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2章 ただ純粋だっただけ
第6話 粘着質な同僚
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翌日朝、カフェ・シュガーパインの開店準備はいつもの通り始まる。10時になれば開店だ。
作り終えたスイーツを冷蔵庫に入れた後は、秋都はソース類などをせっせと作り、調理師免許を持っている春眞はこつこつとお肉や野菜の下拵えなどをする。茉夏は鼻歌を口ずさみながらシュガーパインの鉢植えに水をやり、掃除の最終仕上げをし、下拵えで溜まってしまった調理器具を洗う。
ちなみに朝ご飯の支度は茉夏がする。と言ってもあまりお料理が得意とは言えない茉夏は、卵とパンを焼き、生野菜でサラダを作る程度だが。その間に春眞と秋都がスイーツ作りをするのだ。
しかし今朝はいつもと少し違っていた。冬暉が速水さんと一緒に出勤する事になった。警察にあらためて相談する事にしたのだ。
あの小さな紙片ひとつでどこまで警察が取り合ってくれるか判らないが、次の証拠入手を待つ事はできない。それまでの間、速水さんが怖い思いをするだけなのだ。しかもこうした証拠が新たに手に入る確証は無い。どちらにしても放っておく事はできない。
警察でストーカー規制法ができてから、一昔前よりずっと真っ当に対応してもらえる様になった。ストーカー被害者は思った以上に多い。現代社会の歪みだなんて安易な言葉で片付けるのは、被害者が気の毒だ。
こちらで確認できただけで3度の尾行に1枚の紙片。相手の素性が判らない事もあって被害届が出せるかどうかはともかく、先日の相談より突っ込んだ話も出来るだろう。
紙片からは指紋が出るだろうし、直筆の文字からは筆跡が判る。警察のデータベースにあればそこで身元が判るし、無くてもこれからの捜査の役に大いに役立つ。
「おはようございます」
8時半頃、速水さんがシュガーパインに現れた。約束の時間通りだった。
「あら~、おはよう速水ちゃん」
「おはようございます」
「おはようございまーす」
そのタイミングでばたばたと冬暉が降りてきた。
「っす。悪ぃ待たせた」
「いえ、今来たとこですから。それよりもこちらこそお手数をお掛けしてしもうて」
速水さんが頭を下げると、冬暉はそれを払う様に手を振った。
「気にすんなって。これも俺らの仕事やからさ。じゃあ行って来るわ」
「は~い、行ってらっしゃ~い。速水ちゃんの事お願いね~」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい!」
兄姉に見送られ、冬暉は来たばかりの速水さんを連れて出て行った。本当ならコーヒーの1杯ぐらいお出ししたかったところだが、朝の春眞たちにそんな余裕は無かった。
「速水さん心配やで。まったく可愛い女の子怖がらせるやなんて、男の風上にも置けへん!」
掃除の仕上げをしながら、茉夏が憤慨する。フェミニストの茉夏にとって、ストーカーなど忌む最たるものなのかも知れない。フェミニストで無くても許せるものでは無いのだが。
「ボクに来てくれたら、完膚無きまでにぼこってやるのに」
「過剰防衛は勘弁やで」
「半殺しぐらい何ともあれへんよ」
「あるやろ!」
「あ、今度速水さんに護身術教えてあげようかな!」
「ほどほどにね~。迷惑になっちゃあかんわよ~」
「解ってるよ」
とりあえず、春眞たちに出来る事は何も無い。仕事帰りの速水さんを自宅マンションまで送り届ける事ぐらいだ。
今はシュガーパインを無事に開店時間にスタートさせなければならない。3人は口を開きながらも、せっせと手を動かした。
「おはようございます」
もう昼に差し掛かろうとしていたが、カナは出社時にそう挨拶し、いつもの様にタイムカードを押す。カナの職場は小規模のデザイン制作会社なので、未だに手押しのタイムレコーダを採用している。かなり年季が入っていて、打ち出される時間が欄から少しずれたりもするが、まだまだ現役だ。
