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1.日野谷
1-2. 友の正体
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その日以来、晴れた日には佐助はかならず鶴千代を城の外へと連れ出した。佐助は器用で、なんでも一人でこなしてしまう。鶴千代の鐙が壊れれば即座にそれを直し、遠乗りの最中、腹が痛いと言えば即座に薬を取り出し、飲ませてくれた。
「佐助はすべてのことに造詣が深い。おぬしであれば古今東西の兵法にも精通しておるであろう」
そんな話をしたのは、鶴千代自身が武芸を苦手としていたからだ。祖父の蔵書の中には兵法書もあるが、古代に書かれた漢文な上に内容そのものが難しく、興味を持てないものを苦労して解読ことができず、ちらりと目を通しただけで、まともに読んだことがない。
「若はいささか、わしを買い被りすぎで」
佐助は困ったような笑顔を見せた。
「兵法は戦さの基本。武士の子であれば、寺に入り、学ぶことかもしれませぬが、何分、わしは漢文を読むのがあまり得意ではなく…」
佐助が幾分、恥ずかしそうにそう言った。
「わしも未だ、兵法書は読んだことはない。されど、兵法も武芸も、武士であれば当然、学ばねばならぬこと。それは分かっておるが…」
苦手意識があるせいか、どうにも受け付けない。そんな鶴千代に、佐助は思い出したように、
「ひとつだけ、孫子で最も大切ということを学びました」
「孫子か」
孫子は武経七書と呼ばれる兵法書のひとつ。春秋時代に軍師・孫武によって書かれた。日本に渡って来たのは律令時代。戦国の世に至っては、難解な漢文を読み解く武将は多くはなく、そのほとんどは寺にいる僧侶によって伝授され、人から人へと口述で伝えられた。
「最も大切なこととは?」
「怒りはもってまた喜ぶべく、恨みはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず。死者はもってまた生くべからず。故に明君はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり」
怒りは時を置けば収まるもの。恨みも時がたてば、ほぐれ、喜ぶときがくる。しかし滅んでしまった国は再興されず、死者が生き返ることはない。だから良い君主は戦さを慎むべきであり、将は戦うことを戒めるべきである。これが国と兵を安泰にする道である。『兵は国の大事』と説いた孫子はそう締め括られる。
「兵書に戦さをするなと、そう書かれておるのか」
兵法書には必勝法が書かれていると思っていた。
「はい。わしもそれを教えられたときには驚きました」
「それは、寺で?」
「いえ…。存じ折のお方が教えてくだされたこと。それゆえ、若も無理に武芸などをなさらずとも、若は若らしゅう、戦さをせずに国を守ることをお考えいただくことが肝要と存じまする。若はわしなどよりも、余程、聡いお方。必ずやその方法を見つけ出されるものかと」
「佐助。おぬしは…」
いつも、言ってほしいことを言ってくれる。まるで鶴千代の心の声が聞こえているかのように。
「若。今日は日野谷一円を見渡すことのできる、あの丘の上まで参りましょう」
佐助が馬を走らせ、鶴千代も後に続いた。少しずつではあったが、佐助と共に、祖父と父が治める日野谷を見て回ることができるほどまで馬の扱いに慣れてきた。
「お爺様が作られたこの地はどこへいっても美しい」
祖父が十万人もの人を動員して切り開いた日野谷。それほどの人を集めた祖父の力にも驚かされるが、市街戦を想定した町割りの見事さは他家の類を見ない。
「若は大殿のことが余程、お好きなようで」
すでに六十を超え、隠居し、賢秀に家督を譲っているとはいえ、実質、蒲生家を取り仕切っているのは依然として祖父・快幹。一族を束ね、主家である六角氏を牛耳り、南近江の実権を握ろうとしている祖父を、人々は皆、恐れ、神のように称えている。
しかし本丸にいる祖父の姿を見るのは年賀の挨拶を含めても年に数回しかない。言葉を交わすことも稀で、鶴千代にとっては遠い存在だ。
「わしもお爺様のようになれるであろうか」
鶴千代がぽつりとつぶやくと、佐助は笑顔を向け、
「若であれば、大殿を越えるような偉大な領主となりましょう」
