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2章 未来のふたり(仮)
第4話 初めてのクライアント
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「お待たせせんで良かったわ」
「はい」
約束の時間の10分前に着ける様に事務所を出ていたのである。クライアントをお待たせするわけにはいかないのだ。
紗奈と畑中さんは並んで下座に座る。ソファタイプの椅子で、畑中さんが奥に行く。こういう時の席次は研修の時に知ったことだ。
事務所で面接を受けた時、そして入社式の時、所長さんは紗奈に上座をすすめてくれていたのだが、それらの時は座る場所などあまり深く考えていなかった。
ビジネスマナーの勉強を経た今では、こうした時は紗奈たちは下座に着く。学生の時には「はーい、奥から詰めてー」なんて、先輩後輩関係無く適当に座っていたのだが、社会人になればそれでは済まないシーンも多いのである。
紗奈と畑中さんは、バッグからタブレットと名刺入れを出し、テーブルにきちんと揃えて置いた。それからは身じろぎするのも最小限にクライアントの訪れを待つ。相手が来た時にスマートフォンを見ていたりだなんて、そんな失礼はできない。
このご時世、スマートフォンやタブレットの使い道は多岐に渡る。遊びやプライベートはもちろん、仕事で使うことも多い。だが端から見ればどういう用途で使っているのかなんて判らない。なので少しでも失礼にならない様に努めるのだ。
その代わりでは無いと思うのが、畑中さんが小声で話し掛けて来た。
「天野さん、仕事っちゅうか事務所は慣れた?」
気遣ってくれているのだろう。紗奈は小さく驚きつつ、畑中さんの声の大きさに合わせて「はい」とこくりと頷いた。
「皆さん良くしてくださるんで、おかげさまで」
「そりゃ良かった。お料理部もええ感じやって聞いたで。料理は楽しい?」
残業上等のこの業界なので、畑中さんも毎日の様に残業をしていた。まだ入社間も無い紗奈ですら残業が発生することがある。と言っても今はほんの短時間なのだが。
残業中は規定の業務時間では無いと言うこともあるのか、少し雰囲気が緩む。そんな時に世間話をしたりすることがあるのだそうだ。
「はい。少しずつできることが増えて来て、楽しいです」
本心だった。まだ岡薗さんに付いててもらっているし、レシピ本を手放せないが、ほぼひとりで作れる様にもなって来ている。
「ええなぁ。私もぷち潔癖や無かったら加わりたかったわ。外食より安くて美味しいできたてご飯食べられるなんて最高やん」
「そうなんですよねぇ。あったかいご飯、美味しいです。牧田さんも岡薗さんもお料理上手で」
「らしいなぁ。ええわぁ。あ」
話が中断される。畑中さんが顔を上げた先を見ると、ひとりの男性が立っていた。歳のころ30代前半だろうか。短く刈り上げた黒々とした髪が若々しい。チャコールグレーのトレーナーとブルージーンズというラフな格好に身を包み、ラガーマンの様ながっちり体型である。男性は柔和な笑顔を浮かべながら小さく頭を下げた。紗奈と畑中さんは素早く立ち上がる。
「宇垣デザイン事務所の方でしょうか」
「はい」
男性の太いながらも親しみを感じさせる声に、畑中さんが応える。
「お待たせしました。矢田と申します」
「初めまして。宇垣デザイン事務所の畑中と申します」
「天野と申します」
紗奈と畑中さんは深く頭を下げた。それで矢田と名乗った男性もあらためて頭を下げる。
畑中さんは矢田さんを正面の席に促し、あらためて名刺を渡した。矢田さんはぺこぺこと頭を下げながら紗奈たちの名刺を受け取り、テーブルに並べて置いて椅子に腰を降ろした。
