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第2部 悲劇を越えた先へ
24話
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昨日と同じように、執務室の中ではミゲル、マッテオ、ルキウス、テオ、そしてサミュエルが円陣を組むように並んで立っていた。
女性陣がいない分、なかなかむさ苦しい空間である。エミリアは今、別室でマリアンナに旅支度を整えてもらっているところだ。
窓の外は快晴。絶好の旅日和だ。御者のトマスと話し合った結果、王都までは馬で行くことに決めた。
街道が損傷していたとしても馬車より融通がきくし、何より早く到着できるからだ。他人との接触をなるべく減らせる利点もある。王都の人間はエミリアの存在を知らないとはいえ、極力人目にはつきたくなかった。
「忘れ物なさそうですか? ちゃんとハンカチ持ちました?」
テオがサミュエルの手元をのぞき込む。少し大きめの袋には、路銀、地図、もしものときの傷薬など、思いつくものがみっちりとつめ込まれていた。
少しでもエミリアに不便をさせないようにと、ミゲルとマリアンナからの思いやりだ。
「お前は母親かよ……」
ぼそりと呟く顔は青い。緊張からではなく、寝不足が祟っているのだ。昨日、テオとルキウスと連れ立って酒場に行ったのはいいが、城に戻ったのは深夜になってからだった。
さすがに旅立ちの前日だったので、サミュエル自身はたいして飲んではいない。
ただ、テオの絡み酒とルキウスの泣き上戸に挟まれたおかげで精神的なダメージが半端なく、体は疲れているのに逆に眠れなくなってしまったのだ。本人たちは昨日の地獄を忘れたようにケロッとしているのがまた憎らしい。
「その調子で大丈夫なのか。お嬢にもしものことがあったら潰すからな」
何を、とは怖くて聞けなかった。見せつけるように右手をぎゅっと握りしめるマッテオの隣では、ミゲルが穏やかな笑みを浮かべながら今にもサミュエルを射殺さんばかりに見つめている。
「私はサミュエル様を信じていますよ。たとえ二人きりの旅路といえど、紳士的に振る舞ってくださると」
手を出したら殺すぞと言外に言っているのがひしひしと伝わってきて、サミュエルは生唾を飲み込んだ。ミゲルの期待に応えられる自信がないのが、また怖い。
「待たせてすまない。女の服は慣れなくて……」
緊張感漂う執務室の扉が開き、マリアンナを伴ったエミリアが中に入ってきた。その場にいる全員が彼女に視線を向け、そして一斉に目尻を下げた。
初めて女の服を着た姿を披露するのが照れくさいのか、エミリアの頬は赤くなっていた。男の割合が多いこの城にも、ちゃんと女性用の外出着は存在したらしい。
生成色のブラウスに青と黄色のチェックのロングスカートを合わせ、胸にリボンがついた緋色のマントを羽織る彼女は、疑いようもなく年頃の女性だった。とても今まで男のふりをしていたようには見えない。
未来で礼服を着たときと同じく、マリアンナは相当頑張ったらしい。いつも一つにまとめられていた髪は、緩やかなウェーブを描くハーフアップになっていた。
一言で言うと、可愛い。とても可愛い。ミゲルのプレッシャーも忘れ、サミュエルはエミリアに目を奪われていた。
「どうだろう? ちゃんと女らしくなっているか?」
テオに脇を肘でつつかれ、ハッと我に返る。見惚れている場合ではない。誰かに先を越される前にこの想いをきちんと口にせねば。
「可愛いです、とても。よく似合っていますよ、お嬢様」
「そ、そうか。よかった」
もじもじと絡める両手が、窓から差し込む夏の日差しを浴びてきらりと光った。彼女の左手の薬指には銀色の指輪がはまっている。サミュエルの左手の薬指にも同じものがあった。
「旅をする男女の組み合わせで、一番怪しくないのは新婚夫婦よ」というのがマリアンナの談だ。偽装とはいえエミリアと夫婦になれると思うと、それだけで口元が緩んでくる。
「ニヤニヤしてんじゃねぇよ。エミリア様に傷一つでもつけたらぶっ殺すからな。……まあ、剣の腕だけはいいから問題ないだろうが」
深夜まで酒を飲み交わしたからか、未来よりも雪解けが早い。これから彼はミリーナの結婚に際して滂沱の涙を流すだろうが、アフターフォローはテオに頼んである。
