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2章 ただ純粋だっただけ

第14話 追いつめた末に

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 速水はやみさんのマンションのポストの前で、前原まえばらがゆっくりと行動を起こす。右肩にかついでいる黒のスポーツバッグに手を入れると、メモ帳とボールペンを取り出した。

 メモ帳を開き、じっくり考えながら丁寧ていねいに何かを書いて行く。毎日速水さんのポストに入れられていた紙片は、こうして作られていたのだ。

 少し書いては止まり、何度か同じ調子を繰り返した後、前原はその紙片をメモ帳から剥がした。

 とうとう入れるのか? そう思って春眞はるまはつい身を乗り出してしまったが、前原はその紙片を右手でぐしゃりと握り潰してしまった。失敗したのだろうか。

 そのしわだらけになった紙片を、口が開いたままのスポーツバッグに突っ込むと、また新たにメモ帳に書き始める。今度は先ほどよりスムーズに筆が進んでいる。さっきのは下書きだったのだろうか。

 やがて手が止まると、前原は書き上がったと思われるメモ帳をじっと見つめ、満足気に小さく頷いた。そしてそれをメモ帳から剥がすと、今度こそ速水さんの部屋のポストにすっと入れた。

「……メモを入れました。夕子ゆうこさん、今です」

「よっしゃ」

 春眞の合図で、夕子は躊躇ためらいもせず踏み出した。ジャケットの内ポケットから警察手帳を取り出し、すぐに掲示出来る様に持つ。

 前原はもう用事が終わっただろうに、まだぼんやりとポストを見つめている。そのままじっとしていてくれると有り難い。そしてマンションの住人の出入りや人通りが無いともっと助かる。

「やっほ」

「どうや?」

 速水さんを送り届けた茉夏まなつ冬暉ふゆきが合流した。速水さんと別れた後、ふたりは前原とすれ違わない様に、来た道とは違う道を使って戻って来ていた。

 実は毎日そうしていたのだった。正体の判らないストーカーと迂闊にすれ違う事を警戒しての事だった。ストーカーはこちらの素性はともかくとして顔は知っているだろうから、鉢合わせてどの様な目にわされるのか想像ができなかったからだ。

 冬暉がいるのだから多少の荒事は問題無いだろうし、巧く事が運べばその場で捕獲する事もできたかも知れない。しかし事態をややこしくしてしまう可能性だってあった。なので正体が知れるまで、警察も当てにしながら、根気よく待ったのだ。

「今浅沼あさぬまちゃんが行ったわよ~」

「よっしゃ、俺も行って来るわ」

「ボクも!」

「茉夏はあかん!」

「茉夏は駄目よ!」

 冬暉が夕子の後を追い、茉夏も続こうとしたが、春眞と秋都あきとの声が重なった。

「何でや!」

「警察官でも無い茉夏が行ってどうすんねん」

「ここはふたりに任せましょ~」

「つまらへんなぁ。ボクの出番全然無いや無いか」

「無い方がええねんて」

 ふくれる茉夏を、春眞はいさめた。

 さて、冬暉と夕子が前原との距離を詰める。ふたりとも場慣れしているからか、気負う事など無く自然に歩いて行く。前原はそれに気付いていないのか、またポストの前に立ち尽くしたままだ。春眞は耳を澄ませた。

「すいません、どうかしましたか?」

 夕子が警察手帳を見せながら、世間話でもする様に軽く問うと、前原は驚いたのかびくっと身体を震わせた。

「え、な、何か」

 やや裏返り気味の声から動揺が見て取れた。後ろ暗い証拠だろうか。

「いえ、先ほどからこちらにいてはる様ですから、気になりまして」

「な、何でもありません!」

「そうですか?」

「そ、そうです!」

 穏やかな口調の夕子に対して、前原の声にはかなりの焦りが含まれていた。自分のしている事が良くない事なのだという自覚があるのか、警察手帳におののいているのか。それともその両方か。

「あの、つかぬことをお伺いしますけど、先ほど、ポストに何かメモを入れられてましたよね。お訪ねにならはった先がお留守やったとか?」

「ちゃ、ちゃいます。彼女はさっき帰って行きました。俺はメッセージを入れただけで」

 前原は慌てて首を振る。

 帰って行きました。その言葉の不自然さに、前原は気付いただろうか。

「ご在宅やのにメモを入れはったんですか? お訪ねにならへんのですか?」

「そんな事できませんよ」

 前原はまた首を振った。今度はゆっくりと落ち着いて。

「なんでですか? お知り合いや無いんですか?」

「俺は影から彼女を見守るのが使命です。まだ彼女の前に姿を現せません」

 そう言い切る前原の表情は、先ほどとは打って変わって真剣なものだった。まるでそれが正義だとでも言う様に。

「それはどういう事でしょうか。あなたはその女性とお知り合いでも無いのにメモを入れて、影から見守ってはるっちゅう事ですか?」

「はい」

 無論冬暉も夕子も前原のしている事は判っている。だからこそこうして本人からの自供を引き出そうとしているのだ。そしてそれは成功しようとしていた。春眞もまさかこんなに都合良くボロが出るとは思わなかった。

