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第1部 フランチェスカの日々
20話
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中庭でマチルダを拾い、執務室に向かう。毎日のように過ごしていたそこは、屑籠をひっくり返したみたいにめちゃくちゃになっていた。
こっそりついてきたテオは、壊れた執務室の扉の陰に控えている。彼も不穏な空気を感じ取っているのだろう。単なる出歯亀にしては神経を尖らせている気がした。
大きく開いた窓からバルコニーに出ると、夕焼けに染め上げられたフランチェスカの街並みが視界に広がった。
投石機や火矢に見舞われたせいでところどころ建物は崩れ、黒く焼き爛れていたが、記憶に残る姿と変わらず美しく見える。
——やり切ったんだな。
領地を守り抜いたエミリアに改めて尊敬の念を抱いた。家族を次々と失い、その悲しみも癒えぬまま、領主として気丈に振る舞うのはどれだけ苦しかっただろう。
今まで通りの待遇が保証されたということは、蹂躙される心配も、理不尽に土地を追い出される心配もない。フランチェスカはこれからも続いていくのだ。
「さあ、行け。マチルダ」
優しく微笑んだエミリアが空に向けて腕を掲げ、旅立ちをうながす。マチルダは躊躇する様子を見せたが、やがて決心したように嘴を上に向け、空に向けて大きく羽ばたいた。
美しい翼から抜け落ちた羽が一枚、足元にひらりと落ちた。エミリアが愛おしげにそれを拾う。
名残惜しいのか、マチルダはしばらく頭上を旋回していたが、高くひと鳴きすると次第に高度を上げ、城壁の向こうへ消えていった。
「これで私の仕事は終わったな」
拾った羽を胸元で抱きしめ、寂しそうにエミリアが呟く。その目は空へ向けられたままだ。エミリオを想っているのかもしれない。
「聞かせてください。あなたが何を隠しているのかを。いったい、講和の場で何を言われたんですか?」
「隠す……隠すか、そうだな」
エミリアは深呼吸をすると、胸元に抱きしめていた羽をバルコニーの外へ手放した。未練を断ち切るような仕草に、ますます不安が大きくなっていく。
こちらに向き直った彼女は今にも泣き出しそうな、しかし、強い決意を滲ませた表情を浮かべていた。初めて会ったときのようにまっすぐに見つめられ、少し怯んでしまう。
「それはお互い様だろう? サミュエル・ディ・アヴァンティーノ」
空気が凍りついたようだった。
——なんで。
聞き間違いではない。エミリアはサミュエルの本当の名を口にした。今まで一度も教えたことのない、自分の名前を。
「……いつから」
声が震えている。もっと言いたいことがあったのに言葉が出てこない。
「ペンダントをもらったとき、母上がアメジストを持っていたと言ったな? 親友に渡したと」
黙って頷く。
——でも、なんでそれが俺の正体に繋がるんだ?
