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2.天香桂花
2-1. 初陣
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部屋に戻ると、時が止まったかのように全てのものが、九か月前に日野を立った時のままになっていた。
(ここが一番落ち着く)
ふぅと息をついて襖を開けた。僅かに見える綿向山も全く変わっていない。変わったことといえば、
(もう、ここに佐助は来ない)
毎朝、佐助は襖一枚隔てた向こう側の、庇のついた広縁に現れた。その当たり前の日常が、いまはもう遠い。
暫しの時、ぼんやりと広縁を眺めていると、離れたところからこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
(帰ってきても、休む間もないのか)
ひどく疲れた。少し一人になりたかったが、元服した以上、そうもいかないようだ。
「若、織田家の姫様の輿が城下に到達したとの知らせが」
「然様か…」
あんな話を聞いてしまっては、興も醒める。
「お迎えに上がらないので?」
「皆に任せる」
「はぁ…。それから、今後、お一人で城下を歩くことはおやめくだされ」
元服したのだから、父のように小姓やら小者やらと何人も従者を連れて歩けと苦言を呈しているようだ。
「ウム。承知した」
「あぁ、それから…」
まだ何かあるのか、と内心、うんざりしながらも笑顔で次の言葉を待つと、
「初陣の件で、岐阜の上様から殿へ、色々と命が下っておるようにて」
「初陣の件」
「出陣は伊勢になるであろうとのことで」
岐阜の屋敷にいる時から、一益はとても忙しそうにしていた。家人もばたばたと出入りが激しく、何度か評定が開かれているのを見た。
(戦さ支度を整えておられたのか)
近江から伊勢へ向かうというのであれば、岐阜の信長本隊が動くのかもしれない。
「爺。織田家の姫が来たら、介添えの堀久太郎を広間に通せ」
「は、はい。お会いになるので?」
忠三郎が急にやる気をだしたので、町野左近は不思議そうな顔をしている。
「久太郎に会う」
伊勢に出陣するのであれば、織田家の内情に精通している堀久太郎に話を聞いておいた方がいい。そう考えると立ち上がり、早速身支度を整えはじめた。
堀久太郎秀政。思えば堀久太郎というと、忠三郎よりも三つ年上であること、美濃の出身であること、尾張以来の織田家の家臣であることくらいで、他のことはほとんど知らない。
頭がよく、気配りもでき、武芸も達者で、全く非の打ちどころない人間だ。当然、信長の信任も厚く、奉行や取次といった面倒な仕事を任されている。
広間に行くと、堀久太郎がすでに折り目正しく着座していた。通り一遍の挨拶を済ませると、忠三郎は伊勢の戦況について尋ねてみる。
「近々、伊勢方面へ兵を向けると聞き及んだが」
信長から言い含められていたらしく、堀久太郎は思いのほか、すんなりと教えてくれた。
「伊勢の事情は存じておろう。織田家はすでに北伊勢八郡を手にしておる。残るは南伊勢五郡。これを手にするため、先年より滝川左近殿が調略していた北畠具教の弟とその家臣が織田家に寝返ることとなり、いよいよ上様自ら軍勢を従え、伊勢に攻め込むと仰せじゃ」
「なるほど…。フム…」
忠三郎は分かったのか、分からないのか、常の笑顔で曖昧な返事をする。
(伊勢の事情?)
そもそも前提としている伊勢の事情とやらが、よく分からない。
「…して、何故、我らが出陣するのであろうか」
と、かなり間の抜けた質問をした。
「何故とは…総力をあげて伊勢の国司と戦うのじゃ。織田領全域に陣振れがでよう。おぬしの従弟、後藤喜三郎や叔父の青地駿河守にも出陣命令がでる」
「叔父上や喜三郎まで…」
どうやら大掛かりな戦さらしい。にしても、喜三郎は兎も角、叔父の青地駿河守まで呼び捨てとは。
(どこまでも無礼な奴)
そうは思ったが、フムフムと頷き、
「調略とは…何をすると、そういとも容易く、国司の弟が寝返るのであろうか」
ふと疑問に思ったことを聞いてみた。堀久太郎は怪訝な顔をして、
「容易くはなかろう。六角の折と同様、火種はもっと前から蒔いていたのではないか」
今、なにか気になる言葉があった。
(六角の折と同様?火種?)
