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初会 地蔵妻
三…➁
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蕎麦屋をあとにして、市之進は堺町にある芝居小屋・中村座へ向かった。蕎麦屋の夫婦が言うには、蓮四郎はじきにこの中村座が手掛ける舞台に立つという。
江戸市中では、中村座と葺屋町の市村座、木挽町の森田座の三座のみが官許の櫓を上げている。幕府の認可がない他の芝居小屋は櫓を上げることができず、舞台の上以外には屋根もつけられない。さらに廻り舞台や花道が使えないなどの制限が加わる。
こうした制約のない三座は大々的に興行ができる一方で、芝居の内容が政道に反していないかどうか、奉行所の者が時々検分に入る。
ゆえに、小屋の二階には舞台を検めにくる役人のための席が常に用意してあった。検分ということであれば、無論、木戸銭を払う必要はない。
与力や同心の中には監視と称して芝居見物を楽しむ者も多いが、堅物の市之進はみなが熱狂する娯楽に見向きなどしなかった。こういった場所に足を踏み入れること自体が初めてらしく、木戸をくぐってから始終、居心地の悪そうな顔つきをしている。
今、中村座は次の芝居の稽古中らしく、官許の証である櫓は骨組みだけになっていた。人々の目を引く絵看板もない。
中にいるのは書き割りや大道具を拵える男たちのみ。座頭や座元も今日は不在らしく、この場を取り仕切っているのは座付き作者の金村三狸という四十がらみの小男だという。少々ふざけた名は、おそらく筆名だろう。
堅物見習与力がわざわざ芝居小屋に足を運んだのは、お慶の伴侶といってもいい男、蓮四郎から聞くためだったが、まず先にその三狸と会うことになった。
「これはこれは。幕の開いていない芝居小屋に、八丁堀のお方が何の用で?」
奉行所から来たと告げると、三狸はあからさまに嫌な顔をした。
思い通りの芝居をやりたい一座の者にとって、時折内容に口を出してくる与力のような役人は目の上の瘤だ。無理もない。
市之進の仏頂面で場がさらに剣呑にならぬよう、佐彦は素早く愛想笑いを浮かべて話を切り出した。
「次の興行で、蓮四郎っていう役者が舞台に出るそうだな。おれたちはとある件で、その蓮四郎さんから話を聞きてぇんだ」
「えっ……。まさか、うちに関わっている役者が、何かしでかしたんですか!」
役者がお縄になれば、興行が中止になることもある。三狸の顔が途端に曇った。
佐彦は慌てて否定した。
「いやいや、この件、嫌疑の者がすでに自白してるんだ。芝居に影響はねぇから、安心してくれ。蓮四郎さんからは、ちょいと参考に話を聞いておきたくてな」
すると三狸は愁眉を開き、今度は首を捻った。
「蓮四郎……蓮四郎……はて、名は聞いたことがあるんですが、どんな人だったかな。ああ、思い出しました。あの人は子守役ですよ」
「子守? 次の芝居で、蓮四郎さんはそういう役をやるのかい?」
尋ねた佐彦に、三狸は苦笑いした。
「違います。あの人はもっぱら、忙しい座元や役者たちの子を面倒見ているんです。文字通り、子守ですよ。それで給金をもらっていると言ってもいい」
「へ? 蓮四郎さんは役者なのに、芝居はしねぇのか」
「あはは。蓮四郎に芝居なんて、とてもとても。座頭は『見目がいいがそれだけだな』と言っていました。あたしは二、三度口をきいただけですが、覚えているのはやたらとおべっかが上手かったことくらいで……。芝居の配役は座元と座頭とあたしで決めるんですがね、あの人は子守役ってことで意見が一致していますよ、いつも」
要するに、華がないんです――きっぱり言い捨てたあと、三狸は窓の外を指さした。
「子守役なら、今は建物の裏でお嬢さん……座元の一人娘、お友里さんの相手をしているはずです。話を聞きたいなら、どうぞご勝手に」
興行主である座元の娘、お友里の歳は十三だという。江戸三座を率いる父親と、その妻である母親は何かと忙しく、今日も出かけているため、『子守』の蓮四郎が稽古事に付き添い、そのまま話し相手になっているとのこと。
