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裏約束 お七更紗
四…➁
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「桐花花魁、『あれ』が届きましたえ~」
赤い着物を纏った禿……夕紅が、からりと襖を開けた。片手に紐がかけられた木の箱を持っている。
「こら、夕紅。いきなり部屋に入ってくるんじゃないよ。襖を開けた途端、あたしと若旦那が睦み合ってたらどうするつもりだい」
桐花が夕紅を窘めると、市之進が咳き込んだ。
「睦っ……わたしは、そ、そのようなことは……」
「夕紅、ご挨拶しな」
やや取り乱している見習与力をよそに、桐花は禿を促した。
「八丁堀の若旦那さま、ようこそおいでになりんした」
夕紅は素直に頭を下げてから、持っていた箱を顔の前に掲げる。
「花魁。糝粉屋が、例のものを持ってきなんした」
佐彦は「例のもの?」と首を傾げた。
夕紅が持っているのは上等の桐の箱。童がひょいと持てるくらいだから中身は相当軽そうだが、綺麗な組紐がかけられていて妙に仰々しい。
桐花は一旦それを受け取ったが、紐を解かぬままにんまりと唇の端を上げ、佐彦に差し出してきた。
「お前さんが空けてご覧」
「え、おれが? いいんですかい?」
言われるまま、佐彦は紐を解いた。
しかし、被せてある蓋を何の気なく持ち上げた途端、腰を抜かした。
「ひ、ひゃああああぁぁぁっ、ひひひひ――人の指がっ!」
中に入っていたのは細くて真っ白な指だった。
下には綿が敷いてあり、そこに何か赤いものが……血が、しみ込んでいる。
大きさと形からして女の小指だろう。無惨にも根元からぷっつりと斬り落とされている。
それ以上のことは確かめられず、佐彦は大慌てで蓋を閉めて箱を放り出した。もう見えなくなったはずなのに、断面の赤黒さや僅かに覗いていた白い骨が頭にこびりついていて、胃の腑からすっぱいものが込み上げくる。
うえっとえずいた佐彦に、桐花は綺麗な手ぬぐいを差し出した。
「ごめんよ、ちょいと脅かしすぎたね。……安心しとくれ。その箱に入っているのは、偽物の指さ」
ほんのりといい匂いのする手ぬぐいで口元を拭いながら、佐彦は眉を吊り上げた。
「へ、偽物?! 嘘だろ。本物にしか見えなかったぜ」
すると、夕紅が放り出されていた箱をそっと拾い上げた。
「これは、糝粉……お団子を作る粉でできた偽物の指。食紅を塗って、本物らしく見せかけているだけでありんすよ」
「見せてみろ」
夕紅から箱を受け取って、今度は市之進が中を検めた。もし本当に人の指なら、場合によっては奉行所の吟味が必要になるかもしれない。
「確かに偽物だな。だが、一体何のために、かような趣味の悪いものを……」
閉じた箱を畳に置いて、見習与力は思い切り顔を顰める。
桐花は白く滑らかな右手をさっと広げた。
「馴染みになった客と花魁は、郭の内では夫婦ってことになる。花魁は『二夫にまみえず』の証を立てるため、自分の小指を切って旦那に贈ることがあるのさ。旦那の方も、私財を投げ打って花魁に尽くす代わりに証である指を欲しがる。……だけどねぇ、実のところ、花魁は何人もの客を相手にするだろ。そのたびに指を切り落としてたんじゃ、何本あっても足りやしない。だから本物の代わりに、糝粉細工の指を使うのさ」
「指が偽物かどうかなんて、よく見りゃばれちまうんじゃねぇですかい?」
佐彦が聞くと、桐花はからからと笑った。
「そりゃ、ばれるだろうね。でも、少しの間なら気付かれないもんだよ。お前さんだって、箱を開けたとき本物の指だと思って腰を抜かしてただろ」
要するに、つかの間の夢さ――桐花はそう言って、五本揃った指を静かに袖の内にしまった。