本気でそう思っているのだろうか。とてもそうは思えなかったが、嘘にしても嬉しかった。
「されど、若は少し出来すぎなくらいで。もっとこう、童らしくされてもよろしいかと」
「童らしく…とは?」
同年代の子供が傍にいないので、童らしい振る舞いというものが分からない。
祖父に呼ばれ、客人を接待するときも鶴千代は教えられた通り、夜遅くなっても姿勢を崩すこともなく、眠そうなそぶりを見せることもなく、酌を取り、歌を詠み、大人顔負けの立ち居振る舞いで相手を驚かせている。
それは鶴千代にとっては当たり前のことなのだろう。しかし時折、人知れず愁いを帯びた表情を浮かべていることに佐助は気づいていた。
「されどこれは若にお分かりいただくにはちと難しい話で。若が取り繕うこともなく、肩の力を抜いて分かり合えるような、そのような者がおるとよいのですが…」
「おぬしがおるではないか。佐助、おぬしはわしとともにおると、そう申したであろう?命ある限り、どこへでもついてくるというのであれば、分かりあう者とは、おぬしのことではないのか?」
鶴千代がそう言うと、佐助は驚いた顔をして、
「これは…わしのような者には、なんとも勿体ないお言葉。まさしく若の仰せの通りかと」
嬉しそうに笑った。
それからも鶴千代は佐助に連れられ、日野谷を巡った。季節ごとに美しい姿を見せる綿向山に抱かれた日野の地。先祖代々受け継がれてきたこの豊穣な地は春になると田に水が張られ、夏になり、青々とした緑に覆われると、夜には無数のホタルの光が眩しいほどに水田を照らした。そして実りの秋を迎えると一面が黄金色に染まり、その上には数えきれないほど多くのトンボが飛び交った。
「今年も豊作か。皆、喜んでおる。秋の祭りも賑わいを見せよう」
鶴千代が日に照らされた稲穂を見て言う。
「若もすっかり領主らしゅうなられて。若がこの地を愛し、民を愛してくだされば、領民共もきっとその思いに応えてくれましょう。…あ、そうそう。以前、若からお聞きした、信楽院に現れるというご仁のことでありますが…」
「心当たりがあるか?」
「心当たりがなくもない、と言いましょうか。さほどの鉄砲の名手であれば、伊賀か甲賀の者。それも数名のごく限られた者かと。そして追手が甲賀から差し向けられたとすれば…」
「甲賀か。甲賀であれば、佐助。おぬしの知っている者ではないのか」
何気なく、鶴千代がそう言ったのを佐助は聞き逃さなかった。
「若は…わしが何者か、存じておいででしたか」
鶴千代が頷くと、佐助は笑って、
「これは、いささか若を童と思うて甘く見すぎていたようで」
「わしの従兄弟に甲賀の者がおる。おぬしの身のこなしはその者を思い出させる」
佐助が蒲生家譜代の家臣ではなく、従兄弟同様、甲賀の者であることは随分前から分かっていた。
「若は百年前の鈎の陣の話を聞いたことがおありで?」
鈎の陣。甲賀ではそう呼び、幕府は六角征伐と呼んでいる。応仁の乱後に起きた騒乱で、近江守護・六角氏が幕府の権威に逆らい、近江での勢力拡大を進めるのを見た室町幕府が近江に討伐軍を派遣した。尾張の織田、越前の朝倉といった他国からの大軍勢に対し、六角氏は甲賀の山中に逃げ込み、甲賀に住む地侍を味方につけた。甲賀衆は団結し、二度に渡り、幕府軍を追い返した。
「将軍・足利義尚率いる全国から集まった幕府軍を相手に得意の火攻めを展開し、公方に深手を負わせたのでござります。これにより幕府軍は撤退。甲賀を守り、六角家を滅亡の危機から救ったのでござります」
佐助はやや興奮気味に、甲賀衆の活躍を解説する。
「この戦さにより甲賀の名声は広く天下に響き渡り、六角お館の味方についた甲賀の諸家が甲賀五十三家と呼ばれた誉れ高き者たち。若の従兄弟なるお方は甲賀五十三家の一つ、美濃部家のことかと。そして我が三雲家も甲賀五十三家のひとつ。わしは三雲家の庶流に当たる家の出で、お家騒動後、六角お館の命により、蒲生家にお仕えすることとなりました」
「それは…お館様の命で、我が家の動向を探りにきたと…そういうことか」
鶴千代がにわかに悲しげな表情を浮かべる。佐助は慌てて
「さにあらず。…いや、全くそうではないとも言えませぬが…。若に対するわしの忠誠心には一点の曇りもござりませぬ。それゆえにこうして真のことをお話しいたしました」
では祖父は何故、佐助を鶴千代の元に送って来たのだろうか。
