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木曽路にて

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 木曾路にて

 おそろしや 木曽のかけ路の丸木橋
   ふみ見るたびに 落ちぬべきかな

 天正十年六月。
古来より信濃と飛騨を結ぶ険しい飛騨道を、松本から木曾谷へ向けて、疲れ果てた様子の軍勢が行軍している。
「疲れたのう」
 年のころ二十五・六くらいの馬上の武者がそう言う。
「疲れました」
 後に従う武者が言う。こちらは主よりも十歳ほど年上に見える。
「腹が減ったのう」
「腹が減りました」
 昨夜から何も食べていない。朝早く松本を出てから休むことなく山道を歩き通しで、馬も兵も疲労困憊している。
「殿。木曾谷が見えて参りましたぞ」
「おお、まことか」
 殿と呼ばれたのは織田家の武将、森武蔵守長可。鬼神のような猛者ぶりから、鬼武蔵の異名をもつ。
「小次郎。木曾で何か馳走してもらおう」
 眼下に広がる木曾谷を見下ろしてそう言う。
「なるほど、それはよきお考え」
 小次郎と呼ばれたのは、森家の重臣、林小次郎。これも主に劣らぬ猛将ぶりで天下に名をはせている。
「では木曽福島城の木曾伊予守に使者を送りましょう」
「おお…いや、待て」
 長可が小次郎を止める。前方を見ると、先に行かせた密偵が走ってくる。
「殿、一大事!。木曾の木曾伊予守が東美濃の遠山右衛門と謀って殿を密かに亡きものにしようとしております」
 先日、北陸遠征中の長可の元に、本能寺で主君の織田信長が討たれたという悲報が届いた。本能寺にいた長可の弟三人も信長に殉じた。

 長可は主君と弟たちの仇を討つため、越後から本領の美濃兼山を目指してひた走りに走って、ようやく飛騨道まで引き返してきた。
「主君の仇討ちという大儀があるに、何故に邪魔だてするのかのう」
 木曾伊予守と遠山右衛門はともに旧武田家臣だが、織田家に寝返り、恭順したはずだ。
「小癪な。討ち果たしましょう」
 林小次郎が怒ってそう言う。長可は、待て待てと言い、
「二人だけではあるまい。他の国人衆も束になってかかってくるやもしれぬ」
「う~ん。つまらん…」

 ここ信濃はつい数か月前まで武田領だった。
信長の要請により王親町天皇から武田征伐の勅命が発せられ、織田家の先鋒が甲斐に入ったのはこの二月のことで、その時、木曾伊予守と遠山右衛門は長可とともに先鋒を務めた。
信濃の武田軍は織田の大軍を前に次々に戦闘を放棄して降伏した。武田が滅び、信濃・甲斐が織田家の領土となったのが三月なので、それからまだ三か月しかたっていない。
 しかし信長の威光がなくなった今、周り中が敵だと思ったほうがいい。長可はそう判断し、武田攻めで信長から与えられた信濃の領地二十万石を捨てて美濃兼山まで戻ることにした。
「疲れた…ここで一休みする。木曾には明日、城で休ませろと伝えよ」
「明日…でござるか」
 小次郎が聞き返した。このまま進めば、今日の夜には木曾に到着するはずだが。
長可は頷いて、
「皆、休め。腹も減った。誰ぞ、兎でも鹿でも取って参れ」
 と早々に愛馬百段から降りて、手綱を引いていく。
「ここは穏便に行くのじゃ」
「穏便とは。これはまた殿らしゅうない」
 林小次郎が目を丸くする。穏便という言葉がこれほど似合わない武将もいない。
長可は笑って、
「このような山中で国人衆を敵に回すのは分が悪い。平和裏に事を運ぼう」
「平和裏?暴れるのではなく?泣く子も黙る鬼武蔵からそのような言葉を聞こうとは…。して、どのように?」
 長可が手招きして、小次郎に何か耳打ちする。

