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4章 決め付けられた気持ち

第5章 ご常連のお心遣い

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 22時のオーダーストップに近くなると、客席も空きが目立つ。もう新規のお客さまも来られないだろうと思った時、引き戸が開かれた。

「こんばんは~」

 そんなのんびりしたご挨拶とともに顔を覗かせたのは、尾形おがたさんだった。茉莉奈まりなはついびくりと肩を上げてしまう。

「……いらっしゃいませ」

 いけない、お客さまなのだから笑顔でお出迎えしなければ。茉莉奈は慌てて顔に笑みを貼り付けた。

 尾形さんにしてはかなり遅い時間で、しかも今日はおひとりだった。いつもなら「お珍しいですねぇ」なんて会話もするが、今の茉莉奈にその余裕は無かった。

「今日はひとりやからカウンタでええわ」

「あ、はい」

 高牧たかまきさんも雪子ゆきこさんも、寺島てらしまさんもすでに席を立たれている。カウンタにはご常連のご夫婦がおられるだけだった。

 茉莉奈が尾形さんにおしぼりをお持ちすると、生ビールを頼まれる。

「はい。お待ちくださいませ」

 茉莉奈は飲み物カウンタに向かいながら、また触られるんだろうかと暗い気持ちになる。ついジョッキを出すのがゆっくりになってしまう。だが生ビールを注ぎ始めるとサーバは容赦ようしゃ無い。いつもの通り秒数できめ細やかな泡をたたえた生ビールができあがる。

 そんな当たり前のことに落胆らくたんしながら、茉莉奈はのろのろと尾形さんに生ビールをお運びした。

「お待たせしました」

 また手を伸ばされるのだろうか。そう警戒けいかいするが、尾形さんは「ありがとう」と言うだけで、両手はカウンタに乗せたままだった。茉莉奈はほっとして、それでも注意しつつ生ビールをテーブルに置いた。

「注文頼むわ 茉莉奈ちゃん特製メニューまだある?」

 この時間になると、ありがたいことに作り置いているものが品切れになっていることもある。ナムルももう無くなっていた。

「すいません、もう終わってしまったんです」

「そっかぁ。やっぱり遅い時間やと無いかぁ。人気やもんなぁ」

 尾形さんはおしながきを見てだし巻き卵と、豚ばら肉と白菜のくたくた煮を頼まれた。

「はい。お待ちくださいませ」

 尾形さんに触られなかったことで、茉莉奈はほっと息を吐いた。もう止めてくれるのだろうか。だとしたら心底助かる。きっとまたこれまで通り尾形さんに接することができるだろう。

 それから尾形さんは生ビールのお代わりを頼まれ、その時も手は伸ばされなかった。料理はカウンタ席だと厨房ちゅうぼうから直接お届けするので、茉莉奈が関わることは無かった。

 その間に他のお客さまもお帰りになり、お客さまは尾形さんおひとりとなった。料理はもうラストオーダーを迎えているので、茉莉奈と香澄かすみは少しずつ後片付けを始める。香澄は尾形さんと談笑していた。

 そんな尾形さんを見て、茉莉奈は安堵あんどする。多分もう大丈夫なんだ。これからも無事尾形さんを笑顔でお出迎えできる。

 飲み物ももう終わりの時間なので、尾形さんに追加注文が無いか確認した茉莉奈は、ビールサーバーの洗浄をしようと飲み物カウンタへと向かう。

「茉莉奈、私ちょっとごみ出して来るから」

 「はなむら」には裏口があって、その内側にポリバケツを置いてあるのだ。ごみ回収業者と契約していて、毎日裏口に出して持って行ってもらっている。

「はーい」

 茉莉奈は返事をし、サーバーのコックを外そうと手を掛ける。

 すると、横から手が伸びて来て、茉莉奈の腕を掴んだ。

「え?」

 茉莉奈が驚いて顔を上げると、すぐ近くに尾形さんの顔があった。茉莉奈は驚きに目をいて、後ずさりしようとする。が、足がもつれて巧く行かなかった。

「あ」

 そんな声がれたが、瞬時に沸き上がった恐怖でかすれてしまう。茉莉奈は手を振り払おうとするが、身体が強張こわばって力が入らない。

 にやにやと笑う尾形さんが「ねぇ」とねっとりとした声を上げた。

「茉莉奈ちゃん、俺、分かってるんやで。俺の気持ちも分かってるやんね?」

 何のことだ。何を言っているのだろうか。茉莉奈は混乱してしまって、ますます逃れることができなくなった。

 背筋が凍る。指先が冷たくなって、体温が奪われる様な感覚に陥る。自分の身体が自分のものでは無い様な。ただただ「怖い」「気持ち悪い」と、かつても感じた感情が渦巻いた。