もの言いたげなサミュエルの視線に、エミリアは躊躇するように目を伏せたが、すぐに視線を戻し、言葉を続けた。
「ケルティーナでは、大切な人にものを贈るときに幾何学模様を刻む風習がある。お前に渡したペンダントの裏にも刻まれてるだろ?」
慌ててペンダントを裏返す。金色の台座の隅に、花のような幾何学模様が刻まれていた。
「当然、母上も親友に渡したときに刻んだ。……思い出を留めておきたかったのかな。父上が隠していた絵の裏に、その模様が小さく描かれていたよ。絵には、親友の姿も描かれていたから」
——まさか。
腰に下げた剣に目を落とす。サミュエルの柄頭に埋め込まれた石もアメジストだ。幾何学模様も刻まれている。それにソフィアは大切な親友からもらったと言っていた。
恐る恐るエミリアに視線を戻す。彼女は悲しみをたたえた瞳で、サミュエルを見つめ返した。
「ここまで言えばもうわかるな? その親友の名前は、ソフィア・ディ・アヴァンティーノ。ロドリゴ卿の妻で、お前の義母親だよ」
エミリアの目は、とても嘘を言っているように見えない。口の中がカラカラに乾いていく。無意識に剣の柄頭に触れた左手が、小さく震えていた。
「母上が亡くなってからは疎遠になっているが、お前の義両親と私の両親は旧知の間柄で、ロドリゴ卿は私とエミリオの名付け親なんだ」
ふふ、とエミリアが自嘲的に笑う。
「といっても、ロドリゴ卿は私の存在を知らない。男と女、どちらが生まれてもいいように、両方考えてくれただけだ。まさか両方とも使われているとは思っていないだろうな」
そんな話は聞いたことがなかった。
ロドリゴはサミュエルに一切フランチェスカの話をしなかったし、王城で誰かがフランチェスカを罵っていても、同調もしなければ嗜めもしなかったから、特に深い関わりはないのだろうと思っていたのに。
「叙任式で剣を受け取ったとき、目を疑ったよ。良く似たものなんじゃないかと思った。でも、お前は平民という割に振る舞いもきちんとしていたし、何より騎士の誓いを知っていた。テオは戸惑っていたのに……」
そこで言葉を切り、エミリアは言いづらそうに眉を寄せた。
「……数少ないサリカ人の生き残りで、貴族。そしてソフィア様からアメジストを託されるような男。そんな男は彼女とロドリゴ卿の一人息子ぐらいなものだろう?」
ぐ、と唇を噛み締める。確かにそうだ。
あのとき、サミュエルは何も疑わず騎士の誓いを受けた。元は平民といえど、知らず知らずのうちに貴族の生活に染まっていたのだ。うまく騙し通せたと思っていた自分が恥ずかしい。
「講和の席で初めてロドリゴ卿と顔を合わせたが、とても驚いたよ。目つきがそっくりだったから。まるで将来のお前を見ているようだった。血の繋がりはないのに不思議なものだな」
「なんで親父は何も……」
「だって、お前はフランチェスカを憎んでいたんだろう? 暗殺者として派遣されるぐらいなんだから。そんなの言えるわけがないじゃないか。それだけお前を愛していたんだよ」
喉からうめき声が漏れた。慈愛のこもった視線に耐えられずに目を逸らす。
エミリアがサミュエルの正体に気づいていたこと、その上、暗殺者だと知っていたこと、それらが頭の中でぐちゃぐちゃになっていく。
「ど、うして、俺が暗殺者だと……」
「ロドリゴ卿の息子が近衛騎士になったとは知っていたからな。カルロが寄越したんだとすぐにわかったよ。ただ……ロドリゴ卿が息子に汚れ仕事を許すとは思わなかったから、しばらく確信は持てなかった。でも……私に毒を盛っただろ?」
——気づいてたのか?
血の気が引いていく。まるで氷になったように、身体中が冷たかった。
「毒を盛られても効かないが、盛られたことはわかるんだ。舌にピリッとした痛みが走るから」
淡々と話を続けるエミリアの顔は、不思議なほど穏やかだった。
脳裏に、これまでのエミリアとの思い出が次々とよぎっていく。収穫祭の夜も、夏祭りの日も、彼女は心から楽しんでいるように見えた。
秋祭りでは手を繋いでダンスをして、ペンダントだって交換したのに、あれは全て演技だったのだろうか。
「どうして? どうして暗殺者だと知りながら、俺をそばに置き続けることにしたんですか? ロドリゴの息子なら役に立つと思ったんですか?」
「それは違う。お前を利用するつもりなんてなかった」
「じゃあ、なぜですか! 本当のことを教えてください! でないと納得できない!」
「それは……」
エミリアは言いにくそうにもじもじと後ろ手に両手を組み、顔を赤くして俯いた。まるで想い人に胸の丈を打ち上げる少女のような姿に、激しい動揺が少し落ち着いていく。
「……男の人に抱きしめられたのは、初めてだったから」
——なんだって?
