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3章 力を尽くして
第5話 選ばれた理由
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鍵谷さんは、と半ば慌てて見ると、呆然としていた。鍵谷さんにとって思いもよらぬ結果だったのだろう。それだけ自信があったと言うことだ。だがそれも束の間、鍵谷さんは悔しげに歯を食いしばり、「なぜですか」と低く呻いた。
「鍵谷さんのデザインは素晴らしいものだと私は思いますよ。でもね、これはうちの店のイメージでは無いんです」
「ですが私のデザインの方が優れているはずです!」
鍵谷さんは矢田さんの隣にいるので、紗奈のカンプが正位置で見えているのだろう。2枚を比べ、なおかつ自分の方が良いものだと確信しているのだ。
「そうかも知れません。私はデザインは素人で、正直優劣は良く判れへんのですよ。畑中さん天野さん、鍵谷さんのデザインご覧になりますか?」
「ぜひ」
畑中さんが応えると、矢田さんが紗奈と畑中さんの間に鍵谷さんのデザインをそっと滑らせた。逆位置からは見えていたが、あらためて正位置から見ると、確かに洗練されたものだった。
背景ははっとする様な白。使われている色はグレイとパープル、ワインレッドだった。縦型で作成されていて、紗奈が使ったものと同じ二種の写真は上部に整然と並べられている。その写真もメインとなる料理が目立つ様に、背景にぼかしが入れられていた。
写真や文章の内容なども、紗奈が作ったものと同じだった。矢田さんが渡したのだろう。フォントは細いゴシックや明朝体が主に使われていた。
奇抜さなどは無く、ベーシックとも言える。すっきりとして情報が読み取りやすく作られていて、こなれたものだと伺えた。2枚を並べて見ると、確かに紗奈のものが野暮ったく見えてしまう。だが決定的な違いは一目瞭然だった。
どう言ったら良いのか判らず、紗奈は畑中さんを見る。畑中さんは目を伏せてゆっくりと首を横に振った。自分たちからは何も言うべきでは無い、そういうことだろう。紗奈は小さく頷くと、また矢田さんに視線を向けた。
「なんで私が天野さんのを選んだんか、お分かりですかねぇ」
矢田さんの面差しはあくまで穏やかだった。その口調のまま、ゆっくりと語り出す。
「天野さんのデザインは、うちの店の雰囲気に寄り添って作られているんですよ。私が志した、親しみやすくて入りやすい気軽なビストロ。お父さんお母さんが小さいお子さんと一緒に来はる様なね。鍵谷さんが作られたんは、うちのビストロや無くてレストランや無いですかね。うちには上等過ぎます」
一見鍵谷さんを立てている様だが、暗に「ビストロ・ヤタに合わない」とはっきりと言っている。紗奈と畑中さんはお店の雰囲気も取り入れて作成をしたのだが、鍵谷さんはそうでは無かった。
淡いクリーム色の壁を取り入れた優しい店内。木製の椅子やテーブルを使って暖かみを演出。それらを反映しようと心を砕いた紗奈が作るもののテーマは、1枚目の新規開店DMから続いている。
お届けしたお客さまにほっとしていただける様に、あの柔らかな空間に行きたいと思っていただける様に、お誕生日と言う大切な記念日のお祝いに、ビストロ・ヤタを選んでいただける様に。そんな思いを込めたつもりだ。
矢田さんはそんな紗奈の思いを汲み取ってくれていた。伝わっていた。紗奈の胸中に歓喜があふれ、たまらず無言で頭を下げる。
鍵谷さんは忌々しげに紗奈を睨み付けると、カンプを引っ掴んでビジネスバッグに突っ込んだ。
「失礼します」
不機嫌を孕む声色でそう言い残し、足早にその場を去っていった。全員分のドリンクが付けられた伝票は放置される。自分が注文したコーヒー代を気にする余裕も無かったのだろう。そのコーヒーもほとんどが残されていて、もう湯気も上がっていなかった。
鍵谷さんとともにぴりっとした空気が取り払われ、紗奈はほっと息を吐く。
