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1章 再生の時

第1話 絶望の日々

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 季節は春。ふっくらと暖かくなり、桜や鮮やかな花々が彩っている。本来なら心踊るのであろうが。

 両親をうしなった傷なんて、そう簡単に癒えるものでは無い。

 春日守梨かすがまもりは、厨房の壁にあるスイッチを何個か押す。すると辺りに光が灯った。

 汚れの無いステンレス製の厨房、作業台にはものひとつ出ていない。包丁もまな板もボウルもシリコンヘラも、全て戸棚や引き出しにきちんと仕舞われている。

 カウンタ越しに繋がるフロアには、4人掛けの木製のテーブルが4卓。以前はベージュのテーブルクロスが掛けられていたが、今は取り払われていて、柔らかな木目が見えていた。

 置かれている椅子はテーブルと同じ素材でできている。背もたれが高くて、腰を降ろす部分にはブラウンのクッションが付いていた。

 テーブル席のみのお店である。煮込みを中心に、フランスの家庭料理を提供していた。お店の名前はterrierテリア。フランス語で巣穴の意味である。

 フレンチレストランの様な格式高いものでは無く、大衆食堂を指すビストロと言えるだろう。気楽にフランス料理を楽しんでいただけるお店だった。

 そう、「していた」なのだ。今は休業中である。

 ……いや、きっともう、閉業するしか無いのだろう。テリアの主人夫妻は喪われてしまったのだから。

 それでも守梨は店内の掃除をすべく、湿らせたダスターを手に、まずは厨房の壁際に置かれている冷蔵庫のドアを拭き始める。銀色に光る大きな業務用だ。電源は落とされていて、駆動音など一切しない。

 かつてはごごごっと震える様な小さな音を立てていた。この厨房が「生きて」いた証である。

 この厨房は、今や「死んで」しまっている。守梨の両親とともに。

 冷蔵庫の表面を拭き終え、横に続く食料保管棚に取り掛かる。するとその時、厨房のインターフォンが鳴る。のぞき穴から見ると、立っていたのは知っている青年だったので、守梨はドアを開けた。

「守梨、やっぱこっちやったか」

 そう気安く声を掛けるのは、守梨の幼馴染みの原口祐樹はらぐちゆうきである。祐ちゃんは以前、守梨たち一家が暮らしていたマンションのお隣さんだった。

 守梨の両親が「テリア」を始めるために引越しをしたので、今やお隣さんでは無くなっている。だが腐れ縁と言うのだろうか、高校大学と違う学校に進んだにも関わらず、こうして交流は続いていた。

「祐ちゃん」

 祐ちゃんは守梨の顔を見て、安心させるかの様に穏やかに微笑んだ。

 今の守梨は酷い顔をしているだろう。両親があの世に旅立って、またたったの1週間だ。ひとりっ子で慰め合える身内もいない。父方の祖父母も母方の祖父母もすでに逝去せいきょしていて、いとこなどもいない。正真正銘、守梨は天涯孤独になってしまったのだ。

 絶望するなと言う方が無理である。就職して仕事はしているから、食うには困らない。だが守梨には圧倒的にぬくもりが欠けていた。

 祐ちゃんの他にもお友だちはいる。両親のお通夜、お葬式の日にも駆け付けてくれた。それでも皆にはそれぞれの生活がある。いつまでも守梨に寄り添ってくれるわけでは無い。それを期待するのも筋違いだ。

 だが、祐ちゃんはこうして毎日、守梨の様子を見に来てくれていた。

 そう大きな家では無いが、ひとりになれば広く感じる。電気を点けていてもほの暗く感じる。気分はますます落ち込んでしまう。

 それでもこうして厨房を、そしてフロアを磨くのは、こうして綺麗に保っていると、両親が見てくれている様な気がするからだ。

 さすがに帰って来てくれると言う妄想は無い。それだけ現実を受け入れることができているということなのだろう。

 だがまだこのお店を手放す勇気は出ない。両親との思い出まで無くなってしまう気がするからだ。守梨はこのお店で生き生きとお仕事をする両親が誇りだった。

 この土地は父方の祖父母から譲り受けたもので、テリアを始めるに当たって立て替えた上物うわもののローンも終わっている。幸い家賃などのお金は掛からなかった。固定資産税はどうにかなる。

「俺も手伝うわ」

 祐ちゃんは言うと、勝手知ったると言う様に作業台の引き出しを開け、洗ってしまってあったダスターを出す。いくつかあるうちの蛇口のひとつから水を出し、濡らして固く絞った。

「……毎日、来てくれて嬉しいけど、掃除まではええんやで」

 守梨の声は覇気はきが無いと思う。力が入っていない自覚があるのだ。

「ええねん。どこまでやった? 作業台は?」

「これから……」

「ほな、俺が磨くわ」

 祐ちゃんは言って、軽やかに大きな作業台を丁寧に拭き始めた。そこでは以前、野菜などを切る包丁の音が響いていた。もちろん今は影も無い。

 守梨は食料庫磨きの続きを始める。ふたりで黙々と厨房を磨き上げ、終われば、次はフロアだとふたり連なって、厨房とフロアを繋ぐフレームだけのドアをくぐる。すると祐ちゃんが「あ」と声を上げて立ち止まった。守梨は祐ちゃんの細い背中にぶつかる寸前で足を止めた。

「おやっさんとお袋さんや」

 祐ちゃんがおやっさんお袋さんと呼ぶのは、守梨の両親のことである。守梨はとっさに祐ちゃんの横を掻き分けて、フロアに飛び込む様にして出た。

「お父さん? お母さん!?」

 久しぶりに出した大声。守梨はフロアを隈なく見渡すが、両親の姿は無い。と言うことは。

「……おやっさんとお袋さん、成仏してへんねんな」

 後からゆっくりと出て来た祐ちゃんはそう言って、少し弱った様に頭を掻いた。

 祐ちゃんは、幽霊が見えるのである。
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