよう」
一益の声が耳に響く。忠三郎が零れ落ちる涙を拭って見上げると、一益の顔が月明かりに照らされていた。
「今宵も月は変わらず美しい。今年も、晴れていてようございました」
忠三郎が笑顔を向けると、月を見上げていた一益も無言でうなずいた。
幾世へて 後か忘れん 散りぬべき 野辺の秋萩 みがく月夜を
(深養父 後撰集三一七)
日野・中野城の本丸館では昨夜からずっと、夜を徹して合戦勝利の祝宴が続いているはずだ。
「まだまだ酒の肴もござりましょう。義兄上、本丸館へお越しくだされ」
夜も更け、これから山越えして伊勢へ戻るとも思えなかった。しかし一益は首を横に振った。
「いや、ちと行くところがある」
こんな夜更けにどこに行くというのだろうか。後ろにいる義太夫は、酒宴と聞いて一瞬、喜んでいたが、一益の返事を聞いて肩を落としている。そういえば、義太夫が布団で寝ているのを見たことがない。来るたびに布団、布団と騒いでいるが、朝目覚めると、何故かいつも板間で忠三郎に足を向けて寝ている。
義太夫だけでも酒宴に誘いたかったが一益の手前、そうもいかず、忠三郎は町野左近とともに本丸館に向かった。
「早くも皆、屋敷に戻ったようで…」
思いがけず、広間は宴会の跡が残されているだけで、すでに家臣たちが引き上げたあとだった。さすがに一晩中飲み明かしたので、皆、満足して帰ったようだ。
「父上は?」
「殿もすでに…」
近侍が幾分、言いにくそうに告げる。側室と側室の子たちがいる私邸へ戻ったようだ。
忠三郎は微笑を浮かべて町野左近を振り返る。
「ようやく国に戻ってきたのじゃ。皆、早う家に帰りたいと思うたのであろう。爺も今宵は屋敷に帰れ。おつうや子らが首を長うして待っておるのではないか?」
「おつう…確かに…。よい加減に家に顔くらいだせと、怒ってここへ乗り込むやもしれませぬな」
町野左近は余程、おつうが恐ろしいらしく、にわかに落ち着かなくなり、そそくさと家へ帰っていった。
忠三郎は町野左近を笑って見送ると、三の丸の居間へ戻る。
一人になり、脇息にもたれかかって息をつき、開け放たれた部屋から月に照らされる綿向山を見上げると、ようやく戻ってきた実感が湧いた。酒宴が終わり、家臣たちの大半が屋敷に引き上げているので、普段よりも静かだ。
(佐助。此度も無事に戻ってくることができた)
とはいえ次の戦さのことも考えなければならない。次は伊勢。敵は長島願証寺。一益は気乗りしていないが、信長は次こそは長島を従えるつもりがあるようだ。
「若殿。夕餉を…」
膳奉行の河北新介が広縁に姿を現す。
「先に酒をくれ」
喉が渇いた。差し出された盃を手に取り、一気に飲み干した。
飲み終えてから、何か気になる。
「これは…水ではないか」
酒と思って飲んだだけに、幾分、拍子抜けする。ようやく自分の居間で酒が飲めると、楽しみにしていたのだが。
「若殿。酒を飲む前に、飯をしっかりお召し上がりくだされ。酒はそのあとで」
苦言を呈する膳奉行に忠三郎は苦笑する。膳奉行は膳奉行で、気遣ってくれているのだろう。
ほどなく侍女が夕餉の膳を運んでくると、河北新介は箸を取って一礼する。
「では、お毒味仕る」
正直、早く終わらせて酒にしたい。膳奉行の一挙手一投足がなんとももどかしく、ジッと見ていると食べにくそうにしている。
「今日もたいへんよい飯の炊き加減でござりまする」
そんなことはどうでもいい。
「もうよい。早うこちらへ」
「あぁ、はい。では…」
河北新介は折敷を掴もうとして、ふいに、ウッと唸った。
「義太夫でもあるまいに。そのような戯れはいらぬ。早う…」
と言いかけて、ギョッとした。河北新介はふいに食べたものを吐き出すと、苦しそうに胸元を掻きむしりだした。
「如何いたした、新介!」
慌てて駆け寄ると河北新介が泡を吹き、その場に倒れた。
(また、お爺様に毒をもられた…)
ようやく血塗られた一族の歴史に終止符を打ち、父と和解したかに見えた祖父。混乱と怒り、そして裏切られたという深い悲しみが渦巻く中、忠三郎の心の中で何かが冷たく固まっていく。