消え入りそうな声に、サミュエルは目を丸くした。
思わずまじまじと見つめると、エミリアは恥ずかしそうに目を逸らした。いつの間にか耳まで真っ赤になっている。本当なら可愛らしい反応に胸をときめかせる場面だが、今のサミュエルにその余裕はなかった。
「わ、わかってる。お前に他意はないって。でも、嬉しかったんだ。人さらいから助けてもらって。誰かの体温が、あんなに安心するものだとは思わなかった。本当は、エミリオが死んで、ずっと怖かったんだよ。フランチェスカを守る重圧に押し潰されそうで……」
泣きそうに歪む顔に、エミリアが抱えていた不安と恐怖の大きさを知り、サミュエルは胸を打たれる思いだった。目の前にいるのはまだ十八の少女だとわかっていたのに、なぜそんなことに気がまわらなかったのか。
もっと彼女の気持ちに寄り添うべきだった。仇の娘だからと、冷たく接していた当時の自分が憎らしい。
「剣の腕も凄かった。言っただろ? 見惚れてしまったって。夜みたいな黒髪も、紫色に光る強い目も、とても綺麗だと思ったよ。できるなら、ずっとそばにいたいって思った。だから、騎士団に入りたいと言ってくれたとき、飛び上がりそうに嬉しかった。暗殺者だと気づいても、その気持ちを止められなかったんだ」
後悔の念に苛まれているサミュエルを尻目に、エミリアは堰を切ったように言葉を紡いでいく。一度あふれた気持ちを抑えられないのだろう。サミュエルを見つめる彼女の目には涙が滲み、夕焼けの光を受けてキラキラと輝いていた。
「つまり……一目惚れなんだ。ずっとお前の本当の名前を呼びたかったんだよ、サミュエル」
「お嬢様!」
エミリアに駆け寄り、強く抱きしめる。息を飲んだエミリアが腕の中で苦しそうに身を捩ったが、決して力を緩めなかった。
「サミュエル……」
彼女は切なげに呟くと、サミュエルの背中に両手を回し、身を預けるように胸に頬を寄せた。
「お前は優しい男だ。ずっと苦しかっただろう。フランチェスカへの……私への憎しみと板挟みになって。くだらない我儘に付き合わせて、本当にすまなかった」
「そんな……俺こそずっとあなたを騙して……」
続きは言えなかった。込み上げてくる嗚咽が喉を塞いだからだ。
サミュエルが泣いていることに気づいたエミリアが、慰めるように背中を撫でてくれる。その優しい手つきに、さらに涙があふれた。
「いいんだ。フランチェスカを憎んでいたお前が、フランチェスカを愛してくれた。自らロドリゴ卿と連絡を取りたいと言ってくれて、本当に嬉しかったよ」
「お、俺が愛したのはフランチェスカだけじゃなくて……」
——あなたもです。
そう続けようとしたとき、エミリアがサミュエルの胸を押し、拒絶するように体を離した。追い縋ろうとしたが、彼女はサミュエルから距離を取って、首を横に振るばかりだった。
「なぁ、サミュエル、私は自分の仕事を果たした。だから、お前も本来の務めを果たすべきだ」
「何を……」
「お前も知りたがっていたじゃないか。講和の条件だよ。領民たちの権利を保証するにあたり、フランチェスカ公爵は己の罪を認め、相応しい裁きを受けなければならない」
エミリアに伸ばそうとした手がびくりと震えた。今、聞いたことを認めたくなかった。フランチェスカが生き延びるために、エミリアは自ら自由を捨てたのだ。
「意味はわかるな? 相応しい裁きを、だ。自治までは守れなかった。フランチェスカは王領となり、城の引渡しが済んだら、私は王都に連行される。女で、双子だということも白日の元に晒されるだろう。世間からの非難は免れない。それに、牢獄に繋がれた女がどんな目に遭うのかわかるだろう?」
女囚が辿る道は二つに一つだ。殺されるか、犯されて殺されるか。万が一命が助かったとしても、死ぬよりも辛い境遇が彼女を待っているのは明白だった。
「そんなの、私は嫌だ。お前以外の男に触れられたくない。だから」
殺して、とエミリアは言った。
「い、嫌だっ! 殺せない! 殺したくない!」
「どうして? 私はお前の仇の娘だぞ。糸を引いていたのはカルロだが、黙認したのは父上だ。父上が口を噤まなかったら、違う未来があったかもしれない。故郷を焼かれたとき、お前は何を思った?」