結婚式に参列できないのは残念だが、マッテオが立派に代理を勤めてくれるはずだ。願わくば、マリアンナの趣味が炸裂した礼服にご機嫌を損ねなければいいが。
「ルキウスさん。コリンたちのこと、よろしくお願いしますね」
「おう、未来の騎士団員候補としてビシバシ鍛えておいてやるよ」
昨日、まだルキウスが素面のうちに、サミュエルの代わりに剣を教えてもらえるように頼んでおいたのだ。ぶっきらぼうな態度に反して、ルキウスは面倒見がいい。きっと彼ならコリンたちも素直に言うことを聞くだろう。
「私からも頼む。できれば、こまめに孤児院の様子を見に行ってやってほしい」
「あー……はい」
エミリアにぎゅっと両手を握られて、ルキウスが歯の痛みをこらえるような顔をした。可憐な彼女の姿に戸惑っているのだろう。らしくなく狼狽えるルキウスの姿を見て、湧き上がる嫉妬心を無理やり押さえ込む。
「どうしました? 珍しく歯切れが悪いですね。お嬢様に見惚れちゃったんですか? 俺には散々ボロクソに言った癖に」
「いや、本当に女性だったんだと思って」
サミュエルの嫌味に対し、ルキウスは素直な感想を返してきた。頭ではわかっていたが、実際に目にすることで改めて認識したのだろう。
バツが悪そうなルキウスに、エミリアはふっと微笑んだ。その笑顔を見て何を思ったのか、彼はグッと唇を噛み締めると、視線を足下に落とした。
「同じ笑顔なのに、やっぱり違うのか。エミリオ様はこの下におられるのですね」
「……そうだ。会いたいか?」
今、彼の脳裏にはエミリオとの思い出が駆け巡っているのだろう。ルキウスは足元を見つめたまま黙り込んでいたが、やがて顔を上げ、ふるふると首を横に振った。
「いや、あれだけ働いてらしたんだ。ゆっくり休ませて差し上げたい。全てが終わったらご報告に伺わせていただきますよ。あなたの妹とフランチェスカはちゃんとお守りしましたってね」
「そうしてやってくれ。エミリオはルキウスを兄のように慕っていたから」
「光栄です。騎士冥利に尽きるってもんですよ」
そう言って微笑むルキウスは、今まで見たこともないくらい優しい顔をしていた。彼らの間には、サミュエルの知らない時間が息づいている。
——ちょっと寂しいな。
胸がチクっと痛んだが、これから少しずつ知っていけばいいんだ、と気を取り直した。
「お嬢様、そろそろ……」
「うん。みんな、行ってくる。後のことは頼んだ」
「お任せください。必ずやこの局面を乗り切って見せましょう」
頼もしいミゲルの言葉に見送られ、サミュエルたちは執務室を後にした。外まで見送りはいらないと言ってある。必ず戻ってくるつもりだし、彼らにはやることがたくさんあるからだ。
玄関を出ると、階段下の広場で一頭の馬を連れたトマスが待っていた。つぶらな瞳をした綺麗な葦毛の馬だ。敷き布や鍋といった大物の荷物はすでに馬の背に括り付けられてある。
「穏やかで、体力のある馬を選びました。二人で乗っても、十分に速度が出るはずです」
「ありがとう、トマス。名前は何と言うんだ?」
「フランです。可愛がってやってください」
「いい名前だな。よろしくな、フラン」
エミリアに鼻先を撫でられ、フランはひひんと控えめに鳴いた。トマスの言う通り、穏やかで気立の良さそうな馬だ。
エミリアの細い腰を抱き抱え、フランの背に慎重に乗せる。最初は別々の馬に乗るつもりだったが、平民の女性が馬に乗り慣れているのもおかしいだろうという意見になり、サミュエルが手綱を引くことになったのだ。
エミリアが安定したのを確認し、サミュエルもフランの背に跨った。横乗りになったエミリアの体を囲うように手綱を握ると、髪からのぞいた彼女の耳が少し赤くなった。
「どうかご無事で」
眉を下げて、祈るように指を組むトマスに頷き、ゆっくりと城下に向かって下りていく。夏の明るい日差しの中とはいえ、まだ早朝だ。あたりに人気はない。
絶え間なく水を噴き出す噴水も、歴史を感じさせる市庁舎も、しばらく見納めだと思うとしんみりとした気持ちになる。それはエミリアも同じ気持ちのようで、少し寂しげな瞳で周囲を見渡していた。
そして、城壁の外に続く跳ね橋に差し掛かったとき、収穫を終えた畑の中に、数えきれないほどの人間が立っている光景が目に飛び込んできた。
収穫祭に用意したものを持ち出したのだろう。みんな思い思いに青と黄色のペナントを手に持ち、サミュエルたちに向かってしきりに振っている。