「誰かおるか!」
大声で人を呼ぶと、ただならぬ様子を聞きつけた家人がどやどやと音を立てて駆け付けた。
「何事…これは!」
「狼狽えるな!薬師を呼べ!」
皆、膳奉行の異様な姿に驚き、動揺を隠せぬ様子で河北新介を運んでいく。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、吐き気がして、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(もしや…先ほど飲んだ水が…)
血の気が引き、手が震え出した。ムカムカしてきて、這うように庭先に降りると水を吐き出した。
「忠三様!如何なされました?」
すぐそばに滝川助太郎がいる。
「おぬし…義兄上とともに行ったのでは…」
「殿が音羽城に来るようにと仰せで」
「義兄上が?音羽城に?」
一益は何故、そんなところにいるのだろうか。
「道々お話いたしましょう。さ、早う」
助太郎にせかされ、忠三郎は訳も分からず、おぼつかない足取りで、刀を掴んだ。
城詰めの家臣たちを呼び集め、音羽城へと向かう道すがら、目が回り、何度も馬から落ちそうになる。助太郎は尋常ではない忠三郎の挙動に驚いて、
「信楽院で我らと別れたあと、何を召し上がられたか覚えておいでで?」
心配そうに尋ねる。何をもなにもない。水以外のものは口に入れていない。酒さえお預けを食らったままだ。
(あれほど佐助に、気を付けるようにと言われていたのに…)
食べ物にばかり気を取られていたために、水に関しては全く無防備だった。手の震えは治まったものの、妙な汗が出てくるのを感じる。
「大事ない。それよりも…義兄上は何故、音羽城へ?」
「杉谷衆が隠れておるのではないかと探りに行ったところ、思うた通りでござりました」
「なに、では音羽城に上様を狙撃した甲賀者がおると?」
千草峠の一件以来、一益はずっと狙撃犯を探していたらしい。
(上様を狙撃したものは、もしや義兄上の存じ折の者か)
闇雲に探しているとは思えない。甲賀にいた頃の顔見知りなのか。誰かの縁戚なのか。
ようやく音羽城のある山の麓までたどり着くと、一益以下、滝川家の素破たちが揃っていた。
「義兄上、ここに杉谷衆が?」
「中におる。我らは鎌掛谷を回り、間道を通って城内に乱入する。鶴、そなたは大手門から城へ入れ」
(鎌掛谷…)
あそこは足を踏み入れてはならない、呪われた地だ。
「幼い頃より、足を踏み入れてはならぬと、そう教えられておりまする」
「何が隠されておる?」
忠三郎はエッと驚き、一益を見る。
「何が、とは…」
「有体に申せ。呪いなどというものを信じておるわけではなかろう。人を遠ざけるために敢えて呪われていると、そう伝えおかれていることくらいは、存じておるのであろう?」
一益はそこまで知っていたのか。しかし何があるのかまでは、掴んでいないようだった。
「義兄上…」
言おうか、どうしようか、咄嗟に判断できない。迷った末、一益の顔を見上げるが、
(やはり言えない…)
家の恥を晒すようなものだ。とても口にすることができなかった。
(されど義兄上であれば、見ただけで見抜く)
一益であれば、鎌掛谷に生い茂る草木を見て、すぐに気づくだろう。帝に献上する日野菜とともに、どこかからか持ち込んだ多くの毒草を育てていることを。
鎌掛谷が昔、耶斧岨谷と呼ばれていたことを教えてくれたのは重丸だった。
『耶斧岨谷?』
『何百年も前に、人が屍を置いた場所じゃ』
鎌掛谷はかつて風葬地だった。墓に葬られることもなく、放置された屍は雨風に晒され、或いは鳥や獣に食べさせることで人は死後も多くの生き物に生きるための糧を与え、供養される。
『そのような恐ろしい場所とは…』
戦国の世に至るまで、その話が伝わっていたために、人々は恐れ、鎌掛谷には近寄ろうとはしなかった。しかしその鎌掛谷の先にあるのが、土地の者に地獄谷と呼ばれる場所だった。
『皆が恐れる呪いの谷。そして皆が恐れて近寄らないこの場所で、我が家は代々、密かに毒草を育てておる』