 山道で小休止した森勢は、その日の夜半に山を登り、木曽福島城についた。木曾福島城は木曽川に面した山岳に建てられた山城だ。
 一帯が森林になっており、伏兵を配備しながら城門までたどり着いた。
「皆、寝静まっておる様子」
 林小次郎が小声でそう言う。長可は頷き、
「城門を開けよ」
 と顎をしゃくった。
 当然、城門は堅く閉ざされているので開かない。小次郎が心得て足軽たちに破城槌を運ばせる。
破城槌は攻城のときに用いられる破城器で、城門を突き破るために、車輪の上に木の板に囲まれた丸太が乗せられている。
足軽たちが破城槌を何度も城門へ叩きつける。木曾谷中に響くような激しい音が続き、門が破られた。
静まり返っていた城内が騒がしくなり、轟音に驚いた家老が飛び出してきた。
「これは、森殿?なんと乱暴なことを…ご到着は明日と聞き及んでおりましたが」
「思うたよりも早く着いた」
「はぁ…」
 だからといって城門を壊すとは。
「皆、疲れておるゆえ、休ませてくれ」
 兵を率いて強引に城内に入っていく。
「森殿!しばしお待ちを!」
 呼び止める家老を尻目に、ずかずかと城門をくぐり、曲輪へ入っていく。
 兵たちがあちこちを物色している間に、長可は広間に行き、竹筒から水を飲み、手足を伸ばして疲れを癒していた。
 やがて家老に起こされた木曾河内守が家臣たちを伴って慌てた様子で姿を現した。
「森殿。ご到着は明日では…」
「夜分、すまんのう。ちと早めに木曾についたのじゃ。少し休ませてもらう」
 長可が足を投げ出したままそう言うと、侍女が湯呑をもって目の前に置く。
「さ、然様か。まずは茶でも如何じゃ」
 木曾河内守がそう言って進めてくる。長可は河内守の顔を見て、湯呑を見る。すると、
「殿!おられましたぞ!」
 と林小次郎が子供を連れて入ってきた。
「おお、来たか、来たか」
 長可が上機嫌で子供を見ると、木曾河内守が仰天した。
「岩松丸!こ、これは?」
 当年六歳の木曾河内守の嫡男、岩松丸が眠そうに眼をこすっている。
「よい子じゃ、よい子じゃ!実に利発そうな子じゃ!岩松丸というのか。ほれ、茶を飲め」
 と長可が湯呑を岩松丸に持たせようとする。
 岩松丸が言われるままに頷き、湯呑を手に取ろうすると、木曾河内守が先ほどよりも更に顔色を変えてそれを制する。
「それは!お待ちを!それには…それには及ばぬ。…夜中ゆえ、あまり飲むと、その、よろしくない」
 長可は、ほぉと言って湯呑を置く。
「父上が飲むなと言うておるぞ」
「?はい」
 岩松丸が不思議そうな顔で頷いた。
(何じゃ。やはり毒入りか。わかりやすい奴)
 おかしくなって嘲笑った。
「まぁ、よいわ。木曾殿。わしには男子がない。それゆえ、この子を今からわしの養子とする」
 岩松丸が驚いて長可の顔をみる。
 木曾河内守も何のことだという顔をして長可を見る。
 そこへ林小次郎が近づき、あらかじめ用意していた縄で岩松丸を縛り上げた。
「痛…あ、あの、父上!」
 岩松丸が父に助けを求める。木曾河内守は大きく取り乱し、
「し、しばしお待ちを。岩松丸は我が家の嫡子なれば…」
 河内守と家臣たちが立ち上がり、青くなって留めようとするので、長可は刀を抜いて岩松丸の首元に突き付けた。
 岩松丸が怯えた目で長可を見る。
「何をなされる?」
「長々と木曾殿にご迷惑をおかけするわけにもいくまい。我らは去らせていただこう。小童、参るぞ」
「参る、とは何処へ?」
 岩松丸が目を丸くして尋ねると、長可は得意そうな顔になり
「無論、兼山じゃ。今日から兼山に住むのじゃ」
「いやじゃ!行きとうない!」
 岩松丸が縛られたまま騒ぎ出す。
「ほれ。そう騒ぐな」
 小次郎は気にも留めないように騒ぐ岩松丸を担ぎ上げた。
「くれぐれも岩松丸に怪我をさせることのなきようにな」
 長可が立ち上がって、居並ぶ木曾の家来衆を見回した。
「さぁ、さぁ、わしは鬼武蔵じゃ。それゆえ、そなたは今日から鬼松丸じゃ!」
「わしは鬼小次郎でござる」
 城中の兵士が大挙して押し寄せ、手ぐすね引いて見守る中、二人が大笑いしながら、そう言って本丸を後にする。
 城門をくぐると、クルリと振り返り、
「国人衆にもお伝えくだされ。ゆめゆめ鬼松丸に怪我をさせるようなことなきよう」
 そう言って木曾福島城を後にした。