久太郎の言葉をかみ砕いてみる。調略は簡単ではない。六角の時も簡単ではなかったが、うまくいって南近江を制圧した。しかし火種はもっと前に蒔いていた。そう言っているように聞こえた。
(火種とは…観音寺騒動のことでは…)
そういえば、義太夫は六角家の内情に随分と詳しかった。
「もしや、六角家のお家騒動は、滝川左近殿の謀略であったと、そう言うておるのか?」
「そのようなことまでは存じてはおらぬ。知りたくば、左近殿に聞け」
堀久太郎は面倒だと言わんばかりにそう言うと、広間を後にした。
忠三郎は久太郎がいなくなった広間で、なおも、先ほどの話を思い返してみる。
(言われてみれば…なぜ、あの時、日野に来たのが義兄上だったのであろうか)
使者は二人。叔父の神戸蔵人と滝川一益。神戸蔵人は縁戚なのでわかる。しかし、どうしてもう一人は一益だったのか。そもそも、伊勢を担当している筈の一益が、伊勢を留守にしてまで上洛戦に参加したのは何故だろう。
「若。滝川左近殿と言えば、名だたる謀将。北伊勢に勢力を伸ばしていた六角家に対し、はかりごとを巡らしていたとしても可笑しくはないのでは?」
町野左近に言われ、忠三郎はエッと驚く。
(名だたる謀将?)
鉄砲の名手であることは知っていた。しかし謀将であることは知らなかった。
(では、後藤の叔父上を貶めたのは…もしや…)
忠三郎が義兄と呼んだ、一益なのだろうか。
「久太郎が言うていた伊勢の事情とは、如何なることであるか、存じておるか?」
堀久太郎は、さも知っているだろうと言わんばかりだった。
「恐らくは織田家における伊勢攻めのことでは?」
「北伊勢を攻め獲ったことか」
泣く子も黙ると言われた織田家の伊勢侵攻。その中核を担ったのが滝川一益だ。
一益は得意の火攻めをもって北伊勢のあまたの城と周辺の村落に火をかけた。
北伊勢の諸家はこの乱暴狼藉に恐れをなして次々に織田家に恭順したという。
「火攻め?」
「はい。甲賀が得意とするのは薬や火薬。敵と味方の将が名乗りをあげ、戦うなどという武士の戦さではござりませぬ。敵の領内へ風のごとく侵入し、家も田畑も皆、焼き払い、滝川勢が通った後には草一本残らぬとか」
どこまでが本当で、どこまでが噂かは分からないが、そんな乱暴な戦さは聞いたことがない。
佐助から聞いた鈎の陣で幕府軍を追い払った話では、遊撃戦が主だったと聞いたが、とにかく、従来の戦さとは大きく異なるようだ。
(皆が思うておる戦さと、素破の戦さは違うということか)
実戦を知らない忠三郎には、滝川勢の恐ろしさはおぼろげにしか分からない。
「それゆえ我が家中では、若が滝川家に出入りすることは、よろしからぬと思うておる者もおりまする」
それは忠三郎も感じ取っている。日野は甲賀に隣接しており、蒲生家は度々甲賀衆の力を借りているが、家中では甲賀衆を武士とは認めないものが多い。
「後藤家を陥れたのが滝川左近と、内心、皆、そう思うておるからであろう?」
「分かりませぬが…、そうであったとしても不思議はないものかと」
「であれば、わしが直接聞いて真偽のほどを明らかにする」
うやむやにすることはできない。ただの噂話なのか、真実なのか、はっきりとさせなければ。
八月。忠三郎は父・賢秀、叔父・青地駿河守、従弟の後藤喜三郎といった南近江の主だった武将とともに鈴鹿峠を越え、南伊勢に進軍した。
伊勢の国司、北畠具教。信長から再三和睦を求める使者が送られたが、悉く拒否し、織田軍に備えて居城の大河内城を初めとする各所に兵を集めている。
忠三郎は織田家の諸将とともに、陣を張り、敵とまみえる時を待つ。
(戦さとは、如何なるものであろうか)
