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5.桃源郷
5-3. 滝川三九郎
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一年前、甲賀に潜む六角親子の元へ、長島願証寺から援軍要請があった。なんでも大坂本願寺が信長と手切れとなり、近々、戦闘になるという。
甲賀ではすでに半数の甲賀衆が織田家に臣従していたが、残った甲賀五十三家の一つ、杉谷家の素破たちが伊勢に行くことになった。
滝川三九郎も長年世話になった杉谷家の郎党とともに伊勢へ向かった。そのときはじめて、父・一益のいる桑名城を見た。
叔父を斬って城に火を放ち、甲賀を出奔したという父・一益。
『左近に見つかれば、邪魔なおぬしは始末されること相異ない』
杉谷家の人々は口をそろえてそう言った。
一益は若いころから札付きの無頼漢であり、甲賀の至る所で喧嘩騒ぎを起こしては相手を斬り殺し、家に火をつけて逃げるという悪行を重ねていたのだと、幼いころからそう聞かされて育った。
『なんとも恐ろしい』
会わずに済むなら、一生会わずにいたい。
ずっとそう思ってきた。奇襲をかけることになったときも、一益のいる桑名を避け、小木江城を攻略する一群に加わった。
小木江城から火の手があがり、城から大勢の女房衆が落ちてきたとき、咄嗟に安全な場所へと連れて行った。
『もしや、あなた様は滝川様のご家来衆か?』
侍女に訊かれ、安心させるために、そうだと答えた。すると侍女は見たこともないような豪華な小袖を着た貴人を連れてきた。
『滝川様の御台様じゃ。どうか滝川様の元へお連れくだされ』
貴人の後ろには年のころ一・二歳と思しき赤ん坊を抱いた侍女がいた。
『ではもしや…そちらの和子は…』
『滝川家のご嫡男・八郎様じゃ』
初めて弟に会ったことよりも、怒り狂った一益が追っ手を差し向けてくることが恐ろしく、とにかく逃げなければと焦った。
(されど、このままここに置いていけば、戦さに巻き込まれ、命を落としてしまうかもしれない)
迷った挙句、三人を連れて甲賀に逃げることにした。
風花と八郎を見た杉谷家の人々は手を打って喜んだ。
『これで左近は最早、迂闊に甲賀を攻めることもなるまいて』
皆、最初こそ、そう言って、三九郎を褒めちぎってくれた。三九郎は面目を保ち、大勢いる杉谷衆の間でも重用されるようになった。
その直後、六角親子の同盟者である蒲生快幹から、信長が千草峠を越えるらしいという情報が入ってきた。杉谷衆と三九郎は勢いに乗り、千草峠で信長を仕留めようと待ち伏せした。
『この中で一番腕がいいのは三九郎じゃ。三九郎、信長を倒せば戦乱は治まる。しくじるでないぞ』
三九郎が負うには重すぎる荷だったが、引き受けざるを得ない。確実に仕留めるために二つ弾とし、更に、十分に引き付けてから狙い定めて撃った。
撃った瞬間、命中したと思ったが、予想に反して信長は怪我一つ負っていない。
(一体、如何なる呪術でかわしたというのか)
何が起きたかはわからなかったが、そのあとは懸命に逃げた。どれだけ走ったかもわからない。何度も草に足を取られ、傷だらけになって甲賀に戻った。
信長が無事に岐阜に帰ったことで、日を追うごとに雲行きが怪しくなっていった。六角親子が信長と和睦し、比叡山延暦寺が焼き討ちされると、表向き、口には出さなくても誰もが織田家を恐れるようになった。
『左近が鬼なら、信長はまさに魔王じゃ』
物陰でひそひそと話しているのが耳に入ってくる。
こうなってくると、杉谷衆は皆、切り札だった筈の風花と八郎を持て余すようになった。なんといっても二人は鬼の滝川左近の妻子にして、第六天魔王・信長の娘と孫なのだ。
『織田に寝返った甲賀衆と滝川左近が血眼になって探しておる』