三狸に言われた通り芝居小屋の裏に回ると、優男と振袖姿の娘が身を寄せていた。
「こんな素敵な簪、わたしにくれるの? ありがとう、蓮四郎さん」
「よく似合いますよ、お友里さん。助六の揚巻に負けないくらい綺麗だ」
「本当? 嬉しい」
助六とは芝居の有名な演目で、揚巻はそれに出てくる当代一の傾城だ。美女にたとえられたお友里は、頬を赤らめる。
(なるほど。見目はいいしおべっかが上手ぇな)
お友里に微笑みかけている蓮四郎を見て、佐彦は一人で頷いた。まさに評判通りの男である。
「でも、これ、高かったでしょう。どうやって贖ったの? 蓮四郎さん、暮らしに困らない?」
桃割れに結った髪に蓮四郎が自ら挿したのは、女物に疎い佐彦でも一見して華やかだと分かるびらびら簪だった。
まだあどけなさが残るお友里の顔が曇ったのを見て、蓮四郎は微笑みながら軽く頭を振る。
「かかりのことは心配しなくてもいいんですよ。お友里さんが笑ってくれたら、俺はそれだけで生きていけます」
「まぁ……」
十三の娘は、嬉しさのあまり目に涙を浮かべていた。
一体何を見せられているのやら……佐彦はげんなりしつつ、ゆっくりと前に歩み出る。
「ちょいといいかい」
ふいに現れた佐彦に仰天し、蓮四郎はお友里から慌てて離れた。さらに傍らに立っていた仏頂面の見習与力に気付き、あわあわと身を仰け反らせる。
「だだだ、誰ですか! お、お武家さま?」
市之進は目を眇めた。
「北町奉行所の見習与力、青木市之進だ。おぬしは蓮四郎だな。お慶という者について聞きたいことが――」
「ああーっ、ま、待ってくだせぇ。待ってくだせぇ」
蓮四郎は顔の前で忙しなく手を振って市之進の話を止めると、お友里に向き直って猫撫で声を出した。
「お友里さん、ひとまず中の座敷で休んでいてください。俺はこちらのお役人さまと、少しばかり話をしますんで」
「えぇ、蓮四郎さんがいないと、つまらないわ」
「話が済んだらすぐに参ります。そのあと、団子を買いにいきましょう。ですから、どうぞ今は中に」
不満げな顔を見せつつ、お友里は立ち去った。どうやら、蓮四郎は人払いをしたかったらしい。
その気遣いは正しいと佐彦は思った。これからするのは人死にの話だ。十三の娘に聞かせる内容ではない。
お友里がいなくなると、市之進は優男をぎりっと睨みつけて尋ねた。
「おぬし、お慶という者を知っているな。妻も同然と聞いている。そのお慶が、一昨日の夜、高利貸しの岩次を殺めたと番屋に名乗り出た。何か知っていることはあるか」
「えっ、お、お慶が、殺しを?! しかも、自ら名乗り出たって……そ、そんな!」
大きく目を剥いたかと思うと、蓮四郎はその場にしゃがみ込んでしまった。
一連のことについて何も知らなかったようだ。がくがくと震え始めたところを見ると、嘘を吐いているとも思えない。
「お慶はおぬしに、何も言っていなかったのか」
市之進がずいと足を前に踏み出すと、蓮四郎はびくっと身体をこわばらせて首を横に振った。
「俺は、何も聞いていません! お友里さんが江の島の弁財天参りをしたいと言い出して、何人かのお供と一緒に付き添ってたんです。五日前に江戸を経って、戻ったのは昨日の夜だ。そんなことが起きているなんて、ちっとも知らなかった……」
今の話が本当なら、事が起こった日、蓮四郎は家どころか江戸にすらいなかったということになる。
「そんな……お慶が……嘘だろう」
まさに青天の霹靂といった様子で、蓮四郎は涙を浮かべた。
市之進は袖で目元を拭う優男に容赦なく詰め寄る。
「蓮四郎。おぬしはお慶にたいそう世話になっていたようだな。じきにきちんと所帯を持つつもりだったのか」
「え、ええと、俺はまだ、役者としては下っ端で……だから……」
蓮四郎は青々とした月代を撫で上げ、ふいと顔を背ける。
その目は、ある一点に向けられていた。
先ほど、豪華なびらびら簪を挿したお友里が去っていった、その方向に。
蓮四郎はとにかく何も知らないと繰り返し、それ以上たいしたことは聞けなかった。