幼い頃から聞かされてきた名将たちの武功話。先祖である俵藤太秀郷、高祖父・蒲生貞秀、そして祖父・蒲生快幹。いずれも勇ましくも華々しい初陣を飾っている。
(わしも負けられぬ)
気負う忠三郎の元に二人の家臣が片膝をついた。与力の種村伝左衛門と譜代家臣の結解十郎兵衛だ。
「戦場は危のうござります。我らが兵を従え、敵と対峙するときは、若はどうか後方でお待ちあれ」
戦さに来て危ないとは如何なることか。老臣たちが何を言わんとしているか、よく分からない。
「されど、わしも手柄を立てねば」
「それには及びませぬ。我等が兜首のひとつふたつ取って参りましょう程に、若はそれを手柄として下さればよいので」
家臣たちの手柄を横取りせよと言っているようだ。
「待て。それでは…」
「皆々、大名家の若君というは、そうして初陣を飾るものでござります」
そんな馬鹿な話があるとはにわかに信じ難いが、老臣の結解十郎兵衛も、他の家臣たちも、皆、頷いている。
(そのような腑抜けたことができようか)
それでは、これまで何のために武芸の稽古をしてきたのかわからない。
「皆が命を賭けて戦う中、我のみ後方におり、家臣の手柄を横取りするとは武門の名折れではないか」
忠三郎がなんとか平静を保ちつつそう言うと、結解十郎兵衛は宥めるように手を軽く上げて、
「横取りなどと、どうも若は心得違いをしておいでのようじゃ。これもあの三雲なる素破ごときをお傍においたがゆえにかようなことに」
何を言い出したかと思えば、なぜ、ここに佐助の名前がでてくるのか。
「いや、佐助は…」
「あのようなものをお傍に置いたがゆえに、いつまでも武芸は苦手じゃなどと生ぬるいことを仰せになって書物に逃げ、挙句の果ては岐阜で堀久太郎に投げ飛ばされたというではありませぬか。
これこそ武門の名折れ。我等は口惜しゅうて夜も眠れませぬ」
どこからそんな話が伝わったのか、思い出したくもない岐阜での件が家中で広まっている。
忠三郎は言い返すこともできない。
「若は何もご存じではない。だいたい素破などというものは、我等、誇り高きもののふとは大きく異なる異類異形の穢れた者ども。偽りごとを言って人を騙し、博打を好み、盗みを生業とし、闇から闇へ人を葬る忌まわしき不浄のもの。そのようなものに惑わされ…」
「人を闇から闇に葬ったは、お爺様ではないか!」
温厚な忠三郎が大声を出したので、家臣たちは皆、驚いて忠三郎を見る。これは拙いと、それまで黙って聞いていた町野左近が慌てて駆け寄り、忠三郎を帷幕の外へ連れ出した。
「如何なされました。そのように声を荒げて大殿のことを悪し様に言うとは。皆、驚いておりましたぞ」
佐助を悪く言われ、思わずカッとなった。これは失敗だったとうなだれ、返す言葉もなく唇を噛んだ。
「若の仰せの通りかと。もうお分かりなのではありませぬか?」
町野左近は何を言っているのだろう。よくわからず、顔を上げると、
「大殿がどのようなお方か存じておられるのであれば、三雲が何者であったかもお分かりかと」
「何者とは…それは如何なる意味か?」
「三雲は大殿が使うていた間者。折をみて若を闇に葬るために送り込まれた刺客でござります」
「佐助が…刺客?」
「はい。それゆえ、もう、あのような者のことはお忘れくだされ」
町野左近はそういうと、未だ騒然としている帷幕の中へ戻っていった。
南北朝時代に建てられたという大河内城。難攻不落といわれた堅固な城だ。この城を落とすため、先鋒として丹羽長秀、稲葉良通、池田恒興の三将が夜討ちをかけたが、雨が降り始めて鉄砲が使えなくなり、逆に敵の襲撃にあって敗走している。
次の手として、滝川勢が大河内城の西にある魔虫谷から石垣を登って城に侵入するという話がでているらしい。