中にはフランチェスカの紋章を掲げ持つものもいて、さながら遠征に赴く騎士の出立式のようだった。
「エミリア様! お気をつけて!」
「お帰りをお待ちしています!」
「エミリア様をしっかりお守りしろよ! サミュ坊!」
最後の言葉はサミュエル御用達の酒場の親父だろう。呆然としながら馬の歩を進める二人の耳に、次から次へと歓声が飛び込んでくる。予想外の見送りに、エミリアは涙ぐんでいた。
「エミリア様! ニコ……じゃなかった、サミュエル!」
馬に並走するように、小さな体が群集の隙間から飛び出してきた。見慣れたオッドアイの瞳が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。それは、サミュエルが初めて孤児院を訪れたときに見た眩しい笑顔そのものだった。
「俺たち、しっかりフランチェスカを守るよ! だから安心して行ってきて!」
「頼んだぞ、コリン。剣の練習もサボるなよ。戻ってきたらちゃんと確認するからな」
「わかってるって。めきめき上達して驚かせてやるよ、師匠!」
大きく手を振るコリンに手を振り返し、領民たちの間を抜けて、王都へと続く街道に馬首を向ける。サミュエルたちの旅立ちの気配を察し、その周りにいた領民たちが一斉に道を開けた。
馬の腹を蹴り、常足から速足に速度を変える。見る見るうちに流れていく領民たちの一番最後に、穏やかな微笑みを浮かべたジュリオと、涙ぐむアントニオの姿があった。
たった一日足らずで領民たちに通達を終えたとは頭が下がる。横を通り過ぎざまに感謝の気持ちを込めて目礼すると、二人は小さく頷きを返した。
「領民たちはあなたを受け入れたようですよ」
「うん……うんっ」
エミリアはもはや声も出ないようだった。その体を抱きしめるように手綱を握る腕に力を込め、サミュエルは真っ直ぐに前を見つめる。
目の前には地平線の向こうにまで続く石畳と、目が痛いほどに晴れ渡る青空が広がっていた。
感動的な見送りから十日と少しが経ち、サミュエルたちは王都の手前にあるノリクという街に到着した。フランチェスカと同じく、堅牢な城壁に囲まれた歴史ある街だ。
重厚な城門を潜ると、この土地を管理する領主の屋敷に続く石畳が真っ直ぐに伸び、その両脇に数えきれないほどの屋台が立ち並んでいる。
建物や石畳にはところどころヒビが入り、地震の爪痕を感じさせたが、それでも生活や観光に支障のない程度には修復されていた。
街のつくりはフランチェスカにも似ているが、一風変わっているのは、それぞれの屋台の屋根に張られた色とりどりのタープだ。
雨が降っても買い物を楽しめるようにという工夫で、ノリクの名物にもなっている。下から見上げると様々な色や紋様が重なり合い、一種独特の景観を産んでいた。
街路に沿うように等間隔に吊るされた穏やかなランプ明かりが、夜の闇に浮かび上がる屋台をより幻想的に映し出している。ノリクのマーケットは夜も眠らない。見渡す限り、街の中は買い物客たちであふれかえっていた。
「うわぁ、凄い人。大きい町だな。同じ宿場町でもクノーブルとは全然違う」
「王都の玄関口になりますからね。ここからは半日あれば余裕で着きます。今日はここで英気を養って明日に備えましょう」
エミリアがこくこくと首を縦に振った。久しぶりに宿で眠れるのが嬉しいのだろう。お互い、もう服はボロボロだ。
最初は順調だったのだが、北に行くにつれて街道が不通になっている場所が増え、舗装されていない旧道を進んだために、結局、馬車と変わらない日数がかかってしまった。
王都に近づくと街道の修復も進んでいたが、完全な復興にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「ここまで守ってくれてありがとうな、ニコ」
「とんでもない。愛する妻を守るためなら何でもしますよ、エミリー」
ここにくるまでの道中、何度か野盗に襲われたが、あっさりと返り討ちにして事なきを得た。
ただの傭兵崩れが、ロドリゴの薫陶を受けたサミュエルにかなうはずもない。今頃、彼らは土地の養分になっているだろう。当然、エミリアにもフランにも傷ひとつない。
ちなみに本名を呼び合うわけにもいかないので、人がいるところではお互い偽名を使っている。本名をもじっているエミリアはともかく、サミュエルはまたニコに戻ってしまった。
「まず、宿屋に向かいましょうか。フランを預けて、ご飯でも食べに行きましょう」