素破の一人が知らせてきたとき、皆、顔面蒼白になって狼狽えた。見つかれば、一族郎党あますところなく血祭に挙げられてしまう。
『甲賀にいては、いずれは見つかってしまう。どこかへ移さねば…』
小木江と桑名を奪い、信長の弟・彦七郎を討ちとった時に得意気に吹聴していた杉谷衆は、誰も彼もが皆恐れおののき、取り乱して右往左往した。
その話を伝え聞き、声をかけてきたのが江南・日野の蒲生快幹だった。
『いかに滝川左近といえども、蒲生の領内におるとは思うまい』
そう言われて日野にきたが、いざ来てみると一益はもちろんのこと、滝川家の素破と思しき者たちの姿が頻繁に目に入る。
(話が違う)
何の用があって、わざわざ峠を越えてきているのかと調べてみると、日野の鉄砲鍛冶に何か作らせているらしい。
『信長や左近がまた、新たな武器を作って、どこかを血祭にあげようとしておるのじゃろう』
甲賀ではそんな噂が飛び交っている。三九郎は生きた心地もしないまま、音羽城でおとなしくしているしかなかった。
音羽城本丸。二重の曲輪に囲まれた本丸館は世に破城されたと伝えられているが、入ってみると中はきれいに修復されていた。水が豊富なため、長らく使われていなかった井戸の水も清らかであり、身をひそめるには適した場所だ。
風花と、その子・八郎を連れて音羽城に来たのは三か月前。
しかし、ここにきて問題が起きた。ここ数日、甲賀の者と思われる素破の姿が何度も確認された。
(やはり、潜むには人が多すぎる)
仕方がなく、風花の身の回りの世話をさせていた女衆をひそかに甲賀へ帰した。
城に残されたのは数名の素破と三九郎、それに風花と八郎、八郎の乳母だけ。
必然的に、風花の世話は三九郎が務めることになり、この時、初めて、まともに風花の顔を見た。
(わしと、そう年が変わらぬような…)
父はこんな若い娘を正室に迎えていたのか。と驚いたが、驚くことはそれだけではなかった。
「三九郎殿。もう少し新鮮な魚はないかえ」
「新鮮な?」
「この魚は生臭い。伊勢の魚はもっと新鮮じゃ。かような生臭い魚を口にすることなどできぬ」
聞けば肉は雉以外、一切口にしないという驚くべき贅沢ぶりだ。三九郎は仕方なく、人目を忍んで町に魚を買いに行った。
それにしても捕らわれの身というのに、あの堂々とした態度はどうなのだろうか。
(あのような女子がこの世におるのか)
人を下人か何かと勘違いしている。杉谷衆が持て余した理由も分かる。しかも、捕らわれてから、もう一年もたつというのに、未だに一益や信長が救い出してくれると信じているらしい。
(もう少し女子らしゅう、しくしく泣いてくれたほうが、よほど可愛げがあるというもの)
それどころか、この一年、ああやって我儘を通してきたようだ。自分たちの食料にさえ事欠く日もあるというのに、皆、風花の食べるものには殊更気を使い、苦労して用意していたのだろう。
唯一、救われたのは、何故か風花は歩けた。伊勢から甲賀、そして日野と連れまわしたが、目立つので輿を用意することはできない。しかし、手を貸せば馬にも乗れたし、降りるときは一人でも降りることができた。悪路では、文句を言いながらも自ら馬の轡をとり、馬を労わって自らの足で歩いていた。
(妙な女子じゃ)
三九郎はため息をつき、日野城下の魚屋へと向かう。
並んでいる魚を見て、うーんと唸った。ここは内陸であり、当然、風花の言う新鮮な魚などは売っていない。
(致し方ない)
川へ行き、自ら釣ることにした。
(かようにのどかに魚などを釣っていて、よいのであろうか)
道具を揃え、竿を垂らしてから、ハタと気づいた。
(もしや、魚ならばなんでもよい訳ではないのでは…)
肉は雉しか食べないというくらいだ。魚も鯉や鯛といった貴人が食べるような魚しか口にしないのではないだろうか。
(危ない、危ない)