(石垣を登るなどということが、まことにできるのであろうか)
深い谷を登り、更にあの高い石垣を登って城に入るとは敵も味方も想像できない。
(されど、そのあり得ないようなことを成し遂げ、皆が攻めあぐねる敵の城で手柄を立てれば、もう誰にも、何も言われることはなくなる)
詳しい話を聞きたくなり、忠三郎は一益の陣営を訪ねた。
「あ、鶴様」
滝川助九郎が気づいて義太夫を呼びに行く。間もなく出てきた義太夫は、戦場に来ても岐阜の屋敷にいるときと変わらぬ緊張感のなさを漂わせている。
「如何した。殿はあれなる山の麓にある上様本陣。未だ戻られておらぬぞ」
と東側に見える山を指さした。
「魔虫谷から攻め入ると聞いたが、まことか?」
義太夫は、おや、と驚き、
「鶴にしては情報が早いのう。まぁ、まことじゃが、まず、無理じゃろ」
「無理?」
どんな秘策があるのかと思ってきてみれば、始める前から無理とは何とも頼り甲斐のない一番家老だ。
「城の連中は士気が高い上、地の利を得ておる。殿はやる気満々じゃが、どうかのう」
「わしも連れて行ってくれぬか」
「闇雲に何を言い出すかと思えば…。やめておけ、やめておけ。かようなところで功を焦っても…」
「なんとしてもここで手柄をたて、汚名を晴らしたい!わしも共に行く」
いつになく真剣な忠三郎ではあったが、義太夫は取り合わない。
「何もそう焦らずともよいではないか。これからいくらでも手柄を立てることができよう。されど此度はやめたほうがよい」
なんとか宥めようとしているところに、一益が戻って来た。忠三郎は義太夫に背を向け、一益を追いかけた。
「義兄上!いよいよご出陣でござりますな!」
忠三郎は息せき切って帷幕の中に入り、一益に声をかけた。しかし、血気盛んな忠三郎を見た一益は、
「蒲生勢には出陣命令が下りてはおらぬ」
とたしなめようとした。しかしここで諦めるわけにはいかない。
「それがしはここまで来て、日々城を眺めているばかり。一度も敵と対峙したことがありませぬ」
なんとしても滝川勢とともに魔虫谷に向かいたいと訴えた。
そこへ忠三郎を追いかけてきた義太夫が背後から声をかける。
「初陣ゆえ、気負う気持ちも分からぬでもない。されど勝手の分からなぬ不慣れな初陣。敵中深く攻め入るのは危うい。傍にいる家臣どもが気を利かせて敵の首をとってきたら、それを手柄とするものよ」
家臣たちと同じ話をはじめた。忠三郎はたまらず義太夫を睨んだ。
「余人はいざ知らず、この蒲生忠三郎は家臣の手柄を横取りするような小さき器ではない!」
まさしくこれは、家臣たちに言いたかったことだった。義太夫は忠三郎の剣幕に驚き、ちらりと一益を見る。
「魔虫谷から上るのじゃ。ここで待っておれ。城内に入ったら狼煙を挙げるゆえ、総攻撃となるであろう」
一益は静かにそう言うと、それ以上、話そうとはせず、義太夫に何事かを命じている。
ここで一番乗りの手柄を立てようと思っていたのだが。
(やはり許してもらえぬのか)
諦めきれない忠三郎がもの言いたげに一益を見ると、
「鶴。軍規違反は厳しく罰せられる。妙な真似をするでないぞ」
心の内を見透かしたように、釘をさされた。忠三郎は落胆し、とぼとぼと自陣に足を向けた。
(されど、ここで手柄を立てねば…。わしが誰よりも華々しい手柄を立て、我が武勇を示さねば、いつまでも佐助が悪く言われる)
この絶好の機会を諦めるわけにはいかない。
(ここが一番落ち着く)
ふぅと息をついて襖を開けた。僅かに見える綿向山も全く変わっていない。変わったことといえば、
(もう、ここに佐助は来ない)
毎朝、佐助は襖一枚隔てた向こう側の、庇のついた広縁に現れた。その当たり前の日常が、いまはもう遠い。
