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初会 地蔵妻

四…➁

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「だったらこうしよう。今から線香に火を付ける。それが燃え尽きたら、あたしの身揚がりはおしまいにするよ」
 煙草盆の抽斗を開けて、桐花は線香を一本取り出した。
 少し力を入れたら折れてしまいそうなそれを顔の前で掲げ、みなに見せる。
一トいっと切り――この線香が灰になるまでの、ほんのちょんの間だよ。それくらいなら待ってくれるだろ」
 遣手婆と二人の禿は顔を見合わせた。やがて津江が、しぶしぶ頷く。
「仕方がないね。本当に、それで終わりだよ」
「分かった」
 桐花はぱっと顔を輝かせると、線香に火を付けてから市之進を振り返った。
「若旦那、一ト切りだよ。その間に、あたしが考えていることを全部言う。それで、心ン中につっかえていることがなくなるはずさ」
「ふむ。聞こう」
 市之進は顔つきを引き締めて居住まいを正す。
 佐彦も口を閉じて耳を傾けた。
 線香の煙が立ち昇る横で、花魁の唇がなまめかしく動く。
「まず、この件から話しとこうかね。……蓮四郎さんは、お慶さんに嘘を言ってるよ」
「嘘――それは、お慶と所帯を持つつもりなどないということか」
 市之進がすかさず返したのを聞いて、佐彦も「ああ……」と唸った。
 じきにきちんと所帯を持つつもりだったのかと聞かれた蓮四郎の態度は、どうも煮え切らなかった。その気がないのが丸わかりだ。なのに夫婦めおとになると匂わせて、お慶に世話を焼かせていたに違いない。
 そのくらいのことは佐彦も察しがついていたので、たいして驚かなった。
 だが、続けて桐花の口からとんでもないことが飛び出し、市之進と二人で目を剥くこととなった。
「蓮四郎さんの『本命』は、お友里っていう娘さ」
「えぇぇーっ!」
 思いっきり叫んでから、佐彦はふるふるとかぶりを振った。
「お友里って、中村座の座元の娘ですかい? 冗談だろう。あの子はまだ十三ですよ」
 少ししか会っていないが、顔に残るあどけない感じを佐彦は今でも覚えている。傍らにいた市之進も、信じられないといった様子で絶句していた。
 しかし桐花は「分かってないね」と僅かに眉を顰める。
「今は子供でも、あと三年もすりゃ立派な女だ。それに、蓮四郎さんは歳なんて気にしちゃいないよ。大事なのは、お友里が座元の娘だってことさ」
「まさか――蓮四郎は座元の娘を伴侶にすることで、出世しようと目論んでいるのか」
 市之進の言葉に、花魁は嘆息しつつ頷いた。
「そういうことだろうね」
 昔、中村仲蔵という役者が稲荷町から名題に昇りつめた。仲蔵は芝居とは関係のない家の生まれで、異例の出世だと言われている。
 ただ、これは例外中の例外だ。たいていはどんなに才があっても、有力な者と縁続きでなければのし上がれない。
 逆に言うなら、縁さえあれば……座元の義理の息子になれれば、蓮四郎も一気に道が開けてくる。
 現に、お友里はまんざらでもなさそうだった。下っ端が名題役者の婿になるなど普通はとんでもないことだが、娘に泣いて頼まれれば、あるいは……。
(蓮四郎さんは、ろくでもねぇ奴だな)
 佐彦は半分呆れてしまった。市之進や、座敷の隅で話を聞いていた津江たちも顔を顰めている。
 桐花は一同を見回した。
「この件だけじゃないよ。蓮四郎さんはお慶さんに、もう一つ大きな嘘を吐いてる。おそらくあの人は――今も稲荷町のままだ。中通りに上がったなんて、口から出まかせだね」
「えっ、それも嘘なんですかい?」
 佐彦は再び目を剥いた。
「多分ね。中村座の座付き作者の、三狸って人が言ってただろ。『華がない』って。だから蓮四郎さんはいつも子守役だった。舞台に上がる予定なんてなかったはずさ」
 そこで市之進が口を挟んだ。
「しかし、蕎麦屋の妻の話では、蓮四郎は中通りに上がり、次の芝居では台詞もつくと……。お慶にはその祝いに着物までねだっている。なぜそのような嘘を吐いたのだ」
「そりゃ、着物が欲しかったからさ。しかも、とびきり上等なのが」
「なっ……」
 あっけらかんと放たれた言葉に、市之進は呆然と息を呑む。佐彦もぽかんと口を開けてしまった。
 ただ一人、桐花だけが引き締まった顔つきで、見習与力をじっと見つめる。
「さて――ここで出てくるのが、例の『ふせん、ちょう』だよ」
「ふむ。一体どういう意味なのだ」
 呆然としていた市之進の顔に精悍さが戻った。
 奈落大夫は、満を持して口を開く。
「『ふせん、ちょう』っていうのは、紋のことさ。浮くに一本線の線に虫の蝶で、『浮線蝶』って書く。字の通り、蝶を象った紋だよ。この浮線蝶紋を替紋にしているのが、あの高麗屋だ」
「高麗屋……松本幸四郎か!」
 佐彦はぽんと手を打った。芝居には疎い市之進もさすがにこの大名跡くらいは知っていたようだが、はてと首を傾げる。
「役者には決まった紋があるのか」
