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1巻
1-3
しおりを挟む「えぇっ、私、料理なんてろくにしたことないから、無理だよ」
「そいつぁ大丈夫だ。俺が横で指南してやらぁ。……頼む、咲! 俺ぁ心残りを、断ち切りてぇんだ」
「惣佑は、未練を解消して……成仏したいの?」
咲がそう問うと、惣佑は項垂れたまま頷いた。
「俺ぁこの世に留まりすぎた。こうしてたって、包丁も握れねぇのによ……。なのに、どうしても心がここから離れてくれねぇ。未練なんてすっぱり断ち切って、行くべきところに行きてぇんだ。だから頼む、咲……」
咲の目の前で、惣佑は額が地面につきそうなほど深く頭を下げた。微動だにしないその姿から、想いの強さが伝わってくる。
もっと料理がしたい。
それは長い間ずっと孤独に耐えてきた彼の、渾身の願いだ。
「分かった……やるよ、私」
気が付くと、咲は力強く頷いていた。
「本当かい⁉」
「うん。料理なんてしたことないけど……やってみる。惣佑の未練がなくなるまで、付き合うよ!」
惣佑の顔に、ぱっと笑みが浮かんだ。それだけでまわりが明るくなったような気がして、思わず咲も微笑む。
こうなったら、料理ととことん向かい合ってみよう。惣佑が無事に成仏できるように、できる限りのことをしたい。
「よろしくね、惣佑」
咲が決意を籠めてそう言うと、惣佑の顔が安堵したように綻んだ。
「――ああようやく、一人じゃなくなったんだな、俺」
桜舞い散る四月。
東京・谷中の片隅で、こうして幽霊料理人との同居生活が始まった。
2
幽霊料理人・惣佑と同居するようになって、はや二か月。
六月に入ったばかりのこの日、咲は谷中の町を散策することにした。
今日は平日だが、咲の通う大学は創立記念日で休校である。梅雨前線はまだやってきておらず、外は快晴だった。
まさに、絶好の散策日和だ。環境が変わって忙しかった日々が落ち着き、ようやく住んでいる町をじっくり見て回る機会が訪れた。
谷中の町は東京都台東区の北西に位置し、文京区や荒川区との区境にあたる。
この場所が本格的に賑わうようになったのは、江戸時代、上野に寛永寺が開かれてからだ。
三代将軍徳川家光がこの寺を開基すると、そこからほど近い谷中にも次々と寺が建立された。寺が建つとやがて参拝客が集まり、さらにその客を見込んであちこちに店ができる。
そうやって発展した谷中の町は、幕末の混乱や関東大震災をくぐり抜け、太平洋戦争の被害も免れた。そのため、町の至るところに、昔の面影が残っている。
加えて、昭和に入って町の中心に商店街ができ、多くの寺と並んで名物の一つになった。
江戸時代から続く寺と、昭和レトロな個人商店、そして現代的な建物とが混ざり合った下町風情が漂う町――それが谷中である。
谷中の玄関口となる主な鉄道の駅は、東京メトロの根津駅と千駄木駅、それからJR山手線日暮里駅の、計三つ。
この中で、咲が散策のスタート地点として選んだのは日暮里駅だった。
住んでいるアパートに一番近いのは千駄木駅だが、たまたま手にした街歩きのガイドブックに日暮里駅を中心としたマップが載っていたので、それに倣うことにしたのだ。
そのガイドブックには、谷中の歴史や坂道の名前の由来などが書かれていて、咲はその情報をマップとともにだいたい頭に入れてある。
咲が今いるのは、日暮里駅の西口を出てすぐ始まっている上り坂の前で、坂の名前は『御殿坂』という。
坂の始まりにある看板によれば、昔、寛永寺の要職にあった人物の御殿があったことからこの名前が付いたと言われるが、定かではないらしい。
谷中はもともと台地と台地の間に開けている町で、坂道が多い。御殿坂はその中でも比較的大きくて広い坂だ。
始点に立つと、緩やかに上っている勾配がよく見通せる。
(しっかり歩いて、ここ最近の食べすぎを解消しなきゃ……!)