暫しの時、ぼんやりと広縁を眺めていると、離れたところからこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
(帰ってきても、休む間もないのか)
ひどく疲れた。少し一人になりたかったが、元服した以上、そうもいかないようだ。
「若、織田家の姫様の輿が城下に到達したとの知らせが」
「然様か…」
あんな話を聞いてしまっては、興も醒める。
「お迎えに上がらないので?」
「皆に任せる」
「はぁ…。それから、今後、お一人で城下を歩くことはおやめくだされ」
元服したのだから、父のように小姓やら小者やらと何人も従者を連れて歩けと苦言を呈しているようだ。
「ウム。承知した」
「あぁ、それから…」
まだ何かあるのか、と内心、うんざりしながらも笑顔で次の言葉を待つと、
「初陣の件で、岐阜の上様から殿へ、色々と命が下っておるようにて」
「初陣の件」
「出陣は伊勢になるであろうとのことで」
岐阜の屋敷にいる時から、一益はとても忙しそうにしていた。家人もばたばたと出入りが激しく、何度か評定が開かれているのを見た。
(戦さ支度を整えておられたのか)
近江から伊勢へ向かうというのであれば、岐阜の信長本隊が動くのかもしれない。
「爺。織田家の姫が来たら、介添えの堀久太郎を広間に通せ」
「は、はい。お会いになるので?」
忠三郎が急にやる気をだしたので、町野左近は不思議そうな顔をしている。
「久太郎に会う」
伊勢に出陣するのであれば、織田家の内情に精通している堀久太郎に話を聞いておいた方がいい。そう考えると立ち上がり、早速身支度を整えはじめた。
堀久太郎秀政。思えば堀久太郎というと、忠三郎よりも三つ年上であること、美濃の出身であること、尾張以来の織田家の家臣であることくらいで、他のことはほとんど知らない。
頭がよく、気配りもでき、武芸も達者で、全く非の打ちどころない人間だ。当然、信長の信任も厚く、奉行や取次といった面倒な仕事を任されている。
広間に行くと、堀久太郎がすでに折り目正しく着座していた。通り一遍の挨拶を済ませると、忠三郎は伊勢の戦況について尋ねてみる。
「近々、伊勢方面へ兵を向けると聞き及んだが」
信長から言い含められていたらしく、堀久太郎は思いのほか、すんなりと教えてくれた。
「伊勢の事情は存じておろう。織田家はすでに北伊勢八郡を手にしておる。残るは南伊勢五郡。これを手にするため、先年より滝川左近殿が調略していた北畠具教の弟とその家臣が織田家に寝返ることとなり、いよいよ上様自ら軍勢を従え、伊勢に攻め込むと仰せじゃ」
「なるほど…。フム…」
忠三郎は分かったのか、分からないのか、常の笑顔で曖昧な返事をする。
(伊勢の事情?)
そもそも前提としている伊勢の事情とやらが、よく分からない。
「…して、何故、我らが出陣するのであろうか」
と、かなり間の抜けた質問をした。
「何故とは…総力をあげて伊勢の国司と戦うのじゃ。織田領全域に陣振れがでよう。おぬしの従弟、後藤喜三郎や叔父の青地駿河守にも出陣命令がでる」
「叔父上や喜三郎まで…」
どうやら大掛かりな戦さらしい。にしても、喜三郎は兎も角、叔父の青地駿河守まで呼び捨てとは。
(どこまでも無礼な奴)
そうは思ったが、フムフムと頷き、
「調略とは…何をすると、そういとも容易く、国司の弟が寝返るのであろうか」
ふと疑問に思ったことを聞いてみた。堀久太郎は怪訝な顔をして、
「容易くはなかろう。六角の折と同様、火種はもっと前から蒔いていたのではないか」
今、なにか気になる言葉があった。
(六角の折と同様?火種?)