風花がかつて岐阜に住み、長良川で獲れる鮎を食べていたことなど知らない三九郎は、目の前の日野川を泳ぐ鮎には目もくれず、慌てて魚屋に戻った。
魚屋に来て、新たな問題に気づく。
甲賀育ちの三九郎は魚といえば、川魚であり、棒に差して焼いて食べるくらいのことしか、したことがない。しかし、並んでいる魚を見るに、棒に差して焼くような魚には見えない。
(誰かにこの魚を捌いてもらわねばならぬが…)
女衆は皆、甲賀に帰してしまったし、共にいる素破たちにはとてもできそうにない。
三九郎が魚を眺めながら、どうしようかと頭を抱えていると、ふいに後ろから声がした。
「粗忽ながら、先ほどから魚を前に酷くお困りのご様子。戦乱続く世に置いて、あまたの憂いがあれども、魚を前にしてかように憂いでおられるとは如何なることか」
振り返ると、朝焼けの光を背に立ち、この世のものではないかのような気品を漂わせた侍が、人当たりよさそうな笑顔で立っている。
「これは…気づきませなんだ。いつから後ろに?」
「そこもとが日野川で魚を釣っていたときから」
相手はそういって可笑しそうに笑った。身にまとう衣装は、鮮やかな色彩で刺繍された絹でできており、陽光を受けて輝くその姿は、まるで絵巻物の中から抜け出してきたかのようだ。
「日野の魚が、なにゆえそのような憂いの元となっておるのか」
「それは…連れ合いが…生臭い魚は苦手と我儘を申して…」
「では、塩鯛では如何?」
「塩鯛?」
「伊勢で獲った鯛は峠を越える内に傷んでしまう。それゆえ、釣ったその場で塩で固め、運んで参ります」
「なるほど…されど、この鯛をどう処置してよいのやら…」
三九郎が苦慮しているのを見て、相手は、あぁ、と気づいて
「このお方のために、鯛を食えるようにしてくれ」
店の店主に声をかけてくれた。
「まこと忝い。どうしてよいやらと、ほとほと困り果てていたところで」
それにしても、この侍は誰だろう。整った顔立ちと相まって、その衣装は彼を一層堂々としたものに見せる。腰に帯びた刀は、まだその鞘の中に静かに眠っているが、その柄には精緻な彫刻が施され、光を受けてひっそりと輝いていた。
「それは上々。にしても、お連れのお方とは一体…」
と言いかけたとき、誰かが馬を走らせて近づいてくる音が聞こえた。
「若殿!なにゆえにかようなところへ!」
大声でそう呼ばわるのが聞こえた。
(若殿?)
見ると若殿と呼ばれた侍が苦笑いしている。
「爺。そう大げさに騒ぐな」
その一挙一動には、若さゆえの瑞々しい情熱と、代々続く名門の家の子としての高い誇りが同居している。
「供も連れずにおひとりで歩き回らぬようにと、あれほど何度も申し上げていた筈じゃ」
「ここは我が城の城下。城下くらい、好きに歩いてもよいではないか」
「何を仰せで。若殿を探しまわる我らの身にもなってくだされ」
(こやつが蒲生忠三郎…)
涼しい顔をして立っているのは、幼い頃から鳳の雛と呼ばれた信長の寵臣、蒲生忠三郎らしい。風が吹き抜けるたびに、まばゆく光る小袖が揺れ、忠三郎の動きに優美さと威厳を与えている。
家臣と思しき侍が、くどくどと説教をはじめると、忠三郎は可笑しそうに笑って、桶屋の裏側に回る。
「若殿、いずこへ?」
「おぬしが口うるさいゆえ、城へ戻る」
忠三郎は軽く笑うと、物陰に隠しておいた馬に乗り、さっさと城のある方向へと走り去ってしまった。
風花の我儘ぶりにも閉口するが、この世離れした蒲生忠三郎にも驚かされた。
(世にはあのような者もおるのか)
どちらも甲賀にはいない種類の人間だが、蒲生忠三郎はまた、一風変わっている。その装いは一際目立ち、まるで一幅の雅な絵のように周囲を魅了し、何がおかしいのか常に朗らかに笑っていた。しかも何のつもりか、三九郎が釣りをしているときからずっと見ていたという。
(怪しんでいる素振りでもなし)
