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2章 ただ純粋だっただけ

第9話 安堵と落胆

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「ちょ、夕子ゆうこさん」

 春眞はるまが止めようとするが、夕子は黙らなかった。

「あなたは悪う無いんです。でもね、あなたには隙があるんですよ」

「私、そんなつもりは」

「ええ、ですからあなたは悪う無いんです。まずあなた、とても可愛らしいですね」

 確かに速水はやみさんの容姿は可愛らしいものだった。今は激務の帰りなので顔に疲れが表れているが、しゅっとした、だが程良い丸顔で、目元はぱっちりと猫の様で、形の良い鼻は高くも低くも無く、ほんのりピンク色の口元は小さく、しかしふっくらしている。肩の辺りまで伸びた茶色掛かった髪にはふんわりとウエーブが掛かっていた。ゆるふわ、というイメージがぴったりだった。

「そんで腰が低うて人当たりがとてもええ。とても好印象を与えると思います。それを好かれてるって勘違いしてしまう自意識過剰男っちゅうんはどこにでもいるんです。勘違いやと自覚して、自分を恥じるか相手にり付けるかはそれぞれですけど、普通はそれまでなんですよ。そこを斜め上に行ってしまうんがストーカー化するわけで」

「は、はい」

 話の最中に、春眞が速水さんを玄関に招き入れてドアを閉めていた。夜も遅いので近所迷惑になる可能性がある。速水さんは恐縮しながらも春眞に従い、夕子から見下ろされる様な格好になってしまう。そのせいか速水さんは夕子から威圧を感じてしまい、すっかりと縮こまってしまっていた。

 それに気付いた春眞が、今度はふたりを玄関先に座らせた。目線が同じになったからか、強張っていた速水さんの表情がやや和らいだ。

 こうしている今も、ストーカーは里中さとなか家の近くで、速水さんが出て来るのを待っているかも知れないのだ。そう思うと本当にぞっとする。

 あれから不思議と、ストーカーは徐々に後を付ける距離を開けていた。聞こえる足音がだんだんと遠くなっていて、今では春眞の耳でも聞こえ辛くなっているのだ。1度成功すると味を占めて詰めて来るものだと思うのだが。

 春眞たちが送る様になったので警戒されているのだろうか。それとも後を付けるのを諦めてくれたのだろうか。勿論そうであっても油断は出来ないのだが。

「あなたがこれまでに関わって来た男の中で、そうなってしもうた人が必ずいるんです。せやからあなたは今怖い目にうとる。ただ道を聞かれただけとか、そんな些細ささいなことでもです」

「……私、よう道を聞かれます」

「あなたはとても素直でええ人やと思うんで、当たり良く丁寧に教えたんでしょうね。それは人として当たり前の事でもあるんですけど、笑顔のひとつで勘違いしてまう馬鹿野郎かているんですよねー」

 速水さんが悪い訳では無い。夕子の言う通り人として当然の事をしていただけだろう。だが速水さんは可愛らしい顔をゆがめてしまう。きっと心中には色々な思いが渦巻いているのでは無いだろうか。理不尽、罪悪感、きっとその様なものだろうか。

「それと可能性が高いのはこっちなんですが、知り合いん中で必要以上になれなれしいとか、そういう人いませんか?」

「あ……」

 速水さんは考えを巡らす様に小さく俯き、ほんのわずか後にぱっと目を見開いた。

「え、心当たりあんのか?」

 冬暉ふゆきが訊くと、しかし速水さんは言い淀み視線をさまよわせた。

「速水さん?」

 春眞に更に問われ、ようやく速水さんは口を開いた。

「同僚なんですけど、やたらと絡んで来る人がおって……。でも高橋さん、あ、その人高橋さんて言うんですけど、花田さん、あ、他の女性社員にも同じ調子なんで、まさかと思うて」

「その人に対して、あなたはどういう態度を取ってますか?」

「あ、当たり障り無い様に……。花田さんは明らかに嫌そうな態度を見せてますけど……」

「となると、嫌がられてへんて思われてるかも知れへんですね」

「あ……」

 速水さんが狼狽うろたえた。確かにその通りかも知れない。態度に出している花田さんと出さない速水さん、その男性社員、高橋はどちらにも同じ様に絡んで来ているのだろうが、心の内は判らない。手応えとしては速水さんの方が良いだろう。表向きは嫌な顔をしないのだから。