重丸はそう言った。
重丸は毒草を育てているのが誰なのかまでは言わなかった。しかし、鎌掛谷に頻繁に出入りしているのは祖父を置いて他にはいないことは知っていた。
祖父は何故、こんな恐ろしい場所で、毒草を育てているのか、その毒草は何に使われているのか、分からないことだらけだったが、幼心にも聞いてはいけない気がした。
話を聞いた日の夜、恐ろしさに眠れなくなった。谷も、毒草も恐ろしかったが、何より恐ろしいと思ったのは祖父・快幹。聞いてはいけない話を聞いてしまったと思った。それ以来、谷に近寄ろうとはしなかった。あの谷にあるのは見てはいけないもの。あの谷には、知ってはならないことが隠されている。
音羽城と、鎌掛谷の周辺を探っていた佐助は、この谷の奥深く、地獄谷へ行き、蒲生家代々の秘密を目にしたのだろう。そして、そのために闇に葬られた。
「義兄上であれば、すぐお分かりになりましょう。あの谷の奥にあるものが、何であるか」
佐助が気づいたほどだ。医薬に通じた一益であれば、何も言わずとも気づいてくれるはず。
鎌掛谷へと走っていく一益の後姿が闇に消えていく。忠三郎は眩暈がひどくなり、目を開けていられなくなった。
(義兄上か。義兄上が、この呪いからわしを解放してくれるのか)
薄れゆく意識の淵で、一筋の微かな希望が心の奥底に灯った。その希望は儚くも温かく、こころの中でわずかに残された力をかき集めていた。
信楽院。蒲生家を象徴する大きな松の木がある。蒲生家十四代当主の蒲生貞秀が自らの墓所とするために植えた松で、いつのころからか標の松と呼ばれている。貞秀は出家して知閑と号してからも戦場で戦い続け、『知閑の念仏、無益』と揶揄されていたらしい。
(我が家は代々、俗物が多いのであろうか)
形ばかりの出家であることは、誰もが分かっていたのだろう。重丸の墓の前にきて、ふとそんなことを思ってしまう。
その蒲生貞秀の子の代で、熾烈な家督争いが起きたことを思い返せば、忠三郎と重丸が争い、そして片方がこうして葬られていることも不思議ではない気がしてくる。
そんな蒲生一族の血塗られた歴史を避けるように、少し離れたところにある墓石。これは母・お桐が一益から預かった亡骸を葬り、据えたものだ。
(そうか、あの日…)
母が死んだ年だから、今から十年前になる。
この信楽院にお桐を葬った日。なにげなく、この墓石を見たときに、真新しい花が供えられていることに気付いた。その時はじめて、ここに来ているのは誰なのだろうかと興味を持った。
(わしと同じように痛んでいる誰かが、毎年ここに来ていると、そう思った)
返らない嘆きを重ねている誰かがいるのだと気づいた。言い知れぬ喪失感の中で、求めていたのは慰めや励ましの言葉ではなく、力強く、勇ましい声援でもない。
(悲しみの人を求めていた)
そうだ。だから興味を持った。一体、誰なのだろうかと。悲しみの人でなければ、病を知っている人でなければ、この心を吐露することなどできない。
(もしや佐助は…)
佐助の手紙には、秋の日に信楽院に現れる人物について、なんと書いてあったか。胸元から佐助の手紙を取り出してみると、その人物が佐助に変わり、忠三郎の力になってくれるだろうと書かれていた。
(あるいは佐助は、ここに来るのが誰なのか、気づいていたのかもしれぬ)
うっすらと気づいていたのだろう。しかし確信がなかったために明言を避けた。
(知っていたのか、佐助は)
忠三郎が求めていたものが何なのかを知っていた。それは見とれるような姿をもつものでもなく、輝き、慕うような見栄えのするものでもなかった。
「鶴」
突然、名を呼ばれ、ハタと我に返る。振り返るとやはり、一益だった。
「義兄上」
戦さが終われば、来てくれると思っていた。
「前々から、聞きたいと思うていたことじゃが…」
忠三郎は笑顔でうなずく。その先の言葉は、聞かなくても分かっている。
そろそろ聞かれるだろうと思っていた。
「そなたはここでわしに会う前から、毎年、すみれの墓に花を手向けてくれていた。何故、そのようなことをしていた?」