カナは忙しく働く社員に挨拶をしながら、社長のデスクに向かう。社長もまた他の社員に負けない程の仕事量をこなしていた。
「おはようございます。今日は申し訳ありませんでした」
「事情が事情なんやから気にすんな。早よ片が付くとええな」
「はい、ありがとうございます」
社長に大らかに言われ、カナはほっと胸を撫で下ろした。社長の性格はある程度知っているので、こうした事で怒られるとは思っていないが、やはり申し訳無いというのが立ってしまう。
最近この会社には、通販カタログのデザインから制作という大きな仕事が入って来ており、17時の終業時間が守られる事が無くなっていた。もともと残業があって当たり前ではあったが、デジタル社会という背景と景気のせいもあってかあまり遅くならない様にはなっていた。が、今はそうも言っていられない。
初稿の締切まであと2週間足らず。しかしそこから直しが入ることは確実なので、一段落はするだろうが激務は変わらないだろう。あと1ヶ月、何とか踏ん張らなければ。
ストーカーなどに惑わされている場合では無い。怖いことは確かなのだが、これ以上仕事に影響を出すわけには行かない。今日もこうして遅刻をさせてもらっていて心苦しい。
カタログに掲載される商品の種類は様々で、一定フォーマットを流用できる部分が少ないので、いちからデザインすることが多い。
使用する写真の色補正などは製版会社に任せているので、当初の作業量からはぐっと減ったが、それでも毎日、女性社員は21時近く、男性社員は22時近くまでの残業が必要になっている。
カナは職場の最寄り駅である淀屋橋から長居駅まで電車で20分ほどなので、日によっては21時過ぎには長居駅に到着できているが、もうひとりの女性社員は40分は掛かると言っていた。大変だ。
さて、今日も激務である。今日は女性用衣類ページのデザインだ。掲載する洋服のデザインに合わせてページをデザインする。子ども用の可愛らしい洋服ならポップなページに、大人用のベーシックな洋服ならシンプルなページに。
さっそく自分のデスクに着き、マックを立ち上げる。その間にカナはコーヒーを煎れた。福利厚生のひとつとして備え付けられているインスタントコーヒーだ。
「あ、速水さんおはよう」
「おはようございます」
カナの先輩の男性社員、高橋さんだ。彼も仕事中のドリンクはコーヒーの習慣があった。
「痴漢に遭うたんやて? 今日も警察行ったって聞いたから」
「あ、はい。大丈夫です」
実はストーカーで、大丈夫じゃ無いかも知れない、なんて言えない。仕事場だけの付き合いの高橋さんにしたいと思う内容では無かった。
「ま、何かあったら相談しぃや。遠慮せんとさ」
高橋さんはそう言うと、空いた手でカナの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「あ、はい、ありがとうございます」
国が違えばセクシャルハラスメントとも取られかねない行為に、カナの表情は歪み掛けた。が、抑え込んで笑顔を浮かべた。
カナは神経質な方ではないつもりなので、肩を叩かれる事ぐらいは何とも思わない。だがこの高橋さんという男性社員は、何かとカナともうひとりの女性社員花田さんに構いたがる。肩や背中を軽く叩かれるのは日常茶飯事だ。他の男性社員はそういう事をしないので、余計に目立つ。
カナよりも歳若い花田さんはあからさまに嫌がっていて、社長に直談判までした。それで高橋さんは社長から注意を受けた事もあるのだが、カナは少し嫌だなと思っても態度に出さない様にしていた。
高橋さんは花田さんに嫌そうな顔をされても社長に注意されても平気で絡んで行くので、神経が図太いのか無神経なのかのどちらかだろう。カナは後者だと思っている。どちらにしても救いは無いが。
