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4.伊勢長島
4-4. 百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり
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五月。忠三郎は柴田勝家の軍勢とともに長島へと向かった。伊勢に入ると叔父・関盛信と嫡男の四郎のほかに、まだ前髪立ちの勝蔵が供に来ていた。
「鶴殿!」
従弟の関四郎が忠三郎を見つけて駆け寄ってくる。四郎は顔を合わせる機会は少ないが、昔から一つ年上の忠三郎を兄のように慕ってくれていた。
そしてその後ろには、末の弟・勝蔵が兄の後ろに隠れるようにして忠三郎を見ている。
「勝蔵も供に?もしや、柴田殿の元へ?」
「人質を出せとのご命令で…」
まだ十歳にも満たない関家の三男・勝蔵は、不安を隠せない様子だったが、武人の子らしく気丈に振る舞っている。その姿は二年前に岐阜に連れていかれた忠三郎を彷彿とさせる。
(こんなことなら、滝川家の人質とするほうがよかったのではないか)
勝蔵にとっては近江に連れていかれるよりは、目と鼻の先にある蟹江のほうがよかったようにも思えた。
「上様がお疑いとあらば、此度の戦さで手柄を立て、勝蔵をお返しいただけるよう、願い出るつもりでおりまする」
四郎が思いつめたように言うので、忠三郎は笑顔で頷き、
「さすがは伊勢の名家・関家の嫡男じゃ。わしも負けてはおられぬ。供に励もうではないか」
力強い言葉をかけると、四郎は笑顔で頷いた。
五月十二日。信長本隊が津島から長島へと迫り、佐久間信盛の軍勢が小木江へ、柴田勝家の軍勢が太田川口へと向かう。しかし滝川家の面々が言っていた通り、長島を取り囲み伊勢湾へと流れる川は海のように広く、船なしで近づくことなどは不可能に見えた。
「これが川とは…。もはやこれは海では…」
町野左近をはじめ、家臣たちは皆、驚き、ただ茫然と大川を眺める。泳ぐどころか橋さえもかけられそうにない巨大な川が行く手を阻んでいる。
「川を渡らずして長島を攻めることなどはできぬ。皆、臆するな!川を渡るのじゃ!者どもかかれ!」
勝家が号令をかけると、辺りに陣太鼓が鳴り響き、雑兵たちが大川へと飛び込んでいった。
「鶴殿!我等も川を渡りましょう」
四郎に促されたが、忠三郎はあいまいな返事を返すだけで、川に向かおうとはしなかった。
(とんだ愚策。かような川を泳いで渡るなど、あり得ぬ)
泳げないとは言えない。しかしこのまま川へ飛び込めば、溺れるのは分かりきっている。
「待て。しばし様子を見ようではないか」
忠三郎は逸る四郎をとどめた。
雑兵たちは果敢に川に飛び込んでいく。ところがこれが長島にいる門徒衆や国人衆の絶好の的となった。必死で大川を泳ぎ切って長島輪中へ上陸しようとすると、激しい銃声が鳴り響き、雨あられと矢玉が撃ちかけられた。
勝家がかかれ、かかれと大声を張り上げ、勝家の勢いに押されるように雑兵たちが後から後から川へと飛び込んでいくが、岸にたどり着く前に撃たれてしまう。
(思うていた以上に狙いが定まっておる)
先ほどから撃たれて川へ沈んでいく雑兵を見ていると、弓矢以上に火縄銃の弾が命中している。皆、たかが坊主・百姓の集まりであると敵を侮っているが、こんな技が坊主・百姓の群れにできるとは思えない。
(義兄上は紀州に動きがあると言っていたような…)
紀州とはもしや、鉄砲生産をしている根来衆か、もしくは雑賀衆のことではないだろうか。甲賀や伊賀と同じ、傭兵集団の根来衆や雑賀衆が来ているとすれば、織田家にとっては脅威になる。