あんなところで何をしていたのだろうか。
いずれにせよ、所詮、全く異なる世に生きる者であることに変わりはない。ともかく、風花が思いのほか塩鯛を気に入り、喜んで食べてくれたのでホッとした。
(されど油断はならぬ)
長光寺城にいる柴田勝家が兵を集めているらしいと知らせがきている。もしや信長は、一旦和睦した琵琶湖近く金森・三宅の一向衆を次の標的としているのではないだろうか。
ふと、そんなことが頭をよぎったとき、俄かに外から爆音が聞こえてきた。
(この音は尋常ではない)
火縄銃の音とも違う。三九郎はあわてて外と飛び出し、櫓に登ったが、木々に遮られていて、麓がよく見えない。
(軍勢が押し寄せているわけでもなし)
今の爆音はなんだろうか。山を下りて加勢に行かなくても大丈夫だろうか。
「三九郎殿!」
櫓を下りると、蒲生忠三郎の兄だという重丸が待ち構えていた。
「この場所が敵に知られたらしく、滝川左近の素破と思しき者が迫っておる。例の女子を連れ、間道からお逃げくだされ」
「滝川左近…」
ぞっとした。素破は物見だろう。もたもたしていれば、一益本人がここに来るかもしれない。
「間道をでたところに馬をつなぎ留めてある。それに乗り、甲賀を目指してくだされ」
「承知した」
三九郎は風花のいる部屋へと走った。
「風花殿。ここを引き払う。ともに来てくだされ」
風花と乳母を間道のある城の井戸へと連れていく。
「ここを下りれば間道がある。急ぎ降りてくだされ」
三九郎がせかすと、風花は驚き、後ずさりした。
「できぬ」
「?」
「この縄一本を伝って井戸の底へ降りるなど、そのようなことが出来るはずがない」
言われてみれば、確かに風花には無理だと気づいた。
「致し方ない。ではそれがしが背負って降りると致しましょう」
こんなことをしていては、一益が来てしまうかもしれない。どこまでも手がかかる。いっそ、この場に置いていきたいくらいだ。
「恐ろしい!かようなところに降りるなどと!」
井戸を下りだした途端、耳元で叫ばれ、集中できない。井戸中に風花の声が響いている。
「風花殿。もう少し声を小さく…」
「身の毛もよだつ恐ろしさじゃ!」
風花が恐れてしがみ付いてくる。
「風花殿…首を持たれると…」
苦しい上に、風花が仰々しい恰好をしているので、更に動きにくい。なんとか下まで降りると、井戸の側面に間道の入り口があった。
「この先が谷に通じておるゆえ、ここから先は歩いてくだされ」
と背負った風花を下ろそうとするが、風花はしがみ付いたまま、下りようとはしない。
「嫌じゃ!かような暗く、怪しげな道は恐ろしゅうて歩けぬ!」
三九郎に背負われたまま、半泣きになって叫ぶ。
「い、いや、しかし…」
「蛇やサソリがでたら何とする。わらわはここから動かぬ。どうしてもと言うのであれば、三九郎殿がこのまま背負って行ってくだされ」
頑として譲らない。仕方がなく、風花を背に抱え、間道を歩くことにした。
(父上は、かように我儘で手のかかる女子を内室に迎え、お困りではないのか)
と思った瞬間、
「キャーーーー!」
耳元で風花が叫んでしがみ付いてくる。一瞬、耳鳴りで何も聞こえなくなった。
「如何なされた?」
頭の中を風花の悲鳴が木霊する。
「い、いま、何かが頭に…」
「水滴では?この辺りは湿地帯でござりますゆえ…」
頭上から水滴が落ちてきても何の不思議もない。こんな大げさな悲鳴をあげるほどのものではないが、風花にとっては違うらしい。
「見えぬ!何も見えぬ!恐ろしい!早う外へ連れ出してくだされ!」
暗がりでも見えている三九郎とは違い、夜目がきかない風花には暗闇しか見えないようだ。
(全く面倒な女子を連れこんでしまった)
そしてこの我儘で面倒な深窓の姫君を、血眼になって探している物好きが自分の父だ。
