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30章 それぞれの距離感
第2話 不穏の影
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辰野さんが次に来られたのは、翌週の金曜日。いつもの様にお仕事の帰りである。
定番とも言えるサワーを注文される。今日は少し甘めの梅味だった。佳鳴は手早くお作りし、提供した。
辰野さんはグラスに口を付け「美味しいです~」と破顔する。
「今週も頑張りました~。あ、先週言ってたイベント、覚えてらっしゃいます?」
「ええ。先週末に行われたんですよね。成功されました?」
「はい。それはお陰さまで。商品製造のヘルプで工場に出張したんですけど」
「工場のお手伝いって、ラインに立たれるとかなんですか?」
「いえ、事務のヘルプです。ラインはさすがに慣れてる人しかできませんからね。製造数の進捗とか把握とか、時間外労働の手当の算出とか、その辺りを。その時、工場の事務をしてる男性に気に入られちゃったみたいで」
「あら、それは春の兆しですか?」
もしかしたらおめでたいお話だろうか。佳鳴が目を丸くすると、辰野さんは「いえいえ、そこまでは」とあっけらかんと言って首を振った。
「その人のアシストに入ったので、話をすることが多くて。結構話も合ったんですよね。それで今度ご飯でも行こうかって話になって、連絡先交換して。SNSですけど」
「良いお友だちになれそうなんでしょうか?」
「そうですね。良い出会いになったら嬉しいです」
辰野さんは楽観的に考えておられるが、佳鳴は少し心配になってしまう。そのお相手さんにおかしな下心が無ければ良いのだが、と。
下心と一言で言っても、いろいろあると佳鳴は思っている。普通に好意を持たれているのなら良いのだが、不埒なことは考えているのはいただけない。
佳鳴はお相手さんが誠実な方であることを願うしか無かった。
辰野さんの次のご来店は、翌週の金曜日、やはりお仕事帰りだった。
いつもの様にサワーの、今日はレモン味をご注文。佳鳴から受け取った辰野さんは「ありがとうございます」とさっそくこくりと流し込んだ。
「あ~、美味しいですねぇ」
「今週もお疲れさまです」
「ありがとうございます。今週はいつもより疲れた気がします」
辰野さんはそうおっしゃり、普段はあまり見せない苦笑いを浮かべた。辰野さんはいつも疲労を漏らしながらも、溌剌とした笑顔だからだ。
「あら、何かありましたか?」
「それがですねぇ」
辰野さんがそう口を開いた途端、カウンタに置いたスマートフォンがぶぶっと震えた。
「あ、ちょっとすいません」
断りを入れ、黄色い手帳タイプのカバーを開く。だが何の操作もせず、カバーを閉じてまたカウンタに置いた。そして「ふぅ」と憂鬱そうに息を吐く。そんな辰野さんも珍しかった。
「あの、先週言ってた、新しく友だちになるかも知れないって言ってた男性……」
「はい。覚えておりますよ」
「水曜日にご飯に行ったんですよ。金曜日にって誘われたんですけど、私、金曜日は絶対にここに来たいので、約束があるって断って」
「あら、それはこちらには嬉しいお話ですが」
佳鳴が首を傾げると、辰野さんは「それだけは譲れませんから!」と力説し、佳鳴はつい微笑ましくなってしまう。
「で、水曜日のご飯以降、頻繁にメッセージが来る様になってしまって」
佳鳴はついぴくりと眉をひそめてしまう。
「ちょっと私の常識と言うか、どの友だちとのやりとりとかよりもかなり多くて、ちょっとびっくりしちゃって」
辰野さんはそう言ってまた苦笑い。その時またスマートフォンがぶぶっと震えた。目を伏せた辰野さんはカバーを開き、またいじることもせずカバーを閉じた。
「その人からです。家族とか友だちからかも知れないから、見ないわけにはいかなくて。でも最新のメッセージは表示で出るので、それだけで相手を確認して、その人の分はあとでまとめて見ることにしてるんです」
まさか佳鳴の嫌な予感が当たってしまったのだろうか。しかももっと悪い方向に。しつこさ、粘着質の様なものを感じてしまう。
「辰野さん、ご面倒かも知れませんけど、万が一、念のためにスクショ撮っておいた方が良いかと思います」
「え?」
辰野さんはきょとんとした表情を浮かべる。そして「いえ、まさか」と軽く手を振った。
「そこまでは」
「いいえ」
佳鳴はきっぱりと言う。辰野さんは少し怯えた様にびくりと肩を震わせた。佳鳴は辰野さんに少しでも安心していただける様に、にっこりと微笑んだ。怖がらせる意図は無いのだ。
