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3章 こんがらがる慕情

第4話 否定派と賛成派の攻防

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 冬暉ふゆき夕子ゆうこはじめ数名の捜査員は、朝から鑑識課も交えて田渕たぶちの部屋の捜索を行った。

 適度に散らかってはいたものの、男性のひとり暮らしにしては綺麗だと思われる田渕のマンション。チェストやクローゼットに仕舞しまわれた洋服類のほとんどが、それなりのブランドで固められていた。

 テレビの横に置いてあったジュエリーケースに入っていたのは、ひとつ10数万から100万円以上もするブランドの腕時計が幾つか。ゴールドやプラチナ、シルバーのアクセサリー類もわずかだが納められていた。

 マンションの間取りがワンルームであっても、結構余裕のある暮らし振りだったという事が伺える。借金も無かった。正確には数ヶ月前までは街金融に10万円程があったのだが、1ヶ月程前に完済されていた。

 それは家宅捜索の後に行われた知人への聞き込みからも伺えた。多くは無い知人のほとんどが口を揃えたのは、1ヶ月程前から急に羽振はぶりが良くなったと言う事だった。

 それまでは普通に会社勤めをしていて、営業職だった様だが成績は良い方では無かったらしい。本人も「俺、営業に向いてへん」と良くこぼしていて、部署移動を願い出ていた様だがなかなか聞き入れてもらえなかった様だ。社内の人間関係も良く無く、結局退職の道を選んだ。

 その後1ヶ月ほど無職だったが、再就職が決まったのが1ヶ月程前。美術品などに詳しいという話も聞いたことが無かった田渕が、画廊に勤める事になったと聞いた知人は驚いたが、まずは再就職の祝いを述べた。

 それからの田渕は、新しい仕事がしょうに合っていたのか、それまでとは打って変わって生き生きして見えたと言う。画廊で絵画を販売する仕事で、接客業ではあるが以前と同じ営業職にもなるわけだが、職場環境が良かったのだろうか、とても楽しそうに仕事の話をしていたと言う。

 そんな田渕が自殺だなんて。知人や同僚は皆そう言った。経済的にも余裕があり、充実した日々。確かにそんな田渕に自殺する理由は思い当たらない様に思えた。

 それらの成果を手に昼下がりに行われた捜査会議で、しかし田渕は自殺だと片が付こうとしていた。なので捜査員の意見は二分する。

 まずどう見ても自殺としか思えなかった現場の様子が、自殺肯定派の大きな理由であることはもちろんなのだが、身元が判るものを所持していなかったことこそが、自殺否定派の根拠になった。

 今の時代、そういった物を所持していない方が不自然なのだ。社会人であればスマートフォンやタブレットなどの携帯端末を所持していない方が珍しいし、財布の中には例えば免許証、クレジットカード、銀行のキャッシュカード、保険証等々、そして交通系ICカードなどが入ったパスケースなど、どれかひとつ以上があって当たり前だと思われる。家の鍵はき身で部屋のポストから見つかった。

 バッグや財布から抜いたであろうそれらのものは、田渕の部屋から見付かっていた。スマートフォンはテーブルの上に、免許証などはテレビ台になっていたチェストの引き出しから出て来た。

 自殺説を主張する捜査員は、それらは全て自殺に必要の無いものだから置いて行ったのだ、家の鍵も後戻りが出来ない様に自分を追い込んだのだと言う。

 自殺を否定する捜査員は、そもそもわざわざ抜いて行くのがおかしいし、それがもし事実だとしても、移動に必要なはずの交通系ICカードまで置いて行かないだろう、誰かが田渕の身元判明を遅らせる為に画策した事に違いない、ととなえた。

 冬暉と夕子は自殺否定派で、しかし圧倒的に人数が少なく不利だった。

 自殺説否定派は知人の話も材料にして、自殺説肯定派に詰め寄った。しかし人はどんなきっかけで自殺に思い至るか判らない、周りには上々である様に見せていて、実は誰にも言えない悩みがあったのだろうと言われてしまった。

 結局ほぼ多数決の様な形で押し切られ、ことなかれ主義の署長の一声によって、この件は自殺という事で断定されてしまったのだった。



 15時頃、シュガーパインに現れた冬暉と夕子は明らかに憔悴しょうすいしていた。春眞はるまたちはぎょっとしながら、ふたりが着いたテーブルに水と温かいおしぼりを運んだ。

「昨日よりもお疲れに見えますね」

「例の件、自殺で片が着いてもてね~。反論したけどあかんかった~」

「結局自殺やったん?」

「里中くんと私と、あと数人の捜査員は違うて思うてる。今朝あらためて田渕氏の自宅の捜索と、職場とか知人とかに話聞いたんやけどね」

 冬暉と夕子は代わる代わる捜査会議の内容と顛末てんまつを語った。春眞と秋都あきと茉夏まなつは仕事をこなしながらも、しっかりとふたりの話を聞いていた。食事の時間帯では無く、あまりオーダが多く無かったのでできた事だった。