「指じゃなくて、剥がした爪や髪が欲しいっていう旦那もいる。金を出して買えるものじゃないし、まさに身体の一部だからね。それを持っていると、花魁を独り占めした気分に浸れるんだよ」
「――何だそれは。指だの爪だの髪だの、まるで意味が分からぬ。どうかしている」
どん、と市之進が畳に拳を打ち付けた。こめかみに青筋が立っていて、いつもの仏頂面に拍車がかかっている。
桐花は僅かに肩を落とし、糝粉細工の指が入った箱を脇に避けた。続けて、帯の間から畳まれた紙を取り出す。
「ひとまず、琴菊花魁に文を書いた。お七のことを話すよう、したためてある。顔は怖いけど、若旦那は悪い人じゃないってのも付け加えたよ。これを持っていけば、琴菊花魁もさほど緊張しないで受け答えしてくれるんじゃないかい。……いくらかでも助けになるといいけどねぇ」
市之進は桐花の文を懐にしまった。
これで琴菊から話は聞けそうだが、佐彦はさほど喜ぶ気持ちになれなかった。
桐花の言う通り、琴菊のところにいっても何も解決しないかもれない。このままだと、お七は誰にも胸の内を知られることなく、悲しみだけを抱えて鈴ヶ森で首を刎ねられてしまうのだ。
「若旦那は、琴菊花魁に会いにいくんでありんすか?」
そのとき、夕紅が無垢な眼差しを市之進に向けた。小さな手で、先ほど桐花が放り出したあの錦絵をひょいと掴む。
「琴菊花魁は、とてもかわいらしいお人でありんす。この絵の半纏がとてもよく似合っていて、まるで花魁のためだけに作られたようでありんした。――あ、かわいらしいと言っても桐花花魁ほどじゃありんせんよ! 桐花花魁は当代一の美人でありんす」
世話になっている桐花を差し置いて別の花魁を褒めてしまい、夕紅は少し慌てた。
しかし当の桐花は、そんなこと気にも留めていない様子で頷く。
「……言われてみれば、そうだねぇ。琴菊花魁は、千色屋更紗の半纏が誰よりも似合ってた」
「それに、琴菊花魁は真綿みたいにふわふわしていて、優しい人なんえ。まるで――おっかさんみたい」
「おっかさん……」
奈落大夫は、禿の言葉を繰り返した。それから小さな手が持っている錦絵をしげしげと見つめ、はっと息を呑む。
何か気付いたんですかい……佐彦がそう尋ねようとしたとき、どこかから小気味よい三味線の音が聞こえてきた。
清掻――全部の弦をかき鳴らすように弾くその音は、夜見世が開く合図だ。
「桐花花魁、刻限でありんす」
その清掻にまじって足音がしたと思ったら、黒い着物を纏った禿・夜霧が部屋に顔を見せた。
「夜見世が始まりますえ。お喋りはここまででありんす」
涼しげな目をほんの少し吊り上げ、桐花を急かす。
「ああ、ちょいと待っておくれ、夜霧。いくつか思いついたことがあるんだ。若旦那に伝えたい」
「駄目! もうお客が登楼するでありんすよ。急いで座敷に戻っておくんなんし」
夜霧は恐ろしい般若が描かれた着物をぐいぐい引っぱる。
桐花はそれを軽く振り払って、ぱんと手を叩いた。
「ああ、分かった分かった。じゃあこうしよう。今から線香に火を付ける。そいつが燃え尽きるまで、一ト切り――話をさせておくれ」
「また、一ト切りでありんすか……」
夜霧は呆れ果てたように腰に手を当てた。その隣では夕紅も困り顔をしている。
「いいだろ。お客はどうせ、引手茶屋を通してからでないととあたしのところには来ないんだ。清掻が鳴っていても、少しは間がある」
桐花は素早く線香を取り出し、火を付けた。煙のたなびくそれを煙草盆の灰落としに突き立ててから、市之進を振り返る。
「若旦那、一ト切りだよ。その間に、あたしが考えていることを全部言う」
「――聞こう」
市之進もすぐさま顔つきを引き締めた。