そんな思いを心に秘めつつ、咲は一歩目を踏み出した。
谷中に隣接する千駄木・根津界隈も歴史的、文化的施設が多く点在し、谷中と合わせて『谷根千』と呼ばれる人気の観光スポットだ。
このあたりは多くの観光客が訪れ、天気のいい休日などは道が人でごった返して身動きが取れなくなるほどだが、今日は平日なのもあり比較的静かだった。
咲が一歩進むたびに、肩の上で切り揃えたボブヘアがぴょこぴょこと跳ねる。夏が間近に迫っているせいか、少し暑い。
今日の咲は、青い小花模様が散ったお気に入りの半袖シャツに、デニムスカートを合わせていた。しっかり歩くことを考えて両手が使えるようにリュックを背負い、足元はスニーカーだ。
初夏の日差しは想像以上に強い。家を出る前は長袖にするかどうか迷ったが、半袖を着てきて正解だと思った。
「ああ、やっぱ『外』はいいもんだな。心が晴れ晴れするぜ」
そんな咲のすぐ横で、惣佑がぐっと伸びをする。その拍子に長身がふわりと空中に浮き上がり、ゆらゆら漂うように揺れた。
夏服の咲に対し、惣佑のほうは相変わらず紺色の着物姿だ。後ろで一本に束ねてあるつややかな総髪も、出会ってからずっと変わっていない。
多分、気候の変化があっても幽霊が身に着けているものは変更されないのだろう。
「なぁ咲、あっちに行ってみようぜ。何か面白ぇもんがありそうだ」
「そうだね。行ってみようか」
そう普通に答えてしまってから、咲は慌てて自分の口を押さえた。
まさに名実ともに幽霊である惣佑の姿は、他の人には見えない。彼の声が聞こえるのも咲だけだ。
そんなわけで、幽霊の惣佑と会話をする姿は、さながら独り言を呟く怪しい人物である。今の声を誰かに聞かれていたら、怪しまれるかもしれない。
なお、惣佑自身はまわりの景色や音声を咲と同じように見聞きできる。
ものに触ったり味や香りを感じたりすることこそできないものの、視覚と聴覚は元のままのようだ。
(とりあえず大丈夫みたい……)
まわりを見回したが、特にこちらを気に留めている通行人はいなかった。咲は安心して、再び歩き始める。
スタート地点の御殿坂を上り切ると、道が二股に分かれていた。左は『七面坂』と呼ばれる細い下り坂で、右側を少し進むと下へ向かう緩い石段になっている。
右側の石段の上に立つと、『谷中ぎんざ』と書かれたゲートが見えた。ゲートの向こうに、小さな店がひしめき合っている。
看板が示す通り、石段の先にあるのは『谷中銀座』と呼ばれる商店街だ。
その商店街を見下ろせるこの石段には『夕やけだんだん』という、ちょっと可愛い名前がついている。『谷中銀座』と『夕やけだんだん』は、それぞれ谷中のシンボルともいえる名物スポットだ。
咲は夕やけだんだんをトントンと下り、商店街のゲートをくぐった。中に一歩踏み入れると、途端に活気の渦に巻き込まれる。
八百屋、肉屋、雑貨屋、カフェに土産物屋……
百五十メートル以上続く細い路地の左右に、個人商店が競い合うようにして並んでいる。そのまわりを人や物が行き交い、歩いているだけで、まるでおもちゃ箱の中を泳いでいるみたいな気分だ。
「へー、こりゃまた、ずいぶんと賑やかな場所じゃねぇか」
惣佑が咲の斜め上をすいすい飛びつつ、弾むような口調で言った。
谷中銀座商店街の始まりは、終戦直後に立った小さな市場らしい。戦後の発展とともに店が増えたが、今でも当時の雰囲気をいい感じに保っている。
惣菜屋の前を通りかかると、店頭でメンチカツやコロッケを揚げていた。たちまち食欲をそそる香りに包まれる。
街歩きのガイドブックによれば、このコロッケを齧りながらそぞろ歩くのがこの商店街の楽しみ方の一つだという。
揚げ物は一つ数十円からと、値段も手頃だ。しかし、咲はぐっとお腹に力を入れて店を通り過ぎた。
(美味しそうだけど……食べるのはまた今度にしよう!)