この仕事をしていればこういうコンペはこれからもあって、また穏やかならぬ時を過ごすかもしれない。だがこれからのお仕事でもっと自信を付けて、もう少し図太くもなって、成長して行けたらと思う。
ともあれ紗奈は、このコンペを成功で収めることができたのだ。出来レースと言われていたが、それでも感じる大きな喜び。紗奈はじわりと潤んで来るものを指でそっと抑えた。
「矢田さん、ありがとうございます!」
紗奈が深々とお辞儀をすると、矢田さんは「いやいや」と鷹揚に笑った。
「なんや後味が悪うなってしもうてすいませんねぇ。私ももっと巧いこと言えたら良かったんやけど。正直ね、こんな競争みたいなこともして欲しく無かったんですわ」
矢田さんは苦笑しながら太い首筋を掻いた。
「けどなんと言いますか、ほんまに食い下がってきはって。自分と今のデザイン会社と競合させろって。でなければ納得せえへんって」
鍵谷さんはそれほどに自分の仕事を自負していたのだろう。コンペをすれば必ず自分がもぎ取れると信じていた。
謙虚であることが美徳だとは思わないが、現状の自分に慢心せず、自分の実力を冷静に分析し、その上を目指す。それはきっとどんな仕事にも共通するものなのだろう。紗奈たちの様なクリエイターだけでは無く。
才能やセンスというものは存在する。だがそれは努力や精進をしてこそ、花開かせることができるのだ。それがあるからと驕っていては、そこで終わってしまうのである。
紗奈は自分に才能があるとは思っていない。でもデザイナーになりたかったから大学で専攻した。今も勉強の日々だ。様々なクライアントに学ばせてもらっているのだ。
まだまだ拙いながらも、そうして少しでもクライアントに、そしてそれを受け取る人々に喜んでもらえたら幸せだと思っている。
「ほんまに巻き込んでしもうて申し訳無かったです。これでも一応客商売です。人を見る目はあるつもりなんです。私としてはこれからも畑中さんと天野さんにお願いしたいと思ってますんで、これからもどうぞお願いします」
矢田さんがそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「お願いいたします。ありがとうございます」
紗奈と畑中さんも揃って深く頭を下げた。
「鍵谷さんのデザインは素晴らしいものだと私は思いますよ。でもね、これはうちの店のイメージでは無いんです」
「ですが私のデザインの方が優れているはずです!」
鍵谷さんは矢田さんの隣にいるので、紗奈のカンプが正位置で見えているのだろう。2枚を比べ、なおかつ自分の方が良いものだと確信しているのだ。
「そうかも知れません。私はデザインは素人で、正直優劣は良く判れへんのですよ。畑中さん天野さん、鍵谷さんのデザインご覧になりますか?」
「ぜひ」
畑中さんが応えると、矢田さんが紗奈と畑中さんの間に鍵谷さんのデザインをそっと滑らせた。逆位置からは見えていたが、あらためて正位置から見ると、確かに洗練されたものだった。
背景ははっとする様な白。使われている色はグレイとパープル、ワインレッドだった。縦型で作成されていて、紗奈が使ったものと同じ二種の写真は上部に整然と並べられている。その写真もメインとなる料理が目立つ様に、背景にぼかしが入れられていた。
写真や文章の内容なども、紗奈が作ったものと同じだった。矢田さんが渡したのだろう。フォントは細いゴシックや明朝体が主に使われていた。
奇抜さなどは無く、ベーシックとも言える。すっきりとして情報が読み取りやすく作られていて、こなれたものだと伺えた。2枚を並べて見ると、確かに紗奈のものが野暮ったく見えてしまう。だが決定的な違いは一目瞭然だった。
どう言ったら良いのか判らず、紗奈は畑中さんを見る。畑中さんは目を伏せてゆっくりと首を横に振った。自分たちからは何も言うべきでは無い、そういうことだろう。紗奈は小さく頷くと、また矢田さんに視線を向けた。
「なんで私が天野さんのを選んだんか、お分かりですかねぇ」
矢田さんの面差しはあくまで穏やかだった。その口調のまま、ゆっくりと語り出す。