市之進がすぐ同心たちに裏を取らせたが、岩次が死んだ日、蓮四郎やお友里が江戸にいなかったのは確かなようだ。
あと、顔を合わせていないのはただ一人。
日がだいぶ西に傾いたころ、市之進と佐彦はお慶が留め置かれている番屋に出向いた。ようやく、嫌疑の者とのご対面である。
ほっそりした、柳のような女だった。しばらく番屋の牢に入れられているせいか面窶れしているが、涼しげな目元に芯の強さが垣間見える。
(働き者の手だな)
少し節くれ立ったお慶の指を見て、佐彦はそう思った。決して綺麗ではないが、妙に美しい手だ。絵師崩れとして、描き留めておきたい衝動に駆られる。
「そなたは本当に、岩次を掘割に突き落としたのか」
単刀直入に問うた市之進を、お慶は番屋の牢越しにまっすぐ見つめた。
「はい。あたしがやりました」
「嫌疑が固まれば、そなたの身柄は奉行所に移されることになる。殺しは重罪。生きて長屋に帰ることはできぬぞ」
「分かっております。……それでいいのです。どうぞ、早くお沙汰を」
「伴侶に――蓮四郎に、もう会えなくなってもいいと申すか」
蓮四郎の名が出た途端、お慶ははっと肩を揺らした。だがすぐに元の気丈な顔つきを取り戻す。
「かまいません。祝言は上げておりませんが、あたしはあの人の……蓮四郎さんの女房です。離ればなれになっても、『ここ』が繋がっております」
質素な縞木綿の胸に手を当てたお慶は、とても凛としていた。まるで後光が差しているように見えて、佐彦の絵心が再び疼く。
「もう一度聞く。本当に、そなたが岩次を殺めたのか」
市之進は少し苛立っているようだった。ただでさえ険のある顔に影が落ち、眉間の皺がさらに深くなっている。
「怖いお顔……」
お慶は僅かに息を呑み、だが、目は逸らさなかった。市之進を見上げる細面に、悲しそうな色が浮かぶ。
「そんなに剣呑な物腰で、あたしから何を聞き出そうというのです。怖くて話ができませんし、話すこともありません。先ほどから申し上げている通り、すべてあたしがやりました。これ以上はもう……」
お慶はそう言ったきり唇を引き結んだ。胸の前で手を合わせ、じっと目を閉じる。
その様は、まるで地蔵だった。
絶対に何も話さない――頑なに口を閉ざした地蔵を前に、市之進と佐彦は成す術なく立ち尽くすしかなかった。
江戸市中では、中村座と葺屋町の市村座、木挽町の森田座の三座のみが官許の櫓を上げている。幕府の認可がない他の芝居小屋は櫓を上げることができず、舞台の上以外には屋根もつけられない。さらに廻り舞台や花道が使えないなどの制限が加わる。
こうした制約のない三座は大々的に興行ができる一方で、芝居の内容が政道に反していないかどうか、奉行所の者が時々検分に入る。
ゆえに、小屋の二階には舞台を検めにくる役人のための席が常に用意してあった。検分ということであれば、無論、木戸銭を払う必要はない。
与力や同心の中には監視と称して芝居見物を楽しむ者も多いが、堅物の市之進はみなが熱狂する娯楽に見向きなどしなかった。こういった場所に足を踏み入れること自体が初めてらしく、木戸をくぐってから始終、居心地の悪そうな顔つきをしている。
今、中村座は次の芝居の稽古中らしく、官許の証である櫓は骨組みだけになっていた。人々の目を引く絵看板もない。
中にいるのは書き割りや大道具を拵える男たちのみ。座頭や座元も今日は不在らしく、この場を取り仕切っているのは座付き作者の金村三狸という四十がらみの小男だという。少々ふざけた名は、おそらく筆名だろう。
堅物見習与力がわざわざ芝居小屋に足を運んだのは、お慶の伴侶といってもいい男、蓮四郎から聞くためだったが、まず先にその三狸と会うことになった。
「これはこれは。幕の開いていない芝居小屋に、八丁堀のお方が何の用で?」
奉行所から来たと告げると、三狸はあからさまに嫌な顔をした。
思い通りの芝居をやりたい一座の者にとって、時折内容に口を出してくる与力のような役人は目の上の瘤だ。無理もない。
市之進の仏頂面で場がさらに剣呑にならぬよう、佐彦は素早く愛想笑いを浮かべて話を切り出した。