(敵が銃を持ち、狙い定めているというのに、丸腰同然で泳いで渡れなどとは前代未聞の愚策。これでは無駄死だ)
いくら号令をかけても、兵の命がいたずらに奪われるだけだ。
結局、夕暮れになっても一兵たりとも長島輪中へ上陸することはできなかった。
想像もしない長島の実像に、織田家の諸将はなすすべもなく、信長も方針を変えざるを得なかった。
輪中と呼ばれる一帯には、門徒たちが長島の他にも多くの砦を築いている。まずはそれらの砦に火をかけ、長島周辺から制圧することになった。
翌日、忠三郎は柴田勝家とともに屋長島と呼ばれる伊勢側のにある砦に向かうと、砦に火をかけるようにと家臣たちに命じた。
「あれは滝川勢では…」
町野左近が気づいて忠三郎に声をかける。見ると目の前を金色に輝く三つの団子が走り去っていくのが見えた。
(まことに団子を馬印に…)
義太夫案が通ったらしい。向かっていくのは桑名の方向。
(義兄上は抜け目ないお方じゃ)
皆、多大な損害を出しているというのに、滝川勢だけは一兵も失っていない。織田本隊を囮にして、混乱に乗じてさっさと桑名を取り戻そうとしている。
「四郎、此度の戦さはどうにもなるまい。無念ではあるが、川を渡れぬ以上、長島を攻めることさえもできぬ」
忠三郎から見ても、これでは戦さにはならない。
案の定、翌日、撤退命令が下った。忠三郎は関四郎に別れを告げると、人質となった勝蔵を連れ、柴田勝家の部隊とともに、太田川口を通って退却する。
揖斐川と養老山に挟まれた細い道は、桑名から関ヶ原へと抜ける古来から使われてきた道だ。いにしえのころ、日本武尊が通ったことから御行街道と呼ばれている。大雨のときは隣を流れる揖斐川が氾濫するため、常に道がぬかるんでいるが、一益は桑名から岐阜へ向かうときにはこの道を使っていると聞いていた。
「細い道じゃ」
勝蔵が不安そうに馬を歩ませる。忠三郎は勝蔵の後ろへ回り、声をかける。
「大垣へ抜ければ道が広うなる。それまでの辛抱じゃ」
人一人が通れる程度の道幅で、大軍で通るには時間がかかる。
一益が、甲賀者が山に潜んでいると、そう言っていたのを思い出した。
(こんなところを敵に襲われてはひとたまりもない)
左側はうっそうとした木々が生い茂り、見渡すことなどできない。深い森の奥は昼なお暗く、敵が潜んでいたとしてもわからない、とそう思った時、後方から激しい銃声が鳴り響いた。
「敵襲!」
悲鳴にも似た誰かの叫ぶ声がした。後ろから鬨の声が聞こえてきて、前を行く勝蔵が明らかに狼狽している。
「勝蔵、落ち着け!」
「さ、されど、後ろが…」
勝蔵が真っ青になって忠三郎の後ろを指さした。後ろを振り返ると、なんと勝家の部隊がついてきていない。
(これは拙い)
襲われたのは退陣を務める勝家の本隊と思われた。急いで岐阜を目指したいところだが、勝家を置いて行っていいものか。しかし勝蔵がいる以上、馬を走らせることもためらわれる。
(まずは勝蔵を安全なところへ逃がさねば…)
そう思い、
「皆、勝蔵を守って先へ行け!」
家臣たちに声をかけて、来た道を引き返そうとしたとき、
「鶴!」
にわかに呼ぶ声がして、驚いて四方を探すと、そばの木の上に誰かがいる。
「義太夫か」
「そこの童を連れて、早う先へ行くのじゃ」
軽々と木を飛び降りてきたのは義太夫で、そのあとに助九郎、助太郎他の素破たちが次々に姿を現した。
「義太夫。今の銃声は?」
「敵が追ってきておる。撃たれたのは柴田殿じゃ」
「柴田殿が?して、柴田殿は無事か?」