(滝川左近の周りにおるのは、おかしな者ばかり。熨斗をつけて返したいくらいじゃが、まずは早う甲賀へ戻り、この女子から解放されよう)
間道の出口はまだまだ見えない。
甲賀ではすでに半数の甲賀衆が織田家に臣従していたが、残った甲賀五十三家の一つ、杉谷家の素破たちが伊勢に行くことになった。
滝川三九郎も長年世話になった杉谷家の郎党とともに伊勢へ向かった。そのときはじめて、父・一益のいる桑名城を見た。
叔父を斬って城に火を放ち、甲賀を出奔したという父・一益。
『左近に見つかれば、邪魔なおぬしは始末されること相異ない』
杉谷家の人々は口をそろえてそう言った。
一益は若いころから札付きの無頼漢であり、甲賀の至る所で喧嘩騒ぎを起こしては相手を斬り殺し、家に火をつけて逃げるという悪行を重ねていたのだと、幼いころからそう聞かされて育った。
『なんとも恐ろしい』
会わずに済むなら、一生会わずにいたい。
ずっとそう思ってきた。奇襲をかけることになったときも、一益のいる桑名を避け、小木江城を攻略する一群に加わった。
小木江城から火の手があがり、城から大勢の女房衆が落ちてきたとき、咄嗟に安全な場所へと連れて行った。
『もしや、あなた様は滝川様のご家来衆か?』
侍女に訊かれ、安心させるために、そうだと答えた。すると侍女は見たこともないような豪華な小袖を着た貴人を連れてきた。
『滝川様の御台様じゃ。どうか滝川様の元へお連れくだされ』
貴人の後ろには年のころ一・二歳と思しき赤ん坊を抱いた侍女がいた。
『ではもしや…そちらの和子は…』
『滝川家のご嫡男・八郎様じゃ』
初めて弟に会ったことよりも、怒り狂った一益が追っ手を差し向けてくることが恐ろしく、とにかく逃げなければと焦った。
(されど、このままここに置いていけば、戦さに巻き込まれ、命を落としてしまうかもしれない)
迷った挙句、三人を連れて甲賀に逃げることにした。
風花と八郎を見た杉谷家の人々は手を打って喜んだ。
『これで左近は最早、迂闊に甲賀を攻めることもなるまいて』
皆、最初こそ、そう言って、三九郎を褒めちぎってくれた。三九郎は面目を保ち、大勢いる杉谷衆の間でも重用されるようになった。
その直後、六角親子の同盟者である蒲生快幹から、信長が千草峠を越えるらしいという情報が入ってきた。杉谷衆と三九郎は勢いに乗り、千草峠で信長を仕留めようと待ち伏せした。
『この中で一番腕がいいのは三九郎じゃ。三九郎、信長を倒せば戦乱は治まる。しくじるでないぞ』
三九郎が負うには重すぎる荷だったが、引き受けざるを得ない。確実に仕留めるために二つ弾とし、更に、十分に引き付けてから狙い定めて撃った。
撃った瞬間、命中したと思ったが、予想に反して信長は怪我一つ負っていない。
(一体、如何なる呪術でかわしたというのか)
何が起きたかはわからなかったが、そのあとは懸命に逃げた。どれだけ走ったかもわからない。何度も草に足を取られ、傷だらけになって甲賀に戻った。
信長が無事に岐阜に帰ったことで、日を追うごとに雲行きが怪しくなっていった。六角親子が信長と和睦し、比叡山延暦寺が焼き討ちされると、表向き、口には出さなくても誰もが織田家を恐れるようになった。
『左近が鬼なら、信長はまさに魔王じゃ』
物陰でひそひそと話しているのが耳に入ってくる。
こうなってくると、杉谷衆は皆、切り札だった筈の風花と八郎を持て余すようになった。なんといっても二人は鬼の滝川左近の妻子にして、第六天魔王・信長の娘と孫なのだ。
『織田に寝返った甲賀衆と滝川左近が血眼になって探しておる』
素破の一人が知らせてきたとき、皆、顔面蒼白になって狼狽えた。見つかれば、一族郎党あますところなく血祭に挙げられてしまう。
『甲賀にいては、いずれは見つかってしまう。どこかへ移さねば…』