「次の興行で、蓮四郎っていう役者が舞台に出るそうだな。おれたちはとある件で、その蓮四郎さんから話を聞きてぇんだ」
「えっ……。まさか、うちに関わっている役者が、何かしでかしたんですか!」
役者がお縄になれば、興行が中止になることもある。三狸の顔が途端に曇った。
佐彦は慌てて否定した。
「いやいや、この件、嫌疑の者がすでに自白してるんだ。芝居に影響はねぇから、安心してくれ。蓮四郎さんからは、ちょいと参考に話を聞いておきたくてな」
すると三狸は愁眉を開き、今度は首を捻った。
「蓮四郎……蓮四郎……はて、名は聞いたことがあるんですが、どんな人だったかな。ああ、思い出しました。あの人は子守役ですよ」
「子守? 次の芝居で、蓮四郎さんはそういう役をやるのかい?」
尋ねた佐彦に、三狸は苦笑いした。
「違います。あの人はもっぱら、忙しい座元や役者たちの子を面倒見ているんです。文字通り、子守ですよ。それで給金をもらっていると言ってもいい」
「へ? 蓮四郎さんは役者なのに、芝居はしねぇのか」
「あはは。蓮四郎に芝居なんて、とてもとても。座頭は『見目がいいがそれだけだな』と言っていました。あたしは二、三度口をきいただけですが、覚えているのはやたらとおべっかが上手かったことくらいで……。芝居の配役は座元と座頭とあたしで決めるんですがね、あの人は子守役ってことで意見が一致していますよ、いつも」
要するに、華がないんです――きっぱり言い捨てたあと、三狸は窓の外を指さした。
「子守役なら、今は建物の裏でお嬢さん……座元の一人娘、お友里さんの相手をしているはずです。話を聞きたいなら、どうぞご勝手に」
興行主である座元の娘、お友里の歳は十三だという。江戸三座を率いる父親と、その妻である母親は何かと忙しく、今日も出かけているため、『子守』の蓮四郎が稽古事に付き添い、そのまま話し相手になっているとのこと。
三狸に言われた通り芝居小屋の裏に回ると、優男と振袖姿の娘が身を寄せていた。
「こんな素敵な簪、わたしにくれるの? ありがとう、蓮四郎さん」
「よく似合いますよ、お友里さん。助六の揚巻に負けないくらい綺麗だ」
「本当? 嬉しい」
助六とは芝居の有名な演目で、揚巻はそれに出てくる当代一の傾城だ。美女にたとえられたお友里は、頬を赤らめる。
(なるほど。見目はいいしおべっかが上手ぇな)
お友里に微笑みかけている蓮四郎を見て、佐彦は一人で頷いた。まさに評判通りの男である。
「でも、これ、高かったでしょう。どうやって贖ったの? 蓮四郎さん、暮らしに困らない?」
桃割れに結った髪に蓮四郎が自ら挿したのは、女物に疎い佐彦でも一見して華やかだと分かるびらびら簪だった。
まだあどけなさが残るお友里の顔が曇ったのを見て、蓮四郎は微笑みながら軽く頭を振る。
「かかりのことは心配しなくてもいいんですよ。お友里さんが笑ってくれたら、俺はそれだけで生きていけます」
「まぁ……」
十三の娘は、嬉しさのあまり目に涙を浮かべていた。
一体何を見せられているのやら……佐彦はげんなりしつつ、ゆっくりと前に歩み出る。
「ちょいといいかい」
ふいに現れた佐彦に仰天し、蓮四郎はお友里から慌てて離れた。さらに傍らに立っていた仏頂面の見習与力に気付き、あわあわと身を仰け反らせる。
「だだだ、誰ですか! お、お武家さま?」
市之進は目を眇めた。
「北町奉行所の見習与力、青木市之進だ。おぬしは蓮四郎だな。お慶という者について聞きたいことが――」
「ああーっ、ま、待ってくだせぇ。待ってくだせぇ」
蓮四郎は顔の前で忙しなく手を振って市之進の話を止めると、お友里に向き直って猫撫で声を出した。
「お友里さん、ひとまず中の座敷で休んでいてください。俺はこちらのお役人さまと、少しばかり話をしますんで」
「えぇ、蓮四郎さんがいないと、つまらないわ」
「話が済んだらすぐに参ります。そのあと、団子を買いにいきましょう。ですから、どうぞ今は中に」
不満げな顔を見せつつ、お友里は立ち去った。どうやら、蓮四郎は人払いをしたかったらしい。
その気遣いは正しいと佐彦は思った。これからするのは人死にの話だ。十三の娘に聞かせる内容ではない。