目の前に故郷が焼かれた情景が広がっていく。村を焼き尽くす炎の中、事切れた両親の横で弟と手を繋ぎ、ただただ震えていた。
——でも、俺はもう間違えない。
「確かに憎んでいました。あの屈辱を忘れることはできないでしょう。でも、村を焼いたのはあなたの父親でも、あなたでもない! カルロだ! それに俺は過ぎ去った過去よりも、これから迎える未来をあなたと過ごしたいんだ!」
全身から絞り出すような叫びに、周囲の空気が震えた。もはや想いを伝えたに等しかったが、今度は制止されなかった。
彼女は榛色の瞳を大きく見開き、涙をこらえるように、ただ黙って唇を噛み締めていた。
「あなたが犠牲になる必要はない! そんなの誰も望んでいない! あなたを差し出すぐらいなら、みんな最後まで戦います!」
「そんなこと絶対にさせない! お前は私が今まで築き上げてきたものを全て無駄にするつもりか!」
「でしたら! エミリオ様を差し出してください! あなたの存在は知られていない。身を隠せば向こうにはわからない!」
「私に地下に戻れというのか? あの冷たい場所へ?」
エミリアはひどく傷ついた顔をした。こらえきれなかった涙がポロリとあふれ、頬を滑り落ちていく。酷なことを言っているとはわかっている。しかし、他に手段が考えつかなかった。
「命を失うぐらいなら、その方がいい! ほとぼりが覚めたら、どこか遠くへ行きましょう。俺はあなたの従者だ。どこへだってついて行きます」
「サミュエル……」
必死だった。エミリアの命を繋ぐためならどんなことでもするつもりだった。サミュエルが一歩も引かないつもりだとわかったのだろう。エミリアは深く大きなため息を一つつくと、悲しそうに俯いた。
「そこまで言うなら仕方ない……」
諦めてくれたのか、とほっと胸を撫で下ろした瞬間、エミリアは腰の剣を抜き、サミュエルに切り掛かってきた。
反撃するのは容易かった。剣に明るくないエミリアの攻撃を躱すことなど、目を閉じていてもできるはずだった。
しかし、頭ではそう冷静に判断しているのに体が動かない。縫い止められたように、足が地面から離れなかった。
「サミュエル様!」
テオが飛び込んできた気配がしたが、目の前が真っ白になって何もわからない。気づいたときには、胸から矢を生やしたエミリアがバルコニーに倒れていた。
「お嬢様!」
悲鳴をあげて駆け寄り、エミリアの体を抱え上げる。その途端、ぬるりと嫌な感触がした。鼻をつく鉄錆の匂いが周囲に広がっていく。
恐る恐る手のひらを見ると、そこにはエミリアの体から流れ落ちた血がべったりと張り付いていた。いや、手だけではない。服も、エミリアにもらったペンダントも、そして視界も、全てが燃えるような赤に染め上げられていた。
「嫌だっ! こんな……! テオ、なんでだよ! なんで撃った!」
「まだわからないんですか! エミリア様はあなたを守るためにこうしたんですよ!」
駆け寄ってきたテオに肩を掴まれる。落ち着かせようと顔をのぞき込む彼の目は真剣だった。らしくなく取り乱している様子で、顔もひどく青ざめている。サミュエルは従者のこんな姿を見るのは初めてだった。
「もうすぐカルロと近衛騎士団が城内に入ってきます。あなたがフランチェスカに与していたことが公になれば、タダじゃ済まない。アヴァンティーノにも塁が及ぶ!」
だから、エミリアを撃ち抜いたと言うのか。カルロの命を果たしたのだと既成事実を作るために。一気に頭に血が上り、テオの胸ぐらを掴む。サミュエルの殺意を込めた眼差しにも、テオは怯まなかった。
横っ面を張り飛ばそうと拳を振り上げたとき、微かに袖を引く感覚がして、弾かれるように視線を落とす。血に塗れたエミリアが、サミュエルの膝の上で必死に首を横に振っていた。
「……やめろ……テオの言う通りだ……お前は……いい従者に、恵まれたな……」
「しゃ、喋らないでください! 今、マッテオさんを呼んできますから!」
「待って……行かないで……」
震える手でエミリアが縋り付く。その手に力はこもっていない。だが、振り払うことはできなかった。
焦燥感が胸に広がる。こうしている間にも、エミリアの顔は血の気が失せていく。
「でもっ! このままじゃ……」
「いいんだ……カルロは……裏切りものを、許さない……こうしなければ……お前は……」
