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5章 初めての振る舞い
第4話 たったひとつの豚汁
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「お父さまに喜んでいただけて、良かったですねぇ」
佳鳴が言うと、星野さんは「はい」とはにかむ。
「本当にあんなに喜んでもらえるなんて思わなかったから、びっくりしちゃって。あの時のスーパーの定員さんにも本当に感謝だよ。何も判らずに野菜とか買ってたら、ちゃんと出来ていたかどうか。でも、作った料理を美味しいって食べてもらえるのって、すごく嬉しいことなんだね。それから僕も、誰かに手料理をごちそうになったら、美味しいって言う様にしてるよ。感謝の気持ちも込めて」
「それは良いですね。私たちも、お客さまに美味しいと仰っていただけたら、本当に嬉しいですもん」
「ここのご飯は本当に美味しいからね」
「ありがとうございます」
その時、星野さんが何かに気付いた様に「ん」ともらし、手をジャケットの内側に添わせる。取り出されたのはスマートフォンだった。
「ああ、陽子さん」
画面を見て、星野さんは呟く。女性の名前、彼女さんだろうか。星野さんはスマートフォンを操作して、手帳型のカバーを閉じるとまた内ポケットにしまった。
「陽子さんは父の再婚相手なんだ。ご縁があって2年ほど前に」
「仲良くされてるんですね」
「そうだね。反発する様な歳でも無かったし、父が良いなら良いかなって。まぁ僕はそのタイミングで家を出たんだけどね。一緒に暮らすのは気も使うし、ふたりの邪魔もしたく無かったし」
「なるほどです」
「ただね、父は再婚しても、豚汁だけは僕の作ったものしか食べないって言うんだよね」
星野さんは呆れた様に、だがどこか嬉しそうに溜め息を吐く。
「自分でだって作れるし、もちろん陽子さんだって作れるよ。それに陽子さんは生の野菜を使うんだから、僕が作るものより絶対に美味しいはずなのに。でも何でかな、父はそう言うんだよねぇ」
「それは、星野さんが最初に作られた豚汁が、お父さまにとって本当に美味しくて、嬉しかったからなんでしょうねぇ」
千隼のせりふに、星野さんは「あ~」と空を仰ぐ。
「やっぱり影響してると思う? そうだよねぇ。それしか考えられないよねぇ。だから陽子さん、また近いうちに豚汁作りに来てって」
星野さんの言葉に、佳鳴は「ふふ」と小さく笑う。
「もちろんそれもあるんでしょうけど、お父さまと陽子さんは、単に星野さんのお顔をご覧になりたいのかも知れませんね。ご実家にお電話とかされたりしてます?」
「用が無かったらあんまりしないかなぁ。ひとり暮らしならともかく、陽子さんいるし、あんまり心配してないんだよね。まだまだ元気だし」
「それでもやっぱり、少しお寂しいのかも知れませんね。近々帰ってさしあげてくださいな」
「そうするよ。お味噌も僕が使う用に、出汁入りのやつ用意してくれているんだよ。液体のやつね。陽子さんだったら出汁から作ってくれるのに。でも父は「やっぱりお前の豚汁は美味しいなぁ」ってばくばく食うんだ。陽子さんも一緒になって「本当ねぇ」なんて言いながら食べてくれるんだよ。もう本当に申し訳無いやらなんやらで」
「お父さまは星野さんのお顔が見られて、星野さんの手料理が食べられるのが嬉しいんでしょうね。陽子さんもそれがお判りになるから、こうして星野さんにご連絡を入れられるんでしょうね」
「そうなんだろうねぇ。うん、これも親孝行って言うのかな」
星野さんはそう言って、お椀に少しだけ残されていた豚汁をそっと飲み干した。
それから星野さんは、もう少し話をして帰られた。そのあとも営業はつつがなく続き、料理が終わってしまったので、煮物屋さんも閉店である。もうすぐ23時だ。
後片付けをしながら、姉弟は星野さんの話をする。
「しっかし、星野さんの前の母親、なかなかアバンギャルドな人だったんだな」
「いやぁ、アバンギャルドと言うかデンジャラスって言うか」
星野さんの実の母親は、後の再婚相手となる男性と駆け落ちした訳だが、数日後記入済みの離婚届を、何の一筆も無く送り付けて来た。
それは母親にとって、父親への不満を表していたのかも知れないが、父親にとってはそんな身勝手は許せるものでは無かった。
だが星野さんへの影響を考えたのだろう。父親は聞いてきたのだと言う。「お母さんを懲らしめて良いか」と。
星野さんとて傷付いていたのだから、「うん」と考えることも無く頷いた。