久太郎の言葉をかみ砕いてみる。調略は簡単ではない。六角の時も簡単ではなかったが、うまくいって南近江を制圧した。しかし火種はもっと前に蒔いていた。そう言っているように聞こえた。
(火種とは…観音寺騒動のことでは…)
そういえば、義太夫は六角家の内情に随分と詳しかった。
「もしや、六角家のお家騒動は、滝川左近殿の謀略であったと、そう言うておるのか?」
「そのようなことまでは存じてはおらぬ。知りたくば、左近殿に聞け」
堀久太郎は面倒だと言わんばかりにそう言うと、広間を後にした。
忠三郎は久太郎がいなくなった広間で、なおも、先ほどの話を思い返してみる。
(言われてみれば…なぜ、あの時、日野に来たのが義兄上だったのであろうか)
使者は二人。叔父の神戸蔵人と滝川一益。神戸蔵人は縁戚なのでわかる。しかし、どうしてもう一人は一益だったのか。そもそも、伊勢を担当している筈の一益が、伊勢を留守にしてまで上洛戦に参加したのは何故だろう。
「若。滝川左近殿と言えば、名だたる謀将。北伊勢に勢力を伸ばしていた六角家に対し、はかりごとを巡らしていたとしても可笑しくはないのでは?」
町野左近に言われ、忠三郎はエッと驚く。
(名だたる謀将?)
鉄砲の名手であることは知っていた。しかし謀将であることは知らなかった。
(では、後藤の叔父上を貶めたのは…もしや…)
忠三郎が義兄と呼んだ、一益なのだろうか。
「久太郎が言うていた伊勢の事情とは、如何なることであるか、存じておるか?」
堀久太郎は、さも知っているだろうと言わんばかりだった。
「恐らくは織田家における伊勢攻めのことでは?」
「北伊勢を攻め獲ったことか」
泣く子も黙ると言われた織田家の伊勢侵攻。その中核を担ったのが滝川一益だ。
一益は得意の火攻めをもって北伊勢のあまたの城と周辺の村落に火をかけた。
北伊勢の諸家はこの乱暴狼藉に恐れをなして次々に織田家に恭順したという。
「火攻め?」
「はい。甲賀が得意とするのは薬や火薬。敵と味方の将が名乗りをあげ、戦うなどという武士の戦さではござりませぬ。敵の領内へ風のごとく侵入し、家も田畑も皆、焼き払い、滝川勢が通った後には草一本残らぬとか」
どこまでが本当で、どこまでが噂かは分からないが、そんな乱暴な戦さは聞いたことがない。
佐助から聞いた鈎の陣で幕府軍を追い払った話では、遊撃戦が主だったと聞いたが、とにかく、従来の戦さとは大きく異なるようだ。
(皆が思うておる戦さと、素破の戦さは違うということか)
実戦を知らない忠三郎には、滝川勢の恐ろしさはおぼろげにしか分からない。
「それゆえ我が家中では、若が滝川家に出入りすることは、よろしからぬと思うておる者もおりまする」
それは忠三郎も感じ取っている。日野は甲賀に隣接しており、蒲生家は度々甲賀衆の力を借りているが、家中では甲賀衆を武士とは認めないものが多い。
「後藤家を陥れたのが滝川左近と、内心、皆、そう思うておるからであろう?」
「分かりませぬが…、そうであったとしても不思議はないものかと」
「であれば、わしが直接聞いて真偽のほどを明らかにする」
うやむやにすることはできない。ただの噂話なのか、真実なのか、はっきりとさせなければ。
八月。忠三郎は父・賢秀、叔父・青地駿河守、従弟の後藤喜三郎といった南近江の主だった武将とともに鈴鹿峠を越え、南伊勢に進軍した。
伊勢の国司、北畠具教。信長から再三和睦を求める使者が送られたが、悉く拒否し、織田軍に備えて居城の大河内城を初めとする各所に兵を集めている。
忠三郎は織田家の諸将とともに、陣を張り、敵とまみえる時を待つ。
(戦さとは、如何なるものであろうか)
