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2章 ただ純粋だっただけ

第10話 あなたですか?

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 金曜日18時、カワカミリースは終業時間を迎え、多くの社員たちはぞろぞろとロッカールームに向かう。カワカミリースではたもつたちメンテナンススタッフと内勤の女性社員に制服があって、それぞれにロッカーが与えられている。

 内勤の男性社員や営業には制服が無く、従ってロッカーが無いので、バッグなどを置く場所に困るとの声も上がっていて、近々コンパクトサイズロッカーの導入が検討されているらしい。

 帰宅準備を始める同僚たちを後目しりめに、保は制服である黄緑色のつなぎのまま、自動販売機で冷たい緑茶のペットボトルを買った。社内の暖房は節電の影響もあってかかなり抑えられているのだが、冬用の厚手の長袖つなぎの保にとってはちょうど良い。

 夏場は夏用の薄手つなぎになるのだが、枝や葉っぱなどでの怪我を予防するために長袖なのである。なので社内にいる時は腕捲りをしている。得意先を訪問する時はそうはいかないので元に戻すのだが。

 今日金曜日はカフェ・シュガーパインの訪問日である。訪問時間は21時過ぎ。それまでに1件、結婚式場訪問の予定がある。時間を遊ばせる様な勿体無い事はしない。

 帰宅時間がかなり遅くなるが、あまり誰も文句を言わない。時間にともなった手当が出るからだ。きちんと残業扱いになるのである。

 さて、そろそろ外出準備をしなければならない。結婚式場からシュガーパインは帰社せずに行くので、2件分の用意しなくては。確か結婚式場の方に病気になってしまったブライダルベールの交換があったはずだ。

 昨日先方から電話を貰ったところなので大丈夫だとは思うが、記憶違いが無いか確認してから、園芸場から社用車に積み込まねば。

 半分ほど飲んだ緑茶のキャップを閉じ、必要書類を取りに部署に向かう。廊下を歩き、角を曲がろうとした時、何かにぶつかった。

「あっ、すんません!」

「い、いえ、こちらこそ」

 とっさに謝ると、相手も詫びを寄越して来た。誰だと正面を見ると、そこにあったのは黒い髪。ふいと見下ろすと保より頭半分ほど背が低い同期、前原まえばらだった。

「あ、前原か、悪い」

「いや」

 見ると、前原はすでに着替えを終えていて、黒のジャージ姿だった。

「ジャージ?」

「ああ。最近ジムに通っとるから」

「へぇ、意外やな」

 前原は男性にしては小柄な方で、体型も細く、ひょろひょろという表現がぴったりだ。スポーツジムで身体を鍛えると言うイメージとは結び付かなかった。

「ただの時間潰しや」

「時間潰し?」

「ちょっとな。ほな」

「ああ。お疲れ」

 前原は大きなスポーツバッグをかついで帰って行った。

「さて、俺も行かんと」

 山崎はあらためて部署に向かう。

 ……シュガーパインでカナの事を訊けるだろうか。



 21時、カフェ・シュガーパインは閉店時間を迎えた。最後のお客さまが退店され、春眞はるまたちは後片づけを始める。

 いつもの様に要領良く掃除や洗い物をしていると、ドアが開かれた。

「こんばんは、カワカミリースです」

 山崎やまざきさんだった。爽やかな笑顔を浮かべている。

「こんばんは」

「こんばんは!」

「こんばんは~、今日もよろしくね~」

「はい。お世話になります」

 山崎さんはドアの脇に背負っていた荷物を下ろすと、その中から剪定鋏せんていばさみとビニール袋を取り出した。棚に置かれているシュガーバインを1鉢1鉢丁寧に見ながら、不格好に伸びてしまったつるを形良くカットして行く。