「本当に万が一に備えるためです。私はその方にお会いしたことが無いですし、メッセージを拝見していないので、どんな方なのかが判らないんですけども、ご自分を守ることを優先しましょう。ね」
佳鳴が優しく含ませる様に言うと、辰野さんは少し安心したのか肩の力を抜いた様に見えた。
「は、はい。今やって良いですか?」
「もちろんです。ある程度溜まったら撮っておきましょう」
「はい」
辰野さんはスマートフォンを開き、手早く操作をする。数分後、うんざりした様な表情になった辰野さんはスマートフォンを置いた。
「とりあえずこれまでのをスクショしました。できれば使ったりする様なことになりたく無いです」
「はい。もちろんそれに越したことは無いですね。でも辰野さん、どういう内容のメッセージなんですか? お伺いしても?」
「見てもらっても大丈夫なぐらいです。おはよう、とか、何してるの? とか、晩ご飯は食べた? とか、何時に寝るの? とか。内容は大したことじゃ無いんですけど、何せ頻繁なので」
それを聞いて、佳鳴はますます眉をひそめたくなった。まるでやっていることはストーカーでは無いか。嫌悪感すら沸き上がってしまう。
同じ勤め先だが、幸い本社と工場の違いはある。仕事中は大丈夫だろう。だが、今はメッセージ攻撃だけだが、本人が動き出さないとも限らない。そんな嫌な気配を感じる。
辰野さん行きつけ店の店長に過ぎない佳鳴が何かできるわけでは無い。だが少しでも辰野さんが嫌な思いをしない様に、できることはしたいと思う。どこまで踏み込めるかは難しいところだが。
「……あ、辰野さん、会社の方にそのお話はされました?」
「いえ。社内だと何だか言いにくくて。悪口みたいになっちゃう気がして」
確かに言葉を選ぶだろう。辰野さんは明らかに迷惑に思ってしまっているのだが、下手をすると話が大きくなりかねない。今の段階で辰野さんがそれを望むとも思えない。だからこそ会社とは縁の無い煮物屋さんで漏らしているのだろうから。
会社では言えなくても、誰かに聞いて欲しかったのだと思う。それだけしんどいと思われているのだ。
「辰野さん、私たちはお話をお伺いすることしかできないかも知れませんけど、金曜日に限らずいつでもお越しくださいね」
佳鳴が穏やかに言うと、辰野さんはほっとした様な表情になり、「ありがとうございます」を目尻を下げた。
定番とも言えるサワーを注文される。今日は少し甘めの梅味だった。佳鳴は手早くお作りし、提供した。
辰野さんはグラスに口を付け「美味しいです~」と破顔する。
「今週も頑張りました~。あ、先週言ってたイベント、覚えてらっしゃいます?」
「ええ。先週末に行われたんですよね。成功されました?」
「はい。それはお陰さまで。商品製造のヘルプで工場に出張したんですけど」
「工場のお手伝いって、ラインに立たれるとかなんですか?」
「いえ、事務のヘルプです。ラインはさすがに慣れてる人しかできませんからね。製造数の進捗とか把握とか、時間外労働の手当の算出とか、その辺りを。その時、工場の事務をしてる男性に気に入られちゃったみたいで」
「あら、それは春の兆しですか?」
もしかしたらおめでたいお話だろうか。佳鳴が目を丸くすると、辰野さんは「いえいえ、そこまでは」とあっけらかんと言って首を振った。
「その人のアシストに入ったので、話をすることが多くて。結構話も合ったんですよね。それで今度ご飯でも行こうかって話になって、連絡先交換して。SNSですけど」
「良いお友だちになれそうなんでしょうか?」
「そうですね。良い出会いになったら嬉しいです」
辰野さんは楽観的に考えておられるが、佳鳴は少し心配になってしまう。そのお相手さんにおかしな下心が無ければ良いのだが、と。
下心と一言で言っても、いろいろあると佳鳴は思っている。普通に好意を持たれているのなら良いのだが、不埒なことは考えているのはいただけない。
佳鳴はお相手さんが誠実な方であることを願うしか無かった。
辰野さんの次のご来店は、翌週の金曜日、やはりお仕事帰りだった。
いつもの様にサワーの、今日はレモン味をご注文。佳鳴から受け取った辰野さんは「ありがとうございます」とさっそくこくりと流し込んだ。
「あ~、美味しいですねぇ」
「今週もお疲れさまです」
「ありがとうございます。今週はいつもより疲れた気がします」
辰野さんはそうおっしゃり、普段はあまり見せない苦笑いを浮かべた。辰野さんはいつも疲労を漏らしながらも、溌剌とした笑顔だからだ。
「あら、何かありましたか?」