幼い頃から聞かされてきた名将たちの武功話。先祖である俵藤太秀郷、高祖父・蒲生貞秀、そして祖父・蒲生快幹。いずれも勇ましくも華々しい初陣を飾っている。
(わしも負けられぬ)
気負う忠三郎の元に二人の家臣が片膝をついた。与力の種村伝左衛門と譜代家臣の結解十郎兵衛だ。
「戦場は危のうござります。我らが兵を従え、敵と対峙するときは、若はどうか後方でお待ちあれ」
戦さに来て危ないとは如何なることか。老臣たちが何を言わんとしているか、よく分からない。
「されど、わしも手柄を立てねば」
「それには及びませぬ。我等が兜首のひとつふたつ取って参りましょう程に、若はそれを手柄として下さればよいので」
家臣たちの手柄を横取りせよと言っているようだ。
「待て。それでは…」
「皆々、大名家の若君というは、そうして初陣を飾るものでござります」
そんな馬鹿な話があるとはにわかに信じ難いが、老臣の結解十郎兵衛も、他の家臣たちも、皆、頷いている。
(そのような腑抜けたことができようか)
それでは、これまで何のために武芸の稽古をしてきたのかわからない。
「皆が命を賭けて戦う中、我のみ後方におり、家臣の手柄を横取りするとは武門の名折れではないか」
忠三郎がなんとか平静を保ちつつそう言うと、結解十郎兵衛は宥めるように手を軽く上げて、
「横取りなどと、どうも若は心得違いをしておいでのようじゃ。これもあの三雲なる素破ごときをお傍においたがゆえにかようなことに」
何を言い出したかと思えば、なぜ、ここに佐助の名前がでてくるのか。
「いや、佐助は…」
「あのようなものをお傍に置いたがゆえに、いつまでも武芸は苦手じゃなどと生ぬるいことを仰せになって書物に逃げ、挙句の果ては岐阜で堀久太郎に投げ飛ばされたというではありませぬか。
これこそ武門の名折れ。我等は口惜しゅうて夜も眠れませぬ」
どこからそんな話が伝わったのか、思い出したくもない岐阜での件が家中で広まっている。
忠三郎は言い返すこともできない。
「若は何もご存じではない。だいたい素破などというものは、我等、誇り高きもののふとは大きく異なる異類異形の穢れた者ども。偽りごとを言って人を騙し、博打を好み、盗みを生業とし、闇から闇へ人を葬る忌まわしき不浄のもの。そのようなものに惑わされ…」
「人を闇から闇に葬ったは、お爺様ではないか!」
温厚な忠三郎が大声を出したので、家臣たちは皆、驚いて忠三郎を見る。これは拙いと、それまで黙って聞いていた町野左近が慌てて駆け寄り、忠三郎を帷幕の外へ連れ出した。
「如何なされました。そのように声を荒げて大殿のことを悪し様に言うとは。皆、驚いておりましたぞ」
佐助を悪く言われ、思わずカッとなった。これは失敗だったとうなだれ、返す言葉もなく唇を噛んだ。
「若の仰せの通りかと。もうお分かりなのではありませぬか?」
町野左近は何を言っているのだろう。よくわからず、顔を上げると、
「大殿がどのようなお方か存じておられるのであれば、三雲が何者であったかもお分かりかと」
「何者とは…それは如何なる意味か?」
「三雲は大殿が使うていた間者。折をみて若を闇に葬るために送り込まれた刺客でござります」
「佐助が…刺客?」
「はい。それゆえ、もう、あのような者のことはお忘れくだされ」
町野左近はそういうと、未だ騒然としている帷幕の中へ戻っていった。
南北朝時代に建てられたという大河内城。難攻不落といわれた堅固な城だ。この城を落とすため、先鋒として丹羽長秀、稲葉良通、池田恒興の三将が夜討ちをかけたが、雨が降り始めて鉄砲が使えなくなり、逆に敵の襲撃にあって敗走している。