改めて聞かれると、なにやら気恥ずかしくなった。忠三郎はつと一益から視線を移し、墓石に目をやる。
「人の命がたやすく捨てられるこの乱世においても、母を失った悲しみは計り知れず、同じように誰かを失って、悲しんでいるお方が毎年ここに来ているのであれば…誰かが一人、ここで悲しんでいるのであれば…共にいたいと、そう思うて」
あの日、失ったのは母・お桐と、供に遊んでいた兄・重丸。
不安に怯える忠三郎をそっと抱きしめ、泣きじゃくる忠三郎の涙を拭って、大きな手で、手を引いて間道を歩いてくれた。井戸の底から間道出口まで、重丸はずっと忠三郎の手を握り、離さなかった。しかし、間道を抜けた先、鎌掛谷にでたとき、重丸はその手を離した。
供に行くことはできないのだと、そう告げたときの重丸の寂しそうな顔。そして鎌掛谷で手を振る重丸の姿が、いつまでも目に焼き付いて離れなかった。
どれほどの月日が流れたか。時が経つにつれ、その姿は徐々に霞み、声や仕草も、手を伸ばしても触れることのできない霧のように遠のいていった。
一人になって悲しんでいたのは忠三郎自身だ。
毎年ここに来て、同じように悲しむ人がいると気づいたとき、一人ではないのだと、何故かそう思えた。
「それは誰であってもよかったが…。誰なのか、知りたくもありました。よもや義兄上だったとは」
これが単なる偶然とは思えない。自分たちを結び付けたものは、何なのだろう。
「母上が、義兄上に会わせて下された。ここで会うたのが義兄上でよかった」
母を葬ったあの日。墓石の前に手向けられた花が、一人ではないのだと教えてくれたように、今日こうして重丸の死を悼んでいるときに一益が現れた。
「鶴、そのような顔をして一人で抱えるな」
その言葉は、かつて佐助が自分の前では無理に笑う必要はないと言った言葉と重なる。
一益が忠三郎の肩を掴む。
「そなたの痛みは、ようわかっておる」
誰もがその名を口にするだけで震え上がる猛将の声とは思えぬほど、優しい声色だった。忠三郎はジッと一益を見上げた。
(またこの目…)
この人は、なんと優しい目をして見るのだろう。不器用ながらも確かに伝わるその優しさは、冷たい乱世の風にさらされて凍りついた心の奥深くまで染み込んでいく。春の陽光が雪解けを促すように、気付かぬうちに凍りついた心は、その優しさに触れることで少しずつ解けてゆき、胸の奥からこぼれ落ちる涙は、自分でも忘れていた本当の想いに気付かせるかのようだった。
「しばし、この場で月を楽しむとしよう」
一益の声が耳に響く。忠三郎が零れ落ちる涙を拭って見上げると、一益の顔が月明かりに照らされていた。
「今宵も月は変わらず美しい。今年も、晴れていてようございました」
忠三郎が笑顔を向けると、月を見上げていた一益も無言でうなずいた。
幾世へて 後か忘れん 散りぬべき 野辺の秋萩 みがく月夜を
(深養父 後撰集三一七)
日野・中野城の本丸館では昨夜からずっと、夜を徹して合戦勝利の祝宴が続いているはずだ。
「まだまだ酒の肴もござりましょう。義兄上、本丸館へお越しくだされ」
夜も更け、これから山越えして伊勢へ戻るとも思えなかった。しかし一益は首を横に振った。
「いや、ちと行くところがある」
こんな夜更けにどこに行くというのだろうか。後ろにいる義太夫は、酒宴と聞いて一瞬、喜んでいたが、一益の返事を聞いて肩を落としている。そういえば、義太夫が布団で寝ているのを見たことがない。来るたびに布団、布団と騒いでいるが、朝目覚めると、何故かいつも板間で忠三郎に足を向けて寝ている。
義太夫だけでも酒宴に誘いたかったが一益の手前、そうもいかず、忠三郎は町野左近とともに本丸館に向かった。
「早くも皆、屋敷に戻ったようで…」
思いがけず、広間は宴会の跡が残されているだけで、すでに家臣たちが引き上げたあとだった。さすがに一晩中飲み明かしたので、皆、満足して帰ったようだ。
「父上は?」
「殿もすでに…」
近侍が幾分、言いにくそうに告げる。側室と側室の子たちがいる私邸へ戻ったようだ。