けふ、とエミリアが血を吐いた。今にも目から光が消えようとしている。
サミュエルは縋り付くようにエミリアの頬に触れた。それに応えて、エミリアもサミュエルの頬に手を伸ばす。
触れた手のひらは、氷のように冷たかった。
「私が死んだら……ここを出るんだ……ロドリゴ、卿と……合流して……生きて……生きてくれ、サミュエル……」
苦しげに息を吐き、エミリアは微笑んだ。自分の死を悟った人間の、儚い微笑みだった。
「さ……最後に……一度、だけ……本当のな、まえ……呼んでもらいたかった、な……」
エミリアの体から力が抜けた。頬に触れていた手が無常にも地面に落ちる。目を閉じた彼女はもうぴくりとも動かない。どれだけ揺さぶっても応えてはくれない。
喉の奥から慟哭がほとばしる。獣のような唸り声が、自分の声だとは信じたくなかった。
「エミリア! エミリアっ! 目を開けろ! 駄目だ! 死んじゃ駄目だっ!」
「サミュエル様……もう……」
肩を掴むテオの手を振り払う。誰が何と言おうとも、エミリアが死んだと認めたくなかった。
楽しそうな笑顔も、ふわふわと柔らかな赤い髪も、自分をまっすぐに見つめる強い瞳も、もう二度と見れないのだと思いたくなかった。
「嫌だ……嫌だっ! 認めない! 俺はこんな結末、絶対に認めない!」
エミリアの頬に涙がこぼれ落ち、赤い筋となって滑っていった。徐々に失われていく体温を繋ぎ止めるように、強く強く抱きしめる。
そのとき、胸が熱くなった。比喩ではない、物理的に熱を発しているのだ。胸元に下げたペンダントが光り輝いている。まるで炎を閉じ込めたように。
その輝きは徐々に大きくなっていって、サミュエルの視界を覆い尽くした。
こっそりついてきたテオは、壊れた執務室の扉の陰に控えている。彼も不穏な空気を感じ取っているのだろう。単なる出歯亀にしては神経を尖らせている気がした。
大きく開いた窓からバルコニーに出ると、夕焼けに染め上げられたフランチェスカの街並みが視界に広がった。
投石機や火矢に見舞われたせいでところどころ建物は崩れ、黒く焼き爛れていたが、記憶に残る姿と変わらず美しく見える。
——やり切ったんだな。
領地を守り抜いたエミリアに改めて尊敬の念を抱いた。家族を次々と失い、その悲しみも癒えぬまま、領主として気丈に振る舞うのはどれだけ苦しかっただろう。
今まで通りの待遇が保証されたということは、蹂躙される心配も、理不尽に土地を追い出される心配もない。フランチェスカはこれからも続いていくのだ。
「さあ、行け。マチルダ」
優しく微笑んだエミリアが空に向けて腕を掲げ、旅立ちをうながす。マチルダは躊躇する様子を見せたが、やがて決心したように嘴を上に向け、空に向けて大きく羽ばたいた。
美しい翼から抜け落ちた羽が一枚、足元にひらりと落ちた。エミリアが愛おしげにそれを拾う。
名残惜しいのか、マチルダはしばらく頭上を旋回していたが、高くひと鳴きすると次第に高度を上げ、城壁の向こうへ消えていった。
「これで私の仕事は終わったな」
拾った羽を胸元で抱きしめ、寂しそうにエミリアが呟く。その目は空へ向けられたままだ。エミリオを想っているのかもしれない。
「聞かせてください。あなたが何を隠しているのかを。いったい、講和の場で何を言われたんですか?」
「隠す……隠すか、そうだな」
エミリアは深呼吸をすると、胸元に抱きしめていた羽をバルコニーの外へ手放した。未練を断ち切るような仕草に、ますます不安が大きくなっていく。
こちらに向き直った彼女は今にも泣き出しそうな、しかし、強い決意を滲ませた表情を浮かべていた。初めて会ったときのようにまっすぐに見つめられ、少し怯んでしまう。
「それはお互い様だろう? サミュエル・ディ・アヴァンティーノ」
空気が凍りついたようだった。
——なんで。
聞き間違いではない。エミリアはサミュエルの本当の名を口にした。今まで一度も教えたことのない、自分の名前を。
「……いつから」
声が震えている。もっと言いたいことがあったのに言葉が出てこない。
「ペンダントをもらったとき、母上がアメジストを持っていたと言ったな? 親友に渡したと」
黙って頷く。
——でも、なんでそれが俺の正体に繋がるんだ?