ここで間食してしまったら、冗談抜きで顔が大福になる。三食きちんと食べて間食を減らし、なおかつ歩いて、丸くなった頬を引き締めなければ。
「おっ、咲、見てみろよ。魚が売ってるぜ。なかなか活きがいいじゃねぇか! あっちは何でぃ? 菓子屋か?」
咲の気持ちをよそに惣佑はひょいひょいとあちこちの店を覗き、そのたびに歓声を上げた。目をキラキラさせて、百五十メートル続く商店街を何度も行きつ戻りつする。
その様子がいたずら盛りの子供に見えて、咲は思わずふふっと笑みを零した。
はしゃぎたくなる彼の気持ちも理解できる。何しろ、彼にとっては百六十年ぶりの外なのだ。
惣佑は、咲の住んでいるアパートに憑いている幽霊だった。
部屋の中ならある程度移動できるが、何度試みても敷地より一定以上は離れられなかったと聞いている。おそらく地縛霊のような存在の彼は、死んでからずっと、あの場所に縛り付けられていたのだろう。
しかし、咲についてくる形でなら、惣佑も部屋の外に出られる。
この事実が判明した時、彼は部屋の中を飛び回って喜んだ。それほど嬉しかったらしい。
何せ、百六十年もの間、一つの場所から動けなかったのだ。その上、誰にも見つけられず、存在を無視され続けた。
気が遠くなるほど長い時間、彼は独りぼっちで何を思って過ごしていたのか……
それを、惣佑自身はあまり話さない。
いつも幽霊とは思えないほど明るく、江戸っ子特有の口調で咲をからかっては豪快に笑っている。
ただ、時折ふっと物思いに沈んでいることがあるのだ。伏せられた視線が見ているものを、咲は黙って想像するしかない。
「いらっしゃいませー! たい焼きいかがですかぁ!」
「さぁて、今ならきゅうり三本おまけするよー!」
笑い声や売り込み文句で賑わう商店街を歩きつつ、咲は二か月ほど前のことをぼんやりと思い出す。
(惣佑と会った日も、確か今日みたいに天気がよかったよね)
衝撃的な出会いを果たした咲は、あのあと真っ先に黒船について調べた。
黒船とは、江戸時代末期、日本に開国を求めて来航した蒸気船のことだ。江戸時代の日本にはまだそこまで立派な船を造る技術力がなく、浦賀湾に姿を見せた黒船のことは大きなニュースとなって全国を駆け巡ったという。
来航の詳しい日付は、当時の暦で嘉永六年六月三日。西暦だと、一八五三年七月八日になる。
……つまりその三日後が、惣佑の命日ということだ。
「いやぁ、何だか知らねぇうちに、この辺も面白くなったな」
小さな店が立ち並ぶ谷中商店街の様子を物珍しそうに眺めて、惣佑がしみじみと呟いた。谷中には古い町並みが多く残っているが、やはり百六十年前とは大分異なっているらしい。
惣佑との出会いを思い出しながら歩いている間に、商店街の端まで来ていた。
終点はT字路だ。谷中銀座商店街のある道とT字型に交わっている道が『よみせ通り』である。
よみせ通りは、その名の通り、昔は夜になると露店が多く並ぶ道だった。今は個人商店が軒を連ねていて、谷中銀座の続き感覚で散策できる。
咲と惣佑はよみせ通りを左に曲がり、立ち並ぶ店をゆっくりと見て歩いた。
「なぁ咲、そろそろ腹が減らねぇか?」
しばらくすると、上のほうを飛んでいた惣佑が咲の傍に下りてきて言う。
「そういえばそうだね。今何時だろう」
他の通行人に怪しまれないよう小声で答えて腕時計を確認すると、時刻は午後一時を回っていた。
そもそも散策を始めたのが午前十一時半過ぎだ。商店街をのんびりと歩いているうちに、いつの間にか昼になっていたようである。お腹が空くのも無理はない。
「咲、昼飯食うんだったらよ、どっか料理屋に入ってくんねぇか?」
「えっ、自分で作らないで、お店で食べるってこと?」
今日も惣佑の指南で何か作るのだとばかり思っていた咲は、驚いた。
