獅子の末裔

卯花月影

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2.天香桂花

2-2. 魔虫谷

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 忠三郎はこの夜、一睡もせず、具足をつけ、滝川勢が動き出すのを一人、待っていた。空が白々と明けてきたころ、どこからともなく、法螺貝の音が鳴り響いているのが聞こえてきた。
(滝川勢の出陣か!)
 忠三郎は幕屋を飛び出し、馬に乗る。
「若!いずこへ参られるので?」
 忠三郎に気づいた家臣の一人に声をかけられた。
「出陣する!」
「なんと?お待ちくだされ。そのような話は…」
 遅れをとるわけにはいかない。留める家臣を振り切り、魔虫谷に向かって一直線に馬を走らせた。
 魔虫谷が近づくにつれ、銃声が大きくなっていく。
(もう戦さが始まっておる)
 さらに近づくと、深い谷を登っていく兵の姿が見えた。城兵が気づいたらしく、弓・鉄砲が激しく撃ち掛けられている。
「頭を下げ、身を低くして登るのじゃ!」
 遠くから誰かの声が聞こえてくる。
「鶴様!?」
 呼びかける声がして顔を上げると、滝川助太郎の姿が見えた。
「助太郎」
「なにゆえ、かような危うい場所へ?ご家来衆のお姿も見えず、まさかお一人で?」
 二人が話している間も、銃弾が身をかすめ、助太郎があわてて忠三郎に覆いかぶさり地に臥せる。
「ここは恐ろしき魔虫谷。これを手足に振りかけてくだされ」
 助太郎が腰につけた巾着袋を忠三郎に渡す。
「これは?」
「殿が調合したマムシ避けで」
「義兄上が?」
 忠三郎は驚きながらも言われた通り、巾着袋の粉を手足に振りかける。以前、綿向山に登ったとき、佐助からヒル避けにと塩を渡され、毒虫に刺されたときは、佐助の作った薬を塗ってくれた。佐助の造詣の深さに驚いたが、一益の医薬の知識はそれを上回るようだ。
(素破というは、仙人のような…)
 感心していると、目の前を矢がかすめた。
「これは想像以上で。少しやりすごし、弓・鉄砲の勢いがなくなったところで登らねば、いたずらに命を捨てることとなりましょう」
「心得た」
 足軽たちが必死に谷を登りきり、石垣までたどり着くが、弓・鉄砲の勢いはとどまるどころか、かえって勢いを増しているようだ。
 忠三郎も助太郎とともに、矢玉を避けつつ、険しい谷を登る。
「見よ、助太郎。雑兵が石垣に取りつこうとしておる」
「おぉ、まことに!」
 足元を見ながら、さらに一歩一歩、上へと登っていくと、
「鶴様!」
 助太郎が飛びつき、岩の陰に忠三郎を突き飛ばした。次の瞬間、火のついた竹やりとともに、上にいた兵が落ちてきた。
「助太郎!」
 助太郎は落ちてきた兵にぶつかり、谷底に転がり落ちる。それと同時に竹やりが燃え上がり、煙が立ち上った。
「これは…油が塗ってあったのか」
 このままでは火に飲まれる。忠三郎は這うようにして岩から岩へと身を隠し、火から逃れる。
「風下へ…」
 辺り一面が火の海となり、視界が遮られて煙が目に染みる。
(まずは助太郎を助けねば…)
 忠三郎は火を避けながら、登って来た急な坂を用心深く降りていく。竹やりに刺され、火に包まれて苦しむ者のうめき声が響き、辺りはすでに絶命している人や馬の躯が山と積まれている。目を覆いたくなるような地獄絵図だ。
(これが戦さというものか)
 ここには幼いころから聞かされた華々しい武功話は何もない。
「鶴!」
 どこからともなく呼び声がし、四方を見渡すと、少し離れたところに義太夫と助太郎が手を振っていた。
「義太夫!」
 近づいていくと、義太夫はこの殺伐とした風景の中でも普段と変わらぬ笑顔を見せた。
「来てくれたのか!」
「殿が顔色変えて、鶴を追えと仰せになった」
「義兄上が?」
 一益でも顔色を変えることがあるのか。想像がつかなかったが、それほど心配してくれたのだろうか。
「退却の法螺が響いておったが、今から戻るのは難しいのう」
「退却?」
「屍が増えるだけと思われたんじゃろ」
 確かに。半日以上かけても誰一人、塀を乗り越えた者がいない。
「戻れぬとは?」
「もう日が暮れる。かような深き谷じゃ。夜は危ない。暗くなる前に身を隠す場所を探し、明るくなるのを待って戻ろう」
 これほど義太夫が頼もしく見えたことはない。忠三郎は頷き、助太郎と共に義太夫の後に続いた。