もの言いたげなサミュエルの視線に、エミリアは躊躇するように目を伏せたが、すぐに視線を戻し、言葉を続けた。
「ケルティーナでは、大切な人にものを贈るときに幾何学模様を刻む風習がある。お前に渡したペンダントの裏にも刻まれてるだろ?」
慌ててペンダントを裏返す。金色の台座の隅に、花のような幾何学模様が刻まれていた。
「当然、母上も親友に渡したときに刻んだ。……思い出を留めておきたかったのかな。父上が隠していた絵の裏に、その模様が小さく描かれていたよ。絵には、親友の姿も描かれていたから」
——まさか。
腰に下げた剣に目を落とす。サミュエルの柄頭に埋め込まれた石もアメジストだ。幾何学模様も刻まれている。それにソフィアは大切な親友からもらったと言っていた。
恐る恐るエミリアに視線を戻す。彼女は悲しみをたたえた瞳で、サミュエルを見つめ返した。
「ここまで言えばもうわかるな? その親友の名前は、ソフィア・ディ・アヴァンティーノ。ロドリゴ卿の妻で、お前の義母親だよ」
エミリアの目は、とても嘘を言っているように見えない。口の中がカラカラに乾いていく。無意識に剣の柄頭に触れた左手が、小さく震えていた。
「母上が亡くなってからは疎遠になっているが、お前の義両親と私の両親は旧知の間柄で、ロドリゴ卿は私とエミリオの名付け親なんだ」
ふふ、とエミリアが自嘲的に笑う。
「といっても、ロドリゴ卿は私の存在を知らない。男と女、どちらが生まれてもいいように、両方考えてくれただけだ。まさか両方とも使われているとは思っていないだろうな」
そんな話は聞いたことがなかった。
ロドリゴはサミュエルに一切フランチェスカの話をしなかったし、王城で誰かがフランチェスカを罵っていても、同調もしなければ嗜めもしなかったから、特に深い関わりはないのだろうと思っていたのに。
「叙任式で剣を受け取ったとき、目を疑ったよ。良く似たものなんじゃないかと思った。でも、お前は平民という割に振る舞いもきちんとしていたし、何より騎士の誓いを知っていた。テオは戸惑っていたのに……」
そこで言葉を切り、エミリアは言いづらそうに眉を寄せた。
「……数少ないサリカ人の生き残りで、貴族。そしてソフィア様からアメジストを託されるような男。そんな男は彼女とロドリゴ卿の一人息子ぐらいなものだろう?」
ぐ、と唇を噛み締める。確かにそうだ。
あのとき、サミュエルは何も疑わず騎士の誓いを受けた。元は平民といえど、知らず知らずのうちに貴族の生活に染まっていたのだ。うまく騙し通せたと思っていた自分が恥ずかしい。
「講和の席で初めてロドリゴ卿と顔を合わせたが、とても驚いたよ。目つきがそっくりだったから。まるで将来のお前を見ているようだった。血の繋がりはないのに不思議なものだな」
「なんで親父は何も……」
「だって、お前はフランチェスカを憎んでいたんだろう? 暗殺者として派遣されるぐらいなんだから。そんなの言えるわけがないじゃないか。それだけお前を愛していたんだよ」
喉からうめき声が漏れた。慈愛のこもった視線に耐えられずに目を逸らす。
エミリアがサミュエルの正体に気づいていたこと、その上、暗殺者だと知っていたこと、それらが頭の中でぐちゃぐちゃになっていく。
「ど、うして、俺が暗殺者だと……」
「ロドリゴ卿の息子が近衛騎士になったとは知っていたからな。カルロが寄越したんだとすぐにわかったよ。ただ……ロドリゴ卿が息子に汚れ仕事を許すとは思わなかったから、しばらく確信は持てなかった。でも……私に毒を盛っただろ?」
——気づいてたのか?
