獅子の末裔

卯花月影

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4.伊勢長島

4-5. 復讐の炎

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 岐阜から近江、そして都へと続く交通の要路・東山道。垂井から不破関を越え、伊吹山の麓・関ヶ原を通ると近江に至る。官道として整備されたのは飛鳥時代と伝わるから千年近く前から多くの人が往来していたことになる。

 町野左近とともに日野へ戻ろうとすると、義太夫と助太郎がついてきた。
「都へ参るのか?」
「いや、日野じゃ」
「日野?」
 最近、義太夫は何度も日野に足を運んでくる。
「また、何か新しい銃を作らせておるのか?」
 日野の鉄砲鍛冶にとって滝川家は上客だ。何を作っているのかと尋ねても教えてはくれないだろう。
「まぁ、そんなところかのう」
 義太夫が惚けた顔でそういう。

(何やら怪しい)
 このとぼけようは、水鉄砲ではないらしい。ということは、一益が考案した、新しい武器ではないだろうか。
「隠しておきたいことか?」
「然様。迂闊にしゃべると殿に叱られてしまう」
「わしは日野の領主じゃ」
「案ずるな。一丁たりとも盗むつもりはない。銭はきっちり払う」
 当たり前のことで、自慢げに言うことでもない。
「長島攻めの武器であろう?」
「言えぬ」
 おしゃべりな割に、意外に口が堅い。
「義兄上は一方では戦さを避けよという。されど、もう一方では新しい武器を考え、作らせておる。これは如何なることか」
 万一に備えているのかもしれないが、滝川家の懐事情を鑑みても、無用の長物を作らせているとは思えない。一益は明確に敵を想定し、実戦で使うつもりがある。それは今までの話の流れから言っても信長の命以外は考えられない。

 近江に入り、しばらく歩くと琵琶湖へとつながる宇曽川に架かる歌詰橋に差し掛かる。
「存じておるか。この橋は、ご先祖様が平将門の首と戦った橋じゃ」
「首と戦った?」
 義太夫と助太郎が同時に問うと、忠三郎は笑顔で頷き、俵藤太秀郷伝説の一幕を話し出した。

 平安の頃、王都を騒がせた平将門は藤原秀郷に討たれた。都へ凱旋する途上、将門の首が追いかけてきて挑んできた。秀郷はひるまず、一首詠んで将門の罪状をなじった。将門の首は返歌を詠もうとしたが、返すことができず、無念の思いをかかえたまま、橋の上にコロリと落ちた。

「それ以来、この橋は歌詰橋と呼ばれておる。常に歌心を忘れるるなかれという教えじゃ」
「ほぉ…」
 義太夫と助太郎は顔を見合わせる。
(首だけでは、頭突きか、噛みつくしか出来ぬわい。しかも頭突きすらできず、橋の上に転がるとは、間抜けな話じゃ。それゆえの嘘川か)
 宇曽川は、物資を運ぶ川・運槽川からきているが、そんなことは知らない義太夫が、なるほどと納得する。
「なんとも間の抜けた話じゃなぁ」
「?間の抜けた話?」
 忠三郎がなんのことかと首を傾げる。
 一行はそのまま何事もなく日野へ到着した。義太夫と助太郎は日野の鍛冶村で何かを頼んで伊勢へ戻っていった。

 八月になり、再び出陣命令が下った。江南には未だに一揆に加勢し、叛旗を翻した城が残されている。
 忠三郎が兵を率いて琵琶湖近くの新村へ向かうと、信長本隊をはじめ、柴田勝家、佐久間信盛らの軍勢が見えた。近江の小さな城を攻めるには兵が多い。一万人は下らないようだ。

 信長本陣へと足を向けると、帷幕の中には重臣たちをはじめ、江南の国衆が並んでいた。
「鶴、賢秀は如何した」
 信長に鋭い視線を向けられ、忠三郎はドキリとしたが、
「城を出るときに持病の発作があり…。遅れてくるものかと…」
 とは言ったが、果たして父は来る気があるだろうか。
 信長は頷き、
「一向衆が新村城に潜んで居る」
 城主は新村左衛門忠資。元々は同じ六角氏の家臣であったが、信長の上洛戦のときに織田家に恭順。しかし昨年、本願寺が挙兵すると突如として叛旗を翻した。
 柴田勝家が進み出る。
「城に籠るはわずかに三千余り。大軍に囲まれ、士気も下がっておりましょう。ここは使者を送り、降伏を進め…」
 勝家が言い終わらないうちに、帷幕の外が騒がしくなった。

