上 下
19 / 25

第19話 サイン会

しおりを挟む
 前橋駅からそれほど遠くない繁華街の一角に、そのレコード店はあった。秋葉原や新宿にあるようなレコードショップとは比べものにならないくらい小さい店構えであったが、脇の駐車場はかなり広くて、そこにサイン会の用意がされており、テントやテーブルが準備されていた。開始までまだ二時間以上あるが、すでにチケットを持ったファンが歩道に沿って並び始めている。
 りんたろーは、セシル、カスミ、真理といっしょに列に並んだ。
 ブレタムはちょっと離れた場所から俯瞰的に周囲を観察していて、サイン会とは関係なく勇者に接触できそうな場合、こちらにコールしてもらうようにしている。

 十二月の前橋の朝はやはりかなり寒い。カスミはりんたろーに後ろから抱き付きながら
コートのポケットに遠慮なく手を突っ込んで暖を取っている。真理とセシルがそれを恨めし気に眺めていたので、コートのポケットは二人に譲り、カスミはりんたろーの前に立って、彼のズボンの前ポケットに両手を入れた。

「うひゃー。冷たい、冷たいって、カス姉。そんな際どい所に手を入れないでよ。
 大事なところが冷えちゃうよー」
「えー、男の人って、ここ冷やしたほうがいいんじゃなかったっけ?」
 そう言いながら、カスミがポケットの中で無理やり手先を伸ばして、りんたろーの大事なところに迫ってくる。
 その様子を真理とセシルが、また恨めし気に見ていたので、カスミがこう言い放った。
「いや、さすがにここは……幼なじみ特権?」
「そんな事、ある訳ないでしょ!」
 りんたろーに叱られて、カスミはしぶしぶ手を止めた。

 やがて会場の準備もはじまり、ファンの列もかなり長くなってきた。
「うわー、何人くらい並びましたかね?」セシルが聞くので、りんたろーが答える。
「午前・午後とも、各百人だったかな……ほんと、よく四枚もチケットをゲット出来たよね、カス姉。何人くらい動員したのさ?」
「はは、三万人位? いや、ウソウソ……でも、そのくらいはいくかも……お礼に、あんたが撮ったメメルの際どいショットを参加者全員に送ったんだ……だから、もう、私……お嫁にいけない! りんたろー、貰って!」
「はいはい……そのうち考えておきますね」りんたろーが素気ない返事を返すのを目の当たりにして、真理は、なんだかカスミが可哀そうになってしまった。

 いよいよサイン会の時間が近づいた。ブレタムとはマメに連絡しあっているが、勇者が近づいてきたような気配は見受けられないらしい。どうしたんだろう。遅れるのかな? 
 そう思っていたら、スピーカーから音声が流れた。

「皆さん。お待たせいたしました。これから郷土が誇るミュージシャン、マホガニーのセシルさんのサイン即売会を始めます!」
 周囲から歓声があがった。
 あれ。勇者が、レコード店の通用口から出てきた。いつの間に店に入ってたんだ? というか、そうか。前の晩から入っていたのか!
 
 勇者がテントのところまで来て、マイクを手にして語りだした。
「あー、みんな。今日はわざわざありがとう。このレコード屋で、俺は昔バイトしてたんだ。まあ、こうしてメジャーになる夢がかなった訳だけど、ここの経験なしでは今の俺は無かったんだ。
 なので今、すっごい誇らしいんだ。みんなにもその気持ちを分けてやるよ!」

 サイン会が始まり、列の前から順番に、その場でCDを購入し、それにサインを書いてもらう。そして、当然のように、みんな握手もしてもらう。
 セシルが、今にも勇者に向かって走りだすのではないかと気が気ではないが、なんとかこらえているようだった。そして三十分くらいたって、ようやくセシルの番になった。
 りんたろー達三人は、セシルの後ろに並んで壁を形成し、勇者とセシルのやり取りが後ろから分かりにくいようにした。

「……」
 勇者は、セシルが差し出したCDに、何も言わずサインをしている。
 そして、セシルが差し出した右手を勇者が握って握手した瞬間! 
 彼女がその手を両手でしっかりつかんで叫んだ。

「勇者様! もはや忘れたとは言わせません! なぜ私を置いて行かれたのですか!」
 セシルが両手でしっかり勇者の手を握っているため、勇者も身動きできない。
「おい、何やってんだ! 後ろがつかえてんだぞ!」
 後列から怒声が上がったが、カスミが、にらみながら怒鳴りつけた。
「取込み中だ! ちょっと待ってろ!」
 列の後ろが騒然としてきた。
 姫様、早く勇者とお話を……りんたろーも二人のやりとりを見守る。

「……馬鹿が……ほんとに来ちまったのか……」
 小声だったが勇者がそう言ったのを、りんたろーは確かに聞いた。
 次の瞬間、勇者が大声で叫んだ。

「おい、スタッフ。この女、ストーカーだ。追い出してくれ!」
 その声に、周りにいた警備員がセシルを拘束し、店の裏の方に連れていってしまった。
「卑怯者! ちゃんと弁明しなさい! あなたの言った事は嘘だったのですか!」

 セシルの叫びだけが、駐車場に響いた。
 勇者がりんたろーの方を見て言った。
「おい、そこのお前……お前、長野で車の前に飛び出した奴だな? あいつの仲間か? 警察呼ばれたくないならサッサと立ち去れ」