血の気が引いていく。まるで氷になったように、身体中が冷たかった。
「毒を盛られても効かないが、盛られたことはわかるんだ。舌にピリッとした痛みが走るから」
淡々と話を続けるエミリアの顔は、不思議なほど穏やかだった。
脳裏に、これまでのエミリアとの思い出が次々とよぎっていく。収穫祭の夜も、夏祭りの日も、彼女は心から楽しんでいるように見えた。
秋祭りでは手を繋いでダンスをして、ペンダントだって交換したのに、あれは全て演技だったのだろうか。
「どうして? どうして暗殺者だと知りながら、俺をそばに置き続けることにしたんですか? ロドリゴの息子なら役に立つと思ったんですか?」
「それは違う。お前を利用するつもりなんてなかった」
「じゃあ、なぜですか! 本当のことを教えてください! でないと納得できない!」
「それは……」
エミリアは言いにくそうにもじもじと後ろ手に両手を組み、顔を赤くして俯いた。まるで想い人に胸の丈を打ち上げる少女のような姿に、激しい動揺が少し落ち着いていく。
「……男の人に抱きしめられたのは、初めてだったから」
——なんだって?
消え入りそうな声に、サミュエルは目を丸くした。
思わずまじまじと見つめると、エミリアは恥ずかしそうに目を逸らした。いつの間にか耳まで真っ赤になっている。本当なら可愛らしい反応に胸をときめかせる場面だが、今のサミュエルにその余裕はなかった。
「わ、わかってる。お前に他意はないって。でも、嬉しかったんだ。人さらいから助けてもらって。誰かの体温が、あんなに安心するものだとは思わなかった。本当は、エミリオが死んで、ずっと怖かったんだよ。フランチェスカを守る重圧に押し潰されそうで……」
泣きそうに歪む顔に、エミリアが抱えていた不安と恐怖の大きさを知り、サミュエルは胸を打たれる思いだった。目の前にいるのはまだ十八の少女だとわかっていたのに、なぜそんなことに気がまわらなかったのか。
もっと彼女の気持ちに寄り添うべきだった。仇の娘だからと、冷たく接していた当時の自分が憎らしい。
「剣の腕も凄かった。言っただろ? 見惚れてしまったって。夜みたいな黒髪も、紫色に光る強い目も、とても綺麗だと思ったよ。できるなら、ずっとそばにいたいって思った。だから、騎士団に入りたいと言ってくれたとき、飛び上がりそうに嬉しかった。暗殺者だと気づいても、その気持ちを止められなかったんだ」
後悔の念に苛まれているサミュエルを尻目に、エミリアは堰を切ったように言葉を紡いでいく。一度あふれた気持ちを抑えられないのだろう。サミュエルを見つめる彼女の目には涙が滲み、夕焼けの光を受けてキラキラと輝いていた。
「つまり……一目惚れなんだ。ずっとお前の本当の名前を呼びたかったんだよ、サミュエル」
「お嬢様!」
エミリアに駆け寄り、強く抱きしめる。息を飲んだエミリアが腕の中で苦しそうに身を捩ったが、決して力を緩めなかった。
「サミュエル……」
彼女は切なげに呟くと、サミュエルの背中に両手を回し、身を預けるように胸に頬を寄せた。
「お前は優しい男だ。ずっと苦しかっただろう。フランチェスカへの……私への憎しみと板挟みになって。くだらない我儘に付き合わせて、本当にすまなかった」
「そんな……俺こそずっとあなたを騙して……」
続きは言えなかった。込み上げてくる嗚咽が喉を塞いだからだ。
サミュエルが泣いていることに気づいたエミリアが、慰めるように背中を撫でてくれる。その優しい手つきに、さらに涙があふれた。