(雑兵たちが喧嘩でも始めたのであろうか)
 珍しくもないことだ。
「鶴、見て参れ」
「ハハッ」
 忠三郎が心得て外へ様子を見に行くと、兵が皆、城を見上げている。
 何があるというのか。忠三郎も城を見上げると、誰かが櫓に登り、寄せ手に向かって叫んでいるのが聞こえてきた。
「江州佐々木代々のもののふよ!よく聞け!」
 よく通る声が、戦場に響き渡る。佐々木とは佐々木氏の末の六角氏のことだ。
「近年、義を忘れて信長のために降るといえども、新村においては、たとえ身を滅ぼそうとも、義は失うまじと存ず!我が命、この戦にて尽きるとも、恥を残さず潔く果てることこそ武士の誉れなり。江州武士の名に懸け、天道に背き、民を苦しめる奸悪の輩と戦い、この命を捧げん!」
 あれは新村忠資なのだろうか。ここに江南の国人が多く集まっていることをよく分かって言っているようだった。
(義を忘れて…)
 戦国の世に至っては義のために戦うものはいない。しかし、何らかの大義名分を掲げなければ、兵がついてこないのもまた事実だ。
 しばしの時、黙って見上げていたが、それ以上は何も聞こえてこなかった。
(あれこそ真の江州の武士もののふ
 新村忠資の口上は、雷鳴のごとく轟き、血に染まる大地に清々しい威厳をもたらした。忠三郎は、自らの胸が不思議な鼓動を打つのを感じた。新村忠資の言葉には、単なる挑発や威圧を超えた、何か崇高な響きがあった。己の正義と覚悟を高らかに宣言するその姿に、言い知れぬ感銘を受け、帷幕の中へ戻った。
 先ほどの声が中まで聞こえていたらしい。
 信長は怒りに満ちた顔をしており、義を忘れていると言われた江南の諸将は信長の手前、何も言えないでいるが、皆、一様に気まずそうにしている。

 この張りつめた空気の中、何と言おうか悩んだが、ありのまま伝えるしかない。
「上様。城主の新村左衛門が…」
「権六!右衛門!」
 信長が突然、割れるような大声で柴田勝家と佐久間信盛を呼んだ。その額に青筋が浮き上がるのがはっきりと見える。
「ハハッ!」
「城に火をかけよ!」
「ハッ。ただちに!」
 二人が大慌てで去っていくと、信長は床几から立ち上がり、震え上がる諸将を見渡した。
「皆、よく聞け!敵は天下布武を妨げる奸悪のものども。手心加えることは許さぬ。城から逃げてきた者は、皆、根切りにせい!」
「ハハッ!」
 皆、色を失い、蜘蛛の子を散らしたように、慌てて帷幕を後にする。

 ここに参陣した将の大半が六角家の旧臣だ。表向きは織田家に従ったかに見えても、今後、新村忠資のように寝返る者がでるかもしれない。それは江南だけに限らない。
 江北も、若狭も、伊勢も、信長を恐れ、織田家に臣従したとはいえ、譜代の臣ではない。昨年のように信長が窮地に陥れば、北勢四十八家のように、皆、手のひらを返したように叛旗を翻す可能性がある。
 一度、平定したかに見えた地が再び敵地となるのであれば、望むと望まないとに関わらず、この戦いは未来永劫続いていくことになる。
 信長は旧臣たちが新村忠資の発言で動揺しているのを見抜き、見せしめの意味を込めて容赦ない下知をくだしたのだろう。

 忠三郎は硬い表情で自陣へと向かう。
(火攻めに根切…)
 ここは日野に近い。そんな凄惨な殺戮を行えば、領内に知れ渡ってしまう。家臣たちは動揺するだろう。領民たちはどう思うだろうか。
「若殿。城から知らせがあり、やはり殿は腹具合が優れず、此度の参陣は見合わせると…」
 町野左近がそう告げたとき、城方から鬨の声があがった。
「おや、あれは…」
「敵が城を出て向かってくる!皆に、迎え撃つ支度をさせよ」
 見るとすでに火が放たれ、櫓の一部が燃えている。火攻めを知った城方が、捨て身の覚悟で討って出てきたようだ。
「あれなるは上様本陣の方角では…」
 信長の旗印目指し、七百騎余りが怒涛のように駆け抜けていくのが見えた。
「我等も向かおう。皆、続け!」