 岩松丸を人質に取ったことで、木曾河内守は信濃の国人衆に、こころならずも森長可に手出しをしないようにと頼み込んで回る羽目になった。
「平和裏に運んだじゃろう?」
 長可が言うと、
「まこと、珍しいことに平和裏に運びました。さすがは殿」
 小次郎が笑った。
 長可一行は美濃と信濃の国境、木曽路をひたすら西に向かっていく。途中、馬から降りなければ通れない道に差し掛かり、皆、手綱を引きながら歩いた。
 険しい山道に難所が続き、岩松丸の歩みがだんだんと遅くなる。
「鬼松、しかと歩け。この辺りは日が暮れると山姥が現れて食い殺されるぞ」
「山姥?」
 軽く脅すと、岩松丸が怯えた顔をして歩き出す。が、またしばらくすると岩松丸の歩みが遅くなる。そうこうしているうちに日が暮れ、辺りが暗くなってきた。
「だから言うたじゃろう。こんな森の中ではまことに山姥が沸いてくるわい」
「もう歩けぬ…山姥が来ても歩けぬ」
 岩松丸が半泣きになってそういう。
 仕方なく、薪に火をつけ車座になって座ると、足軽たちが取ってきた鹿をさばいて、焼いて食べることにした。
「うまい!鬼松、食え、食え」
 朝から食べていない。長可はパクパクと鹿肉を口に放り込む。
「どうした、鬼松?腹が減ったろう?」
 岩松丸が食べようとしないので、長可が声をかけると、
「食えぬ…」
 眉をしかめて、しり込みした。
「殿…これはまだ生焼けでござりましょう。腹を下しまする」
 小次郎もさすがにこれはと思い、そう言う。
 しかも慣れない者がさばいたせいか、血抜きが十分ではなく、挙句に強烈な匂いがする。
 これでは幼い子供だけではなく、大人であっても食あたりを起こすだろう。
 ところが長可はそんな二人を気にするそぶりもなく、
「小さいことを気にするな。ほれ、鬼松、食え」
 と口元に鹿肉を突きつけ、半ば強引に食べさせた。岩松丸が目に涙を浮かべて必死に鹿肉を飲み込む。
「うまいじゃろう」
「…ウッ…」
 喉につかえているようだ。長可は竹筒を渡し、
「なんじゃ、慌てて食うほど腹が減っておったのか。遠慮するな。しっかり噛んで、もっと食え」
 岩松丸が渡された竹筒を手に取り、水を飲んで鹿肉を流し込む。
「ほれ、まだ仰山ある」
 焚火から鹿肉が刺さった串を取り、岩松丸に渡した。
「もう食えぬ」
 岩松丸がかぶりを振ってそう言う。
「嘘をつけ。もっと食え。大きゅうなれぬぞ」
 長可がまた、強引に岩松丸に鹿肉を押し付ける。岩松丸はしかたがなく、息を止めて鹿肉に被りつき、飲み込んだ。
「そう慌てて食うな。腹を下すぞ」
「殿…腹を下すのは慌てて食うからではなく…」
 小次郎が呆れてそう言おうとしてやめた。どういっても長可には伝わらないだろう。
「明日には大井につくじゃろう」
 大井宿まで行けば、そこはもう美濃だ。兼山まであと一歩のところまで行くことができる。
 長可が信長から信濃の領地を与えられたとき、兼山五万石は弟の乱丸に与えられた。
「あやつ、城主になったというに、一度も兼山に戻らなかったのう」
 ふと思い出してそうつぶやいた。
「まこと、生者必滅とは申せども、無念でござります」
 乱丸のことだと気づき、林小平次が口惜しそうに言う。
 乱丸は兼山に領地を与えられてからも、信長に付き従って安土へ、そして京に行った。
長可は城を空にするわけにもいかず、森家の重臣、各務兵庫を城代に置いている。
 見ると、岩松丸が疲れ果てて草の上で眠っていた。
「よう眠っておる。童は何の憂いもなく、気ままでよいのう」
 長可が鼻先で笑った。
 安土城にいたはずの母と末弟の仙千代は無事だろうか。
 京で信長が討たれた翌日、安土城の留守を預かっていた蒲生賢秀は、さっさと安土城を捨てて信長の妻子を連れ、居城の日野中野城まで引き上げたと聞いている。家臣の家族までは連れて行かなかったろう。