初会のときと同じ流れだ。やはり、桐花は何かに気付いたようである。
「お七が火打石を持っていたのは――独り占めしたかったからさ」
まずそう断言した奈落大夫に、見習与力は首を傾げた。
「独り占め?」
「そうさ。お七は独り占めにしたかった。だから『あるもの』を琴菊花魁に渡したんだ。それはある種の証だった。いわば……」
桐花は脇に避けられていた箱をそっと前に押し出した。
「この中に入っているものと、同じ意味だよ。独り占めの証さ」
佐彦の脳裡に、斬り落とされた女の指が蘇る。もう偽物と分かっているのに、背筋がぞくりと粟立った。
市之進もおぞましいものを見るような目つきで箱を眺めて口を開く。
「お七が琴菊に渡した『あるもの』とは何なのだ」
「それはね……」
奈落大夫は般若の着物を揺らして立ち上がり、市之進の耳元に唇を寄せた。
まるで睦言のようだった。花魁の話が終わるのと同時に、線香が燃え尽きる。
「――なるほど。得心した」
すぐ傍にいた桐花の身体を両手で少し押し戻してから、市之進は静かに立ち上がった。
「もう行っちゃうのかい。……まぁあたしも、これ以上は相手ができないけど」
灰になった線香を、桐花は名残り惜しそうに見やる
「お七がいる番屋に戻るが、その前に琴菊からも話を聞くつもりだ。さっきそなたが言ったことの確認も含めてな」
「そうかい。だったら、ちょいと待っとくれ。さっき文を渡しただろ。それに付け足したいことがあるんだ」
桐花は市之進の懐から文を取ると、何かを書き加えた。「桐花花魁、夜見世が……」と纏わりつく夜霧をなんとか宥め、再び紙を畳んで元のところに戻す。
「さ、これでいい。若旦那、行ってらっしゃい」
花魁にぽんと肩を叩かれた市之進は、そのまま部屋を出ていこうとしたが、ふと立ち止まった。
「桐花、風邪をひくなよ。どうか――息災でいてくれ」
「分かった。また……来てくれるかい?」
それには答えず、長身の見習与力は颯爽と駆け出す。
佐彦が耳にした市之進の声は、少しだけ熱が籠っている気がした。
赤い着物を纏った禿……夕紅が、からりと襖を開けた。片手に紐がかけられた木の箱を持っている。
「こら、夕紅。いきなり部屋に入ってくるんじゃないよ。襖を開けた途端、あたしと若旦那が睦み合ってたらどうするつもりだい」
桐花が夕紅を窘めると、市之進が咳き込んだ。
「睦っ……わたしは、そ、そのようなことは……」
「夕紅、ご挨拶しな」
やや取り乱している見習与力をよそに、桐花は禿を促した。
「八丁堀の若旦那さま、ようこそおいでになりんした」
夕紅は素直に頭を下げてから、持っていた箱を顔の前に掲げる。
「花魁。糝粉屋が、例のものを持ってきなんした」
佐彦は「例のもの?」と首を傾げた。
夕紅が持っているのは上等の桐の箱。童がひょいと持てるくらいだから中身は相当軽そうだが、綺麗な組紐がかけられていて妙に仰々しい。
桐花は一旦それを受け取ったが、紐を解かぬままにんまりと唇の端を上げ、佐彦に差し出してきた。
「お前さんが空けてご覧」
「え、おれが? いいんですかい?」
言われるまま、佐彦は紐を解いた。
しかし、被せてある蓋を何の気なく持ち上げた途端、腰を抜かした。
「ひ、ひゃああああぁぁぁっ、ひひひひ――人の指がっ!」
中に入っていたのは細くて真っ白な指だった。
下には綿が敷いてあり、そこに何か赤いものが……血が、しみ込んでいる。
大きさと形からして女の小指だろう。無惨にも根元からぷっつりと斬り落とされている。
それ以上のことは確かめられず、佐彦は大慌てで蓋を閉めて箱を放り出した。もう見えなくなったはずなのに、断面の赤黒さや僅かに覗いていた白い骨が頭にこびりついていて、胃の腑からすっぱいものが込み上げくる。
うえっとえずいた佐彦に、桐花は綺麗な手ぬぐいを差し出した。