 りんたろーは怒りに我を忘れ、勇者に殴りかかろうとしたが、真理が必死に止めた。
「だめよりんたろーさん。これ以上騒ぎを大きくしたら、警察沙汰になっちゃう!」
 真理の制止で、りんたろーは振り上げたこぶしを収め、勇者の前を立ち去ろうとしたその時、「ほら、忘れ物だ……」勇者が、サイン入りのCDをりんたろーに投げつけてきた。いまさらとは思ったが、真理がそれを拾い、一同はその場を離れた。

 その後、店と警備の人に全力で頭をさげ、なんとかセシルも許してもらって、警察沙汰は回避できたが、セシルは涙でぐしょぐしょだった。
 ブレタムも合流し、みんなでその場を離れ、一旦、国道沿いのファミレスで休憩する事にした。

「それにしても、あんな薄情なのが勇者だなんて……ほんとに本物だったの?」
 カスミがセシルに問うが、セシルはほとんど呆けてしまっていて反応がない。
「間違いないよ。僕、聞いたんだ。あの人が、『本当に来ちまったのか』って小声でつぶやいてるの」りんたろーの発言に、真理も同意した。彼女にも聞こえたのだろう。
「だとすると、本当に脈無しですね、姫様も、これであきらめがつきましょう。
 落ち着いたら、あちらに帰る算段をしましょう」
とブレタムが言うと、急にセシルが怒鳴りだした。
「何を言ってるの! 私は信じない! 絶対に何か理由があるはずです。それが分からない限り、私は帰りません!」
「姫様……」ブレタムは困った顔でセシルを見つめ、他の者も事ここに至っては、あきらめるしかないのではないかとも思うが、今のセシルには届かないだろう。

 今少し落ち着いてからあらためて話し合おうという事になり、一同は帰宅の途についたのだった。

 ◇◇◇

 前橋から戻って数日後。
 冬コミが始まり、りんたろーとカスミは、真理やマホミンとともに、コスプレ参加している。りんたろーは、今の姫様の心情を思うと全くお祭りを楽しむ気分ではないのだが、それはカスミも真理も同じだった。しかしカスミはメジャーなレイヤーとしてファンの気持ちに応えるべく、いつになく張り切って見せているようにも思える。

「そうにゃのか……そんなに落ち込んでるにゃ……。でも、それなら仕方ないにゃ。年が明けたら、あたいらといっしょに国に帰る様、よく言ってきかせてほしいにゃ。あんまり遅くなると、帰っていきなり、ミルダのお葬式が始まってるかもしれないにゃん」
 姫様の様子を聞いたマホミンが言った。

「多分、それは判っていると思うんです……もう、こっちも打つ手が思いつかなくて」
 りんたろーも真理も、さすがにあそこまでされたら、勇者はもう脈無しなのだろうとは思っている。だが、どうやって姫様をあきらめさせたものか……。

「あ、そうそう。りんたろーさん。この間、前橋で渡しそびれていたんですけど……これ」そう言って、真理が一枚のCDをバックから取り出した。
「? ああ、勇者が僕に投げつけたやつ? 別にいらないけど……」
「そんなの姫様に見せられないよ。捨てちゃえ捨てちゃえ!」カスミが脇でそう言う。
「そうだね……それじゃ、一応分別して……」りんたろーがそう言いながらシュリンクを開け、中の紙ジャケットをケースから外した時だった。

 何か小さな紙片が下に落ちた。

「ん? コンサートか何かの優待券?」
 そう言いながらその紙片を拾ったりんたろーが、いきなり大声を上げた。
「こ、これ……ノボルさんのプライベートメアド!」

 ◇◇◇

 冬コミの後、自宅に帰る前、りんたろーは真理達と、近くのファミレスに集合した。

「これって……あの場では、ああいう言い方したけど、個別で話たいって事だよね?」
 りんたろーの問いに全員がうなずく。
「うん、そう考えるのが妥当でしょ。でも、これで姫様行かせて、またひどい事になったりしたら……」カス姉はかなり心配そうだ。
「それじゃ、ここはとりあえず姫様には内緒って事で……まずは、りんたろーさんが勇者にアクセスしてくれるのが妥当かな。なんか顔覚えられてるみたいだし」
 真理の発言で、まずは、りんたろーが勇者ノボルに接触してみる事となった。

「勇者に会ったら、姫様と一発やってくれと頼みこむにゃん。勇者とエッチ出来れば、姫様も納得してすんなり帰国してくれるかもしれないにゃん!」
「アホミン! 女の子は、そんなに単純じゃありません!」
 真理とカスミが同時にマホミンに突っ込んだ。
「……そうにゃん? あたいは、あっちに帰る前の思い出として、りんたろーとならエッチしてもいいにゃん!」
「絶対ダメです!」また二人がハモった。

 りんたろーは、その日、自宅に帰ってから早速、勇者ノボル宛てに、どこかで面会出来ないかとメールを打った。
 そして翌日の夜遅く返事があり、明日の大晦日の深夜、というより元旦の午前二時に、指定した場所に一人で来てくれとの内容だった。

 やれやれ、なんでこんな時間……しかも場所は新宿だし……。

 カスミ、真理と、RINEで相談し、とりあえず、大晦日の夜は、明治神宮に初詣に行くという事で、三人で出かける事にし、両親にもその旨了解をとった。
 姫様とブレタムさんには、人が多いからお勧めしないという事で留守番を強要した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

処理中です...