 もしかしたら高橋なのだろうか。速水さんは顔をしかめたまま両腕を擦った。

「速水さん、何でもええんですけど、高橋でしたっけ? そん人の匂いの付いてるもんとかって手に入りませんか? 素手で触ったもんとかでええんですけど」

 春眞が訊くと、速水さんは不思議そうに微かに首を傾げた。そんなものをどうするつもりなのだろうか、そう思って当然だ。だが速水さんは聞き返す事もせず、すんなりと応えた。

「あの、今日も肩とか背中とか触られたんです。なので匂い、ですか? 付いとるかも知れません」

「分かりました。おぉい茉夏まなつ、どうせ聞いとったんやろ?」

「はーい」

 ドア越しに立ち聞きしていた茉夏が、リビングから悪怯わるびれもせず出て来た。その後に秋都あきとも続く。

「兄ちゃんまで……」

 春眞がつい呆れた声を出すと、秋都は口を押さえて「ほほほ」とごまかす様に笑った。

「だって聞こえちゃったんだもの~。それより、なぁに?」

「あ、茉夏、速水さんに何か着替え貸したげて。服に付いた匂い嗅ぎたいから」

「はーい」

「あ、あの!」

 茉夏が自室に行こうと階段を上がり掛けた時、速水さんが声を上げた。

「大丈夫です、このまま嗅いでもろうても」

 いや、さすがにそれは。交際もしていない異性の服の匂いを嗅ぐという行為そのものが、変態染みていて抵抗があるし申し訳も無いのに。春眞が焦ると、夕子が小さく溜め息を吐いた。

「速水さん、それが「隙」ですよ」

「え、あ」

 今度は速水さんが慌てた。

「私、そんなつもりや」

「ええ、あなたが無意識でして来たことが、ストーキングのきっかけになってるんかも知れへんのです。ほんまに、怖いことですよね」

「はい……」

 茉夏が自室からグレーのパーカーを持って来た。前がジッパーになっているので、化粧をしていても手軽に着てもらえる。さすがのチョイスだ。

 速水さんに家に上がってもらい、脱衣所に案内する。数分後着替え終わって出て来た速水さんは、着ていた白いニットをおずおずと春眞に差し出した。

「すいません、ありがとうございます」

「よ、よろしくお願いします」

 春眞はニットを受け取ると、触られたと言っていた左肩の辺りに鼻を近付けた。

 覚えている匂いを思い出す。紙片から嗅ぎ取った匂いを。そして着ていた速水さん以外の匂いを嗅ぎ取ろうと、神経を鼻先に集中させる。

 ちゃんと高橋の匂いを嗅ぎ取れているのだろうか。背中も嗅いでみる。うん、同じ匂いがする。ちゃんと嗅ぎ取れていたみたいだ。しかしこれは……。

「ちゃうみたいや。メモに付いてる匂いとちゃう」

 春眞が顔を上げて言うと、ほっとした様ながっかりした様な空気が流れた。速水さんだけが何が起こったのか解らない様子で、おろおろしている。

「あ、あの、匂いって……?」

「ああ、俺、「ちょっと人より」鼻が利くんですよ。ポストに入れられているメモの匂い、毎日嗅いで覚えてたんです」

 実は例の紙片は、毎日速水さんのマンションのポストに入れられていた。内容は「今日もお仕事頑張ったね」「お疲れさま。ゆっくり休んでね」など毎日違ったが、気味の悪さは変わらない。

 触るもの嫌だと言わんばかりの速水さんの代わりに、春眞がポストから紙片だけを取り除いていた。その度に密かに匂いをチェックしていたのだ。

 さて、これで件の高橋は容疑者から外れた。安堵は速水さんの同僚という毎日顔を合わす近しい人間がストーカーで無かった事へのもので、落胆は心当たりが外れた事へのものだった。

 振り出しに戻った様な気がした。
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