「ごめんよ、ちょいと脅かしすぎたね。……安心しとくれ。その箱に入っているのは、偽物の指さ」
ほんのりといい匂いのする手ぬぐいで口元を拭いながら、佐彦は眉を吊り上げた。
「へ、偽物?! 嘘だろ。本物にしか見えなかったぜ」
すると、夕紅が放り出されていた箱をそっと拾い上げた。
「これは、糝粉……お団子を作る粉でできた偽物の指。食紅を塗って、本物らしく見せかけているだけでありんすよ」
「見せてみろ」
夕紅から箱を受け取って、今度は市之進が中を検めた。もし本当に人の指なら、場合によっては奉行所の吟味が必要になるかもしれない。
「確かに偽物だな。だが、一体何のために、かような趣味の悪いものを……」
閉じた箱を畳に置いて、見習与力は思い切り顔を顰める。
桐花は白く滑らかな右手をさっと広げた。
「馴染みになった客と花魁は、郭の内では夫婦ってことになる。花魁は『二夫にまみえず』の証を立てるため、自分の小指を切って旦那に贈ることがあるのさ。旦那の方も、私財を投げ打って花魁に尽くす代わりに証である指を欲しがる。……だけどねぇ、実のところ、花魁は何人もの客を相手にするだろ。そのたびに指を切り落としてたんじゃ、何本あっても足りやしない。だから本物の代わりに、糝粉細工の指を使うのさ」
「指が偽物かどうかなんて、よく見りゃばれちまうんじゃねぇですかい?」
佐彦が聞くと、桐花はからからと笑った。
「そりゃ、ばれるだろうね。でも、少しの間なら気付かれないもんだよ。お前さんだって、箱を開けたとき本物の指だと思って腰を抜かしてただろ」
要するに、つかの間の夢さ――桐花はそう言って、五本揃った指を静かに袖の内にしまった。
「指じゃなくて、剥がした爪や髪が欲しいっていう旦那もいる。金を出して買えるものじゃないし、まさに身体の一部だからね。それを持っていると、花魁を独り占めした気分に浸れるんだよ」
「――何だそれは。指だの爪だの髪だの、まるで意味が分からぬ。どうかしている」
どん、と市之進が畳に拳を打ち付けた。こめかみに青筋が立っていて、いつもの仏頂面に拍車がかかっている。
桐花は僅かに肩を落とし、糝粉細工の指が入った箱を脇に避けた。続けて、帯の間から畳まれた紙を取り出す。
「ひとまず、琴菊花魁に文を書いた。お七のことを話すよう、したためてある。顔は怖いけど、若旦那は悪い人じゃないってのも付け加えたよ。これを持っていけば、琴菊花魁もさほど緊張しないで受け答えしてくれるんじゃないかい。……いくらかでも助けになるといいけどねぇ」
市之進は桐花の文を懐にしまった。
これで琴菊から話は聞けそうだが、佐彦はさほど喜ぶ気持ちになれなかった。
桐花の言う通り、琴菊のところにいっても何も解決しないかもれない。このままだと、お七は誰にも胸の内を知られることなく、悲しみだけを抱えて鈴ヶ森で首を刎ねられてしまうのだ。
「若旦那は、琴菊花魁に会いにいくんでありんすか?」
そのとき、夕紅が無垢な眼差しを市之進に向けた。小さな手で、先ほど桐花が放り出したあの錦絵をひょいと掴む。
「琴菊花魁は、とてもかわいらしいお人でありんす。この絵の半纏がとてもよく似合っていて、まるで花魁のためだけに作られたようでありんした。――あ、かわいらしいと言っても桐花花魁ほどじゃありんせんよ! 桐花花魁は当代一の美人でありんす」
世話になっている桐花を差し置いて別の花魁を褒めてしまい、夕紅は少し慌てた。
しかし当の桐花は、そんなこと気にも留めていない様子で頷く。
「……言われてみれば、そうだねぇ。琴菊花魁は、千色屋更紗の半纏が誰よりも似合ってた」
「それに、琴菊花魁は真綿みたいにふわふわしていて、優しい人なんえ。まるで――おっかさんみたい」