小木江と桑名を奪い、信長の弟・彦七郎を討ちとった時に得意気に吹聴していた杉谷衆は、誰も彼もが皆恐れおののき、取り乱して右往左往した。
その話を伝え聞き、声をかけてきたのが江南・日野の蒲生快幹だった。
『いかに滝川左近といえども、蒲生の領内におるとは思うまい』
そう言われて日野にきたが、いざ来てみると一益はもちろんのこと、滝川家の素破と思しき者たちの姿が頻繁に目に入る。
(話が違う)
何の用があって、わざわざ峠を越えてきているのかと調べてみると、日野の鉄砲鍛冶に何か作らせているらしい。
『信長や左近がまた、新たな武器を作って、どこかを血祭にあげようとしておるのじゃろう』
甲賀ではそんな噂が飛び交っている。三九郎は生きた心地もしないまま、音羽城でおとなしくしているしかなかった。
音羽城本丸。二重の曲輪に囲まれた本丸館は世に破城されたと伝えられているが、入ってみると中はきれいに修復されていた。水が豊富なため、長らく使われていなかった井戸の水も清らかであり、身をひそめるには適した場所だ。
風花と、その子・八郎を連れて音羽城に来たのは三か月前。
しかし、ここにきて問題が起きた。ここ数日、甲賀の者と思われる素破の姿が何度も確認された。
(やはり、潜むには人が多すぎる)
仕方がなく、風花の身の回りの世話をさせていた女衆をひそかに甲賀へ帰した。
城に残されたのは数名の素破と三九郎、それに風花と八郎、八郎の乳母だけ。
必然的に、風花の世話は三九郎が務めることになり、この時、初めて、まともに風花の顔を見た。
(わしと、そう年が変わらぬような…)
父はこんな若い娘を正室に迎えていたのか。と驚いたが、驚くことはそれだけではなかった。
「三九郎殿。もう少し新鮮な魚はないかえ」
「新鮮な?」
「この魚は生臭い。伊勢の魚はもっと新鮮じゃ。かような生臭い魚を口にすることなどできぬ」
聞けば肉は雉以外、一切口にしないという驚くべき贅沢ぶりだ。三九郎は仕方なく、人目を忍んで町に魚を買いに行った。
それにしても捕らわれの身というのに、あの堂々とした態度はどうなのだろうか。
(あのような女子がこの世におるのか)
人を下人か何かと勘違いしている。杉谷衆が持て余した理由も分かる。しかも、捕らわれてから、もう一年もたつというのに、未だに一益や信長が救い出してくれると信じているらしい。
(もう少し女子らしゅう、しくしく泣いてくれたほうが、よほど可愛げがあるというもの)
それどころか、この一年、ああやって我儘を通してきたようだ。自分たちの食料にさえ事欠く日もあるというのに、皆、風花の食べるものには殊更気を使い、苦労して用意していたのだろう。
唯一、救われたのは、何故か風花は歩けた。伊勢から甲賀、そして日野と連れまわしたが、目立つので輿を用意することはできない。しかし、手を貸せば馬にも乗れたし、降りるときは一人でも降りることができた。悪路では、文句を言いながらも自ら馬の轡をとり、馬を労わって自らの足で歩いていた。
(妙な女子じゃ)
三九郎はため息をつき、日野城下の魚屋へと向かう。
並んでいる魚を見て、うーんと唸った。ここは内陸であり、当然、風花の言う新鮮な魚などは売っていない。
(致し方ない)
川へ行き、自ら釣ることにした。
(かようにのどかに魚などを釣っていて、よいのであろうか)
道具を揃え、竿を垂らしてから、ハタと気づいた。
(もしや、魚ならばなんでもよい訳ではないのでは…)
肉は雉しか食べないというくらいだ。魚も鯉や鯛といった貴人が食べるような魚しか口にしないのではないだろうか。
(危ない、危ない)
風花がかつて岐阜に住み、長良川で獲れる鮎を食べていたことなど知らない三九郎は、目の前の日野川を泳ぐ鮎には目もくれず、慌てて魚屋に戻った。
魚屋に来て、新たな問題に気づく。