「案ずるな。ちと手傷を負うただけのこと。氏家ト全が変わって退陣を務めるというて敵と戦い、柴田勢はすぐ後ろまで来ておる。もたもたするな。ここは一騎討ちの節所と呼ばれ、敵が来ても逃げ場のない危ういところ。後ろを振り向かず、ひたすら大垣へ向かって走るのじゃ」
追ってきた敵が誰なのか。義太夫はなぜここにいるのか。聞きたいことは山ほどあったが、今は話をする暇がない。
「皆、行こうぞ」
忠三郎は家臣たちを促し、勝蔵とともに一路、大垣へと向かった。
美濃・大垣まで馬を走らせ、そこで勝家と氏家ト全を待つことにした。
この大垣城は氏家ト全の居城だ。氏家ト全は美濃の斎藤道三の家来だった人物で、美濃の約三分の一を領する大身だった。
「お二方は遅うござりますな。何事もなければよいのですが」
道中、ずっと落ち着かない様子で後ろを振り返っていた町野左近は、不安を隠しきれないようだ。
「氏家殿であれば、あの道はよう存じておられる筈じゃが…」
勝家の一隊が現れたのは夕暮れ時だった。氏家ト全が率いていた軍勢が戻ったのはさらにそのあと。夜が更けたころ。
柴田勝家は厳しい顔つきをして忠三郎の前に現れた。
「氏家殿が討たれた」
「エッ?!」
氏家ト全にとってはよく知った道だっただろう。それがなぜ、さほど多くもない筈の敵の手にかかることになったのか。
(一体、何が起きておる)
近江・長光寺城へ戻るという勝家に、従弟の勝蔵を任せ、忠三郎は信長に報告をあげるために岐阜へと向かった。
岐阜城・千畳敷館。
忠三郎が到着すると、別路を通って岐阜へ向かった信長をはじめ、伊勢に出陣していた尾張・美濃の諸将が戻っていた。
(敵に襲われたのは我等だけだったのか)
織田家の家臣たちが次々に千畳敷館から出て、各々、国元へ戻っていく姿が見えた。
「おぉ、鶴殿」
声をかけてきたのは滝川家の与力の道家彦八郎だ。
「早、軍議は終わり、皆、国へ戻るところでござる。して、鶴殿は何故、岐阜に?」
「実は氏家殿が…」
と話そうとすると、道家彦八郎は、あぁ、と頷き、
「そのことならば、すでに我等から上様へ報告済み。ご案じめさるな」
あの時、義太夫と素破たちの姿しか見えなかったが、道家彦八郎も共にいたようだ。
(我らと同じ道を通らねば、岐阜にはたどり着けぬと思うていたが…)
通ってきた道は敵の刺客が大勢、放たれていた筈だ。どうやって岐阜まで来たのだろうか。
忠三郎が不思議そうにしているので、道家彦八郎は笑って、
「間道がござる。まぁ、まずは屋敷へ戻り、義太夫とお話しくだされ」
分からないことだらけではあったが、ひとまず滝川屋敷へと足を向けた。
屋敷に行くと、義太夫が助太郎・助九郎兄弟とともに、諸肌を脱いで具足の手入れをしているところだった。
「義太夫、氏家殿は誰に、何故討たれた?」
開口一番にそう尋ねると、義太夫は、それが…と事と次第を話し始めた。
「なんとも拙いことに、襲ってきたのは六角の残党じゃ」
「六角…」
襲われた場所は美濃の石津。襲ってきたのは六角氏の一族の佐々木祐成だ。
甲賀衆に手引きされた佐々木祐成が、織田勢の引き上げを狙って待ち伏せし、襲ってきたらしい。
弓・鉄砲で襲ってきた佐々木祐成率いる甲賀衆に対し、氏家ト全とその一党は必死に防戦し、勝家を逃がした。
しかし、その直後、馬を泥沼に乗り入れてしまい、ぬかるみに足を取られ進退窮まった。甲賀衆はその隙をついて取り囲んで襲い掛かり、ついに力尽き、共にいた郎党もろとも討ち取られたという。
思いもかけず、またしても手痛い敗戦となった。信長は激怒しているだろう。
「義兄上はあの道で敵が襲ってくることを存じていたのであろう。それゆえ、おぬしらを送って…」