「おっかさん……」
奈落大夫は、禿の言葉を繰り返した。それから小さな手が持っている錦絵をしげしげと見つめ、はっと息を呑む。
何か気付いたんですかい……佐彦がそう尋ねようとしたとき、どこかから小気味よい三味線の音が聞こえてきた。
清掻――全部の弦をかき鳴らすように弾くその音は、夜見世が開く合図だ。
「桐花花魁、刻限でありんす」
その清掻にまじって足音がしたと思ったら、黒い着物を纏った禿・夜霧が部屋に顔を見せた。
「夜見世が始まりますえ。お喋りはここまででありんす」
涼しげな目をほんの少し吊り上げ、桐花を急かす。
「ああ、ちょいと待っておくれ、夜霧。いくつか思いついたことがあるんだ。若旦那に伝えたい」
「駄目! もうお客が登楼するでありんすよ。急いで座敷に戻っておくんなんし」
夜霧は恐ろしい般若が描かれた着物をぐいぐい引っぱる。
桐花はそれを軽く振り払って、ぱんと手を叩いた。
「ああ、分かった分かった。じゃあこうしよう。今から線香に火を付ける。そいつが燃え尽きるまで、一ト切り――話をさせておくれ」
「また、一ト切りでありんすか……」
夜霧は呆れ果てたように腰に手を当てた。その隣では夕紅も困り顔をしている。
「いいだろ。お客はどうせ、引手茶屋を通してからでないととあたしのところには来ないんだ。清掻が鳴っていても、少しは間がある」
桐花は素早く線香を取り出し、火を付けた。煙のたなびくそれを煙草盆の灰落としに突き立ててから、市之進を振り返る。
「若旦那、一ト切りだよ。その間に、あたしが考えていることを全部言う」
「――聞こう」
市之進もすぐさま顔つきを引き締めた。
初会のときと同じ流れだ。やはり、桐花は何かに気付いたようである。
「お七が火打石を持っていたのは――独り占めしたかったからさ」
まずそう断言した奈落大夫に、見習与力は首を傾げた。
「独り占め?」
「そうさ。お七は独り占めにしたかった。だから『あるもの』を琴菊花魁に渡したんだ。それはある種の証だった。いわば……」
桐花は脇に避けられていた箱をそっと前に押し出した。
「この中に入っているものと、同じ意味だよ。独り占めの証さ」
佐彦の脳裡に、斬り落とされた女の指が蘇る。もう偽物と分かっているのに、背筋がぞくりと粟立った。
市之進もおぞましいものを見るような目つきで箱を眺めて口を開く。
「お七が琴菊に渡した『あるもの』とは何なのだ」
「それはね……」
奈落大夫は般若の着物を揺らして立ち上がり、市之進の耳元に唇を寄せた。
まるで睦言のようだった。花魁の話が終わるのと同時に、線香が燃え尽きる。
「――なるほど。得心した」
すぐ傍にいた桐花の身体を両手で少し押し戻してから、市之進は静かに立ち上がった。
「もう行っちゃうのかい。……まぁあたしも、これ以上は相手ができないけど」
灰になった線香を、桐花は名残り惜しそうに見やる
「お七がいる番屋に戻るが、その前に琴菊からも話を聞くつもりだ。さっきそなたが言ったことの確認も含めてな」
「そうかい。だったら、ちょいと待っとくれ。さっき文を渡しただろ。それに付け足したいことがあるんだ」
桐花は市之進の懐から文を取ると、何かを書き加えた。「桐花花魁、夜見世が……」と纏わりつく夜霧をなんとか宥め、再び紙を畳んで元のところに戻す。
「さ、これでいい。若旦那、行ってらっしゃい」
花魁にぽんと肩を叩かれた市之進は、そのまま部屋を出ていこうとしたが、ふと立ち止まった。
「桐花、風邪をひくなよ。どうか――息災でいてくれ」
「分かった。また……来てくれるかい?」
それには答えず、長身の見習与力は颯爽と駆け出す。
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