「僕はまだ名刺を作っていなくてすいません。あ、でもあらためて名刺やショップカードの作成もお願いするかも知れません」
それは、このフライヤーのでき次第によっては、あらたに仕事がいただけるということだ。俄然気合いが入る。
畑中さんがにっこりと笑みを浮かべる。紗奈は初めて見る畑中さんの綺麗な笑顔に失礼ながらぎょっとした。不意打ちだった。だができるだけそれを表に出さない様に堪える。
全員が揃ったので、まずは店員さんにドリンクを注文する。矢田さんはホットコーヒーを、紗奈と畑中さんはホットティを頼む。店員さんが「お待ちください」とその場を去ると、畑中さんが穏やかに口を開いた。
「ご希望に添える様に尽力します。よろしくお願いいたします。ではさっそくですが、レイアウトやデザインイメージのご意向をお聞かせくださいますか?」
畑中さんがタブレットを立ち上げ、紗奈もラフを描こうとタブレットを手にする。
「えっとですね……」
矢田さんが頭を巡らせながら出す希望を、紗奈と畑中さんはタブレットのドローアプリに落として行った。
ヒアリングは1時間ほどに渡って行われた。使用するお料理の写真は矢田さんが用意してくれるとのことだったので、途中でその確認も行った。印刷に耐え得るサイズかどうかなどをチェックし、USBメモリを借り受ける。
紗奈は他の媒体とごっちゃにならない様に、茶封筒の表面にボールペンで「矢田様 USBメモリ」と書き、中にメモリを滑り込ませた。
今日できることが終了し、辞して行く矢田さんを深いお辞儀で見送った紗奈と畑中さん。矢田さんが自動ドアの向こうに消えると、横から「ふぅっ」と派手な溜め息が聞こえた。畑中さんだ。
「愛想笑い疲れたわ~」
見ると、先ほどまで緩やかに上げられていた口角も元に戻り、言葉の通りかすかな疲労を滲ませた顔で、首をぐるりと回した。
「愛想笑い、やったんですか?」
「愛想笑いっちゅうか、作り笑いっちゅうか。ほら、私普段あんまり笑わへんから」
「そうなんですか?」
「そうやねん。いや、面白いこととかあったらそりゃ笑うけど、そうで無い時に笑うのしんどいねん。でも仏頂面でクライアントと会うて、不愉快な思いさせたらあかんやろ。せやから頑張ってんねん」
確かに普段の畑中さんはあまり感情が読めない人だ。だが事務所内で仕事をしている分には何の問題も無いし、所長さん始め他の人たちとの関係も良好に思える。
そういう部分に畑中さんのクライアントへの気遣いが見える。紗奈は今日が初めての仕事でのヒアリングだったが、所長さんや岡薗さんにも気を付けたりしていることが、きっとそれぞれあるのだろう。失礼が無い様に、少しでもスムーズに話が進む様に、クライアントの要望の取り逃がしが無い様に、クライアントが言葉を発しやすい様に。
「天野さんが描いたラフとかは、また帰ったら見せてもらうとして。ランチどうする? このままここで食べて行く?」
昼休憩までに事務所に戻れるか分からなかったので、紗奈の今日のお料理部活動はお休みになっていた。実際時間を見ると、すでに12時を回っている。
ここはドリンクがメインのカフェなので、フードメニューの種類はそう多く無く、軽食がメインなのだ。
「畑中さん、近くにイタリアンの美味しいお店があるんです。良かったらどうですか?」
「あ、ええなぁ。行こか」
「はい」
畑中さんは笑顔が苦手だと言っていたが、紗奈がイタリアンを提案した時に見せた小さな笑顔はとても素敵だった。きっと無意識の笑みなのだろう。
そうとは気付かないまま、畑中さんは伝票を取り上げた。
「あ、私が立て替えますよ」
クライアントと飲み食いした分は、基本業者である事務所持ちだ。一旦立て替えて、領収書を添えて事務である牧田さんに申請するのである。そのお金はよほどの大金で無ければ、給料に上乗せされて返って来ることになっている。