「わかった。お腹減ったな」
「絶対に俺のマントを放さないでくださいよ。また人さらいに会うかもしれませんからね」
「う、うん」
青い顔をしてしがみつくエミリアの頭を撫でながら、フランの手綱を引き、ゆっくりと歩く。
目的の宿屋は、大通りからすぐのところにあった。旅の途中で出会った行商人のおすすめだ。
馬小屋も完備されている上に、公衆浴場まで併設されているので少しお高いが、ロドリゴとソフィアに会うのに小汚い格好でいたくないというエミリアの意を汲んだのだ。
正直、二人は気にしないとは思うが、いじらしい乙女心だろう。それぐらいの甲斐性はサミュエルにもあった。
「えっ、ベッドが一つしかない?」
宿屋の馬番にフランを預け、宿泊手続きのためにカウンターに向かったサミュエルは思わず声を上げた。ちらりと背後を伺うと、少し離れたところで心配そうにこちらを見つめるエミリアと目が合い、咄嗟に視線を逸らす。
「長椅子でもいいから、別々に眠れる部屋はないかな。俺たち、ずっと野宿が続いてて、今日はゆっくりと眠りたいんだ」
「王都に向かう街道が復旧して物流が再開したばかりだからねぇ。あちこちから人が一気に流れてきてるんだよ。今はどこの宿屋も似たようなもんだと思うよ。正直、一部屋空いているのも奇跡なぐらいでさ」
ここを逃すとまた野宿する羽目になりそうだ。
しかし、さすがにベッドが一つはやばい。
野宿中は気が張っているので、たとえ寄り添って眠っていても変な気は起こさなかったが、安全な屋根の下、その上同じベッドとなると、自分が何をするか知れたもんじゃない。
サミュエルだけ床に寝てもいいが、それだとエミリアが気にしてしまう。固辞したところで、お前も一緒にベッドに入れと言うのが目に見えていた。
このままではマッテオやミゲルに潰されてしまう。ルキウスにもきっと殺されるだろう。頭を抱えて唸っているサミュエルに、店主は不思議そうな顔をした。
「でも、あんたら夫婦もんだろ? 別にベッドひとつだって構やしないんじゃないの」
首を傾げる店主にグッと言葉をつまらせる。そのとき、エミリアがすすっと隣に寄ってきてサミュエルの腕に己の腕を絡めた。
「そうなんですよ、店主さん。私たち新婚なんだけどね。まだ一緒のベッドに寝てくれないの。この人ったら本当に恥ずかしがりやで困っちゃうわ」
「エ、エミリ……」
「でもね、もうそろそろいい時分だと思うの。今回のことはいいきっかけになるわ。ねっ、あなた」
本名を言いかけたサミュエルを制止するように、エミリアがにっこりと微笑んだ。彼女の背後に、テオとマリアンナが設定した新妻がご降臨している。その雰囲気に気圧され、サミュエルは黙って頷くしかなかった。
「ははっ、お熱いねぇ。よし、結婚祝いだ。ここに併設してる浴場の入浴券をあげよう。ぴかぴかに磨き上げて、旦那さんに可愛がってもらいな」
「ありがとう、店主さん。恥ずかしいから、私たちの部屋には近づかないようにしてね」
「わかったわかった。従業員にも言っておいてやるよ。他の客の迷惑にならないように、ほどほどにな」
ちゃっかり人払いも要求し、部屋の鍵を受け取ったエミリアは、呆然としているサミュエルを引きずるようにして二階に上がった。
お高いだけあって、廊下には足触りのいい絨毯が敷きつめられている。天井からも凝った装飾の燭台が吊り下げられていて、なかなかお洒落だ。
用意された部屋は二階の一番奥にあった。窓からマーケットの賑わいを見渡せる、なかなか眺望に恵まれた場所だ。本当に新婚旅行だったなら、さぞかしロマンチックな気分になれるだろう。
しかし、部屋の中の空気は重い。部屋に入って早々に力なく椅子に座り込んだエミリアが、真っ赤になった顔を両手で覆って項垂れていた。
「あの……」
「言うな。私だって恥ずかしいんだ。何だよあの設定。誰が決めたんだ」
「テオとマリアンナさんです……」
エミリアも了承したはずなのだが、恥ずかしさのあまり思考がまわっていないらしい。とはいえ、いつまでもこうしていても仕方ないので、そろそろ外出しようと促す。
一晩中店は空いているとはいえ、エミリアを連れてあまり夜の街を歩きたくなかった。
「さっきも言いましたけど、とりあえず食事に行きましょうよ。お腹空いているでしょう? 着替えも調達したいし、浴場にも行きたいですよね。せっかくタダ券もらったことですし」