「然様。されど思うたよりも敵が多く、五人やそこらで勝てるものでもない。早々に引き上げてきたのじゃ」
「…で、義兄上は?」
「桑名じゃ」
桑名には三つの城がある。東から、東城、西城、三崎城とあり、三つあわせて桑名三城と呼ばれている。そのすぐそばには矢田城という城もあり、一益は今回の長島攻めで揖斐川沿いにある桑名東城と西城の二つの城を攻略している。
(義兄上だけは、転んでもただでは起きぬな)
このしたたかさが謀将と呼ばれる所以だろうか。
「美濃三人衆の一人を失った。この損失は大きい」
「そのことよ。それゆえ殿が仰せになったのじゃ。これは、上様をお諫めしなかった老臣どもにも非がある」
「されどこれでは、上様はますます引かぬであろう」
「戦さとは勝敗を決するためにある筈じゃが、上様はそうはお考えではないような…」
義太夫がふと手を止め、憂鬱そうに具足を叩く。
信長や織田家の諸将と、一益や滝川家の面々との温度差はなんだろうか。
(武士と素破の違いか)
命を惜しまず、名を惜しむのが武士ならば、彼らは武士ではない。一益をはじめ、彼らは命を懸けて戦っているようには見えない。
「義太夫。おぬしら素破にとって戦さとは何であるか」
前々から思ってきたことを聞いてみた。義太夫は、ふむ、と忠三郎を見て、
「よい問いじゃ。我らは幼き頃より、生きて帰れと教えられておる」
「それでは、命がけで戦う者には勝てぬのでは?」
「戯けたことを申すな。恩賞をもらうために戦うておるのじゃ。たとえ戦さに勝ったとしても、生きて帰らねば恩賞に預かることができぬではないか」
身も蓋もないことを言い出した。
「国を守るため、名を挙げるために戦っているのではないと?」
やはりどうも違うらしい。義太夫は眉を挙げ、
「長島攻めが国を守ることになるとは思えぬがのう」
それは義太夫の本音のようだ。
「おぬしも義兄上同様、長島攻めには反対か」
「鶴。おぬしにとっては百姓なんぞは虫けら以下の者であろう。その虫けらの血を流して、名が挙げられると、真にそう思うておるのか?」
改めて聞かれ、咄嗟に返事ができなかった。
「して、その虫けらが国を作っておることくらいは、存じておろう?それゆえ殿は一向宗を懐柔したいとお思いじゃ。それを皆、殺め、屍の上に国を築き上げるは容易なことではない。敵を殲滅し、焼け野原となった地を恩賞とされて、喜べるはずがなかろう。おぬしの言う、汚い手を使っても戦さを避けたいという殿のお気持ちが、わからぬか?」
戦うことばかりに気を取られ、戦さの先にあるものまで見えていなかった。織田軍の総力をあげて長島を制圧したとしても、その後の統治をするのは一益一人だ。雨期には水害に悩まされるとはいえ、長島が肥沃な土地であることに変わりはない。しかし、畑を耕すものがいなくては、いかに広大な地を治めたとしても国を潤すことはできない。
(それ故に百戦百勝は善の善なるものに非ざるなりと、義兄上は、そう言うていたのか)
一益が何度も言っていたことばの意味が、ようやく分かってきた。最も大切なことは勝つことではなく、どのようにして勝つか、なのだ。
一益は言っていた。忠三郎が日野を思っているように、伊勢を思っているのだと。
(義兄上の心情を察することができなかった)
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。忠三郎が黙り込むと、義太夫は笑って、
「そう暗い顔をするな。おぬしが来たゆえ、客用の酒を飲む口実ができた。助太郎!」
嬉しそうに助太郎を呼ぶ。
「義太夫殿、もしやまた…」