 またぐいと尾形さんの顔が近付く。茉莉奈はとっさに俯き、空いていた腕を自らをかばう様に掲げた。

 その時。

「はーい、そこまで!」

 がらがらがらっと派手な音を立てて引き戸が開かれた。どかどかと足音がすると、ふっと尾形さんの顔が遠退とおのいて、腕を拘束こうそくする力が弱まった。

 今だ! 茉莉奈は力一杯尾形さんの手を振りほどいた。そしてようやくおずおずと顔を上げると、茉莉奈と尾形さんの間に腕を伸ばしていたのは寺島さんだった。もう片方の手にはスマートフォンがかかげられていた。

 見ると高牧さんと雪子さんもいる。そして奥から「茉莉奈!」と香澄の悲痛な声が響いた。

「ママ!」

 振り返ると、香澄が駆け寄って来て茉莉奈の身体を包んだ。ぎゅっと強く抱き締められる。

「ごめん、茉莉奈、怪我けがは無い? ほんまにごめんやで」

「え、ごめんって」

「ごめんねぇ」

 辛そうな声で何度も謝る香澄に、茉莉奈は何が起こっているのか判らず狼狽うろたえる。だが助かったことだけは確かだった。

「ほんまにごめんな、茉莉奈ちゃん」

 そう硬い声で言うのは寺島さん。寺島さんは見たことも無い様な怖い形相ぎょうそうで尾形さんをひらみ付けていて、尾形さんはたじろいで明らかに狼狽ろうばいしていた。

「現行犯や。動画も撮らせてもろたで」

「な、何やねんお前ら!」

 尾形さんが張り上げる声が上擦る。動揺している様だが、引くつもりは無い様だ。

「俺と茉莉奈ちゃんの邪魔をすんな!」

「邪魔も何も、茉莉奈ちゃん明らかに嫌がっとったや無いか」

「そんなわけあれへん。茉莉奈ちゃんは俺が好きなはずや」

 尾形さんのそのせりふに、茉莉奈はまだ怖さを感じながらも、頭に盛大なはてなマークを浮かべた。

 寺島さんがちらりと茉莉奈を見る。茉莉奈は否定する様にぶんぶんと首を振った。

「茉莉奈ちゃんは違う言うてるで」

「照れとるだけや。だって茉莉奈ちゃんはいつでも俺に好意的な笑顔向けてくれとった。好きやからやろ。せやから俺から触ってあげとったんや」

 尾形さんが堂々と言い張るので、茉莉奈は呆然としてしまう。尾形さんは「はなむら」のお客さま。茉莉奈にとってはそれだけだ。恋愛感情を抱いたことなんて、ただの一度も無い。

「そりゃあ客商売なんやから当たり前やろう」

 そう呆れた様に言うのは高牧さん。雪子さんも「そうやわ」と頷く。

「私かて「はなむら」でお運びさんしとる時は、お愛想あいそ振りまいとったわ。誰かが特別やなんてあれへんよ」

「いいや、茉莉奈ちゃんは俺にだけ特別やった!」

 雪子さんがたしなめる様に言っても、尾形さんはがんとして譲らない。なんという思い込みの激しさ。茉莉奈はぞっとして、香澄にすがり付く手が強くなってしまう。香澄はそんな茉莉奈をあやす様に背中を優しくでてくれた。

 茉莉奈が反論すべきなのに、口が巧く動いてくれない。喉から声が出て行かない。それでも必死で絞り出そうと、ぱくぱくと口を動かした。

「茉莉奈、落ち着いて。大丈夫、大丈夫やからね」

 香澄がそっと背中をさすってくれ、茉莉奈は少しずつ落ち着いて行く。すぅ、はぁ、と深呼吸をして、茉莉奈はわなわなと震える口を開いた。

「お、がたさん」

 茉莉奈が必死でつむぐと、尾形さんが喜色満面きしょくまんめんになった。

「ほら、やっぱり茉莉奈ちゃんは俺が好きなんや」

 その言葉に対して茉莉奈は全力で首を横に振った。

「私、尾形さんを、お客さま以上として、見たことはありません」

 辿々たどたどしくも、茉莉奈はきっぱりと言い放った。しかし尾形さんの笑顔は崩れない。

「解ってるで。皆がおるから照れてんねんな」

「違う!」

 茉莉奈はつい声を荒げてしまう。今度こそ尾形さんの表情が凍り付いた。

「ほんまに、私は、あの、尾形さんにお客さまとして以外の感情を、持ったことはありません。ほんまです」

 泣きそうだった。どうしてそんな誤解をされなければならないのか。

 そりゃあ人間なのだから、お客さまによって多少の好き嫌いは出てしまう。尾形さんは茉莉奈に気さくに話しかけてくれて、いつでも穏やかで、そういう意味では好きな方のご常連だった。