甲賀育ちの三九郎は魚といえば、川魚であり、棒に差して焼いて食べるくらいのことしか、したことがない。しかし、並んでいる魚を見るに、棒に差して焼くような魚には見えない。
(誰かにこの魚を捌いてもらわねばならぬが…)
女衆は皆、甲賀に帰してしまったし、共にいる素破たちにはとてもできそうにない。
三九郎が魚を眺めながら、どうしようかと頭を抱えていると、ふいに後ろから声がした。
「粗忽ながら、先ほどから魚を前に酷くお困りのご様子。戦乱続く世に置いて、あまたの憂いがあれども、魚を前にしてかように憂いでおられるとは如何なることか」
振り返ると、朝焼けの光を背に立ち、この世のものではないかのような気品を漂わせた侍が、人当たりよさそうな笑顔で立っている。
「これは…気づきませなんだ。いつから後ろに?」
「そこもとが日野川で魚を釣っていたときから」
相手はそういって可笑しそうに笑った。身にまとう衣装は、鮮やかな色彩で刺繍された絹でできており、陽光を受けて輝くその姿は、まるで絵巻物の中から抜け出してきたかのようだ。
「日野の魚が、なにゆえそのような憂いの元となっておるのか」
「それは…連れ合いが…生臭い魚は苦手と我儘を申して…」
「では、塩鯛では如何?」
「塩鯛?」
「伊勢で獲った鯛は峠を越える内に傷んでしまう。それゆえ、釣ったその場で塩で固め、運んで参ります」
「なるほど…されど、この鯛をどう処置してよいのやら…」
三九郎が苦慮しているのを見て、相手は、あぁ、と気づいて
「このお方のために、鯛を食えるようにしてくれ」
店の店主に声をかけてくれた。
「まこと忝い。どうしてよいやらと、ほとほと困り果てていたところで」
それにしても、この侍は誰だろう。整った顔立ちと相まって、その衣装は彼を一層堂々としたものに見せる。腰に帯びた刀は、まだその鞘の中に静かに眠っているが、その柄には精緻な彫刻が施され、光を受けてひっそりと輝いていた。
「それは上々。にしても、お連れのお方とは一体…」
と言いかけたとき、誰かが馬を走らせて近づいてくる音が聞こえた。
「若殿!なにゆえにかようなところへ!」
大声でそう呼ばわるのが聞こえた。
(若殿?)
見ると若殿と呼ばれた侍が苦笑いしている。
「爺。そう大げさに騒ぐな」
その一挙一動には、若さゆえの瑞々しい情熱と、代々続く名門の家の子としての高い誇りが同居している。
「供も連れずにおひとりで歩き回らぬようにと、あれほど何度も申し上げていた筈じゃ」
「ここは我が城の城下。城下くらい、好きに歩いてもよいではないか」
「何を仰せで。若殿を探しまわる我らの身にもなってくだされ」
(こやつが蒲生忠三郎…)
涼しい顔をして立っているのは、幼い頃から鳳の雛と呼ばれた信長の寵臣、蒲生忠三郎らしい。風が吹き抜けるたびに、まばゆく光る小袖が揺れ、忠三郎の動きに優美さと威厳を与えている。
家臣と思しき侍が、くどくどと説教をはじめると、忠三郎は可笑しそうに笑って、桶屋の裏側に回る。
「若殿、いずこへ?」
「おぬしが口うるさいゆえ、城へ戻る」
忠三郎は軽く笑うと、物陰に隠しておいた馬に乗り、さっさと城のある方向へと走り去ってしまった。
風花の我儘ぶりにも閉口するが、この世離れした蒲生忠三郎にも驚かされた。
(世にはあのような者もおるのか)
どちらも甲賀にはいない種類の人間だが、蒲生忠三郎はまた、一風変わっている。その装いは一際目立ち、まるで一幅の雅な絵のように周囲を魅了し、何がおかしいのか常に朗らかに笑っていた。しかも何のつもりか、三九郎が釣りをしているときからずっと見ていたという。
(怪しんでいる素振りでもなし)
あんなところで何をしていたのだろうか。
いずれにせよ、所詮、全く異なる世に生きる者であることに変わりはない。ともかく、風花が思いのほか塩鯛を気に入り、喜んで食べてくれたのでホッとした。
(されど油断はならぬ)