さっきの店主の会話を思い出したのか、さらに顔を赤くしたエミリアがこくんと小さく頷いた。その姿を見て、今夜は眠れないかもしれないと、そんな予感が胸に芽生えた。
女性陣がいない分、なかなかむさ苦しい空間である。エミリアは今、別室でマリアンナに旅支度を整えてもらっているところだ。
窓の外は快晴。絶好の旅日和だ。御者のトマスと話し合った結果、王都までは馬で行くことに決めた。
街道が損傷していたとしても馬車より融通がきくし、何より早く到着できるからだ。他人との接触をなるべく減らせる利点もある。王都の人間はエミリアの存在を知らないとはいえ、極力人目にはつきたくなかった。
「忘れ物なさそうですか? ちゃんとハンカチ持ちました?」
テオがサミュエルの手元をのぞき込む。少し大きめの袋には、路銀、地図、もしものときの傷薬など、思いつくものがみっちりとつめ込まれていた。
少しでもエミリアに不便をさせないようにと、ミゲルとマリアンナからの思いやりだ。
「お前は母親かよ……」
ぼそりと呟く顔は青い。緊張からではなく、寝不足が祟っているのだ。昨日、テオとルキウスと連れ立って酒場に行ったのはいいが、城に戻ったのは深夜になってからだった。
さすがに旅立ちの前日だったので、サミュエル自身はたいして飲んではいない。
ただ、テオの絡み酒とルキウスの泣き上戸に挟まれたおかげで精神的なダメージが半端なく、体は疲れているのに逆に眠れなくなってしまったのだ。本人たちは昨日の地獄を忘れたようにケロッとしているのがまた憎らしい。
「その調子で大丈夫なのか。お嬢にもしものことがあったら潰すからな」
何を、とは怖くて聞けなかった。見せつけるように右手をぎゅっと握りしめるマッテオの隣では、ミゲルが穏やかな笑みを浮かべながら今にもサミュエルを射殺さんばかりに見つめている。
「私はサミュエル様を信じていますよ。たとえ二人きりの旅路といえど、紳士的に振る舞ってくださると」
手を出したら殺すぞと言外に言っているのがひしひしと伝わってきて、サミュエルは生唾を飲み込んだ。ミゲルの期待に応えられる自信がないのが、また怖い。
「待たせてすまない。女の服は慣れなくて……」
緊張感漂う執務室の扉が開き、マリアンナを伴ったエミリアが中に入ってきた。その場にいる全員が彼女に視線を向け、そして一斉に目尻を下げた。
初めて女の服を着た姿を披露するのが照れくさいのか、エミリアの頬は赤くなっていた。男の割合が多いこの城にも、ちゃんと女性用の外出着は存在したらしい。
生成色のブラウスに青と黄色のチェックのロングスカートを合わせ、胸にリボンがついた緋色のマントを羽織る彼女は、疑いようもなく年頃の女性だった。とても今まで男のふりをしていたようには見えない。
未来で礼服を着たときと同じく、マリアンナは相当頑張ったらしい。いつも一つにまとめられていた髪は、緩やかなウェーブを描くハーフアップになっていた。
一言で言うと、可愛い。とても可愛い。ミゲルのプレッシャーも忘れ、サミュエルはエミリアに目を奪われていた。
「どうだろう? ちゃんと女らしくなっているか?」
テオに脇を肘でつつかれ、ハッと我に返る。見惚れている場合ではない。誰かに先を越される前にこの想いをきちんと口にせねば。
「可愛いです、とても。よく似合っていますよ、お嬢様」
「そ、そうか。よかった」
もじもじと絡める両手が、窓から差し込む夏の日差しを浴びてきらりと光った。彼女の左手の薬指には銀色の指輪がはまっている。サミュエルの左手の薬指にも同じものがあった。
「旅をする男女の組み合わせで、一番怪しくないのは新婚夫婦よ」というのがマリアンナの談だ。偽装とはいえエミリアと夫婦になれると思うと、それだけで口元が緩んでくる。
「ニヤニヤしてんじゃねぇよ。エミリア様に傷一つでもつけたらぶっ殺すからな。……まあ、剣の腕だけはいいから問題ないだろうが」
深夜まで酒を飲み交わしたからか、未来よりも雪解けが早い。これから彼はミリーナの結婚に際して滂沱の涙を流すだろうが、アフターフォローはテオに頼んである。
結婚式に参列できないのは残念だが、マッテオが立派に代理を勤めてくれるはずだ。願わくば、マリアンナの趣味が炸裂した礼服にご機嫌を損ねなければいいが。
「ルキウスさん。コリンたちのこと、よろしくお願いしますね」
「おう、未来の騎士団員候補としてビシバシ鍛えておいてやるよ」