 魔虫谷を抜けると川に出た。見ると本丸とは魔虫谷を挟んで反対側が赤々と燃えている。
「あれも敵が?」
「いや、あれは敵の火薬庫じゃ。軽く火を放っただけじゃが、よう燃えとるのう」
 義太夫が火をかけたらしいが、この飄々とした態度はどうだろう。
(恐ろしい奴)
 噂通り、滝川勢は支城の多芸城を焼き討ちし、大河内城の兵糧を減らすために付近の村落を根こそぎ焼き払って、領民を大河内城へ追い込んでいる。
 これまでの伊勢攻略はこうした滝川勢の徹底した火攻めで進められたという話も噂ではなく、本当のことのようだ。
「あの辺りに焼け残った家がある。そこで一晩過ごそう」
 この付近に詳しいのは、火をつけて歩いたからだろう。三人で焼け残った家の瓦礫を適当に寄せ、ようやく腰を下ろしたときにはもう体が重く、動けない程だった。
(疲れた…)
 魔虫谷を抜けてから、ずいぶんと長い時間が過ぎた気がする。義太夫が乗って来た馬を貸してくれたので忠三郎は一人、歩かずに済んだが、その代わり、ずっと鐙に体重をかけていたため股とふくらはぎが痛い。慣れない甲冑は重く体にのしかかり、腰を下ろしたら更に疲れが襲ってきた。

 助太郎も手傷を負ったらしく、軟膏を取り出して塗っている。義太夫だけは常と変わらず、懐から兵糧丸を取り出すと、忠三郎と助太郎に一つずつ渡した。
「何故、一人で飛び出してきた?おぬしの付け人どもは皆、血眼になって探しておったぞ」
「名を挙げたい。なんとしても名を挙げ、佐助の名誉を回復する」
「お?」

 忠三郎は家臣たちから聞いた話をかいつまんで義太夫に話した。
「フム…、まぁ、確かに三雲は鶴には甘すぎとは思うが…。で、鶴は如何思うておる?」
「何を?」
「三雲が刺客じゃと言われ、そう思うたか?」
「それは…」
 佐助を信じたい気持ちはある。しかし、心のどこかに疑う気持ちがなくもない。
「もうわからぬ…。誰を信じたらよいのか、分からなくなった」
「それでは三雲も浮かばれまい」
 義太夫は軽く笑って、そう言う。
「鶴、わからぬか。三雲は家人共にどう思われようと、気にはせぬじゃろ。三雲が大事と思うておるのは鶴のことだけ。鶴が三雲と過ごした一年余り、のうのうとしておる間も、三雲は鶴を守ろうと必死だった。そうではないか?」
 義太夫の言うとおりだ。佐助は何度も自分を信じてほしいと、そう言っていた。あれほど細かく調べたのも、全ては忠三郎を守ろうとしていたからではないか。
「その鶴が、つまらぬことで腹を立て、こうして命を捨てるような真似をしておっては、三雲も死ぬに死に切れんじゃろ」
「されど、素破は真っ当な武士ではないと。人を騙す穢れた忌まわしき者じゃと言われ、義太夫。おぬしは口惜しいとは思わぬのか」
 その言葉に、助太郎がピクリと反応するが、義太夫は可笑しそうに笑って助太郎の背中を叩いた。