(お爺様が考えることであれば…)
すぐにわかった。六角義治の間者である佐助を祖父や父から遠ざけ、他の家臣たちと交流させないためだ。
「何故、そこまで話した?」
「若は聡いお方。わしが嘘を言うたとしてもすぐにお気づきになりましょう。されどどうか、わしを信じてくだされ。わしは若のためであれば、この命も、家も捨てる覚悟がござりまする」
鶴千代はどう判断してよいか、分からなくなる。
(佐助がお館様の間者)
甲賀の者であろうことはうすうす気づいていた。しかし、まさか六角義治のもとから送られた間者であるとは。
鶴千代がなんと言葉を返そうかと思案していると、
「あれは…」
佐助が顔を上げ、遠くを見る。鶴千代もそちらに顔を向けると、城の方角から十騎ほど、こちらに向かってくるのが見えた。
「何事であろうか」
「恐らくは、大殿の命でわしを捕えに来た者ども」
「捕える、とは?」
「大殿は六角家を見捨て、織田に降伏するとお決めになったのでしょう。それゆえ、六角お館の間者であるこのわしを捕えるおつもりかと」
「織田…」
尾張の織田信長。美濃を掌中に治め、北近江の浅井と同盟し、将軍を連れ、軍勢を従えて上洛しようとしている。主家である六角義治はこれに対抗しているという話を聞いていた。しかし、六角義治が居城の観音寺城を捨て、先祖に倣って三雲氏の助けを借り、甲賀に逃れていることは知らなかった。
「万一、織田に引き渡されれば討ち取られよう。佐助、何故逃げぬ?早う逃げよ。おぬしであれば逃げ切れる筈」
鶴千代が慌てて促すが、佐助は首を横に振る。
「蒲生家の家人の手から逃れることは造作もないこと。されど、今、逃げれば、もう二度と若の元に戻ることはできなくなりまする。若の元から離れぬと誓った身、ここで逃げては生涯お仕えすると誓った言葉が嘘となる。わしには何の咎もござりませぬ。大殿の前で堂々と申し開きし、必ずや再び、若の元に戻って参りましょう。それゆえ、そのように悲し気な顔をなさりますな」
「悲し気な顔…」
ああ、そうか、と気づいた。家人たちが大勢この場に来る。暗い顔を見られては家人たちが動揺する。いかなるときも、こんな表情を人にみられてはならない。
鶴千代が努めて明るく笑うと、佐助も鶴千代を安心させようと余裕を見せ、家人に捕らえられて行くときも笑顔を見せた。しかし次の日も、そしてその次の日も、鶴千代の元に現れることはなかった。
「佐助はすべてのことに造詣が深い。おぬしであれば古今東西の兵法にも精通しておるであろう」
そんな話をしたのは、鶴千代自身が武芸を苦手としていたからだ。祖父の蔵書の中には兵法書もあるが、古代に書かれた漢文な上に内容そのものが難しく、興味を持てないものを苦労して解読ことができず、ちらりと目を通しただけで、まともに読んだことがない。
「若はいささか、わしを買い被りすぎで」
佐助は困ったような笑顔を見せた。
「兵法は戦さの基本。武士の子であれば、寺に入り、学ぶことかもしれませぬが、何分、わしは漢文を読むのがあまり得意ではなく…」
佐助が幾分、恥ずかしそうにそう言った。
「わしも未だ、兵法書は読んだことはない。されど、兵法も武芸も、武士であれば当然、学ばねばならぬこと。それは分かっておるが…」
苦手意識があるせいか、どうにも受け付けない。そんな鶴千代に、佐助は思い出したように、
「ひとつだけ、孫子で最も大切ということを学びました」
「孫子か」
孫子は武経七書と呼ばれる兵法書のひとつ。春秋時代に軍師・孫武によって書かれた。日本に渡って来たのは律令時代。戦国の世に至っては、難解な漢文を読み解く武将は多くはなく、そのほとんどは寺にいる僧侶によって伝授され、人から人へと口述で伝えられた。
「最も大切なこととは?」
「怒りはもってまた喜ぶべく、恨みはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず。死者はもってまた生くべからず。故に明君はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり」
怒りは時を置けば収まるもの。恨みも時がたてば、ほぐれ、喜ぶときがくる。しかし滅んでしまった国は再興されず、死者が生き返ることはない。だから良い君主は戦さを慎むべきであり、将は戦うことを戒めるべきである。これが国と兵を安泰にする道である。『兵は国の大事』と説いた孫子はそう締め括られる。