「天野さんのデザインは、うちの店の雰囲気に寄り添って作られているんですよ。私が志した、親しみやすくて入りやすい気軽なビストロ。お父さんお母さんが小さいお子さんと一緒に来はる様なね。鍵谷さんが作られたんは、うちのビストロや無くてレストランや無いですかね。うちには上等過ぎます」
一見鍵谷さんを立てている様だが、暗に「ビストロ・ヤタに合わない」とはっきりと言っている。紗奈と畑中さんはお店の雰囲気も取り入れて作成をしたのだが、鍵谷さんはそうでは無かった。
淡いクリーム色の壁を取り入れた優しい店内。木製の椅子やテーブルを使って暖かみを演出。それらを反映しようと心を砕いた紗奈が作るもののテーマは、1枚目の新規開店DMから続いている。
お届けしたお客さまにほっとしていただける様に、あの柔らかな空間に行きたいと思っていただける様に、お誕生日と言う大切な記念日のお祝いに、ビストロ・ヤタを選んでいただける様に。そんな思いを込めたつもりだ。
矢田さんはそんな紗奈の思いを汲み取ってくれていた。伝わっていた。紗奈の胸中に歓喜があふれ、たまらず無言で頭を下げる。
鍵谷さんは忌々しげに紗奈を睨み付けると、カンプを引っ掴んでビジネスバッグに突っ込んだ。
「失礼します」
不機嫌を孕む声色でそう言い残し、足早にその場を去っていった。全員分のドリンクが付けられた伝票は放置される。自分が注文したコーヒー代を気にする余裕も無かったのだろう。そのコーヒーもほとんどが残されていて、もう湯気も上がっていなかった。
鍵谷さんとともにぴりっとした空気が取り払われ、紗奈はほっと息を吐く。
この仕事をしていればこういうコンペはこれからもあって、また穏やかならぬ時を過ごすかもしれない。だがこれからのお仕事でもっと自信を付けて、もう少し図太くもなって、成長して行けたらと思う。
ともあれ紗奈は、このコンペを成功で収めることができたのだ。出来レースと言われていたが、それでも感じる大きな喜び。紗奈はじわりと潤んで来るものを指でそっと抑えた。
「矢田さん、ありがとうございます!」
紗奈が深々とお辞儀をすると、矢田さんは「いやいや」と鷹揚に笑った。
「なんや後味が悪うなってしもうてすいませんねぇ。私ももっと巧いこと言えたら良かったんやけど。正直ね、こんな競争みたいなこともして欲しく無かったんですわ」
矢田さんは苦笑しながら太い首筋を掻いた。
「けどなんと言いますか、ほんまに食い下がってきはって。自分と今のデザイン会社と競合させろって。でなければ納得せえへんって」
鍵谷さんはそれほどに自分の仕事を自負していたのだろう。コンペをすれば必ず自分がもぎ取れると信じていた。
謙虚であることが美徳だとは思わないが、現状の自分に慢心せず、自分の実力を冷静に分析し、その上を目指す。それはきっとどんな仕事にも共通するものなのだろう。紗奈たちの様なクリエイターだけでは無く。
才能やセンスというものは存在する。だがそれは努力や精進をしてこそ、花開かせることができるのだ。それがあるからと驕っていては、そこで終わってしまうのである。
紗奈は自分に才能があるとは思っていない。でもデザイナーになりたかったから大学で専攻した。今も勉強の日々だ。様々なクライアントに学ばせてもらっているのだ。
まだまだ拙いながらも、そうして少しでもクライアントに、そしてそれを受け取る人々に喜んでもらえたら幸せだと思っている。
「ほんまに巻き込んでしもうて申し訳無かったです。これでも一応客商売です。人を見る目はあるつもりなんです。私としてはこれからも畑中さんと天野さんにお願いしたいと思ってますんで、これからもどうぞお願いします」
矢田さんがそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「お願いいたします。ありがとうございます」
紗奈と畑中さんも揃って深く頭を下げた。
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