忠三郎は微笑を浮かべて町野左近を振り返る。
「ようやく国に戻ってきたのじゃ。皆、早う家に帰りたいと思うたのであろう。爺も今宵は屋敷に帰れ。おつうや子らが首を長うして待っておるのではないか?」
「おつう…確かに…。よい加減に家に顔くらいだせと、怒ってここへ乗り込むやもしれませぬな」
町野左近は余程、おつうが恐ろしいらしく、にわかに落ち着かなくなり、そそくさと家へ帰っていった。
忠三郎は町野左近を笑って見送ると、三の丸の居間へ戻る。
一人になり、脇息にもたれかかって息をつき、開け放たれた部屋から月に照らされる綿向山を見上げると、ようやく戻ってきた実感が湧いた。酒宴が終わり、家臣たちの大半が屋敷に引き上げているので、普段よりも静かだ。
(佐助。此度も無事に戻ってくることができた)
とはいえ次の戦さのことも考えなければならない。次は伊勢。敵は長島願証寺。一益は気乗りしていないが、信長は次こそは長島を従えるつもりがあるようだ。
「若殿。夕餉を…」
膳奉行の河北新介が広縁に姿を現す。
「先に酒をくれ」
喉が渇いた。差し出された盃を手に取り、一気に飲み干した。
飲み終えてから、何か気になる。
「これは…水ではないか」
酒と思って飲んだだけに、幾分、拍子抜けする。ようやく自分の居間で酒が飲めると、楽しみにしていたのだが。
「若殿。酒を飲む前に、飯をしっかりお召し上がりくだされ。酒はそのあとで」
苦言を呈する膳奉行に忠三郎は苦笑する。膳奉行は膳奉行で、気遣ってくれているのだろう。
ほどなく侍女が夕餉の膳を運んでくると、河北新介は箸を取って一礼する。
「では、お毒味仕る」
正直、早く終わらせて酒にしたい。膳奉行の一挙手一投足がなんとももどかしく、ジッと見ていると食べにくそうにしている。
「今日もたいへんよい飯の炊き加減でござりまする」
そんなことはどうでもいい。
「もうよい。早うこちらへ」
「あぁ、はい。では…」
河北新介は折敷を掴もうとして、ふいに、ウッと唸った。
「義太夫でもあるまいに。そのような戯れはいらぬ。早う…」
と言いかけて、ギョッとした。河北新介はふいに食べたものを吐き出すと、苦しそうに胸元を掻きむしりだした。
「如何いたした、新介!」
慌てて駆け寄ると河北新介が泡を吹き、その場に倒れた。
(また、お爺様に毒をもられた…)
ようやく血塗られた一族の歴史に終止符を打ち、父と和解したかに見えた祖父。混乱と怒り、そして裏切られたという深い悲しみが渦巻く中、忠三郎の心の中で何かが冷たく固まっていく。
「誰かおるか!」
大声で人を呼ぶと、ただならぬ様子を聞きつけた家人がどやどやと音を立てて駆け付けた。
「何事…これは!」
「狼狽えるな!薬師を呼べ!」
皆、膳奉行の異様な姿に驚き、動揺を隠せぬ様子で河北新介を運んでいく。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、吐き気がして、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(もしや…先ほど飲んだ水が…)
血の気が引き、手が震え出した。ムカムカしてきて、這うように庭先に降りると水を吐き出した。
「忠三様!如何なされました?」
すぐそばに滝川助太郎がいる。
「おぬし…義兄上とともに行ったのでは…」
「殿が音羽城に来るようにと仰せで」
「義兄上が?音羽城に?」
一益は何故、そんなところにいるのだろうか。
「道々お話いたしましょう。さ、早う」
助太郎にせかされ、忠三郎は訳も分からず、おぼつかない足取りで、刀を掴んだ。
城詰めの家臣たちを呼び集め、音羽城へと向かう道すがら、目が回り、何度も馬から落ちそうになる。助太郎は尋常ではない忠三郎の挙動に驚いて、
「信楽院で我らと別れたあと、何を召し上がられたか覚えておいでで?」
心配そうに尋ねる。何をもなにもない。水以外のものは口に入れていない。酒さえお預けを食らったままだ。
(あれほど佐助に、気を付けるようにと言われていたのに…)