「おぉこやつも一応、客人じゃ。例の酒を持って参れ」
「何かにつけ大事な酒を…。後で殿に叱られても知りませぬぞ」
助太郎がぶつぶつ言いながら奥へと消えていく。義太夫は上機嫌で、さっさと具足を片付けだした。
「鶴殿!」
従弟の関四郎が忠三郎を見つけて駆け寄ってくる。四郎は顔を合わせる機会は少ないが、昔から一つ年上の忠三郎を兄のように慕ってくれていた。
そしてその後ろには、末の弟・勝蔵が兄の後ろに隠れるようにして忠三郎を見ている。
「勝蔵も供に?もしや、柴田殿の元へ?」
「人質を出せとのご命令で…」
まだ十歳にも満たない関家の三男・勝蔵は、不安を隠せない様子だったが、武人の子らしく気丈に振る舞っている。その姿は二年前に岐阜に連れていかれた忠三郎を彷彿とさせる。
(こんなことなら、滝川家の人質とするほうがよかったのではないか)
勝蔵にとっては近江に連れていかれるよりは、目と鼻の先にある蟹江のほうがよかったようにも思えた。
「上様がお疑いとあらば、此度の戦さで手柄を立て、勝蔵をお返しいただけるよう、願い出るつもりでおりまする」
四郎が思いつめたように言うので、忠三郎は笑顔で頷き、
「さすがは伊勢の名家・関家の嫡男じゃ。わしも負けてはおられぬ。供に励もうではないか」
力強い言葉をかけると、四郎は笑顔で頷いた。
五月十二日。信長本隊が津島から長島へと迫り、佐久間信盛の軍勢が小木江へ、柴田勝家の軍勢が太田川口へと向かう。しかし滝川家の面々が言っていた通り、長島を取り囲み伊勢湾へと流れる川は海のように広く、船なしで近づくことなどは不可能に見えた。
「これが川とは…。もはやこれは海では…」
町野左近をはじめ、家臣たちは皆、驚き、ただ茫然と大川を眺める。泳ぐどころか橋さえもかけられそうにない巨大な川が行く手を阻んでいる。
「川を渡らずして長島を攻めることなどはできぬ。皆、臆するな!川を渡るのじゃ!者どもかかれ!」
勝家が号令をかけると、辺りに陣太鼓が鳴り響き、雑兵たちが大川へと飛び込んでいった。
「鶴殿!我等も川を渡りましょう」
四郎に促されたが、忠三郎はあいまいな返事を返すだけで、川に向かおうとはしなかった。
(とんだ愚策。かような川を泳いで渡るなど、あり得ぬ)
泳げないとは言えない。しかしこのまま川へ飛び込めば、溺れるのは分かりきっている。
「待て。しばし様子を見ようではないか」
忠三郎は逸る四郎をとどめた。
雑兵たちは果敢に川に飛び込んでいく。ところがこれが長島にいる門徒衆や国人衆の絶好の的となった。必死で大川を泳ぎ切って長島輪中へ上陸しようとすると、激しい銃声が鳴り響き、雨あられと矢玉が撃ちかけられた。
勝家がかかれ、かかれと大声を張り上げ、勝家の勢いに押されるように雑兵たちが後から後から川へと飛び込んでいくが、岸にたどり着く前に撃たれてしまう。
(思うていた以上に狙いが定まっておる)
先ほどから撃たれて川へ沈んでいく雑兵を見ていると、弓矢以上に火縄銃の弾が命中している。皆、たかが坊主・百姓の集まりであると敵を侮っているが、こんな技が坊主・百姓の群れにできるとは思えない。
(義兄上は紀州に動きがあると言っていたような…)
紀州とはもしや、鉄砲生産をしている根来衆か、もしくは雑賀衆のことではないだろうか。甲賀や伊賀と同じ、傭兵集団の根来衆や雑賀衆が来ているとすれば、織田家にとっては脅威になる。
(敵が銃を持ち、狙い定めているというのに、丸腰同然で泳いで渡れなどとは前代未聞の愚策。これでは無駄死だ)
いくら号令をかけても、兵の命がいたずらに奪われるだけだ。
結局、夕暮れになっても一兵たりとも長島輪中へ上陸することはできなかった。