「兵書に戦さをするなと、そう書かれておるのか」
兵法書には必勝法が書かれていると思っていた。
「はい。わしもそれを教えられたときには驚きました」
「それは、寺で?」
「いえ…。存じ折のお方が教えてくだされたこと。それゆえ、若も無理に武芸などをなさらずとも、若は若らしゅう、戦さをせずに国を守ることをお考えいただくことが肝要と存じまする。若はわしなどよりも、余程、聡いお方。必ずやその方法を見つけ出されるものかと」
「佐助。おぬしは…」
いつも、言ってほしいことを言ってくれる。まるで鶴千代の心の声が聞こえているかのように。
「若。今日は日野谷一円を見渡すことのできる、あの丘の上まで参りましょう」
佐助が馬を走らせ、鶴千代も後に続いた。少しずつではあったが、佐助と共に、祖父と父が治める日野谷を見て回ることができるほどまで馬の扱いに慣れてきた。
「お爺様が作られたこの地はどこへいっても美しい」
祖父が十万人もの人を動員して切り開いた日野谷。それほどの人を集めた祖父の力にも驚かされるが、市街戦を想定した町割りの見事さは他家の類を見ない。
「若は大殿のことが余程、お好きなようで」
すでに六十を超え、隠居し、賢秀に家督を譲っているとはいえ、実質、蒲生家を取り仕切っているのは依然として祖父・快幹。一族を束ね、主家である六角氏を牛耳り、南近江の実権を握ろうとしている祖父を、人々は皆、恐れ、神のように称えている。
しかし本丸にいる祖父の姿を見るのは年賀の挨拶を含めても年に数回しかない。言葉を交わすことも稀で、鶴千代にとっては遠い存在だ。
「わしもお爺様のようになれるであろうか」
鶴千代がぽつりとつぶやくと、佐助は笑顔を向け、
「若であれば、大殿を越えるような偉大な領主となりましょう」
本気でそう思っているのだろうか。とてもそうは思えなかったが、嘘にしても嬉しかった。
「されど、若は少し出来すぎなくらいで。もっとこう、童らしくされてもよろしいかと」
「童らしく…とは?」
同年代の子供が傍にいないので、童らしい振る舞いというものが分からない。
祖父に呼ばれ、客人を接待するときも鶴千代は教えられた通り、夜遅くなっても姿勢を崩すこともなく、眠そうなそぶりを見せることもなく、酌を取り、歌を詠み、大人顔負けの立ち居振る舞いで相手を驚かせている。
それは鶴千代にとっては当たり前のことなのだろう。しかし時折、人知れず愁いを帯びた表情を浮かべていることに佐助は気づいていた。
「されどこれは若にお分かりいただくにはちと難しい話で。若が取り繕うこともなく、肩の力を抜いて分かり合えるような、そのような者がおるとよいのですが…」
「おぬしがおるではないか。佐助、おぬしはわしとともにおると、そう申したであろう?命ある限り、どこへでもついてくるというのであれば、分かりあう者とは、おぬしのことではないのか?」
鶴千代がそう言うと、佐助は驚いた顔をして、
「これは…わしのような者には、なんとも勿体ないお言葉。まさしく若の仰せの通りかと」
嬉しそうに笑った。
それからも鶴千代は佐助に連れられ、日野谷を巡った。季節ごとに美しい姿を見せる綿向山に抱かれた日野の地。先祖代々受け継がれてきたこの豊穣な地は春になると田に水が張られ、夏になり、青々とした緑に覆われると、夜には無数のホタルの光が眩しいほどに水田を照らした。そして実りの秋を迎えると一面が黄金色に染まり、その上には数えきれないほど多くのトンボが飛び交った。
「今年も豊作か。皆、喜んでおる。秋の祭りも賑わいを見せよう」
鶴千代が日に照らされた稲穂を見て言う。
「若もすっかり領主らしゅうなられて。若がこの地を愛し、民を愛してくだされば、領民共もきっとその思いに応えてくれましょう。…あ、そうそう。以前、若からお聞きした、信楽院に現れるというご仁のことでありますが…」
「心当たりがあるか?」
「心当たりがなくもない、と言いましょうか。さほどの鉄砲の名手であれば、伊賀か甲賀の者。それも数名のごく限られた者かと。そして追手が甲賀から差し向けられたとすれば…」
「甲賀か。甲賀であれば、佐助。おぬしの知っている者ではないのか」
何気なく、鶴千代がそう言ったのを佐助は聞き逃さなかった。
「若は…わしが何者か、存じておいででしたか」
鶴千代が頷くと、佐助は笑って、