次の手として、滝川勢が大河内城の西にある魔虫谷から石垣を登って城に侵入するという話がでているらしい。
(石垣を登るなどということが、まことにできるのであろうか)
深い谷を登り、更にあの高い石垣を登って城に入るとは敵も味方も想像できない。
(されど、そのあり得ないようなことを成し遂げ、皆が攻めあぐねる敵の城で手柄を立てれば、もう誰にも、何も言われることはなくなる)
詳しい話を聞きたくなり、忠三郎は一益の陣営を訪ねた。
「あ、鶴様」
滝川助九郎が気づいて義太夫を呼びに行く。間もなく出てきた義太夫は、戦場に来ても岐阜の屋敷にいるときと変わらぬ緊張感のなさを漂わせている。
「如何した。殿はあれなる山の麓にある上様本陣。未だ戻られておらぬぞ」
と東側に見える山を指さした。
「魔虫谷から攻め入ると聞いたが、まことか?」
義太夫は、おや、と驚き、
「鶴にしては情報が早いのう。まぁ、まことじゃが、まず、無理じゃろ」
「無理?」
どんな秘策があるのかと思ってきてみれば、始める前から無理とは何とも頼り甲斐のない一番家老だ。
「城の連中は士気が高い上、地の利を得ておる。殿はやる気満々じゃが、どうかのう」
「わしも連れて行ってくれぬか」
「闇雲に何を言い出すかと思えば…。やめておけ、やめておけ。かようなところで功を焦っても…」
「なんとしてもここで手柄をたて、汚名を晴らしたい!わしも共に行く」
いつになく真剣な忠三郎ではあったが、義太夫は取り合わない。
「何もそう焦らずともよいではないか。これからいくらでも手柄を立てることができよう。されど此度はやめたほうがよい」
なんとか宥めようとしているところに、一益が戻って来た。忠三郎は義太夫に背を向け、一益を追いかけた。
「義兄上!いよいよご出陣でござりますな!」
忠三郎は息せき切って帷幕の中に入り、一益に声をかけた。しかし、血気盛んな忠三郎を見た一益は、
「蒲生勢には出陣命令が下りてはおらぬ」
とたしなめようとした。しかしここで諦めるわけにはいかない。
「それがしはここまで来て、日々城を眺めているばかり。一度も敵と対峙したことがありませぬ」
なんとしても滝川勢とともに魔虫谷に向かいたいと訴えた。
そこへ忠三郎を追いかけてきた義太夫が背後から声をかける。
「初陣ゆえ、気負う気持ちも分からぬでもない。されど勝手の分からなぬ不慣れな初陣。敵中深く攻め入るのは危うい。傍にいる家臣どもが気を利かせて敵の首をとってきたら、それを手柄とするものよ」
家臣たちと同じ話をはじめた。忠三郎はたまらず義太夫を睨んだ。
「余人はいざ知らず、この蒲生忠三郎は家臣の手柄を横取りするような小さき器ではない!」
まさしくこれは、家臣たちに言いたかったことだった。義太夫は忠三郎の剣幕に驚き、ちらりと一益を見る。
「魔虫谷から上るのじゃ。ここで待っておれ。城内に入ったら狼煙を挙げるゆえ、総攻撃となるであろう」
一益は静かにそう言うと、それ以上、話そうとはせず、義太夫に何事かを命じている。
ここで一番乗りの手柄を立てようと思っていたのだが。
(やはり許してもらえぬのか)
諦めきれない忠三郎がもの言いたげに一益を見ると、
「鶴。軍規違反は厳しく罰せられる。妙な真似をするでないぞ」
心の内を見透かしたように、釘をさされた。忠三郎は落胆し、とぼとぼと自陣に足を向けた。
(されど、ここで手柄を立てねば…。わしが誰よりも華々しい手柄を立て、我が武勇を示さねば、いつまでも佐助が悪く言われる)
この絶好の機会を諦めるわけにはいかない。
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