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2章 ただ純粋だっただけ

第11話 俺の充実した日課

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 時刻はほんの少し前にさかのぼる。



 前原まえばらは勤め先であるカワカミリースのロッカールームで、制服である黄緑色のつなぎから黒のジャージに着替えた。出勤時に着ていたダークグレーのスーツと白のシャツは出来るだけしわにならない様に、きちんと畳んで黒のスポーツバッグにしまう。緑のネクタイもくるくる丸めてバッグに入れた。

 最近スポーツジムに通い始めた。身体をきたえる事が目的、では無い。いや、自分のひょろひょろとした貧弱な体躯たいくを姿見で見る度に溜め息を吐きたくなるので、少しは解消出来たらとは思ったが、主目的は別にある。

 ここしばらく、前原にはある日課があった。その日課は今は21時以降で無ければできないものなので、それまでの時間潰しにジムを選んだのだ。

 元々インドアなたちなので、最初は本屋やカフェなどで時間潰しをと思ったが、連日となると無理がある。カフェはともかく、前原はまず本を読む習慣があまり無かった。興味の無いものを見ても退屈なだけだ。

 残業でもあれば良いのだろうが、幸か不幸か就業時間外に訪問の必要がある得意先は担当していなかった。

 そこで前原が選んだのがスポーツジムだったのだ。日課を行う場所の最寄り駅近くにあるジムの会員になり、18時半頃から20時頃まで毎日通う。端から見ればただの熱心な会員である。

 ロッカールームを出て、外に出るべく廊下を進む。曲がり角に差し掛かった時、注意したつもりだったが誰かにぶつかった。

「あっ、すんません!」

「い、いえ、こちらこそ」

 相手がいち早く詫びを寄越して来たので、前原も咄嗟とっさに返す。見ると前原より頭半分ほど背が高い同期、山崎やまざきだった。山崎は制服のつなぎのままだった。確か金曜日は残業があると言っていたっけ。折角の週末にご苦労な事だ。

「ジャージ?」

「ああ。最近ジムに通っとるから」

「へぇ、意外やな」

「ただの時間潰しや」

 短くそんな会話を交わし、前原は早々に切り上げて山崎と別れた。急ぐ必要などは無いが、前原は山崎をこころよく思っていなかった。前原にとって山崎は因縁いんねんの相手なのだ。出会った頃はただの同期としか思っていなかったし、もうひとりの同期である佐々木ささきの音頭で何度か飲みに行ったりもしていたが、あるできごとが山崎に対する心証を変えた。

 ああ、いやしかし、今は前原の方が勝っている。元々勝った負けたなどの事実も何も無かったが、今は強くそう思う。以前に山崎が見舞われたこと、そして今前原が行っている日課、それらを思うと前原は上機嫌になってスキップのひとつも踏みたくなってしまう。リズム感が無くて下手くそなのだが。

 前原は軽い足取りで、駅へと向かった。



 運動で流す汗がこんなに心地良いものだとは、この歳になるまで知らなかったかも知れない。運動があまり得意では無い前原にとって、学校の体育の授業は苦痛でしか無かった。唯一短距離走だけは人並み以上にこなせたので、体育祭などはそれでお茶を濁していた。こう見えてもリレーのアンカーを走った事もある。1位にはなれなかったが。

 しかしジムでは自分の好みで内容を選ぶ事が出来る。これからの日課の事を思うと余計に気持ちが高揚し、それが心地良さを増長させているのかも知れない。

 前原は満足げな溜め息を吐き、シャワールームへと向かう。日課を行う為には汗臭いままで行く訳には行かない。清潔感は大切である。

 シャワーを浴びて汗を綺麗に洗い流し、濡れた髪をドライヤーで丁寧に乾かして、シャツとスーツを着る。きちんと畳んでおいたお陰でしわはほとんど出来ていない。ネクタイもきっちりと締めた。