昨日、まだルキウスが素面のうちに、サミュエルの代わりに剣を教えてもらえるように頼んでおいたのだ。ぶっきらぼうな態度に反して、ルキウスは面倒見がいい。きっと彼ならコリンたちも素直に言うことを聞くだろう。
「私からも頼む。できれば、こまめに孤児院の様子を見に行ってやってほしい」
「あー……はい」
エミリアにぎゅっと両手を握られて、ルキウスが歯の痛みをこらえるような顔をした。可憐な彼女の姿に戸惑っているのだろう。らしくなく狼狽えるルキウスの姿を見て、湧き上がる嫉妬心を無理やり押さえ込む。
「どうしました? 珍しく歯切れが悪いですね。お嬢様に見惚れちゃったんですか? 俺には散々ボロクソに言った癖に」
「いや、本当に女性だったんだと思って」
サミュエルの嫌味に対し、ルキウスは素直な感想を返してきた。頭ではわかっていたが、実際に目にすることで改めて認識したのだろう。
バツが悪そうなルキウスに、エミリアはふっと微笑んだ。その笑顔を見て何を思ったのか、彼はグッと唇を噛み締めると、視線を足下に落とした。
「同じ笑顔なのに、やっぱり違うのか。エミリオ様はこの下におられるのですね」
「……そうだ。会いたいか?」
今、彼の脳裏にはエミリオとの思い出が駆け巡っているのだろう。ルキウスは足元を見つめたまま黙り込んでいたが、やがて顔を上げ、ふるふると首を横に振った。
「いや、あれだけ働いてらしたんだ。ゆっくり休ませて差し上げたい。全てが終わったらご報告に伺わせていただきますよ。あなたの妹とフランチェスカはちゃんとお守りしましたってね」
「そうしてやってくれ。エミリオはルキウスを兄のように慕っていたから」
「光栄です。騎士冥利に尽きるってもんですよ」
そう言って微笑むルキウスは、今まで見たこともないくらい優しい顔をしていた。彼らの間には、サミュエルの知らない時間が息づいている。
——ちょっと寂しいな。
胸がチクっと痛んだが、これから少しずつ知っていけばいいんだ、と気を取り直した。
「お嬢様、そろそろ……」
「うん。みんな、行ってくる。後のことは頼んだ」
「お任せください。必ずやこの局面を乗り切って見せましょう」
頼もしいミゲルの言葉に見送られ、サミュエルたちは執務室を後にした。外まで見送りはいらないと言ってある。必ず戻ってくるつもりだし、彼らにはやることがたくさんあるからだ。
玄関を出ると、階段下の広場で一頭の馬を連れたトマスが待っていた。つぶらな瞳をした綺麗な葦毛の馬だ。敷き布や鍋といった大物の荷物はすでに馬の背に括り付けられてある。
「穏やかで、体力のある馬を選びました。二人で乗っても、十分に速度が出るはずです」
「ありがとう、トマス。名前は何と言うんだ?」
「フランです。可愛がってやってください」
「いい名前だな。よろしくな、フラン」
エミリアに鼻先を撫でられ、フランはひひんと控えめに鳴いた。トマスの言う通り、穏やかで気立の良さそうな馬だ。
エミリアの細い腰を抱き抱え、フランの背に慎重に乗せる。最初は別々の馬に乗るつもりだったが、平民の女性が馬に乗り慣れているのもおかしいだろうという意見になり、サミュエルが手綱を引くことになったのだ。
エミリアが安定したのを確認し、サミュエルもフランの背に跨った。横乗りになったエミリアの体を囲うように手綱を握ると、髪からのぞいた彼女の耳が少し赤くなった。
「どうかご無事で」
眉を下げて、祈るように指を組むトマスに頷き、ゆっくりと城下に向かって下りていく。夏の明るい日差しの中とはいえ、まだ早朝だ。あたりに人気はない。
絶え間なく水を噴き出す噴水も、歴史を感じさせる市庁舎も、しばらく見納めだと思うとしんみりとした気持ちになる。それはエミリアも同じ気持ちのようで、少し寂しげな瞳で周囲を見渡していた。
そして、城壁の外に続く跳ね橋に差し掛かったとき、収穫を終えた畑の中に、数えきれないほどの人間が立っている光景が目に飛び込んできた。
収穫祭に用意したものを持ち出したのだろう。みんな思い思いに青と黄色のペナントを手に持ち、サミュエルたちに向かってしきりに振っている。
中にはフランチェスカの紋章を掲げ持つものもいて、さながら遠征に赴く騎士の出立式のようだった。
「エミリア様! お気をつけて!」
「お帰りをお待ちしています!」
「エミリア様をしっかりお守りしろよ! サミュ坊!」