そこで離婚調停を起こしたのだが、その時渋々出廷して来た母親はこう言い放ったのだと言う。
「こんなに退屈な人だなんて思わなかった。毎日同じ時間に出て行って同じ時間に帰って来る、単調で何も無いつまらない生活。もうまっぴらだったわ」
それは、普通の人の普通の、当たり前の生活である。だが母親はそれが我慢出来なかったのだ。
母親の再婚相手は画家志望の男性で、ろくに働きもせずに絵ばかりを書いている人だった。
そんな人と一緒になれば、芽が出ない限りは苦労するのは目に見えている。だが母親はそれを選んだのだ。
苦労をしたいと言うよりは、刺激的な生活を求めたのだろう。
「そんなの会社勤めだったら、特に役所勤めなんだから結婚前から分かってたことなのに、何で結婚したんだろ、あの人」
星野さんはそう言って首を傾げていた。
「もしかしたら、前のお母さまのお父さま、星野さんにとってはお母さま方のお祖父さまが、良く飲み歩いたりする方だったんでしょうかね?」
佳鳴が言うと、星野さんは「ああ」と合点がいった様に声を上げた。
「そうかも知れない。あの人の実家に行ったら、お祖父ちゃんいつでもお酒飲んでた様な覚えがある。それを見て育ったから、男性はそういうもんだって思ってたのかも知れないね。だったらお祖母ちゃんは苦労したのかも。今はあの人もろとも音信不通だけど」
再婚相手の雅号も聞いたとのこと。佳鳴と千隼も教えてもらったのだが、あいにくさっぱりと聞き覚えは無かった。
「ってことは、まだ絵で身を立てれて無いってことかなぁ」
「どうかな。有名で無くても、食べていけるぐらいには売れてる人もいると思うよ」
「ああ、無名の画家ってところか。確かにそう言う人も多いんだろうな。俺らにはあんまり判らない世界だけどさ」
「私たちそっち方面無知だもんねー」
「でもさ、今は親父さんともその再婚相手の人とも仲良くしてるみたいだし、結果オーライってやつなんだろうな」
「そうだね。豚汁の思い出かぁ。何か良いねぇ」
「ああ。何か俺まで嬉しくなったぜ」
「私もだよ。お父さん、星野さんに会えるの楽しみにしてらっしゃるだろうなぁ。親子団らんの食卓、良いよねぇ」
「そうだな」
それは、佳鳴と千隼にはとても羨ましいことだった。だからこそ星野さんにはその素晴らしい時間を、ぜひ大切にして欲しいと切に願うのだった。
佳鳴が言うと、星野さんは「はい」とはにかむ。
「本当にあんなに喜んでもらえるなんて思わなかったから、びっくりしちゃって。あの時のスーパーの定員さんにも本当に感謝だよ。何も判らずに野菜とか買ってたら、ちゃんと出来ていたかどうか。でも、作った料理を美味しいって食べてもらえるのって、すごく嬉しいことなんだね。それから僕も、誰かに手料理をごちそうになったら、美味しいって言う様にしてるよ。感謝の気持ちも込めて」
「それは良いですね。私たちも、お客さまに美味しいと仰っていただけたら、本当に嬉しいですもん」
「ここのご飯は本当に美味しいからね」
「ありがとうございます」
その時、星野さんが何かに気付いた様に「ん」ともらし、手をジャケットの内側に添わせる。取り出されたのはスマートフォンだった。
「ああ、陽子さん」
画面を見て、星野さんは呟く。女性の名前、彼女さんだろうか。星野さんはスマートフォンを操作して、手帳型のカバーを閉じるとまた内ポケットにしまった。
「陽子さんは父の再婚相手なんだ。ご縁があって2年ほど前に」
「仲良くされてるんですね」
「そうだね。反発する様な歳でも無かったし、父が良いなら良いかなって。まぁ僕はそのタイミングで家を出たんだけどね。一緒に暮らすのは気も使うし、ふたりの邪魔もしたく無かったし」
「なるほどです」
「ただね、父は再婚しても、豚汁だけは僕の作ったものしか食べないって言うんだよね」
星野さんは呆れた様に、だがどこか嬉しそうに溜め息を吐く。
「自分でだって作れるし、もちろん陽子さんだって作れるよ。それに陽子さんは生の野菜を使うんだから、僕が作るものより絶対に美味しいはずなのに。でも何でかな、父はそう言うんだよねぇ」
「それは、星野さんが最初に作られた豚汁が、お父さまにとって本当に美味しくて、嬉しかったからなんでしょうねぇ」
千隼のせりふに、星野さんは「あ~」と空を仰ぐ。
「やっぱり影響してると思う? そうだよねぇ。それしか考えられないよねぇ。だから陽子さん、また近いうちに豚汁作りに来てって」
星野さんの言葉に、佳鳴は「ふふ」と小さく笑う。