想像もしない長島の実像に、織田家の諸将はなすすべもなく、信長も方針を変えざるを得なかった。
輪中と呼ばれる一帯には、門徒たちが長島の他にも多くの砦を築いている。まずはそれらの砦に火をかけ、長島周辺から制圧することになった。
翌日、忠三郎は柴田勝家とともに屋長島と呼ばれる伊勢側のにある砦に向かうと、砦に火をかけるようにと家臣たちに命じた。
「あれは滝川勢では…」
町野左近が気づいて忠三郎に声をかける。見ると目の前を金色に輝く三つの団子が走り去っていくのが見えた。
(まことに団子を馬印に…)
義太夫案が通ったらしい。向かっていくのは桑名の方向。
(義兄上は抜け目ないお方じゃ)
皆、多大な損害を出しているというのに、滝川勢だけは一兵も失っていない。織田本隊を囮にして、混乱に乗じてさっさと桑名を取り戻そうとしている。
「四郎、此度の戦さはどうにもなるまい。無念ではあるが、川を渡れぬ以上、長島を攻めることさえもできぬ」
忠三郎から見ても、これでは戦さにはならない。
案の定、翌日、撤退命令が下った。忠三郎は関四郎に別れを告げると、人質となった勝蔵を連れ、柴田勝家の部隊とともに、太田川口を通って退却する。
揖斐川と養老山に挟まれた細い道は、桑名から関ヶ原へと抜ける古来から使われてきた道だ。いにしえのころ、日本武尊が通ったことから御行街道と呼ばれている。大雨のときは隣を流れる揖斐川が氾濫するため、常に道がぬかるんでいるが、一益は桑名から岐阜へ向かうときにはこの道を使っていると聞いていた。
「細い道じゃ」
勝蔵が不安そうに馬を歩ませる。忠三郎は勝蔵の後ろへ回り、声をかける。
「大垣へ抜ければ道が広うなる。それまでの辛抱じゃ」
人一人が通れる程度の道幅で、大軍で通るには時間がかかる。
一益が、甲賀者が山に潜んでいると、そう言っていたのを思い出した。
(こんなところを敵に襲われてはひとたまりもない)
左側はうっそうとした木々が生い茂り、見渡すことなどできない。深い森の奥は昼なお暗く、敵が潜んでいたとしてもわからない、とそう思った時、後方から激しい銃声が鳴り響いた。
「敵襲!」
悲鳴にも似た誰かの叫ぶ声がした。後ろから鬨の声が聞こえてきて、前を行く勝蔵が明らかに狼狽している。
「勝蔵、落ち着け!」
「さ、されど、後ろが…」
勝蔵が真っ青になって忠三郎の後ろを指さした。後ろを振り返ると、なんと勝家の部隊がついてきていない。
(これは拙い)
襲われたのは退陣を務める勝家の本隊と思われた。急いで岐阜を目指したいところだが、勝家を置いて行っていいものか。しかし勝蔵がいる以上、馬を走らせることもためらわれる。
(まずは勝蔵を安全なところへ逃がさねば…)
そう思い、
「皆、勝蔵を守って先へ行け!」
家臣たちに声をかけて、来た道を引き返そうとしたとき、
「鶴!」
にわかに呼ぶ声がして、驚いて四方を探すと、そばの木の上に誰かがいる。
「義太夫か」
「そこの童を連れて、早う先へ行くのじゃ」
軽々と木を飛び降りてきたのは義太夫で、そのあとに助九郎、助太郎他の素破たちが次々に姿を現した。
「義太夫。今の銃声は?」
「敵が追ってきておる。撃たれたのは柴田殿じゃ」
「柴田殿が?して、柴田殿は無事か?」
「案ずるな。ちと手傷を負うただけのこと。氏家ト全が変わって退陣を務めるというて敵と戦い、柴田勢はすぐ後ろまで来ておる。もたもたするな。ここは一騎討ちの節所と呼ばれ、敵が来ても逃げ場のない危ういところ。後ろを振り向かず、ひたすら大垣へ向かって走るのじゃ」
追ってきた敵が誰なのか。義太夫はなぜここにいるのか。聞きたいことは山ほどあったが、今は話をする暇がない。