最後の言葉はサミュエル御用達の酒場の親父だろう。呆然としながら馬の歩を進める二人の耳に、次から次へと歓声が飛び込んでくる。予想外の見送りに、エミリアは涙ぐんでいた。
「エミリア様! ニコ……じゃなかった、サミュエル!」
馬に並走するように、小さな体が群集の隙間から飛び出してきた。見慣れたオッドアイの瞳が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。それは、サミュエルが初めて孤児院を訪れたときに見た眩しい笑顔そのものだった。
「俺たち、しっかりフランチェスカを守るよ! だから安心して行ってきて!」
「頼んだぞ、コリン。剣の練習もサボるなよ。戻ってきたらちゃんと確認するからな」
「わかってるって。めきめき上達して驚かせてやるよ、師匠!」
大きく手を振るコリンに手を振り返し、領民たちの間を抜けて、王都へと続く街道に馬首を向ける。サミュエルたちの旅立ちの気配を察し、その周りにいた領民たちが一斉に道を開けた。
馬の腹を蹴り、常足から速足に速度を変える。見る見るうちに流れていく領民たちの一番最後に、穏やかな微笑みを浮かべたジュリオと、涙ぐむアントニオの姿があった。
たった一日足らずで領民たちに通達を終えたとは頭が下がる。横を通り過ぎざまに感謝の気持ちを込めて目礼すると、二人は小さく頷きを返した。
「領民たちはあなたを受け入れたようですよ」
「うん……うんっ」
エミリアはもはや声も出ないようだった。その体を抱きしめるように手綱を握る腕に力を込め、サミュエルは真っ直ぐに前を見つめる。
目の前には地平線の向こうにまで続く石畳と、目が痛いほどに晴れ渡る青空が広がっていた。
感動的な見送りから十日と少しが経ち、サミュエルたちは王都の手前にあるノリクという街に到着した。フランチェスカと同じく、堅牢な城壁に囲まれた歴史ある街だ。
重厚な城門を潜ると、この土地を管理する領主の屋敷に続く石畳が真っ直ぐに伸び、その両脇に数えきれないほどの屋台が立ち並んでいる。
建物や石畳にはところどころヒビが入り、地震の爪痕を感じさせたが、それでも生活や観光に支障のない程度には修復されていた。
街のつくりはフランチェスカにも似ているが、一風変わっているのは、それぞれの屋台の屋根に張られた色とりどりのタープだ。
雨が降っても買い物を楽しめるようにという工夫で、ノリクの名物にもなっている。下から見上げると様々な色や紋様が重なり合い、一種独特の景観を産んでいた。
街路に沿うように等間隔に吊るされた穏やかなランプ明かりが、夜の闇に浮かび上がる屋台をより幻想的に映し出している。ノリクのマーケットは夜も眠らない。見渡す限り、街の中は買い物客たちであふれかえっていた。
「うわぁ、凄い人。大きい町だな。同じ宿場町でもクノーブルとは全然違う」
「王都の玄関口になりますからね。ここからは半日あれば余裕で着きます。今日はここで英気を養って明日に備えましょう」
エミリアがこくこくと首を縦に振った。久しぶりに宿で眠れるのが嬉しいのだろう。お互い、もう服はボロボロだ。
最初は順調だったのだが、北に行くにつれて街道が不通になっている場所が増え、舗装されていない旧道を進んだために、結局、馬車と変わらない日数がかかってしまった。
王都に近づくと街道の修復も進んでいたが、完全な復興にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「ここまで守ってくれてありがとうな、ニコ」
「とんでもない。愛する妻を守るためなら何でもしますよ、エミリー」
ここにくるまでの道中、何度か野盗に襲われたが、あっさりと返り討ちにして事なきを得た。
ただの傭兵崩れが、ロドリゴの薫陶を受けたサミュエルにかなうはずもない。今頃、彼らは土地の養分になっているだろう。当然、エミリアにもフランにも傷ひとつない。
ちなみに本名を呼び合うわけにもいかないので、人がいるところではお互い偽名を使っている。本名をもじっているエミリアはともかく、サミュエルはまたニコに戻ってしまった。
「まず、宿屋に向かいましょうか。フランを預けて、ご飯でも食べに行きましょう」
「わかった。お腹減ったな」
「絶対に俺のマントを放さないでくださいよ。また人さらいに会うかもしれませんからね」
「う、うん」
青い顔をしてしがみつくエミリアの頭を撫でながら、フランの手綱を引き、ゆっくりと歩く。