「ああ。できれば板場……料理を作ってるところが見える店がいい。他の料理屋の板場ってやつを、一度見てみてぇんだ」
惣佑がいつも見ているのはアパートの小さなキッチンだ。飲食店の厨房とは規模からして違う。料理人の彼が、広い調理場に興味を持つのも頷ける。
「分かった。じゃあどこかお店を探すね」
そう返してから、咲はしばし立ち止まって考えた。
せっかくだから美味しいものを食べたい。
厨房が見たいという惣佑の希望も叶えたいし、かといって闇雲に探し回るのは効率が悪そうだ。
「あっ、そうだ!」
引っ越してきてからまだ二か月。いわば谷中ビギナーだが、そんな彼女でも一軒だけよく知っている店がある。しかも、飛びきりいいところだ。
「店の見当がついたみてぇだな。こっから近ぇのか?」
歩き始めると、惣佑がふよふよ飛んでついてくる。咲はこくんと頷いて、「すぐそこ」と口の動きだけで答えた。
実際、その店はすぐ近くだ。
今いるのは、よみせ通りの真ん中あたり。そこから少し進み、細い路地に入ると、暖簾の掛かった店が見えてくる。
紺地のその暖簾には、丸っこい字体で『はま』という店の名前が白抜きしてあった。咲は暖簾をくぐりながら、格子の引き戸をカラカラと開ける。
「いらっしゃーい!」
その途端、店内に明るい声が響き渡った。
厨房から出てきた声の主は、咲の顔を見るなり「あら!」と満面の笑みを浮かべる。
「さーちゃんじゃないの! 久しぶり。大きくなったわねぇ!」
咲のことを『さーちゃん』と呼ぶ女性の名は、浜ヨシエ。足を踏み入れたこの店は、彼女が一人で切り盛りする定食屋『はま』だ。
ヨシエは咲の叔父・保彦の知り合いである。東京の叔父の家に遊びに行くたびに『はま』へ連れてきてもらったので、咲とはすっかり顔馴染だ。
女店主のヨシエは五十代だが、独身で若々しく、実年齢より十歳は若く見える。小柄なのに力仕事を平然とこなすし、何より料理の腕がいい。
だから『はま』のメニューはどれも絶品だ。ヨシエのさっぱりした性格も手伝い、店は多くの人に愛されている。
「こんにちは、ヨシエさん。お久しぶりです!」
咲がぺこりと頭を下げると、ショートカットにバンダナを巻き、エプロンを付けたヨシエが笑顔で近づいてきた。
「ヤッくんに聞いたわよ。さーちゃん、谷中に下宿してるんだってね!」
「はい。四月に越してきました。もうちょっと早くこの店に来ればよかったなぁ」
「引っ越したばかりの時は忙しいものね。今日来てくれて嬉しいわ」
ヤッくんとは、咲の叔父・保彦のことだ。こんなふうに、ヨシエはごく親しい人を愛称で呼ぶ。
「さぁさぁ、座って。この席でいいかしら」
通されたのは壁際にある二人掛けのテーブル席だ。
店内には、壁に沿って二人掛けの席が三つ、その向かい側に四人掛けの席が二つある。
毎日賑わっている『はま』だが、平日で昼食にしては時間が遅いせいか、今は人が少なかった。咲の席からは、斜め後ろにある四人掛けの席にいる親子連れらしき客が見えるのみだ。
「さーちゃん、今日は何にする?」
咲の前にお冷を置きながら、ヨシエが訊いてきた。
「日替わりをお願いします」
「はーい了解。ちょっと待っててね!」
注文を聞くと、彼女はすぐに厨房に消えていく。
じゅわーっと何かを揚げる音が聞こえ出したところで、咲は声量に注意しながら惣佑にヨシエとの関係や『はま』のことを説明した。
「このお店は定食屋だけど、お惣菜を容器に詰めて売ったりもしてくれるんだよ。どれも美味しいの」
「ほー、菜も売るのか。生きてた頃、俺もこの店と近ぇことをやってたぜ」
「そうなの?」
「ああ。俺がやってたのは一膳飯屋さ。『夕日屋』っつってな、飯と一緒に菜や味噌汁を出してたんだぜ。菜だけを注文して、持ち帰る客もいたな」
そう言われると、確かに生前の惣佑が営んでいた店と『はま』は、営業形態が近い気がしてくる。