「ええよ、大丈夫」
畑中さんは伝票を手にしたままレジに向かい、紗奈は「ありがとうございます!」と後を追い掛けた。
「はい」
約束の時間の10分前に着ける様に事務所を出ていたのである。クライアントをお待たせするわけにはいかないのだ。
紗奈と畑中さんは並んで下座に座る。ソファタイプの椅子で、畑中さんが奥に行く。こういう時の席次は研修の時に知ったことだ。
事務所で面接を受けた時、そして入社式の時、所長さんは紗奈に上座をすすめてくれていたのだが、それらの時は座る場所などあまり深く考えていなかった。
ビジネスマナーの勉強を経た今では、こうした時は紗奈たちは下座に着く。学生の時には「はーい、奥から詰めてー」なんて、先輩後輩関係無く適当に座っていたのだが、社会人になればそれでは済まないシーンも多いのである。
紗奈と畑中さんは、バッグからタブレットと名刺入れを出し、テーブルにきちんと揃えて置いた。それからは身じろぎするのも最小限にクライアントの訪れを待つ。相手が来た時にスマートフォンを見ていたりだなんて、そんな失礼はできない。
このご時世、スマートフォンやタブレットの使い道は多岐に渡る。遊びやプライベートはもちろん、仕事で使うことも多い。だが端から見ればどういう用途で使っているのかなんて判らない。なので少しでも失礼にならない様に努めるのだ。
その代わりでは無いと思うのが、畑中さんが小声で話し掛けて来た。
「天野さん、仕事っちゅうか事務所は慣れた?」
気遣ってくれているのだろう。紗奈は小さく驚きつつ、畑中さんの声の大きさに合わせて「はい」とこくりと頷いた。
「皆さん良くしてくださるんで、おかげさまで」
「そりゃ良かった。お料理部もええ感じやって聞いたで。料理は楽しい?」
残業上等のこの業界なので、畑中さんも毎日の様に残業をしていた。まだ入社間も無い紗奈ですら残業が発生することがある。と言っても今はほんの短時間なのだが。
残業中は規定の業務時間では無いと言うこともあるのか、少し雰囲気が緩む。そんな時に世間話をしたりすることがあるのだそうだ。
「はい。少しずつできることが増えて来て、楽しいです」
本心だった。まだ岡薗さんに付いててもらっているし、レシピ本を手放せないが、ほぼひとりで作れる様にもなって来ている。
「ええなぁ。私もぷち潔癖や無かったら加わりたかったわ。外食より安くて美味しいできたてご飯食べられるなんて最高やん」
「そうなんですよねぇ。あったかいご飯、美味しいです。牧田さんも岡薗さんもお料理上手で」
「らしいなぁ。ええわぁ。あ」
話が中断される。畑中さんが顔を上げた先を見ると、ひとりの男性が立っていた。歳のころ30代前半だろうか。短く刈り上げた黒々とした髪が若々しい。チャコールグレーのトレーナーとブルージーンズというラフな格好に身を包み、ラガーマンの様ながっちり体型である。男性は柔和な笑顔を浮かべながら小さく頭を下げた。紗奈と畑中さんは素早く立ち上がる。
「宇垣デザイン事務所の方でしょうか」
「はい」
男性の太いながらも親しみを感じさせる声に、畑中さんが応える。
「お待たせしました。矢田と申します」
「初めまして。宇垣デザイン事務所の畑中と申します」
「天野と申します」
紗奈と畑中さんは深く頭を下げた。それで矢田と名乗った男性もあらためて頭を下げる。
畑中さんは矢田さんを正面の席に促し、あらためて名刺を渡した。矢田さんはぺこぺこと頭を下げながら紗奈たちの名刺を受け取り、テーブルに並べて置いて椅子に腰を降ろした。
「僕はまだ名刺を作っていなくてすいません。あ、でもあらためて名刺やショップカードの作成もお願いするかも知れません」
それは、このフライヤーのでき次第によっては、あらたに仕事がいただけるということだ。俄然気合いが入る。