「もちろんそれもあるんでしょうけど、お父さまと陽子さんは、単に星野さんのお顔をご覧になりたいのかも知れませんね。ご実家にお電話とかされたりしてます?」
「用が無かったらあんまりしないかなぁ。ひとり暮らしならともかく、陽子さんいるし、あんまり心配してないんだよね。まだまだ元気だし」
「それでもやっぱり、少しお寂しいのかも知れませんね。近々帰ってさしあげてくださいな」
「そうするよ。お味噌も僕が使う用に、出汁入りのやつ用意してくれているんだよ。液体のやつね。陽子さんだったら出汁から作ってくれるのに。でも父は「やっぱりお前の豚汁は美味しいなぁ」ってばくばく食うんだ。陽子さんも一緒になって「本当ねぇ」なんて言いながら食べてくれるんだよ。もう本当に申し訳無いやらなんやらで」
「お父さまは星野さんのお顔が見られて、星野さんの手料理が食べられるのが嬉しいんでしょうね。陽子さんもそれがお判りになるから、こうして星野さんにご連絡を入れられるんでしょうね」
「そうなんだろうねぇ。うん、これも親孝行って言うのかな」
星野さんはそう言って、お椀に少しだけ残されていた豚汁をそっと飲み干した。
それから星野さんは、もう少し話をして帰られた。そのあとも営業はつつがなく続き、料理が終わってしまったので、煮物屋さんも閉店である。もうすぐ23時だ。
後片付けをしながら、姉弟は星野さんの話をする。
「しっかし、星野さんの前の母親、なかなかアバンギャルドな人だったんだな」
「いやぁ、アバンギャルドと言うかデンジャラスって言うか」
星野さんの実の母親は、後の再婚相手となる男性と駆け落ちした訳だが、数日後記入済みの離婚届を、何の一筆も無く送り付けて来た。
それは母親にとって、父親への不満を表していたのかも知れないが、父親にとってはそんな身勝手は許せるものでは無かった。
だが星野さんへの影響を考えたのだろう。父親は聞いてきたのだと言う。「お母さんを懲らしめて良いか」と。
星野さんとて傷付いていたのだから、「うん」と考えることも無く頷いた。
そこで離婚調停を起こしたのだが、その時渋々出廷して来た母親はこう言い放ったのだと言う。
「こんなに退屈な人だなんて思わなかった。毎日同じ時間に出て行って同じ時間に帰って来る、単調で何も無いつまらない生活。もうまっぴらだったわ」
それは、普通の人の普通の、当たり前の生活である。だが母親はそれが我慢出来なかったのだ。
母親の再婚相手は画家志望の男性で、ろくに働きもせずに絵ばかりを書いている人だった。
そんな人と一緒になれば、芽が出ない限りは苦労するのは目に見えている。だが母親はそれを選んだのだ。
苦労をしたいと言うよりは、刺激的な生活を求めたのだろう。
「そんなの会社勤めだったら、特に役所勤めなんだから結婚前から分かってたことなのに、何で結婚したんだろ、あの人」
星野さんはそう言って首を傾げていた。
「もしかしたら、前のお母さまのお父さま、星野さんにとってはお母さま方のお祖父さまが、良く飲み歩いたりする方だったんでしょうかね?」
佳鳴が言うと、星野さんは「ああ」と合点がいった様に声を上げた。
「そうかも知れない。あの人の実家に行ったら、お祖父ちゃんいつでもお酒飲んでた様な覚えがある。それを見て育ったから、男性はそういうもんだって思ってたのかも知れないね。だったらお祖母ちゃんは苦労したのかも。今はあの人もろとも音信不通だけど」
再婚相手の雅号も聞いたとのこと。佳鳴と千隼も教えてもらったのだが、あいにくさっぱりと聞き覚えは無かった。
「ってことは、まだ絵で身を立てれて無いってことかなぁ」
「どうかな。有名で無くても、食べていけるぐらいには売れてる人もいると思うよ」
「ああ、無名の画家ってところか。確かにそう言う人も多いんだろうな。俺らにはあんまり判らない世界だけどさ」
「私たちそっち方面無知だもんねー」
「でもさ、今は親父さんともその再婚相手の人とも仲良くしてるみたいだし、結果オーライってやつなんだろうな」
「そうだね。豚汁の思い出かぁ。何か良いねぇ」
「ああ。何か俺まで嬉しくなったぜ」
「私もだよ。お父さん、星野さんに会えるの楽しみにしてらっしゃるだろうなぁ。親子団らんの食卓、良いよねぇ」
「そうだな」
それは、佳鳴と千隼にはとても羨ましいことだった。だからこそ星野さんにはその素晴らしい時間を、ぜひ大切にして欲しいと切に願うのだった。
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