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初会 地蔵妻

四……①

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「ふぅん。地蔵になった妻か……」
 佐彦がいったん口を噤むと、奈落大夫こと桐花は漆塗りの贅沢な煙草盆を引き寄せ、長煙管を手に取った。
 それをちょいと吸い、吸い口についた紅を透かしの入った懐紙で拭いてから、市之進に差し出す。
「若旦那、一服どうだい?」
 郭の名物、吸い付け煙草だ。色香が際立つその振る舞いに、佐彦は思わずどきりとする。
 だが市之進は顔色一つ変えず「結構だ」と突っぱねた。
 桐花は「やっぱり殺しの件が片付かないと気持ちよく遊べないか」と溜息を吐いて、自分で煙管を吹かす。
「こう言っちゃなんだけど、土左衛門が上がったのは一昨日なんだろ。その割に聞き込みが捗ってないね。肝心のお慶さんからほとんど何も引き出せていないのが、一番痛い」
「……」
 市之進が黙って片方の眉を吊り上げた。怒っているのではない。桐花に図星を突かれて参っているのだ。
 さらに、座敷の隅で成り行きを見守っていた禿……赤い着物を纏った方がしれっとした顔つきでとどめを刺す。
「上手く話を聞き出せなかったのは――若旦那さんが不愛想で、お顔が怖いせいでありんすよ」
 その途端、近くにいた遣手婆の津江と、黒い着物の禿が焦った様子で腰を半分浮かせた。
「これ! お客さまに何てことを言うんだい」
夕紅ゆうべに、謝った方がいいわ」
 赤い着物の禿は夕紅というらしい。その夕紅は、黒い着物の禿に向かって唇を尖らせてみせた。
「謝る? わちきは本当のことを言っただけでありんす。それに、夜霧よぎりも同じことを思っていたくせに。話の最中、さんざん『閻魔さまみたいな顔』って呟いてたの、わちきはちゃあんと聞きましたえ」
 夜霧と呼ばれた黒い着物の禿は、はっと身体をこわばらせたあと、市之進の方をゆっくりと振り向いた。そのあどけない顔は、恐怖で引きつっている。
 閻魔さまと呼ばれてしまった市之進は僅かに俯き、肩を落とした。
「謝る必要はない。夕紅の言うことは的を得ている。だからこそ父上は、わたしに吉原へ行けと命じたのだ」
 お慶から何も聞き出せないまま市之進たちが家に戻ると、玄関先で青木家の主が待ち構えていた。
 市蔵は息子の探索が不首尾に終わったことを奉行所の者からすでに聞き及んでいたらしく、嘆くように言った。
『市之進。お前はいささか頭が固すぎる』と。
 それは佐彦も常々思っていたことだった。
 実際、市之進が前のめりになればなるほど、町人たちは恐れおののいて聞き込みが進まなくなった。特にお慶は、『怖くて話ができません』とはっきり口にした。
 確かに、笑みを浮かべなくても仕事はできる。市之進本人は真剣にこなしているつもりなのだろう。
 しかし、堅物すぎる。佐彦のような従者や奉行所の同僚さえも、時折引いてしまうほどに……。
 市蔵は、そんな息子を吉原に――江戸で一番華やかな遊び場に放り込み、類稀なる美しさを持つ花魁と引き合わせた。
 いわば、これは荒療治だ。堅物見習与力を、少しでも柔らかくするための。
「そうやってせっかく郭に来たってのに、まだまだ顔が怖いね、若旦那。いい男が台無しだよ」
 桐花はふふ……と笑って、手にしていた長煙管を煙草盆に打ち付けた。誉め言葉を受け取ってもにこりともしない市之進に、やれやれと肩を竦める。
「まぁ、岩次の殺しの件を気に病む気持ちはあたしにも分かる。若旦那は、下手人がお慶さんじゃないと思ってるんだろ?」
「えっ、お慶さんは殺してないんですかい?!」
 声を上げたのは、尋ねられた見習与力ではなく佐彦だった。
 お慶はあれだけはっきり、自分がやったと主張した。それに、番屋で市之進も言っていたが、殺しは重罪。下手人はまず間違いなく打ち首になる。