畑中さんがにっこりと笑みを浮かべる。紗奈は初めて見る畑中さんの綺麗な笑顔に失礼ながらぎょっとした。不意打ちだった。だができるだけそれを表に出さない様に堪える。
全員が揃ったので、まずは店員さんにドリンクを注文する。矢田さんはホットコーヒーを、紗奈と畑中さんはホットティを頼む。店員さんが「お待ちください」とその場を去ると、畑中さんが穏やかに口を開いた。
「ご希望に添える様に尽力します。よろしくお願いいたします。ではさっそくですが、レイアウトやデザインイメージのご意向をお聞かせくださいますか?」
畑中さんがタブレットを立ち上げ、紗奈もラフを描こうとタブレットを手にする。
「えっとですね……」
矢田さんが頭を巡らせながら出す希望を、紗奈と畑中さんはタブレットのドローアプリに落として行った。
ヒアリングは1時間ほどに渡って行われた。使用するお料理の写真は矢田さんが用意してくれるとのことだったので、途中でその確認も行った。印刷に耐え得るサイズかどうかなどをチェックし、USBメモリを借り受ける。
紗奈は他の媒体とごっちゃにならない様に、茶封筒の表面にボールペンで「矢田様 USBメモリ」と書き、中にメモリを滑り込ませた。
今日できることが終了し、辞して行く矢田さんを深いお辞儀で見送った紗奈と畑中さん。矢田さんが自動ドアの向こうに消えると、横から「ふぅっ」と派手な溜め息が聞こえた。畑中さんだ。
「愛想笑い疲れたわ~」
見ると、先ほどまで緩やかに上げられていた口角も元に戻り、言葉の通りかすかな疲労を滲ませた顔で、首をぐるりと回した。
「愛想笑い、やったんですか?」
「愛想笑いっちゅうか、作り笑いっちゅうか。ほら、私普段あんまり笑わへんから」
「そうなんですか?」
「そうやねん。いや、面白いこととかあったらそりゃ笑うけど、そうで無い時に笑うのしんどいねん。でも仏頂面でクライアントと会うて、不愉快な思いさせたらあかんやろ。せやから頑張ってんねん」
確かに普段の畑中さんはあまり感情が読めない人だ。だが事務所内で仕事をしている分には何の問題も無いし、所長さん始め他の人たちとの関係も良好に思える。
そういう部分に畑中さんのクライアントへの気遣いが見える。紗奈は今日が初めての仕事でのヒアリングだったが、所長さんや岡薗さんにも気を付けたりしていることが、きっとそれぞれあるのだろう。失礼が無い様に、少しでもスムーズに話が進む様に、クライアントの要望の取り逃がしが無い様に、クライアントが言葉を発しやすい様に。
「天野さんが描いたラフとかは、また帰ったら見せてもらうとして。ランチどうする? このままここで食べて行く?」
昼休憩までに事務所に戻れるか分からなかったので、紗奈の今日のお料理部活動はお休みになっていた。実際時間を見ると、すでに12時を回っている。
ここはドリンクがメインのカフェなので、フードメニューの種類はそう多く無く、軽食がメインなのだ。
「畑中さん、近くにイタリアンの美味しいお店があるんです。良かったらどうですか?」
「あ、ええなぁ。行こか」
「はい」
畑中さんは笑顔が苦手だと言っていたが、紗奈がイタリアンを提案した時に見せた小さな笑顔はとても素敵だった。きっと無意識の笑みなのだろう。
そうとは気付かないまま、畑中さんは伝票を取り上げた。
「あ、私が立て替えますよ」
クライアントと飲み食いした分は、基本業者である事務所持ちだ。一旦立て替えて、領収書を添えて事務である牧田さんに申請するのである。そのお金はよほどの大金で無ければ、給料に上乗せされて返って来ることになっている。
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