 忠三郎は馬首を返して信長本陣へと走った。近づいていくと、すでに第一陣の佐久間信盛隊が敵を支えきれずに突破され、柴田勝家の部隊が応戦している。
「あの勢いでは直に破られる」
 勝家の部隊が突破されたところで狙い撃ちしようと、鉄砲隊を潜ませ、敵を待ち構えた。
(足止めできれば、多勢に無勢。一万を超える我が方が有利となる)

 思惑通り、敵が勝家の一隊を振り切って信長本陣を目指そうと飛び出してきた。忠三郎は一斉射撃で敵の足を止めると、槍を構えた。
「敵が浮足立っておる。者ども、我に続け!」
 馬を走らせ、敵中に飛び込んでいく。かつては同じ六角氏の家臣。しかしそんなことを考える余裕はなく、目の前の敵を倒し、突き崩して後ろへ押し戻した。
 やがて叶わないと悟った新村忠資が兵を率いて城へと退却していく。

「殿!後を追いまするか?」
「いや…それには及ばぬ。あの勢いがあれば、新村殿は逃げることもできたはず。にも拘わらず寡兵をもって討ち入ってきたのは、死を一途に思定めておられたのであろう」
 名もなき雑兵に討たれることを避け、切腹するために燃え上がる城に戻っていった新村忠資。
 心の中で抑えきれない感動と畏敬が渦巻く。戦の喧騒を超え、静かに燃える灯火を見つめるように、忠三郎の心は深い敬意と共感を抱いていた。

 新村城を落とした織田軍はそのまま進軍を続け、二日後、同じく六角氏の旧臣・河瀬壱岐守秀盛の二つの城を取り囲んだ。ここでも城方の抵抗は激しく、新村城同様、火をかけて城を攻略すると、そのまま都方面へと進み、三井寺近くにある土豪の屋敷を信長本陣とした。

 三井寺には中川重政、明智光秀、丹羽長秀といった主だった重臣が兵を率いて集まってきた。
「これは大変な数の兵が集まっておりますな。一体、どこで何が始まるので?」
 町野左近が圧倒されている。これほど兵が集まったのは二月の長島攻め以来だが、忠三郎は信長に付き従ってきただけで、何も聞かされてはいなかった。

「これより軍議がある。その時に詳細が分かるであろう」
 と言ったが察しはついている。本陣を敷いたのが三井寺ということは、敵はひとつしかない。
(比叡山延暦寺)
 信長の弟・織田九郎が討たれたのが一年前の九月。今月でちょうど一年になる。偶然ではないだろう。信長は織田九郎の仇討ちをするために、これほどの大軍勢を集めて、比叡山の麓まで来ているのだ。
(されど延暦寺の門跡は帝の弟の覚恕かくじょ
 覚恕かくじょは正親町天皇の威光を笠にして、信長が講和を持ち掛けたときも拒絶し、浅井・朝倉勢を匿った。

覚恕かくじょが帝に泣きついたら、上様はどうなさるおつもりか)
 軍議に行くと、思った通り、敵は延暦寺だった。信長は比叡山を取り囲むように諸将を配置した。麓を埋め尽くすおびただしい兵により、蟻の這い出る隙間もないほどだった。

 忠三郎は、平安のころから京の鬼門に位置し、国家鎮護の霊場と呼ばれた比叡山延暦寺の麓まできて、その規模の大きさに息をのむ。
「この山には如何ほどの寺院があるので?」
 町野左近が隣で口をぽかんと開けて尋ねる。忠三郎は笑って、
「一時期は三千という話であったが、今はもう四百あまりとか」
 そして四百ある僧坊はいま、敵兵の駐留地として使われている。

「この山は神が宿るといわれていた。日蓮も親鸞も慈円も、若き日には皆、この寺で学んだ。今は帝の弟、覚恕親王がここの主ではあるが、最早、この山と城下は腐敗した僧侶の巣窟と化しておる」
「されど、帝の弟君がこの寺の主であれば、いかに上様といえども、そう易々と攻め入ることなどできぬのでは」
 忠三郎もそう思っている。