 時間を見ると20時40分。良い頃合いだ。前原はジムを出ると、駅近くのファストフード店に入った。セルフサービスなのでカウンタでホットティを注文し、窓際のカウンタの端の席に着く。その席は既に前原の特等席みたいになっていた。たまに先客があったが、外さえ見えれば構わないので、その時は適当に空いている席に掛けた。

 その店は日課に必要不可欠な人が必ず通る道沿いにあるのである。ホットティを前に、じっと通りを見つめる。そろそろ21時になる。その人物はいつも10分過ぎに姿を現す。だが確実では無いので、こうして少し早めから張っている。ここ2週間ほどこうして待ち続けて来て、21時より早くなる事は無かったが、見逃す訳には行かなかった。

 なかなか減らず、徐々に熱を失って行くホットティを手に、時折腕時計に目を滑らせ、前の道を見つめ続ける。

 10分になった。そろそろか。更に注意深く改札を見張る。だがまだ姿を現さない。

 20分になった。まだか? いつもより遅い。だが許容範囲内だ。

 30分になった。さすがに遅く無いか? 何かあったのだろうか。ただ仕事が長引いているだけならいいのだが。

 40分……目を凝らす。まだ出て来ない。腰が落ち着かなくなって来た。苛立いらだちはしないが、そわそわと足を動かしてしまう。

 ……来た! 45分になった時、お目当ての人物がようやく姿を現した。その人物は腕時計を見ながら早足で通りを掛けて行く。前原は見失ってはいけないと慌てて席を立ち、冷たくなったホットティを一気に飲み干し、紙コップを返却口のごみ箱に捨て、トレイを置いてさっさと店を出た。

 後を追う。どの道をどの方向に行くのかは判っていたので、迷う事無くそちらに向かう。するとすぐそこにその人物の後ろ姿を捕らえた。前原はほっとして、その人物と距離を取った。

 当初は気付いて欲しいという下心もあって、かなり近い距離に着いていたのだが、1週間を過ぎた頃から、道の途中から知り合いらしき人間がふたりも合流する様になった。全く余計な事をしてくれる。ふたりきりの静かな空間を楽しんでいたと言うのに。

 なので警戒して距離を置く様にしたのだが、前原のする事は変わらない。そっとその人物を見守るのだ。住んでいるマンションまで見送り、部屋の電気が点くのを確認して、ポストに思いを込めたねぎらいのメモを入れる。メモを入れるのを思い付いたのは1週間が経った辺りだった。それまではただ見守るだけだった。

 そう言えばメモを見た時のちゃんとした反応を見た事が無かった事を思い出す。メモを入れる様になった頃から距離を取り出したので、そのせいでその人物がポストをチェックしている場面を良く見る事が出来ないのだ。

 口べたなのが文章力にも影響しているのかどうかは判らないが、いつも気の利いた文章などは書けない。簡単な一言を書くのが精一杯だ。それでも少しでも、その人物の癒しになっていると良いのだが。

 見返りを期待している訳では無いが、その場面を見る事ができないのは、やはり少し悔しい。

 その人物は今日も寄り道をする。知り合いらしき男ふたりと合流する為だ。通り道の、確かもう閉店しているはずのカフェに入る。そうして出て来る時には男ふたりと一緒なのだ。

 初めてそのシーンを見た瞬間には腹が立ったものだった。そいつら誰やねん。しかもふたりも。だがいつもの通り見守っているうちに、気持ちが落ち着いて来た。俺はそんなに心の狭い人間では無い。その人物の友人なら、快く受け入れなければ。

 前原は人気の無い物陰に隠れて、その人物が出て来るのを待った。いつもなら間も無く出て来るのだが。

 どうしたのだろう。5分ほどが経ったが、まだ出て来ない。話込んだりしているのだろうか。友人ならそういう事もあるだろう。待たされても怒りはしない。俺は心が広いのだから。
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