目的の宿屋は、大通りからすぐのところにあった。旅の途中で出会った行商人のおすすめだ。
馬小屋も完備されている上に、公衆浴場まで併設されているので少しお高いが、ロドリゴとソフィアに会うのに小汚い格好でいたくないというエミリアの意を汲んだのだ。
正直、二人は気にしないとは思うが、いじらしい乙女心だろう。それぐらいの甲斐性はサミュエルにもあった。
「えっ、ベッドが一つしかない?」
宿屋の馬番にフランを預け、宿泊手続きのためにカウンターに向かったサミュエルは思わず声を上げた。ちらりと背後を伺うと、少し離れたところで心配そうにこちらを見つめるエミリアと目が合い、咄嗟に視線を逸らす。
「長椅子でもいいから、別々に眠れる部屋はないかな。俺たち、ずっと野宿が続いてて、今日はゆっくりと眠りたいんだ」
「王都に向かう街道が復旧して物流が再開したばかりだからねぇ。あちこちから人が一気に流れてきてるんだよ。今はどこの宿屋も似たようなもんだと思うよ。正直、一部屋空いているのも奇跡なぐらいでさ」
ここを逃すとまた野宿する羽目になりそうだ。
しかし、さすがにベッドが一つはやばい。
野宿中は気が張っているので、たとえ寄り添って眠っていても変な気は起こさなかったが、安全な屋根の下、その上同じベッドとなると、自分が何をするか知れたもんじゃない。
サミュエルだけ床に寝てもいいが、それだとエミリアが気にしてしまう。固辞したところで、お前も一緒にベッドに入れと言うのが目に見えていた。
このままではマッテオやミゲルに潰されてしまう。ルキウスにもきっと殺されるだろう。頭を抱えて唸っているサミュエルに、店主は不思議そうな顔をした。
「でも、あんたら夫婦もんだろ? 別にベッドひとつだって構やしないんじゃないの」
首を傾げる店主にグッと言葉をつまらせる。そのとき、エミリアがすすっと隣に寄ってきてサミュエルの腕に己の腕を絡めた。
「そうなんですよ、店主さん。私たち新婚なんだけどね。まだ一緒のベッドに寝てくれないの。この人ったら本当に恥ずかしがりやで困っちゃうわ」
「エ、エミリ……」
「でもね、もうそろそろいい時分だと思うの。今回のことはいいきっかけになるわ。ねっ、あなた」
本名を言いかけたサミュエルを制止するように、エミリアがにっこりと微笑んだ。彼女の背後に、テオとマリアンナが設定した新妻がご降臨している。その雰囲気に気圧され、サミュエルは黙って頷くしかなかった。
「ははっ、お熱いねぇ。よし、結婚祝いだ。ここに併設してる浴場の入浴券をあげよう。ぴかぴかに磨き上げて、旦那さんに可愛がってもらいな」
「ありがとう、店主さん。恥ずかしいから、私たちの部屋には近づかないようにしてね」
「わかったわかった。従業員にも言っておいてやるよ。他の客の迷惑にならないように、ほどほどにな」
ちゃっかり人払いも要求し、部屋の鍵を受け取ったエミリアは、呆然としているサミュエルを引きずるようにして二階に上がった。
お高いだけあって、廊下には足触りのいい絨毯が敷きつめられている。天井からも凝った装飾の燭台が吊り下げられていて、なかなかお洒落だ。
用意された部屋は二階の一番奥にあった。窓からマーケットの賑わいを見渡せる、なかなか眺望に恵まれた場所だ。本当に新婚旅行だったなら、さぞかしロマンチックな気分になれるだろう。
しかし、部屋の中の空気は重い。部屋に入って早々に力なく椅子に座り込んだエミリアが、真っ赤になった顔を両手で覆って項垂れていた。
「あの……」
「言うな。私だって恥ずかしいんだ。何だよあの設定。誰が決めたんだ」
「テオとマリアンナさんです……」
エミリアも了承したはずなのだが、恥ずかしさのあまり思考がまわっていないらしい。とはいえ、いつまでもこうしていても仕方ないので、そろそろ外出しようと促す。
一晩中店は空いているとはいえ、エミリアを連れてあまり夜の街を歩きたくなかった。
「さっきも言いましたけど、とりあえず食事に行きましょうよ。お腹空いているでしょう? 着替えも調達したいし、浴場にも行きたいですよね。せっかくタダ券もらったことですし」
さっきの店主の会話を思い出したのか、さらに顔を赤くしたエミリアがこくんと小さく頷いた。その姿を見て、今夜は眠れないかもしれないと、そんな予感が胸に芽生えた。
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