 しかし、信長は元々、気短で、時として激情に駆られた命を下すため、皆から恐れられている。新村城攻めの折の根切といい、織田彦七郎、織田九郎と二人の弟を失ってからは更に凄みを増した気がする。
(この寺が、叔父上を殺した)
 戦闘の最中、水を飲む暇もなかった青地駿河守は、手ぬぐいを濡らし、それを口に含んで戦った。ついに力尽きて討ち取られたとき、首を落とすと喉から手ぬぐいが落ちてきたという。
(どれほど無念だったことか)
 叔父の最期の戦いぶりを聞くにつけ、その無念さが伝わってきた。

(仏法を説く僧侶が人の命を奪うなど、かような過ちを見過ごしてよいはずがない)
 肉親を亡くし、延暦寺を憎む信長の気持ちが分かるのは、誰でもない、自分だけだと言う自負がある。
(それに私怨だけではない)
 個人的な恨みはもちろん、それ以上に、敵対する浅井・朝倉勢が、この比叡山を拠点に兵をあげてくるのでは、いつになっても信長は背後を脅かされ、身動きがとれないままだ。

 そう思っていたので、比叡山焼き討ちの命が下ったと告げられた時は、やはりそうかとしか思わなかった。
「至極当然の結末」
「されど、僧兵どもはともかく、あの中にいる高僧や女子供まで首をとれとは…」
 躊躇する町野左近に対し、忠三郎は声を上げて笑う。
「寺に女子供がいること事態、笑止千万ではないか」
 家臣たちの前では強がってはみたものの、戦さとは何の関わりもない者まで手にかけてしまって、本当にいいのかという声がどこかからか聞こえてくる。
(いや、上様のなさることに誤りがあるはずがない。ここで迷っていては士気に関わる)
 迷いを振り切ろうとするが、次の瞬間、再度、問われる。
(怒りはもってまた喜ぶべく、恨みはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず。死者はもってまた生くべからず)
 戦略的には都近い比叡山が敵の隠れ場所となっているのは望ましくない。ここで一掃すべきと考えるのが妥当だ。

 しかし今、ここで叡山を灰燼に帰してしまえば、もう元に戻すことはできなくなる。そして死者が生き返ることもない。世の人は何というだろうか。神も仏も恐れぬ鬼畜な所業とののしり、のちの世まで汚名を残すことになるのではないだろうか。
 一益は何と言っていたか。大切なのは勝ち方なのだと、そう言ってはいなかったか。
(敵を傷つけることなく従わせるのが上策…)
 焼き払う以外の方法を考えるべきなのか。
(されど、それでは仇討ちにはならない。上様は納得されまい)
 いずれにせよ、焼き討ちの命が全軍に通達されている以上、もう選択肢はない。
 蒲生勢も総攻撃に備えて支度を整えた。

 叡山から黄金三百とともに、攻撃中止の嘆願が届いたのは、その翌日。しかし、信長はこれを一笑して退けた。
 九月十二日。叡山を取り囲む全軍に総攻撃の命が下った。僧兵が立てこもる根本中堂と大講堂、僧侶たちの屋敷のある坂本一帯に火がかけられ、燃え盛る様は都からも遠望できるほどだった。
 夜になっても火の勢いは衰えず、その牙は建物を引き裂き、その爪は命を無差別に奪い去る。すべてを焼き尽くし、跡には焦土が残される。
(終わりなき悪夢のようだ)
 眠れぬ夜を彷徨い続け、朝を迎えることのない永遠の暗闇の中で、人々の心を蝕み続ける。絶え間なく続く苦しみと恐怖の中で、すべてのものが徐々に消え去っていく。
 隠れ潜む僧兵はもとより、高僧、女子供もなで斬りにされ、霊峰比叡山は屍の山と化した。この日の死者は千五百とも三千ともいわれている。


 初冬を迎えた近江・日野。

 鍛冶村で試作品の図面を開いた義太夫はウムムと唸る。
「滝川様。いくらなんでもこれでは作れませぬ」
 鍛冶屋がそういうのも分かる。
 道中、見つけたウサギを腹の足しにしようと、助九郎と二人で追いかけ、足を滑らせ川に落ちた。しっかりと油紙に包んでいたので大事な図面は無事だと思っていたが、肝心の油紙に穴が開いていたために、一益が時間をかけて書いた精密な図面が墨流しと化している。