「皆、行こうぞ」
忠三郎は家臣たちを促し、勝蔵とともに一路、大垣へと向かった。
美濃・大垣まで馬を走らせ、そこで勝家と氏家ト全を待つことにした。
この大垣城は氏家ト全の居城だ。氏家ト全は美濃の斎藤道三の家来だった人物で、美濃の約三分の一を領する大身だった。
「お二方は遅うござりますな。何事もなければよいのですが」
道中、ずっと落ち着かない様子で後ろを振り返っていた町野左近は、不安を隠しきれないようだ。
「氏家殿であれば、あの道はよう存じておられる筈じゃが…」
勝家の一隊が現れたのは夕暮れ時だった。氏家ト全が率いていた軍勢が戻ったのはさらにそのあと。夜が更けたころ。
柴田勝家は厳しい顔つきをして忠三郎の前に現れた。
「氏家殿が討たれた」
「エッ?!」
氏家ト全にとってはよく知った道だっただろう。それがなぜ、さほど多くもない筈の敵の手にかかることになったのか。
(一体、何が起きておる)
近江・長光寺城へ戻るという勝家に、従弟の勝蔵を任せ、忠三郎は信長に報告をあげるために岐阜へと向かった。
岐阜城・千畳敷館。
忠三郎が到着すると、別路を通って岐阜へ向かった信長をはじめ、伊勢に出陣していた尾張・美濃の諸将が戻っていた。
(敵に襲われたのは我等だけだったのか)
織田家の家臣たちが次々に千畳敷館から出て、各々、国元へ戻っていく姿が見えた。
「おぉ、鶴殿」
声をかけてきたのは滝川家の与力の道家彦八郎だ。
「早、軍議は終わり、皆、国へ戻るところでござる。して、鶴殿は何故、岐阜に?」
「実は氏家殿が…」
と話そうとすると、道家彦八郎は、あぁ、と頷き、
「そのことならば、すでに我等から上様へ報告済み。ご案じめさるな」
あの時、義太夫と素破たちの姿しか見えなかったが、道家彦八郎も共にいたようだ。
(我らと同じ道を通らねば、岐阜にはたどり着けぬと思うていたが…)
通ってきた道は敵の刺客が大勢、放たれていた筈だ。どうやって岐阜まで来たのだろうか。
忠三郎が不思議そうにしているので、道家彦八郎は笑って、
「間道がござる。まぁ、まずは屋敷へ戻り、義太夫とお話しくだされ」
分からないことだらけではあったが、ひとまず滝川屋敷へと足を向けた。
屋敷に行くと、義太夫が助太郎・助九郎兄弟とともに、諸肌を脱いで具足の手入れをしているところだった。
「義太夫、氏家殿は誰に、何故討たれた?」
開口一番にそう尋ねると、義太夫は、それが…と事と次第を話し始めた。
「なんとも拙いことに、襲ってきたのは六角の残党じゃ」
「六角…」
襲われた場所は美濃の石津。襲ってきたのは六角氏の一族の佐々木祐成だ。
甲賀衆に手引きされた佐々木祐成が、織田勢の引き上げを狙って待ち伏せし、襲ってきたらしい。
弓・鉄砲で襲ってきた佐々木祐成率いる甲賀衆に対し、氏家ト全とその一党は必死に防戦し、勝家を逃がした。
しかし、その直後、馬を泥沼に乗り入れてしまい、ぬかるみに足を取られ進退窮まった。甲賀衆はその隙をついて取り囲んで襲い掛かり、ついに力尽き、共にいた郎党もろとも討ち取られたという。
思いもかけず、またしても手痛い敗戦となった。信長は激怒しているだろう。
「義兄上はあの道で敵が襲ってくることを存じていたのであろう。それゆえ、おぬしらを送って…」
「然様。されど思うたよりも敵が多く、五人やそこらで勝てるものでもない。早々に引き上げてきたのじゃ」
「…で、義兄上は?」
「桑名じゃ」
桑名には三つの城がある。東から、東城、西城、三崎城とあり、三つあわせて桑名三城と呼ばれている。そのすぐそばには矢田城という城もあり、一益は今回の長島攻めで揖斐川沿いにある桑名東城と西城の二つの城を攻略している。