「これは、いささか若を童と思うて甘く見すぎていたようで」
「わしの従兄弟に甲賀の者がおる。おぬしの身のこなしはその者を思い出させる」
佐助が蒲生家譜代の家臣ではなく、従兄弟同様、甲賀の者であることは随分前から分かっていた。
「若は百年前の鈎の陣の話を聞いたことがおありで?」
鈎の陣。甲賀ではそう呼び、幕府は六角征伐と呼んでいる。応仁の乱後に起きた騒乱で、近江守護・六角氏が幕府の権威に逆らい、近江での勢力拡大を進めるのを見た室町幕府が近江に討伐軍を派遣した。尾張の織田、越前の朝倉といった他国からの大軍勢に対し、六角氏は甲賀の山中に逃げ込み、甲賀に住む地侍を味方につけた。甲賀衆は団結し、二度に渡り、幕府軍を追い返した。
「将軍・足利義尚率いる全国から集まった幕府軍を相手に得意の火攻めを展開し、公方に深手を負わせたのでござります。これにより幕府軍は撤退。甲賀を守り、六角家を滅亡の危機から救ったのでござります」
佐助はやや興奮気味に、甲賀衆の活躍を解説する。
「この戦さにより甲賀の名声は広く天下に響き渡り、六角お館の味方についた甲賀の諸家が甲賀五十三家と呼ばれた誉れ高き者たち。若の従兄弟なるお方は甲賀五十三家の一つ、美濃部家のことかと。そして我が三雲家も甲賀五十三家のひとつ。わしは三雲家の庶流に当たる家の出で、お家騒動後、六角お館の命により、蒲生家にお仕えすることとなりました」
「それは…お館様の命で、我が家の動向を探りにきたと…そういうことか」
鶴千代がにわかに悲しげな表情を浮かべる。佐助は慌てて
「さにあらず。…いや、全くそうではないとも言えませぬが…。若に対するわしの忠誠心には一点の曇りもござりませぬ。それゆえにこうして真のことをお話しいたしました」
では祖父は何故、佐助を鶴千代の元に送って来たのだろうか。
(お爺様が考えることであれば…)
すぐにわかった。六角義治の間者である佐助を祖父や父から遠ざけ、他の家臣たちと交流させないためだ。
「何故、そこまで話した?」
「若は聡いお方。わしが嘘を言うたとしてもすぐにお気づきになりましょう。されどどうか、わしを信じてくだされ。わしは若のためであれば、この命も、家も捨てる覚悟がござりまする」
鶴千代はどう判断してよいか、分からなくなる。
(佐助がお館様の間者)
甲賀の者であろうことはうすうす気づいていた。しかし、まさか六角義治のもとから送られた間者であるとは。
鶴千代がなんと言葉を返そうかと思案していると、
「あれは…」
佐助が顔を上げ、遠くを見る。鶴千代もそちらに顔を向けると、城の方角から十騎ほど、こちらに向かってくるのが見えた。
「何事であろうか」
「恐らくは、大殿の命でわしを捕えに来た者ども」
「捕える、とは?」
「大殿は六角家を見捨て、織田に降伏するとお決めになったのでしょう。それゆえ、六角お館の間者であるこのわしを捕えるおつもりかと」
「織田…」
尾張の織田信長。美濃を掌中に治め、北近江の浅井と同盟し、将軍を連れ、軍勢を従えて上洛しようとしている。主家である六角義治はこれに対抗しているという話を聞いていた。しかし、六角義治が居城の観音寺城を捨て、先祖に倣って三雲氏の助けを借り、甲賀に逃れていることは知らなかった。
「万一、織田に引き渡されれば討ち取られよう。佐助、何故逃げぬ?早う逃げよ。おぬしであれば逃げ切れる筈」
鶴千代が慌てて促すが、佐助は首を横に振る。
「蒲生家の家人の手から逃れることは造作もないこと。されど、今、逃げれば、もう二度と若の元に戻ることはできなくなりまする。若の元から離れぬと誓った身、ここで逃げては生涯お仕えすると誓った言葉が嘘となる。わしには何の咎もござりませぬ。大殿の前で堂々と申し開きし、必ずや再び、若の元に戻って参りましょう。それゆえ、そのように悲し気な顔をなさりますな」
「悲し気な顔…」
ああ、そうか、と気づいた。家人たちが大勢この場に来る。暗い顔を見られては家人たちが動揺する。いかなるときも、こんな表情を人にみられてはならない。
鶴千代が努めて明るく笑うと、佐助も鶴千代を安心させようと余裕を見せ、家人に捕らえられて行くときも笑顔を見せた。しかし次の日も、そしてその次の日も、鶴千代の元に現れることはなかった。
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