食べ物にばかり気を取られていたために、水に関しては全く無防備だった。手の震えは治まったものの、妙な汗が出てくるのを感じる。
「大事ない。それよりも…義兄上は何故、音羽城へ?」
「杉谷衆が隠れておるのではないかと探りに行ったところ、思うた通りでござりました」
「なに、では音羽城に上様を狙撃した甲賀者がおると?」
千草峠の一件以来、一益はずっと狙撃犯を探していたらしい。
(上様を狙撃したものは、もしや義兄上の存じ折の者か)
闇雲に探しているとは思えない。甲賀にいた頃の顔見知りなのか。誰かの縁戚なのか。
ようやく音羽城のある山の麓までたどり着くと、一益以下、滝川家の素破たちが揃っていた。
「義兄上、ここに杉谷衆が?」
「中におる。我らは鎌掛谷を回り、間道を通って城内に乱入する。鶴、そなたは大手門から城へ入れ」
(鎌掛谷…)
あそこは足を踏み入れてはならない、呪われた地だ。
「幼い頃より、足を踏み入れてはならぬと、そう教えられておりまする」
「何が隠されておる?」
忠三郎はエッと驚き、一益を見る。
「何が、とは…」
「有体に申せ。呪いなどというものを信じておるわけではなかろう。人を遠ざけるために敢えて呪われていると、そう伝えおかれていることくらいは、存じておるのであろう?」
一益はそこまで知っていたのか。しかし何があるのかまでは、掴んでいないようだった。
「義兄上…」
言おうか、どうしようか、咄嗟に判断できない。迷った末、一益の顔を見上げるが、
(やはり言えない…)
家の恥を晒すようなものだ。とても口にすることができなかった。
(されど義兄上であれば、見ただけで見抜く)
一益であれば、鎌掛谷に生い茂る草木を見て、すぐに気づくだろう。帝に献上する日野菜とともに、どこかからか持ち込んだ多くの毒草を育てていることを。
鎌掛谷が昔、耶斧岨谷と呼ばれていたことを教えてくれたのは重丸だった。
『耶斧岨谷?』
『何百年も前に、人が屍を置いた場所じゃ』
鎌掛谷はかつて風葬地だった。墓に葬られることもなく、放置された屍は雨風に晒され、或いは鳥や獣に食べさせることで人は死後も多くの生き物に生きるための糧を与え、供養される。
『そのような恐ろしい場所とは…』
戦国の世に至るまで、その話が伝わっていたために、人々は恐れ、鎌掛谷には近寄ろうとはしなかった。しかしその鎌掛谷の先にあるのが、土地の者に地獄谷と呼ばれる場所だった。
『皆が恐れる呪いの谷。そして皆が恐れて近寄らないこの場所で、我が家は代々、密かに毒草を育てておる』
重丸はそう言った。
重丸は毒草を育てているのが誰なのかまでは言わなかった。しかし、鎌掛谷に頻繁に出入りしているのは祖父を置いて他にはいないことは知っていた。
祖父は何故、こんな恐ろしい場所で、毒草を育てているのか、その毒草は何に使われているのか、分からないことだらけだったが、幼心にも聞いてはいけない気がした。
話を聞いた日の夜、恐ろしさに眠れなくなった。谷も、毒草も恐ろしかったが、何より恐ろしいと思ったのは祖父・快幹。聞いてはいけない話を聞いてしまったと思った。それ以来、谷に近寄ろうとはしなかった。あの谷にあるのは見てはいけないもの。あの谷には、知ってはならないことが隠されている。
音羽城と、鎌掛谷の周辺を探っていた佐助は、この谷の奥深く、地獄谷へ行き、蒲生家代々の秘密を目にしたのだろう。そして、そのために闇に葬られた。
「義兄上であれば、すぐお分かりになりましょう。あの谷の奥にあるものが、何であるか」
佐助が気づいたほどだ。医薬に通じた一益であれば、何も言わずとも気づいてくれるはず。
鎌掛谷へと走っていく一益の後姿が闇に消えていく。忠三郎は眩暈がひどくなり、目を開けていられなくなった。
(義兄上か。義兄上が、この呪いからわしを解放してくれるのか)
薄れゆく意識の淵で、一筋の微かな希望が心の奥底に灯った。その希望は儚くも温かく、こころの中でわずかに残された力をかき集めていた。
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