カナは小さな溜め息をひとつ吐いて、煎れたばかりの熱いコーヒーをちびりと飲んだ。さて仕事に取り掛かるとしよう。遅れた分を取り戻さなければ。
作り終えたスイーツを冷蔵庫に入れた後は、秋都はソース類などをせっせと作り、調理師免許を持っている春眞はこつこつとお肉や野菜の下拵えなどをする。茉夏は鼻歌を口ずさみながらシュガーパインの鉢植えに水をやり、掃除の最終仕上げをし、下拵えで溜まってしまった調理器具を洗う。
ちなみに朝ご飯の支度は茉夏がする。と言ってもあまりお料理が得意とは言えない茉夏は、卵とパンを焼き、生野菜でサラダを作る程度だが。その間に春眞と秋都がスイーツ作りをするのだ。
しかし今朝はいつもと少し違っていた。冬暉が速水さんと一緒に出勤する事になった。警察にあらためて相談する事にしたのだ。
あの小さな紙片ひとつでどこまで警察が取り合ってくれるか判らないが、次の証拠入手を待つ事はできない。それまでの間、速水さんが怖い思いをするだけなのだ。しかもこうした証拠が新たに手に入る確証は無い。どちらにしても放っておく事はできない。
警察でストーカー規制法ができてから、一昔前よりずっと真っ当に対応してもらえる様になった。ストーカー被害者は思った以上に多い。現代社会の歪みだなんて安易な言葉で片付けるのは、被害者が気の毒だ。
こちらで確認できただけで3度の尾行に1枚の紙片。相手の素性が判らない事もあって被害届が出せるかどうかはともかく、先日の相談より突っ込んだ話も出来るだろう。
紙片からは指紋が出るだろうし、直筆の文字からは筆跡が判る。警察のデータベースにあればそこで身元が判るし、無くてもこれからの捜査の役に大いに役立つ。
「おはようございます」
8時半頃、速水さんがシュガーパインに現れた。約束の時間通りだった。
「あら~、おはよう速水ちゃん」
「おはようございます」
「おはようございまーす」
そのタイミングでばたばたと冬暉が降りてきた。
「っす。悪ぃ待たせた」
「いえ、今来たとこですから。それよりもこちらこそお手数をお掛けしてしもうて」
速水さんが頭を下げると、冬暉はそれを払う様に手を振った。
「気にすんなって。これも俺らの仕事やからさ。じゃあ行って来るわ」
「は~い、行ってらっしゃ~い。速水ちゃんの事お願いね~」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい!」
兄姉に見送られ、冬暉は来たばかりの速水さんを連れて出て行った。本当ならコーヒーの1杯ぐらいお出ししたかったところだが、朝の春眞たちにそんな余裕は無かった。
「速水さん心配やで。まったく可愛い女の子怖がらせるやなんて、男の風上にも置けへん!」
掃除の仕上げをしながら、茉夏が憤慨する。フェミニストの茉夏にとって、ストーカーなど忌む最たるものなのかも知れない。フェミニストで無くても許せるものでは無いのだが。
「ボクに来てくれたら、完膚無きまでにぼこってやるのに」
「過剰防衛は勘弁やで」
「半殺しぐらい何ともあれへんよ」
「あるやろ!」
「あ、今度速水さんに護身術教えてあげようかな!」
「ほどほどにね~。迷惑になっちゃあかんわよ~」
「解ってるよ」
とりあえず、春眞たちに出来る事は何も無い。仕事帰りの速水さんを自宅マンションまで送り届ける事ぐらいだ。
今はシュガーパインを無事に開店時間にスタートさせなければならない。3人は口を開きながらも、せっせと手を動かした。
「おはようございます」
もう昼に差し掛かろうとしていたが、カナは出社時にそう挨拶し、いつもの様にタイムカードを押す。カナの職場は小規模のデザイン制作会社なので、未だに手押しのタイムレコーダを採用している。かなり年季が入っていて、打ち出される時間が欄から少しずれたりもするが、まだまだ現役だ。
カナは忙しく働く社員に挨拶をしながら、社長のデスクに向かう。社長もまた他の社員に負けない程の仕事量をこなしていた。