 何もやっていない者が、死ぬと分かっていながら名乗り出た――佐彦にはまるで意味が分からなかった。お慶はなぜ、そんなことをしたのか……。
 ひたすら首を傾げる佐彦に、桐花は言った。
「よく考えてご覧。岩次は相撲取りと見紛うほどの大男なんだろ。対してお慶さんは柳みたいに細い。いくら酔っぱらっていたとしても、女の細腕で突き飛ばしたくらいで、そんな巨漢が掘割に落ちるかい?」
「あっ、言われてみれば……」
「掘割の近くに住んでいた伊作とかいう爺さんは、岩次が溺れているのを見ただけ。お慶さんが突き飛ばしたところは誰も見てないんだ。……まぁ、岩次は掘割の手前から誰かと言い争ってたみたいだし、この件に下手人がいることは確かだろうね。でも、お慶さんがやったというあかしは何もない。本人の言葉以外には」
「その通りだ」
 桐花の話を聞いていた市之進は、一つ頷いた。
 そのまま顎に指を添える。
「そもそも事が起こったのは夜遅く。そのような刻限に、お慶はなぜ外を出歩いていたのだ。何より、わたしが一番気にかかっているのは……」
「――ふせん、ちょう」
 桐花は市之進を半ば遮るようにして口角を上げた。
「若旦那が知りたいのは、お慶さんが現場で呟いた、この言葉の意味だね」
「うむ。何やら大事なことのような気がするのだ。ただの勘だが、きっと、この件の鍵となる」
 市之進が『勘』などという不確かなことを口にするのは初めてだった。それほど、この謎の言葉が気にかかっているのだろう。
 佐彦も意味が分からなかった。今は頑なに黙り、地蔵となってしまった女が、思わず漏らしたこと……。お慶の本当の気持ちが、そこに籠もっているはずである。
 引付座敷につかの間の沈黙が訪れた。
 やがて、奈落大夫がゆるりと静寂を破った。
「『ふせん、ちょう』の意味――あたしには見当がついたよ」
「何?」
 市之進はぴくりと肩を震わせ、目を見開いた。
 心の内をあまり表に出さない堅物の顔つきが変わって嬉しかったのか、桐花はにっと笑みを浮かべる。
「聞きたいかい? あたしの考え」
「……ああ。話せ」
「ふふっ、しょうがないねぇ――」
 桐花が口を開きかけたとき、引付座敷の戸がからりと開いて、下働きの男らしき者が中に入ってきた。遣手婆の津江に何か耳打ちしてから、すぐまた外に出ていく。
「桐花、大和屋やまとやの大旦那さまがおいでになったそうだ。敵娼は珠鈴たますずだけど、あんた、お座敷に顔を出す約束になっているだろう」
 呼出昼三くらい高級の花魁ともなると、後進の遊女たちの面倒を任される。
 桐花が今世話をしているのは禿である夕紅や夜霧だが、聞けば珠鈴も、つい最近まで見習遊女である振袖新造として桐花に面倒を見てもらっていたそうだ。
 ようやく一本立ちしたものの、珠鈴にはまだ危なっかしいところがあって、客が来たときは先輩の桐花の助けが必要だという。
「桐花花魁。珠鈴姉さんを助けにいっておくんなんし」
 夕紅が、鬼の模様の着物を引っ張った。
「もう刻限でありんす。大和屋の大旦那は気が短いお方。これ以上、猶予はありんせん」
 夜霧も真剣な顔つきで急かす。
 桐花は困ったように眉尻を下げた。
「夕紅、夜霧。そんなことは分かっているよ。でも、あとちょっとだけ。若旦那と話がしたいんだ」
「駄目だよ、桐花。身揚がりはここまでだ。本来なら、この初会の宴はもっと早く終わるはずだったんだよ。殺しの話なんかしてたから、予定が狂っちまったじゃないか。初会で花魁が客の相手をすることはないって掟を破って口をきいたんだから、もう十分だろ。あとは芸者と幇間に任せよう。さ、行くよ」
 津江がぴしゃりと言って、座敷の外を指さした。
 そこで、奈落大夫がぱんぱんと手を叩く。
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