長光寺城にいる柴田勝家が兵を集めているらしいと知らせがきている。もしや信長は、一旦和睦した琵琶湖近く金森・三宅の一向衆を次の標的としているのではないだろうか。
ふと、そんなことが頭をよぎったとき、俄かに外から爆音が聞こえてきた。
(この音は尋常ではない)
火縄銃の音とも違う。三九郎はあわてて外と飛び出し、櫓に登ったが、木々に遮られていて、麓がよく見えない。
(軍勢が押し寄せているわけでもなし)
今の爆音はなんだろうか。山を下りて加勢に行かなくても大丈夫だろうか。
「三九郎殿!」
櫓を下りると、蒲生忠三郎の兄だという重丸が待ち構えていた。
「この場所が敵に知られたらしく、滝川左近の素破と思しき者が迫っておる。例の女子を連れ、間道からお逃げくだされ」
「滝川左近…」
ぞっとした。素破は物見だろう。もたもたしていれば、一益本人がここに来るかもしれない。
「間道をでたところに馬をつなぎ留めてある。それに乗り、甲賀を目指してくだされ」
「承知した」
三九郎は風花のいる部屋へと走った。
「風花殿。ここを引き払う。ともに来てくだされ」
風花と乳母を間道のある城の井戸へと連れていく。
「ここを下りれば間道がある。急ぎ降りてくだされ」
三九郎がせかすと、風花は驚き、後ずさりした。
「できぬ」
「?」
「この縄一本を伝って井戸の底へ降りるなど、そのようなことが出来るはずがない」
言われてみれば、確かに風花には無理だと気づいた。
「致し方ない。ではそれがしが背負って降りると致しましょう」
こんなことをしていては、一益が来てしまうかもしれない。どこまでも手がかかる。いっそ、この場に置いていきたいくらいだ。
「恐ろしい!かようなところに降りるなどと!」
井戸を下りだした途端、耳元で叫ばれ、集中できない。井戸中に風花の声が響いている。
「風花殿。もう少し声を小さく…」
「身の毛もよだつ恐ろしさじゃ!」
風花が恐れてしがみ付いてくる。
「風花殿…首を持たれると…」
苦しい上に、風花が仰々しい恰好をしているので、更に動きにくい。なんとか下まで降りると、井戸の側面に間道の入り口があった。
「この先が谷に通じておるゆえ、ここから先は歩いてくだされ」
と背負った風花を下ろそうとするが、風花はしがみ付いたまま、下りようとはしない。
「嫌じゃ!かような暗く、怪しげな道は恐ろしゅうて歩けぬ!」
三九郎に背負われたまま、半泣きになって叫ぶ。
「い、いや、しかし…」
「蛇やサソリがでたら何とする。わらわはここから動かぬ。どうしてもと言うのであれば、三九郎殿がこのまま背負って行ってくだされ」
頑として譲らない。仕方がなく、風花を背に抱え、間道を歩くことにした。
(父上は、かように我儘で手のかかる女子を内室に迎え、お困りではないのか)
と思った瞬間、
「キャーーーー!」
耳元で風花が叫んでしがみ付いてくる。一瞬、耳鳴りで何も聞こえなくなった。
「如何なされた?」
頭の中を風花の悲鳴が木霊する。
「い、いま、何かが頭に…」
「水滴では?この辺りは湿地帯でござりますゆえ…」
頭上から水滴が落ちてきても何の不思議もない。こんな大げさな悲鳴をあげるほどのものではないが、風花にとっては違うらしい。
「見えぬ!何も見えぬ!恐ろしい!早う外へ連れ出してくだされ!」
暗がりでも見えている三九郎とは違い、夜目がきかない風花には暗闇しか見えないようだ。
(全く面倒な女子を連れこんでしまった)
そしてこの我儘で面倒な深窓の姫君を、血眼になって探している物好きが自分の父だ。
(滝川左近の周りにおるのは、おかしな者ばかり。熨斗をつけて返したいくらいじゃが、まずは早う甲賀へ戻り、この女子から解放されよう)
間道の出口はまだまだ見えない。
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