(義兄上だけは、転んでもただでは起きぬな)
このしたたかさが謀将と呼ばれる所以だろうか。
「美濃三人衆の一人を失った。この損失は大きい」
「そのことよ。それゆえ殿が仰せになったのじゃ。これは、上様をお諫めしなかった老臣どもにも非がある」
「されどこれでは、上様はますます引かぬであろう」
「戦さとは勝敗を決するためにある筈じゃが、上様はそうはお考えではないような…」
義太夫がふと手を止め、憂鬱そうに具足を叩く。
信長や織田家の諸将と、一益や滝川家の面々との温度差はなんだろうか。
(武士と素破の違いか)
命を惜しまず、名を惜しむのが武士ならば、彼らは武士ではない。一益をはじめ、彼らは命を懸けて戦っているようには見えない。
「義太夫。おぬしら素破にとって戦さとは何であるか」
前々から思ってきたことを聞いてみた。義太夫は、ふむ、と忠三郎を見て、
「よい問いじゃ。我らは幼き頃より、生きて帰れと教えられておる」
「それでは、命がけで戦う者には勝てぬのでは?」
「戯けたことを申すな。恩賞をもらうために戦うておるのじゃ。たとえ戦さに勝ったとしても、生きて帰らねば恩賞に預かることができぬではないか」
身も蓋もないことを言い出した。
「国を守るため、名を挙げるために戦っているのではないと?」
やはりどうも違うらしい。義太夫は眉を挙げ、
「長島攻めが国を守ることになるとは思えぬがのう」
それは義太夫の本音のようだ。
「おぬしも義兄上同様、長島攻めには反対か」
「鶴。おぬしにとっては百姓なんぞは虫けら以下の者であろう。その虫けらの血を流して、名が挙げられると、真にそう思うておるのか?」
改めて聞かれ、咄嗟に返事ができなかった。
「して、その虫けらが国を作っておることくらいは、存じておろう?それゆえ殿は一向宗を懐柔したいとお思いじゃ。それを皆、殺め、屍の上に国を築き上げるは容易なことではない。敵を殲滅し、焼け野原となった地を恩賞とされて、喜べるはずがなかろう。おぬしの言う、汚い手を使っても戦さを避けたいという殿のお気持ちが、わからぬか?」
戦うことばかりに気を取られ、戦さの先にあるものまで見えていなかった。織田軍の総力をあげて長島を制圧したとしても、その後の統治をするのは一益一人だ。雨期には水害に悩まされるとはいえ、長島が肥沃な土地であることに変わりはない。しかし、畑を耕すものがいなくては、いかに広大な地を治めたとしても国を潤すことはできない。
(それ故に百戦百勝は善の善なるものに非ざるなりと、義兄上は、そう言うていたのか)
一益が何度も言っていたことばの意味が、ようやく分かってきた。最も大切なことは勝つことではなく、どのようにして勝つか、なのだ。
一益は言っていた。忠三郎が日野を思っているように、伊勢を思っているのだと。
(義兄上の心情を察することができなかった)
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。忠三郎が黙り込むと、義太夫は笑って、
「そう暗い顔をするな。おぬしが来たゆえ、客用の酒を飲む口実ができた。助太郎!」
嬉しそうに助太郎を呼ぶ。
「義太夫殿、もしやまた…」
「おぉこやつも一応、客人じゃ。例の酒を持って参れ」
「何かにつけ大事な酒を…。後で殿に叱られても知りませぬぞ」
助太郎がぶつぶつ言いながら奥へと消えていく。義太夫は上機嫌で、さっさと具足を片付けだした。
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