「義太夫殿。だからウサギなんぞ捨て置いたほうがよいと申し上げたので」
「今更、然様なことを申すな。おぬしだとて、上手そうなウサギじゃと言うていたではないか」
 しかしこの図面では水鉄砲さえ作れない。

「致し方ない。鶴のところへ行き、わしが見て覚えておる絵を書き、鍛冶屋に持ってこようではないか」
「エッ!…覚えておる絵とは…また水鉄砲で?」
「戯けたことを申すな。次の戦さか、はたまた次の次の戦さでは有効となるとっておきの武器じゃ」
 一益は綿密な計算をもとに図面を引いている。それが義太夫の記憶頼みとなってしまって大丈夫なのだろうか。

 そして日野・中野城。
「また来ておったのか」
 町野左近から知らせを受けた忠三郎は、早速義太夫と助九郎の二人を居間へ通した。

 最近、義太夫が頻繁に日野に来るようになった。足しげく通っているのは鍛冶屋のようだが、一益は一体、何を作らせているのだろうか。
 紙と筆を用意しろというので、大量の紙を用意して渡したが、子供の落書きの如き絵図ができあがるばかりで、一益が書いたという図面は一向に再現されなかった。

 日が暮れ落ち、図面を書くには暗くなりすぎたころ、忠三郎の居間が書き損じの図面でいっぱいになった。
「義太夫。そろそろ諦めて酒でも飲まぬか」
 忠三郎が早くも盃を傾けだすが、諦めきれない義太夫は、筆を置こうとはしない。
「おぬしはどうも、酒ばかり飲んでおるような…」
 忠三郎は何かというと酒というが、今、ここで飲んでしまうと、まともな図面は書けなくなる。

 しかし、筒の長さが思い出せない。僅かな差で銃弾が飛ばなくなったり、火力に大きく影響がでる。曖昧な寸法で注文するわけにもいかず、なおも唸っているうちに、忠三郎が早くも横になりだした。
「わしより先に寝ないでくれ」
 だいぶ酔いが回っているらしく、譫言うわごとのように言う。義太夫は、あぁ、またそれか、とウムウムと頷く。
「毎晩、悪夢にうなされておる」
 義太夫はエッと驚き、忠三郎を見る。
「それはまた…」
 こんな話は家臣にはできないだろう。
「叡山焼き討ちから、ずっと…」
 どうも顔色が冴えないと思えば、まともに眠れていないらしい。
(それほどの地獄絵図だったか)
 火攻めに慣れていない忠三郎には、相当な負担だったようだ。
「義太夫、夜咄よばなしは?」
 また我儘なことを言い始めた。義太夫はウームと少し考え、
「では今宵は素破の人相術を教えて進ぜよう」
「おぉ。ぜひとも頼む」
 忠三郎は興味深そうに眼を輝かせる。

「まずは心を研ぎ澄まし、よーくその人相を観察し、見極めるべし。姿形だけではない。声色、気色、動き、それらすべてを勘案すべし」
「例えば?」
益荒男ますらおのごとき声、額が出ていて怖い顔をしている女子はよくよく気を付けよ」
益荒男ますらおのごとき女子?はて…?」
「顔ふくよかで、くぼみがないのは良き女子。さらに唇紅歯白にして鼻筋が通り、眉が美しく、撫肩の女子はなお良し」
「義太夫。それは素破の人相術ではのうて、おぬしの女子の好みであろう?」
「何を申すか。これはわしの爺様、要するに殿の父君が言うておったことじゃ」
「では義兄上の母なるお方は、そのような女子であったと?」
「いや…どちらかというと般若面の如き…」
 若いときは分からないが、義太夫の記憶にあるのは皴だらけの般若面。
(そういえば、甲賀にいる婆様はどうしておるかのう)
 と思い返していると、忠三郎が早くも寝息を立てて寝ている。
「あ!しもうた!」
 また忠三郎が袴の端を掴んでいる。
(先に厠に行っておくべきであった…)
 厠にもいけずでは、もう諦めて寝るしかない。義太夫はふぅとため息をついて灯明の明かりを消した。
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