「そのようなことをいちいち気に留めていては素破は務まらぬ。のう、助太郎」
「は、はぁ。それはまぁ…」
「それに、当たらずとも遠からずじゃ」
「当たらずとも遠からず?では、後藤の叔父上を陥れたは義兄上の謀略じゃというのはまことか」
 忠三郎が義太夫を睨むと、思わぬ矛先を向けられた義太夫は、おや、と眉を上げ、
「誰が言うておった?」
「爺が…」
「爺?ああ、町野か。あやつも見た目ほど間抜けではないということか」
「それは如何なる…」
 と忠三郎が言いかけると、義太夫がいきなり手に持っていた兵糧丸を忠三郎の口に押し込んだ。
「それ食って、少し静かにせい」
 義太夫はむせかえる忠三郎の背中を強くたたくと、水の入った竹筒を手渡す。
「美味いか?人は腹が満たれば詰まらぬことは考えぬものじゃ」
 義太夫は、飯粒だらけになって水を飲む忠三郎を見て、こらえ切れずに笑い転げる。
「義太夫…これは、酒であろう?」
「酒じゃ。嬉しいか?」
 どこまでも侮った態度を崩さない義太夫に、忠三郎はムッとして
「誤魔化すな。義兄上は希代の謀将という評判ではないか。南近江を手にするため、汚い手を使って六角家中を混乱に陥れたは義兄上やおぬしらであろう。あれがために叔父上は何の申し開きもさせられぬまま観音寺城で討ち取られ、母上が…」

「汚い手か。では綺麗な手とは如何なる手じゃ。正面切って戦うことか?今日の戦さを見たであろう。あの何百と積まれた屍の山を見て、あれが真っ当な武士の戦さと、おぬしはそう申すか。己の親族のみが守られれば、雑兵の命など惜しくはないか。三雲がおぬしに、かような戦さを望んでいたと、そう思うか?」
 忠三郎は言い返せなくなり、ピタリと押し黙った。

(佐助が望んでいたこと。それは…)
 胸元から佐助の手紙を取り出し、再度読み返してみる。
(無骨な武士には作ることのできない泰平の世を築くものとなれ)
 佐助が言わんとしていることは、何だったのだろうか。
「それは何じゃ?見せてみい」
 と義太夫がひょいと手を出す。
「見せられぬ!」
 佐助の手紙には父と祖父の争いのことから、祖父が六角に通じていることまで書かれている。とても人には見せられるものではない。
「減るものでもなし。見るなと言われると見とうなる」
 義太夫が覗き込もうとするので、忠三郎は手紙を抱えて立ち上がる。

「寄るな!」
「あ~、では全部でなくともよい。最後の一枚くらいはよいじゃろ」
 最後の一枚には蒲生家のことは書かれていない。義太夫のしつこさに根負けし、最後の一枚だけを手渡す。
 義太夫はフムフムと読んでいたが、にわかに大きく目を見開き、急に笑いだした。
「どこを読んでおる?」
「いや…まぁ、よい。これは返そう」
 なにやら妙な態度だ。
「義太夫、おぬしは佐助のことを存じておるのではないか?」
 どうも義太夫の口ぶりは見知らぬ他人の話をしているのとは違う気がする。

「そう思うか?」
「何を調べた?佐助は生きておるのか?」
 わずかな期待を寄せる忠三郎に、義太夫は、いや、と首を振り、
「見たというものは甲賀にはおらんかった」
「…然様か…」
「あとは殿と話せ。とはいうても殿が話してくださるかどうかは分からぬがのう。何分、殿は甲賀の話はお嫌いじゃ」
「それは…」
 と忠三郎が言いかけると、
「義太夫殿!敵でござります!」
 助太郎が立ち上がる。見ると、騎馬武者がこちらへ向かってくるのが見えた。
「物見であろう。鶴、待ちに待った兜首じゃ!あやつを仕留めて本陣へ戻ろうぞ!」
 義太夫も立ち上がり、槍を構える。
「よし、心得た!」
 気づくと空が白々と明けてきている。忠三郎は佐助の手紙を胸にしまうと、槍を手に取り、立ち上がった。
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