きっと惣佑の店も『はま』と同じように愛されていたんだろうな、と咲は思った。
惣佑が自ら腕を振るうなら、美味しいに違いない。だって、料理音痴の彼女でも、彼の指南があれば美味しい料理が作れるのだ。
「咲、俺ぁちっとばかし板場を見てくるぜ」
言うが早いか、惣佑は厨房のほうへすいすいっと飛んでいってしまった。
幽霊である彼がアパートの外で動けるのは咲のまわりだけだが、どうやら半径十メートル程度は問題ないらしい。
それが分かって以来、惣佑は時折、咲の視界から消える。
たとえば、咲が大学の課題に取り組んでいたり、一人で何かを考えていたりする時は気付くといなくなっているのだ。
風呂に入る時や着替える時などは、そんなそぶりを見せただけでクローゼットやトイレの中にすーっと入っていく。
外出する時も必要以上に付きまとったりはしない。
惣佑が外に出られるのは咲と一緒の時だけだが、アパートの中に残ることももちろんできるので、毎回ついてくるわけではなかった。大学に行く時やちょっとした買い物の時は、笑顔で送り出してくれる。
それに、肝心の料理についても、決して無理は言わない。
本当は毎日でも料理指南をしたいはずなのに、咲が勉強などで疲れている時は「無理しねぇで休みねぇ」と優しく言うのみだ。
いくら同居しているとはいえ、ずっと見られていたら息が詰まるし、たまには一人になりたいこともある。
惣佑はそのあたりのことを何も言わなくとも察してくれるので、咲が息苦しさや居心地の悪さを感じたことは一度もなかった。
幽霊との同居なんて最初はどうなることかと思ったのに、二か月が問題なく過ぎたのは、彼のこういった気遣いのおかげだ。
「はい、お待たせ。日替わり定食よ!」
そんなことを考えているうちに、目の前に温かな料理が置かれていた。
メインは白い大皿に乗ったカニクリームコロッケだ。キャベツの千切りとポテトサラダが添えられていて、もう一つの黒い小鉢にはひじきの煮物が入っている。
これにお替わり自由のご飯と大根の味噌汁がついて、値段は五百八十円だ。
「お味噌汁、熱いから気を付けてね」
料理を運んできたヨシエが、お冷のお替わりを注ぎながら言う。
「はーい。わぁ美味しそう。いただきまーす!」
きっちり手を合わせてから、咲はまずほわほわと湯気が立ち上る味噌汁の椀を手に取った。ヨシエは「ゆっくり食べてってね」と言い残して再び調理場に引っ込む。
入れ替わりで、惣佑がふよふよと戻ってきた。
「いやー、やっぱ店の板場は一味違うぜ。……おっ、咲、そりゃ一体何でぃ。えらく洒落た料理じゃねぇか。美味そうだ」
「うん、美味しい!」
咲はカニクリームコロッケを一口齧る。さくっとした歯ごたえのあとに、とろりと濃厚なクリームが広がった。ほんのり甘いカニの風味もたまらない。
添えられたポテトサラダはマヨネーズの酸味が効いていて、口の中がさっぱりする。ひじきの煮物は優しい味で、ご飯によく合った。
やはり『はま』の料理は絶品だ。一度食べ始めたら箸が止まらず、気付いた時には皿の上がすっかり綺麗になっていた。
「あー美味しかった。ヨシエさん、ごちそうさまでしたぁ!」
咲が調理場に向かって声を掛けると、ヨシエがにこにこしながら出てきた。小さな白いビニール袋を手にしており、それをひょいと差し出す。
「お粗末さまでした。……さーちゃん、これ持ってって。小松菜の白和えと、五目豆よ。お店の残りなんだけど、よかったらどうぞ」
「うわぁー、いいんですか! ヨシエさんの料理なら何でも美味しいから、嬉しい!」
「若いんだから、しっかり食べなきゃ駄目よ」
ヨシエはまるで母のような口調でそう言った。咲は「はい」と頷いて、受け取った袋を胸にしっかりかき抱く。
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