「で、結局自殺に落ち着いてもたわけや」

 冬暉は呆れた様に言うと、大きく息を吐いた。

「ちょっとでも疑念があると突き詰めるもんや無ぇんかよ」

「自殺やて主張しとる人らにとっては、それは疑念でも何でもあれへんのよ。残念やけどね」

 そう言いながら夕子も息を吐く。無念だ、そう言いた気に。

「じゃあ諦めてまうん?」

 茉夏が言うと、夕子は首を振った。

「疑念が残るなら突き詰める。放ってなんか置かへんわ。そこで春眞くんにお願いがあってね」

「僕に?」

 春眞はきょとんとする。なぜ自分に。素朴な疑問である。

「一緒に現場に来てくれへんかな。今から」

「今から!? 僕が?」

 春眞が驚くと、冬暉と夕子は拝む様に手を合わせた。

「春眞くんの常人離れした目とか鼻とかで、鑑識ですら見逃したもんが判らへんかと思って! 後生ごしょうやから!」

「頼む春兄! 春兄が店抜ける間は俺が手伝うから!」

 大げさにも思える様なふたりの頼み方に、春眞はひるむ。しかしここまでされてほだされないほど春眞は薄情では無い。

 しかし店長である秋都の許可が無ければ抜けることなどできない。春眞が秋都をちらりと見ると、秋都は大きく頷いた。

「ここは行ってあげな男や無いで春眞。大丈夫、晩ごはんタイムまでは茉夏とふたりで充分回せるから、冬暉も行ってええわよ~」

「うん、大丈夫。いつも以上に働くで! ていうかボクも行きたいな~」

「だ~から、茉夏はほんまにもう、なんでこういう時に首突っ込みたがるんよ~」

面白おもしろそうやから!」

 秋都が呆れつつ言うと、茉夏はさも当然と言う様に明るく応えた。

「じゃ、俺着替えて来るわ。茉夏、付いて来んなよ」

「行かへんて! 行きたいけど!」

 放っておけば本当に付いて来かねない茉夏に釘を刺し、春眞は私服に着替えるために裏に入り、そのまま居住スペースに上がった。



 長居ながい公園は、シュガーパインと最寄り駅が同じ長居なので、3人は並んで歩く。何ヶ所かある出入り口のうち、ヤンマースタジアム長居に近いところから入り、冬暉と夕子の案内で現場に向かう。

 入り口から早足で歩き、辿り着いた先は長居運動場のあたりだった。野球やソフトボール、サッカーなどができる運動場で、ナイター設備もある。まだ周辺は立ち入り禁止なのか、黄色いテープとブルーシートで囲われていた。

「発見したのは早朝ジョギングをしていた男性ね。ほら、すぐそこがマラソンコースやろ」

「マラソンコースそこやし人の通りもあるから、ガキが遊んだりもするしな、見付かるんも時間の問題やんこんなん」

「なるほどね」

 春眞たちはブルーシートを潜って中に入る。あらためて現場を見渡し、田渕が倒れていたであろう場所に目を凝らす。そこは鑑識課が微入り念入りに調べたはずで、素人の春眞が見たところで新たな発見があるとは思えなかった。

 しかし、匂いとなれば話は別だ。警察犬が入ったわけでは無いこの現場には、人の嗅覚きゅうかくでは感知できない何かがあるかも知れない。

 春眞はかがむと、ちらほらと芝が生える地面に鼻を近付けた。するとまず鼻に入って来たのは、微かに腐った様な匂い。生のまま保存して日が経ってしまった肉類の匂いに似ている気がした。

「……ご遺体って腐っとった?」

「いや、死亡推定時間から4時間ぐらいで発見されとるし、夏でも無ぇから腐敗はほとんど進んでへんかった。室内ならともかく外やしな。匂いなんざ俺らや判らんぐらいや」

「私も特に感じひんかったな」

「へぇ……」

 と言う事は、これは春眞だけがぎ取った腐敗臭ふはいしゅう、死臭と言うことだ。なら他にも常人には嗅ぎ取れない何かがあるかも知れない。春眞は集中する。

「……あれ」

 その時、鼻に微かにつん、と感じた匂い。嗅いだ事のあるこの匂い。

「何やっけ、この匂い、えぇと、確か……」

 最近も嗅いでいる。しかしいちいち「これはこの匂いや」と意識しているものでは無い。春眞は逡巡する。数ある記憶を辿りに辿って。そして。

「あ! 思い出したこれ! 冷凍庫の匂いに似とる!」

「冷凍庫? あ、もしかして氷? ドライアイス?」

「それです! ドライアイス!」

「え、何でそんな匂いが残ってんや?」

 3人は驚いて、顔を見合わせた。
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