「それがですねぇ」
辰野さんがそう口を開いた途端、カウンタに置いたスマートフォンがぶぶっと震えた。
「あ、ちょっとすいません」
断りを入れ、黄色い手帳タイプのカバーを開く。だが何の操作もせず、カバーを閉じてまたカウンタに置いた。そして「ふぅ」と憂鬱そうに息を吐く。そんな辰野さんも珍しかった。
「あの、先週言ってた、新しく友だちになるかも知れないって言ってた男性……」
「はい。覚えておりますよ」
「水曜日にご飯に行ったんですよ。金曜日にって誘われたんですけど、私、金曜日は絶対にここに来たいので、約束があるって断って」
「あら、それはこちらには嬉しいお話ですが」
佳鳴が首を傾げると、辰野さんは「それだけは譲れませんから!」と力説し、佳鳴はつい微笑ましくなってしまう。
「で、水曜日のご飯以降、頻繁にメッセージが来る様になってしまって」
佳鳴はついぴくりと眉をひそめてしまう。
「ちょっと私の常識と言うか、どの友だちとのやりとりとかよりもかなり多くて、ちょっとびっくりしちゃって」
辰野さんはそう言ってまた苦笑い。その時またスマートフォンがぶぶっと震えた。目を伏せた辰野さんはカバーを開き、またいじることもせずカバーを閉じた。
「その人からです。家族とか友だちからかも知れないから、見ないわけにはいかなくて。でも最新のメッセージは表示で出るので、それだけで相手を確認して、その人の分はあとでまとめて見ることにしてるんです」
まさか佳鳴の嫌な予感が当たってしまったのだろうか。しかももっと悪い方向に。しつこさ、粘着質の様なものを感じてしまう。
「辰野さん、ご面倒かも知れませんけど、万が一、念のためにスクショ撮っておいた方が良いかと思います」
「え?」
辰野さんはきょとんとした表情を浮かべる。そして「いえ、まさか」と軽く手を振った。
「そこまでは」
「いいえ」
佳鳴はきっぱりと言う。辰野さんは少し怯えた様にびくりと肩を震わせた。佳鳴は辰野さんに少しでも安心していただける様に、にっこりと微笑んだ。怖がらせる意図は無いのだ。
「本当に万が一に備えるためです。私はその方にお会いしたことが無いですし、メッセージを拝見していないので、どんな方なのかが判らないんですけども、ご自分を守ることを優先しましょう。ね」
佳鳴が優しく含ませる様に言うと、辰野さんは少し安心したのか肩の力を抜いた様に見えた。
「は、はい。今やって良いですか?」
「もちろんです。ある程度溜まったら撮っておきましょう」
「はい」
辰野さんはスマートフォンを開き、手早く操作をする。数分後、うんざりした様な表情になった辰野さんはスマートフォンを置いた。
「とりあえずこれまでのをスクショしました。できれば使ったりする様なことになりたく無いです」
「はい。もちろんそれに越したことは無いですね。でも辰野さん、どういう内容のメッセージなんですか? お伺いしても?」
「見てもらっても大丈夫なぐらいです。おはよう、とか、何してるの? とか、晩ご飯は食べた? とか、何時に寝るの? とか。内容は大したことじゃ無いんですけど、何せ頻繁なので」
それを聞いて、佳鳴はますます眉をひそめたくなった。まるでやっていることはストーカーでは無いか。嫌悪感すら沸き上がってしまう。
同じ勤め先だが、幸い本社と工場の違いはある。仕事中は大丈夫だろう。だが、今はメッセージ攻撃だけだが、本人が動き出さないとも限らない。そんな嫌な気配を感じる。
辰野さん行きつけ店の店長に過ぎない佳鳴が何かできるわけでは無い。だが少しでも辰野さんが嫌な思いをしない様に、できることはしたいと思う。どこまで踏み込めるかは難しいところだが。
「……あ、辰野さん、会社の方にそのお話はされました?」
「いえ。社内だと何だか言いにくくて。悪口みたいになっちゃう気がして」
確かに言葉を選ぶだろう。辰野さんは明らかに迷惑に思ってしまっているのだが、下手をすると話が大きくなりかねない。今の段階で辰野さんがそれを望むとも思えない。だからこそ会社とは縁の無い煮物屋さんで漏らしているのだろうから。
会社では言えなくても、誰かに聞いて欲しかったのだと思う。それだけしんどいと思われているのだ。
「辰野さん、私たちはお話をお伺いすることしかできないかも知れませんけど、金曜日に限らずいつでもお越しくださいね」
佳鳴が穏やかに言うと、辰野さんはほっとした様な表情になり、「ありがとうございます」を目尻を下げた。
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