(よりにもよって留守居があいつの親父殿ではな)
 蒲生賢秀は戦というと急に病いを発症するという評判の臆病者で、しかも賢秀の嫡男、忠三郎は長可とは犬猿の仲だ。
「明智の大軍が押し寄せれば、日野の小城など、一溜りもないじゃろう」
「安土付近の南江衆は皆、明智方についたとか。蒲生も諦めて降伏するやもしれませぬ」
「そうなれば南近江も敵だらけか」
 兼山まで戻れば、北近江に兵を進めることができる。母と仙千代の消息もつかめるかもしれない。
 ぼんやりと木曾の夜空を眺めながら、この先のことを考えていると、いつのまにか眠りこけていた。
「殿!殿!起きてくだされ」
 ふいに声がして、目が覚めた。見ると東美濃に偵察に送っていた間諜が戻っていた。
 長可は飛び起きて、
「兼山は無事か」
「はい。しかし、東美濃の遠山右衛門と国人どもが殿のお命を狙うて兵をあげたという話で」
「ふん。敵なすものども、残らず踏みつぶしてくれるわ」
 長可は怒りをあらわにする。
「殿。この先、山を下りたあたりに伏兵がおるやもしれませぬぞ」
「大井まで無事たどり着かねば…。小次郎、出立いたすぞ。小童を起こせ。またひと暴れせねばならぬ」
 まだ夜も明けぬうちから、兵馬を叩き起こした。みな、何事が起きたかと眠そうに眼をこすっている。
 小次郎が兵たちに一声かけ、先に行こうとすると、長可がそれを留めた。
「待て。その道を行くな」
「は?では…、また、例のあれをやるので?」
「そうじゃ。伏兵がおるやもしれぬ。馬から降りて、崖を下り、森の中を進むのじゃ」
「ハハッ」
 どこからともなく、またか、という声がして、心得たものたちが馬から降りて背中に槍をかかえる。
 月明かりの中、岩をつかみ、一歩一歩崖をくだっていく。
 これまで攻略してきた東美濃・信濃は山城ばかりだった。他の織田の武将たちとともに山道を使っていては一番乗りができない。
 長可は一番乗りするために、軍規を無視して我先にと兵を進め、崖を登ったり下りたりと、度々こんな無茶なことをしてきた。このため皆、いまやすっかり慣れて、黙々とつき従ってくる。
 長可の愛馬百段も、心得ていて、誰よりも早く崖を駆け下りた。
岩松丸だけは、怯えた顔で崖下を見て立ちすくんでいた。
「如何いたした、鬼松。恐ろしいか」
 岩松丸は返事をしない。一歩踏み出そうとしては、怯えて前に出した足を引っ込める。
「おい。小童に手を貸してやれ。大事な人質…ではなく養子じゃからな」
「ハッ」
 怯える岩松丸に小次郎が手を差し伸べる。
「早う兼山に戻り、小癪な者どもを血祭りにあげねば…」
「遠山右衛門のところに鉄砲名人という噂の兄弟がおり、殿のお命を狙うておるとのうわさにて」
「ほぉ。それは楽しみじゃのう」
 長可が笑いながら崖を下りる。見上げると岩松丸が震える手で岩を掴み、ゆっくりと降りてくるのが見える。
「鬼松、あんな山の上に住んでいながら、岩肌を下るのははじめてか」
「はじめてじゃ」
「わしといれば、こんなことは何とも思わなくなるぞ」
 岩松丸は怯えながらも必死になってついてくる。
 末弟の仙千代ならば、もっと喜んでついてきそうだ。
(あやつも命拾いしたな)
 仙千代は兄弟の中でも気性が荒い。
 弟たち四人全員、信長の前に召しだされたが、仙千代は小姓仲間と諍いになったときに鉄扇で相手の頭を何度も激しく殴打し、大けがをさせた。
 事件を知った信長が呆れて、仙千代にはまだ早い…と連れ歩くのをやめ、母とともに安土に留め置かれることになった。その一件がなければ、他の三人と本能寺で運命を共にしていただろう。
(あやつならば、きっとどこかで生き残っている)
 安土から脱出して、どこかで生きているような気がする。