 その間にも後片づけは進んで行く。そろそろ速水はやみさんも帰って来る時間の筈だが、なかなか来ない。仕事が長引いているのか、それともまさか。

 トイレ掃除を終え、それでも速水さんは訪れない。春眞は嫌な予感に襲われた。

「兄ちゃん、俺ちょっと駅前まで速水さん見て来る。メトロやんな」

「あら、そう言えば今日は遅いわね」

「あ、ほんまや。どうしたんやろ」

 秋都あきとは洗い上がったプレートを拭きながら、茉夏まなつは椅子を拭きながら首を傾げた。

「え、速水さんて、あの」

 速水さんの名前に反応したのか、剪定を終え土に肥料を注入していた山崎さんが手を止めて、怪訝けげんな表情で振り返る。

「そうよ~、先週山崎くんに車で送ってもろた速水ちゃんね~」

「あ、あの、気になっとったんです。あれからどうなったかと」

「ん~、実はね~、ストーカーやったの~。せやから毎晩春眞と冬暉ふゆきがお家までお送りしてるんよ~」

「そんな、一大事や無いですか!」

 山崎さんが血相を変えた。

「警察にも届けてあるんやけどね~、容疑者がまだ特定出来なくて。困ったわよねぇ~」

「兄ちゃん、とにかく僕行って来るわ」

「ボクも行った方がええかな」

 男性とふたりきりだと、ストーカーを刺激するかも知れない。以前秋都たちが言っていた事を、茉夏はしっかりと覚えていた様だ。

「そうやな……、いや、とりあえず僕ひとりで、お、と、と」

 急いでいたせいか、春眞は少し出ていた椅子に足を引っ掛けてしまい、軽くバランスを崩してしまった。すぐ近くにいた山崎さんの両手が素早く春眞に伸びる。

「大丈夫ですか?」

「すんません、大丈夫で……、あれ?」

 山崎さんが至近距離になり、春眞の鼻が、脳がぴくりと反応した。

「どうしました?」

「いや、ちょっと待って……」

 丁寧語を使う事も忘れて、春眞の鼻にかすめた匂いを追う。それは山さん崎の襟元えりもと辺りから微かに漂っていた。

 集中する。更に鼻を近付けた。逃さない様に、山崎さんの両腕をがっしりと掴んだ。

「あ、あの?」

 山崎さんは狼狽うろたえた様子で、後退りしようとする。

「じっとして」

 春眞の静かで真剣な声が、山崎の足を止めた。春眞の髪が触れそうになった頭だけ大きく仰け反る。

 そしてやっと春眞は山崎さんから離れた。

「びっくりした……。兄ちゃん、茉夏、あのメモの匂いがする」

「あら!」

「嘘やん! 何で!?」

 秋都と茉夏も驚いて声を上げる。山崎さんだけが何が何やら解らない様子で春眞たちを見渡した。

「あ、あの?」

「山崎さん、このつなぎを着てはる時に、誰かにぶつかったりとかしませんでしたか? 触られたりとか」

「触られはしませんでしたけど、ぶつかりはしました。会社で、私と同期の人間なんですが。あの、その者が何か」

 春眞は言い淀み、秋都を見る。知り合いであった事は朗報だ。だがどう訊いたらいいものか。

「あのね~、確定や無いんやけど、その同期の人とストーカーの匂いが似ているみたいなのよ~」

「は、え?」

「似てるってだけなのよ。だからあのね、ん~」

 秋都が言葉を選んでいると、茉夏がじれったいと言う様に首を振った。

「ストレートに訊いたらええやないか。山崎さん、その同期の人について教えてください」

「……そうやって言葉にしちゃうと、あんまり言葉を選ぶ必要無かったわね~」

 秋都が苦笑する。

「どういう事ですか? その同期が速水さんのストーカーだとおっしゃるんですか?」

 山崎さんは呆然としていた。

「今の時点ではあくまで可能性です。けど、かなり高い割合でそうや無いかと俺は思ってます」

 春眞の後ろで秋都と茉夏もうんうんと頷いた。ふたりは春眞の鼻の性能の高さを信用してくれていた。

「ですが、その者は速水さんの事など知らんはずです」

「どこで見初みそめたんかは判らへんけどね~。ストーカーってのはそういう常識が通用せえへんから~」

「そんな」

 山崎さんは愕然がくぜんとした表情を浮かべた。それはそうだろう。同僚が知り合い、もしかしたら元カノへのストーカー疑惑を掛けられたのだから。

「俺、どうしたら」

 得意先に敬語を使う事も忘れ、山崎さんは呟く様に言った。

「まず確定しなきゃね~。山崎くん、その同期の人の顔写真とかあるかしら~?」

「去年の慰安旅行で撮影したもんがあります。明日でしたらお持ちできますが」

「ほんまに悪いんやけども、お願い出来るかしら~。ここの営業時間内に寄ってもらえると助かるわ~」

「承知しました」

 山崎さんが神妙な表情で頷いた時、ドアが威勢良く開かれた。

「すいません! 遅くなりました!」

 全員が一斉にその方を見る。速水さんだった。そうだった、春眞は長居駅まで速水さんを迎えに行こうとしていたのだった。匂いのお陰ですっかりと後回しに、いや、忘れていた。

 春眞は自分の迂闊うかつさと、速水さんが無事だった事で、全身の力が抜けそうになった。
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