 それにしても、前原は自分がしている事を良い事だと、当たり前の事だと信じて疑っていない様だった。前原の口振りからそれが見て取れた。

「影から見守るとは、どういう事でしょう。例えばですけど、その女性の、言い方は悪いですけど、後を付けてはったり?」

「後を付けるなんて事はしていませんよ。彼女の後ろからそっと見守ってるんです。駅からこのマンションまでの短い間ですけど、毎日見守ってるんです」

 これは言質げんちが取れたと思って良いだろう。それまで浮かべられていた夕子の微笑がすっと消え失せ、代わりに冷酷とも言える眼差しを前原に浴びせた。

「それを後を付けてるって言うんですよ」

「ちゃ、ちゃいます!」

 夕子の豹変ひょうへんに前原はびくりとすくみ上がったが、どもりながらもはっきりと言い放った。

「ちゃいませんよ。あのね、それをストーカーって言うんやと思いますよ」

 夕子の冷静でやや低めな声は、ますます前原をおびえさせた。口元がふるふると戦慄わななく。

「ちち、ち、ちゃいます! 俺はそんな最低な人間やありません!」

「あなたの人間性は解りません。ですが毎日女性の後を付けるなんて、その行いは誉められたもんや無いんですよ」

「ち、ちが……」

 前原の瞳孔どうこうが開き、呼吸が荒くなる。あ、これはやばいかも。追い詰めすぎたか? 春眞が前のめりになったその時、前原の細い足が地を蹴った。

 駅とは逆の方向、春眞たちが待機しているのとは違う方向に駆け出した。逃げたのだ。後を追おうと冬暉も走り出す。

 しかしスタートタイミングの差異を差し引いても、前原は俊足しゅんそくだった。運動が出来る様には見えなかったのに、人は見掛けに寄らない。冬暉も決して鈍足では無いのだが。だが。

「……春兄!」

 春眞の足は、俊足と言うのですらおこがましいと思う程の脚力を誇る。人間離れしていた。本気を出せば日本一、いや、世界一になれるほどに。目指せる、というレベルでは無い。それは確約されたものだった。

 そんな春眞に追い掛けられて、俊足止まりの前原が必死で走っても逃げ切れる筈が無い。あっという間に冬暉を追い越し、前原の背中にぐんぐん迫る。数メートル行ったところで、あっさりと捕獲した。

 春眞は前原の胴体に飛び込む。背後から胸元に両腕を回し、しっかり抱え込んだ。捕まえられたこの時に観念してくれれば良かったのだが、厄介な事に逃れようともがかれてしまった。その体格から想像できる通りあまり強い力では無かったが、両足で地団太じだんだを踏み両腕を振り回されるので面倒だった。

「大人しゅうしろって!」

「離せや! 俺は何も悪い事してへん!」

 春眞の怒鳴る様な声も一蹴されてしまう。これは何を言っても治まりはしないのでは無いだろうか。

「じゃあ何で逃げたんや!」

「俺は何もしてへんのに責めるから!」

 前原にとって速水さんにした行為はどこまでも善なのだ。その方法は完全に的外れだったわけだが、ただただ速水さんを思ってした事なのだ。これでは堂々巡りだ。

「春兄!」

「春眞!」

「春眞くん!」

 皆が追い付いて来た。

「春ちゃん、よくやった!」

 その中でも一際元気な声が耳に届いたと思うと、その声の主、茉夏が素早く正面に立ちはだかった。その途端にファイティングポーズを取る。

「あごと鳩尾みぞおち、どっちがええかな!」

 あかん、こいつやる気満々や。春眞は焦った。

「茉夏ストップ!」

「何でや。大人しくさせたいんやろ?」

「その通りやけど、腕ずくはやめぇ!」

「ええやん。ストーカーやで? 手加減する必要なんて無いわ。それに全然出番あれへんで、ストレス溜まっとるんや」

「はけ口にすんな! おいあんた! 痛い目見た無かったら大人しゅうしてくれ! あいつはやるっつったらほんまにやるで!」

 春眞とて前原に慈悲じひをくれてやるつもりなど無い。しかしこの状況で茉夏が手を出せば、犯罪者は茉夏になってしまう。これではただの私刑リンチだ。

 前原は正面の茉夏を見据えると、その数秒後には諦めた様に手足をだらりと下げた。やっと観念してくれたか。

 流石に痛い思いはしたく無かったらしい。茉夏の目は本気だった。脅しでも何でも無い。それが前原にも伝わったのだろう。

 春眞は前原を抱え込む力は緩めないまま、大きく息を吐いた。
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