 その日も森の中で一夜を明かすことになった。
 どのくらい眠ったか、ふと目が覚めて何気なく目をやると、岩松丸の姿がない。
 見ると、不寝番が眠りこけている。
(逃げられた…)
 刀を掴んで辺りを見回した。
 森の中へ入って、少し歩くと、岩松丸らしき人影が月明りに照らされて見えた。
何かに怯えた様子で立ちすくんでいる。
(何かいるのか)
 木々の生い茂る暗闇を見て怯えているようだ。
 じっと息を殺して目を凝らしてみる。
「あれは…」
 暗闇の中に何かがいる。うろうろと岩松丸を窺っているようだ。
(山犬(ニホンオオカミ)か…)
 そっと音をたてないように刀を抜いた。
暗闇から一頭が岩松丸に飛び掛かってきた。
「伏せろ!」
 長可が飛び出て、岩松丸を後ろに庇い、刀を振り下ろして、山犬の首を落とした。
「こんな山中を一人で逃げられると思うたか!」
 続いて二頭が襲い掛かってくる。長可が一歩踏み込み、一頭の胴を斬り、返す刀でもう一頭を斬ると、さらに二頭が後ろから襲ってきたので、振り向きざまに二頭を斬った。
 さらに襲ってくるかと思われた一頭が、森の中に逃げていく。
「みな、毛皮にしてくれよう」
 長可は岩松丸を小脇に抱えると、逃げる山犬の後を追った。いつのまにか夜が明け始めている。
 しばらく後を追うと険しい岩肌に出て、見失った。
「何処へ参った」
「あちらに…」
 岩松丸が指をさす。
「あれは…」
 腰をかがめ、そっと近づいていく。
「巣穴ではないか」
 斜面に巣穴が掘られ、逃げていった山犬と
山犬の子供が数匹、見て取れた。
「でかしたぞ、鬼松」
 と長可が刀を抜いて立ち上がろうとすると、岩松丸が長可の袖を引いた。
「何じゃ?」
「まだ子供…逃がしてやっては?」
「何を申すか。あれらを皆、毛皮に…」
 毛皮にして売ろう、と言いかけたとき、数匹の山犬の子供たちがじゃれ合っている姿が目に映った。
 長可が急に黙り込んだので、岩松丸が不思議そうな顔で長可を見る。
「鬼武蔵殿?」
「あやつも六人兄弟か」
「あやつも?」
「まぁ、よいわ。あの大きさでは大した毛皮も取れまい。その代わり…もう逃げるな」
 長可は刀を収めると、岩松丸を抱えて森の中を歩きだした。あたりはすっかり明るくなってきている。

 なんとか木曾の山を下り、大井宿が見えてきたときにはもう夕暮れ近かった。
「ついに大井までたどり着きましたなあ」
 林小平次がため息交じりにそう言う。
「おぉ。追手は現れなかったようじゃ。急ぎ兼山目指そう」
 長可は百段に飛び乗り、ふと、振り返って、ともにいる岩松丸を見た。
「鬼松、大儀であったな。もう帰ってよいぞ」
 と一声かけると、兼山目指して走り出した。
「あ、殿…やれやれ、致し方なし」
 林小平次は、兵を一人つけて、岩松丸を木曽福島まで送り届けることにした。
「そなたは運がいい。鬼武蔵が人質を黙って放つなど、早々ないことじゃ」
 小平次の言葉に、岩松丸は驚いて長可が去っていく後姿を見た。
 長可は振り返らない。真っすぐ前に向かって走っていく。
 目指す兼山まではあと九里だ。
 

 
 
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