 だがあくまでそれだけだ。茉莉奈は尾形さんと店の外で会いたいと思ったことも無ければ、個人的なお付き合いをしたいと思ったことも無い。

 尾形さんはあくまでも「はなむら」のご常連。それだけなのだ。

 茉莉奈の蒼白そうはくな固い顔を見て、尾形さんも愕然がくぜんとした表情になった。

「じゃあ、じゃあ何でいつも笑顔やったんや。俺だけに笑顔で」

「せやから客商売やからって言うてるやろ。茉莉奈ちゃんは高牧さんにも雪子さんにも、こんな俺にもいつでも笑顔でいてくれた。尾形さんだけや無い。他のお客さん相手にもそうや。看板娘としての愛想や。そんなことで好意ばら撒くって、茉莉奈ちゃんどんだけ悪女やねん。1番茉莉奈ちゃんと縁遠いわ。それに尾形さん既婚者きこんしゃやろ。何してんねんな」

 寺島さんが吐き捨てる様に言うと、尾形さんは真っ赤な怒り顔になり、「なんやねん!」と怒鳴り付けた。

「俺は客やぞ! 客にこんな扱いしてええんか!」

「いいえ!」

 香澄の声が厳しく響く。いつも穏やかな香澄が険しい顔で尾形さんを見えていた。

「従業員にこんなことをする人は、「はなむら」のお客さまではありません。お引き取りください」

 すると尾形さんは一瞬ぽかんとした後、また顔を赤くして目一杯しかめた。

「ふざけんな! お前みたいなビッチ、こっちこそ願い下げや!」

 そう大声で言い捨てて、席に置いていたコートを引っ掴んで店を出て行った。その後ろ姿は憤怒ふんどにまみれていて、男性に怒られた経験があまり無い茉莉奈はまたびくり肩を震わせた。

 店内が静かになり、茉莉奈はようやく普通に声が出せる様になった。

「あの、なんで皆さん」

 まずはお礼をすべきなのに、戸惑った茉莉奈が言うと、寺島さんが「ん」と言って手にしていたスマートフォンを差し出した。

「何ですかこれ、いつの間に!?」

 茉莉奈は驚いて声を上げた。そこにはアプリチャットのグループ画面で、グループ名は「茉莉奈ちゃんを見守る会」となっていた。

 並んでいたいくつかのアイコンにご本人の顔のものは無かったので、どれが誰のものなのかは判らない。だがこうしたグループができあがっていることに、茉莉奈はどんな感情を持ったら良いのか判らなかった。

「要は茉莉奈ちゃんを酒場の危険から守ろう、みたいな。常連は基本表向きはええ人ばっかりやけど、裏は判らん。現に尾形さんがあれやったしな。それに一見いちげんさんにややこしい人がおる場合かてある。せやから皆で情報共有しよかってことになったんや」

「それに「はなむら」は女性だけで仕切ってるお店やからねぇ。私はまぁお婆ちゃんやし、そうおかしなトラブルは起こらんかったけど、茉莉奈ちゃんは若いお嬢さんやからねぇ。変な人がおっても困るし」

「それで常連で、信用できる人何人かに声を掛けたんじゃよ。言い出しっぺは雪子さんなんじゃ」

 茉莉奈が慌てて雪子さんを見ると、雪子さんは穏やかに「ふふ」と笑う。

「私も家族でグループ作ってるからねぇ。それ使ったらええと思ったんよ。最初は高牧さんに相談してねぇ」

「それをきっかけに、わしは携帯をスマホに変えたんじゃよ。使い方を雪子さんに教えてもろうてのう」

「俺も雪子さんに声を掛けてもろたんや。嬉しかったわ。信用してくれてるってことやもんな」

「寺島くん口調は軽いけど、ええ子なんは話しとったら分かるからねぇ。お家の農家仕事をあんなに楽しそうに話してくれる子やもん。「はなむら」に旬のもの持って来てくれたりねぇ」