「おはようございます。今日は申し訳ありませんでした」
「事情が事情なんやから気にすんな。早よ片が付くとええな」
「はい、ありがとうございます」
社長に大らかに言われ、カナはほっと胸を撫で下ろした。社長の性格はある程度知っているので、こうした事で怒られるとは思っていないが、やはり申し訳無いというのが立ってしまう。
最近この会社には、通販カタログのデザインから制作という大きな仕事が入って来ており、17時の終業時間が守られる事が無くなっていた。もともと残業があって当たり前ではあったが、デジタル社会という背景と景気のせいもあってかあまり遅くならない様にはなっていた。が、今はそうも言っていられない。
初稿の締切まであと2週間足らず。しかしそこから直しが入ることは確実なので、一段落はするだろうが激務は変わらないだろう。あと1ヶ月、何とか踏ん張らなければ。
ストーカーなどに惑わされている場合では無い。怖いことは確かなのだが、これ以上仕事に影響を出すわけには行かない。今日もこうして遅刻をさせてもらっていて心苦しい。
カタログに掲載される商品の種類は様々で、一定フォーマットを流用できる部分が少ないので、いちからデザインすることが多い。
使用する写真の色補正などは製版会社に任せているので、当初の作業量からはぐっと減ったが、それでも毎日、女性社員は21時近く、男性社員は22時近くまでの残業が必要になっている。
カナは職場の最寄り駅である淀屋橋から長居駅まで電車で20分ほどなので、日によっては21時過ぎには長居駅に到着できているが、もうひとりの女性社員は40分は掛かると言っていた。大変だ。
さて、今日も激務である。今日は女性用衣類ページのデザインだ。掲載する洋服のデザインに合わせてページをデザインする。子ども用の可愛らしい洋服ならポップなページに、大人用のベーシックな洋服ならシンプルなページに。
さっそく自分のデスクに着き、マックを立ち上げる。その間にカナはコーヒーを煎れた。福利厚生のひとつとして備え付けられているインスタントコーヒーだ。
「あ、速水さんおはよう」
「おはようございます」
カナの先輩の男性社員、高橋さんだ。彼も仕事中のドリンクはコーヒーの習慣があった。
「痴漢に遭うたんやて? 今日も警察行ったって聞いたから」
「あ、はい。大丈夫です」
実はストーカーで、大丈夫じゃ無いかも知れない、なんて言えない。仕事場だけの付き合いの高橋さんにしたいと思う内容では無かった。
「ま、何かあったら相談しぃや。遠慮せんとさ」
高橋さんはそう言うと、空いた手でカナの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「あ、はい、ありがとうございます」
国が違えばセクシャルハラスメントとも取られかねない行為に、カナの表情は歪み掛けた。が、抑え込んで笑顔を浮かべた。
カナは神経質な方ではないつもりなので、肩を叩かれる事ぐらいは何とも思わない。だがこの高橋さんという男性社員は、何かとカナともうひとりの女性社員花田さんに構いたがる。肩や背中を軽く叩かれるのは日常茶飯事だ。他の男性社員はそういう事をしないので、余計に目立つ。
カナよりも歳若い花田さんはあからさまに嫌がっていて、社長に直談判までした。それで高橋さんは社長から注意を受けた事もあるのだが、カナは少し嫌だなと思っても態度に出さない様にしていた。
高橋さんは花田さんに嫌そうな顔をされても社長に注意されても平気で絡んで行くので、神経が図太いのか無神経なのかのどちらかだろう。カナは後者だと思っている。どちらにしても救いは無いが。
カナは小さな溜め息をひとつ吐いて、煎れたばかりの熱いコーヒーをちびりと飲んだ。さて仕事に取り掛かるとしよう。遅れた分を取り戻さなければ。
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