お友里がいなくなると、市之進は優男をぎりっと睨みつけて尋ねた。
「おぬし、お慶という者を知っているな。妻も同然と聞いている。そのお慶が、一昨日の夜、高利貸しの岩次を殺めたと番屋に名乗り出た。何か知っていることはあるか」
「えっ、お、お慶が、殺しを?! しかも、自ら名乗り出たって……そ、そんな!」
大きく目を剥いたかと思うと、蓮四郎はその場にしゃがみ込んでしまった。
一連のことについて何も知らなかったようだ。がくがくと震え始めたところを見ると、嘘を吐いているとも思えない。
「お慶はおぬしに、何も言っていなかったのか」
市之進がずいと足を前に踏み出すと、蓮四郎はびくっと身体をこわばらせて首を横に振った。
「俺は、何も聞いていません! お友里さんが江の島の弁財天参りをしたいと言い出して、何人かのお供と一緒に付き添ってたんです。五日前に江戸を経って、戻ったのは昨日の夜だ。そんなことが起きているなんて、ちっとも知らなかった……」
今の話が本当なら、事が起こった日、蓮四郎は家どころか江戸にすらいなかったということになる。
「そんな……お慶が……嘘だろう」
まさに青天の霹靂といった様子で、蓮四郎は涙を浮かべた。
市之進は袖で目元を拭う優男に容赦なく詰め寄る。
「蓮四郎。おぬしはお慶にたいそう世話になっていたようだな。じきにきちんと所帯を持つつもりだったのか」
「え、ええと、俺はまだ、役者としては下っ端で……だから……」
蓮四郎は青々とした月代を撫で上げ、ふいと顔を背ける。
その目は、ある一点に向けられていた。
先ほど、豪華なびらびら簪を挿したお友里が去っていった、その方向に。
蓮四郎はとにかく何も知らないと繰り返し、それ以上たいしたことは聞けなかった。
市之進がすぐ同心たちに裏を取らせたが、岩次が死んだ日、蓮四郎やお友里が江戸にいなかったのは確かなようだ。
あと、顔を合わせていないのはただ一人。
日がだいぶ西に傾いたころ、市之進と佐彦はお慶が留め置かれている番屋に出向いた。ようやく、嫌疑の者とのご対面である。
ほっそりした、柳のような女だった。しばらく番屋の牢に入れられているせいか面窶れしているが、涼しげな目元に芯の強さが垣間見える。
(働き者の手だな)
少し節くれ立ったお慶の指を見て、佐彦はそう思った。決して綺麗ではないが、妙に美しい手だ。絵師崩れとして、描き留めておきたい衝動に駆られる。
「そなたは本当に、岩次を掘割に突き落としたのか」
単刀直入に問うた市之進を、お慶は番屋の牢越しにまっすぐ見つめた。
「はい。あたしがやりました」
「嫌疑が固まれば、そなたの身柄は奉行所に移されることになる。殺しは重罪。生きて長屋に帰ることはできぬぞ」
「分かっております。……それでいいのです。どうぞ、早くお沙汰を」
「伴侶に――蓮四郎に、もう会えなくなってもいいと申すか」
蓮四郎の名が出た途端、お慶ははっと肩を揺らした。だがすぐに元の気丈な顔つきを取り戻す。
「かまいません。祝言は上げておりませんが、あたしはあの人の……蓮四郎さんの女房です。離ればなれになっても、『ここ』が繋がっております」
質素な縞木綿の胸に手を当てたお慶は、とても凛としていた。まるで後光が差しているように見えて、佐彦の絵心が再び疼く。
「もう一度聞く。本当に、そなたが岩次を殺めたのか」
市之進は少し苛立っているようだった。ただでさえ険のある顔に影が落ち、眉間の皺がさらに深くなっている。
「怖いお顔……」
お慶は僅かに息を呑み、だが、目は逸らさなかった。市之進を見上げる細面に、悲しそうな色が浮かぶ。
「そんなに剣呑な物腰で、あたしから何を聞き出そうというのです。怖くて話ができませんし、話すこともありません。先ほどから申し上げている通り、すべてあたしがやりました。これ以上はもう……」
お慶はそう言ったきり唇を引き結んだ。胸の前で手を合わせ、じっと目を閉じる。
その様は、まるで地蔵だった。
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