「そ、それはママも入ってるん?」

「そうやで。私は「はなむら」が開いてる限りここにおるし、できる限り目を配ってるつもりやけど、料理中とかどうしても行き届かん時もあるからね。信用できる常連さんがご協力してくれるんほんまに助かるんよ」

 香澄は「ほんまにありがとうございます」と高牧さんたちに深く頭を下げた。

「尾形さんのこと、最初に気付いたんは寺島さんやったんよ」

「そうなん?」

 寺島さんは照れた様に頬を掻いた。

「最近な、尾形さんに料理とか運んだ後の茉莉奈ちゃんの表情がおかしいなって思ってな。なんや強張こわばっとるっちゅうか。それで注意して見てみたら、なんや尾形さんが茉莉奈ちゃんに痴漢ちかんみたいなことしとるんちゃうかって。でも俺も毎日来とるわけや無いから、尾形さんの来店と被らんことも多い。せやからグループで相談したんや。特に高牧さんはほぼ毎日来てはるからな。注意してみてくれんかって」

「そしたらやっぱり、寺島くんの言う通りやったんじゃ。どうしたらええんやじゃって話になった時、雪子さんや女性陣がの」

「ああいうことをする人はねぇ、現行犯や無いとしらばっくれると思ったんよ。せやからしばらくは茉莉奈ちゃんに我慢してもらうしか無かったんよ……。ほんまにごめんやで、茉莉奈ちゃん」

 雪子さんはうなだれてしまう。高牧さんと寺島さんも申し訳無さげに肩を落とし、香澄は茉莉奈を抱く腕の力を強めた。

「ほんまにごめんねぇ、茉莉奈。すぐにでも助けたかったのに、こんな手ぇしか思い付かんで。店でふたりきりになったら、絶対になんかしらのアクションがあるやろからって、機会を見てたん。そしたら今日尾形さんが遅い時間にひとりで来はったから、おかしいって思って皆さんに連絡さしてもろうてん」

 香澄の声は湿しめっていて、涙をこらえている様に聞こえた。

「ほんまに済まんかったのう、茉莉奈ちゃん」

「ごめんなさいね、茉莉奈ちゃん」

「ほんまにごめん」

 尾形さんに腕を掴まれて迫られて、背筋が凍る様な恐怖に駆られたのは確かだ。他のお客さまも香澄もいなくて、助けを呼ぼうにものどが詰まってろくに声も出せなかった。

 だが現行犯で無いと、と言う話も判るのだ。尾形さんは普通では無かった。「はなむら」の営業中に平気で茉莉奈に痴漢行為を働いていたことも、ふたりきりになった途端とたんにあんな行動に出ることも、茉莉奈への思い込みの激しさも。

 だから茉莉奈に申し訳無いと思いながらも、尾形さんを泳がせていたのだろう。

「私、大丈夫やから」

 茉莉奈の口からそんな言葉がするりと出ていた。助けてもらえたのだ。皆茉莉奈のことを心配してくれていた。気付いてくれていた。それで充分だった。

「皆さん、助けてくれて、ほんまにありがとうございました」

 茉莉奈が頭を下げると、高牧さんたちはまた「ほんまにごめんなぁ」と辛そうな声で言った。

いちばちかやった。けど茉莉奈ちゃんに怪我が無くてほんまに良かった。尾形さんにもわざときつく言うたから、もう恥ずかしいて「はなむら」には来おへんくなると思う。精神的には参ってしもうたと思うけど、俺らでできることはするから」

 それはきっと日付け薬だろう。茉莉奈とて痴漢に遭うのは初めてでは無い。高校生のころには通学途中の電車の中で、身体を触られたこともあった。その時も怖かったし不愉快だったが、その傷は日が経つごとに薄くなって行った。

 だから今回のこともきっと大丈夫だ。そのうち茉莉奈の中で小さくなって行くだろう。顔を見れば思い出してしまうだろうが、会わなければ問題無い。

 寺島さんの言う通り、きっと尾形さんはもう来店されないと思う。あんな恥を掻かされて、それでも「はなむら」に顔を出せるほどの図太さがある人間はそういないだろうから。

 寺島さんたちのお心は本当にありがたい。茉莉奈は皆さんを安心させる様に「はい」と微笑む。するとやっと高牧さんたちも表情をゆるめてくれ、茉莉奈はほっと安堵した。
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