「そうだよ、若旦那。成田屋こと市川團十郎の紋は三枡、坂東三津五郎は三つ大。鼻高幸四郎の定紋は四つ菱だけど、替紋として浮線蝶を用いることもある」
 青木家の下男になる前、佐彦は役者の絵を手掛けたこともあったが、替紋の名までは知らなかった。
 桐花が手早く説明すると、市之進は何かに気付いたように肩を揺らした。
「待て。松本幸四郎……確か、蓮四郎がその役者に憧れていたな。何か関係があるのか」
「ああ若旦那、いい読みだね。最初はあたしも『ふせん、ちょう』の意味が分からなかった。蓮四郎さんが鼻高幸四郎に憧れていると聞いてから、浮線蝶の字面が思い浮かんだのさ。――岩次が掘割に落ちたとき、お慶さんはその浮線蝶を見た。だから思わず口にしちまったんだ」
「お慶が、紋を見た……だと」
 聞き返した市之進に、奈落大夫は首肯した。
「そうさ。正しくは、浮線蝶の紋のついた着物――蓮四郎さんのために誂えてやった祝いの晴れ着を纏った男を、お慶さんは見ちまった」
 何だって――佐彦はそう叫ぼうとしたが、驚きすぎて言葉にならなかった。
 市之進もしばし息を呑んでいたが、やがて険しい顔で声を絞り出す。
「岩次を突き落としたのは、浮線蝶の着物を纏った者だったのだな。お慶はその男を庇って、身代わりになるために名乗り出たのか……」
 自ら罪を告白し、地蔵になってしまったお慶。
 あれだけ頑なだったのは、他人を庇い立てしていたせいだ。余計なことを言えばぼろが出る。だから、口を閉ざした。
『どうぞ、早くお沙汰を』
 死罪になると分かっていながらも、お慶は本当のことを決して告げなかった。地蔵妻が命を賭してまで守りたかった相手は、おそらくこの世に一人しかいない……。
 佐彦がぐっと拳を握り締めたとき、禿の夜霧が声を上げた。
「桐花花魁。線香が……」
 見れば、線香はすっかり短くなっていた。いつ燃え尽きてもおかしくない。
 お慶は下手人ではなかった。地蔵になったわけも分かった。
 一ト切り――僅かな間で、収まるべきところに物事が収まった気がする。なのに、佐彦の胸には重苦しさが募る。
(まさか、あの人がったとはな……)
 同じことを考えて気が重くなったのだろう。市之進がやや俯き加減で言った。
「だいたいのことは掴めた。だが、お慶はこのまま口を割ってはくれぬだろうな。浮線蝶の着物を見たことについて、できれば本人から話を聞きたいのだが……」
「それは、若旦那の尋ね方次第じゃないかい」
 桐花は煙管を置くとすっと腰を浮かせ、市之進に近寄った。行儀よく膝の上に載った男らしい手に、自らの華奢な手を重ねる。
「お顔が怖いよ。眉間に皺が寄ってる。人と話すときは、もっと力を緩めなきゃ」
「わたしは、笑みなど浮かべられぬ」
「無理に笑えなんて言わないよ。そもそも、若旦那はなぜ、人から……お慶さんから話を聞きたいんだい?」
 問われた市之進は、しばらく思案したあと、答えた。
「真実を知りたいからだ。正しい裁きができるように」
「なら、その気持ちを伝えたらいい。素直に……そして誠実にね。正直な心は、きっと相手に届くさ」
「気持ちを、伝える……」
 見習与力はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 桐花はふっと微笑んで、その耳元に唇を寄せる。
「今回の件、もう一つ『真実』が残ってるよ。いいかい、岩次を掘割に突き落としたのは――」
 奈落大夫が話し終えるのと同じ頃合いで、線香はすべて灰と化した。
 白檀の清廉な残り香が漂う中、市之進はすっくと立ち上がる。
「そういうことだったのか! こうしてはいられぬ。わたしは奉行所に戻る」
「でも、若旦那さま。このあと、宴が……」
 引き留めようとした津江を遮って、市之進は戸に手を掛けた。
「いや、わたしは行く。登楼を命じたのは父だが、留め置かれているお慶が何もしていないと分かったのだ。中座することを許してくれるだろう。用意してあった酒や肴は、妓楼の者たちにふるまってくれて構わない」
 桐花が半分苦笑いをしながら立ち上がった。
「若旦那、せめて見送らせておくれよ。高い揚げ代を出してもらったのに、今日はろくにもてなしができなくて、すまないね。結局言葉遣いも始終こんな風だったし、あたし、花魁失格かもしれないねぇ」
「そんなことはないぞ」
 廊下に出ようとしていた市之進は一度身を翻し、きちんと桐花に向き合った。そのまま恐ろしい柄の着物を纏った肩に両手を置いて、花魁の目をまっすぐ見つめる。
「そなたは誰よりも綺麗だ。座っているのを眺めているだけで十分、嬉しかった。失格などと、余計な心配をする必要はない」
「――!」
 その刹那、奈落大夫は頬に手を当てた。
 見開かれた瞳が、みるみるうちに熱っぽくなっていく。
「では、これにて失礼」
 深々と頭を下げてから、市之進は座敷を出た。
 慌ててあとを追いかける佐彦の背中に、桐花の声が届いた。
「八丁堀の若旦那、必ず、裏を返しておくれ。待ってるから――」
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