「いいんだ。フランチェスカを憎んでいたお前が、フランチェスカを愛してくれた。自らロドリゴ卿と連絡を取りたいと言ってくれて、本当に嬉しかったよ」
「お、俺が愛したのはフランチェスカだけじゃなくて……」
——あなたもです。
そう続けようとしたとき、エミリアがサミュエルの胸を押し、拒絶するように体を離した。追い縋ろうとしたが、彼女はサミュエルから距離を取って、首を横に振るばかりだった。
「なぁ、サミュエル、私は自分の仕事を果たした。だから、お前も本来の務めを果たすべきだ」
「何を……」
「お前も知りたがっていたじゃないか。講和の条件だよ。領民たちの権利を保証するにあたり、フランチェスカ公爵は己の罪を認め、相応しい裁きを受けなければならない」
エミリアに伸ばそうとした手がびくりと震えた。今、聞いたことを認めたくなかった。フランチェスカが生き延びるために、エミリアは自ら自由を捨てたのだ。
「意味はわかるな? 相応しい裁きを、だ。自治までは守れなかった。フランチェスカは王領となり、城の引渡しが済んだら、私は王都に連行される。女で、双子だということも白日の元に晒されるだろう。世間からの非難は免れない。それに、牢獄に繋がれた女がどんな目に遭うのかわかるだろう?」
女囚が辿る道は二つに一つだ。殺されるか、犯されて殺されるか。万が一命が助かったとしても、死ぬよりも辛い境遇が彼女を待っているのは明白だった。
「そんなの、私は嫌だ。お前以外の男に触れられたくない。だから」
殺して、とエミリアは言った。
「い、嫌だっ! 殺せない! 殺したくない!」
「どうして? 私はお前の仇の娘だぞ。糸を引いていたのはカルロだが、黙認したのは父上だ。父上が口を噤まなかったら、違う未来があったかもしれない。故郷を焼かれたとき、お前は何を思った?」
目の前に故郷が焼かれた情景が広がっていく。村を焼き尽くす炎の中、事切れた両親の横で弟と手を繋ぎ、ただただ震えていた。
——でも、俺はもう間違えない。
「確かに憎んでいました。あの屈辱を忘れることはできないでしょう。でも、村を焼いたのはあなたの父親でも、あなたでもない! カルロだ! それに俺は過ぎ去った過去よりも、これから迎える未来をあなたと過ごしたいんだ!」
全身から絞り出すような叫びに、周囲の空気が震えた。もはや想いを伝えたに等しかったが、今度は制止されなかった。
彼女は榛色の瞳を大きく見開き、涙をこらえるように、ただ黙って唇を噛み締めていた。
「あなたが犠牲になる必要はない! そんなの誰も望んでいない! あなたを差し出すぐらいなら、みんな最後まで戦います!」
「そんなこと絶対にさせない! お前は私が今まで築き上げてきたものを全て無駄にするつもりか!」
「でしたら! エミリオ様を差し出してください! あなたの存在は知られていない。身を隠せば向こうにはわからない!」
「私に地下に戻れというのか? あの冷たい場所へ?」
エミリアはひどく傷ついた顔をした。こらえきれなかった涙がポロリとあふれ、頬を滑り落ちていく。酷なことを言っているとはわかっている。しかし、他に手段が考えつかなかった。
「命を失うぐらいなら、その方がいい! ほとぼりが覚めたら、どこか遠くへ行きましょう。俺はあなたの従者だ。どこへだってついて行きます」
「サミュエル……」
必死だった。エミリアの命を繋ぐためならどんなことでもするつもりだった。サミュエルが一歩も引かないつもりだとわかったのだろう。エミリアは深く大きなため息を一つつくと、悲しそうに俯いた。
「そこまで言うなら仕方ない……」
諦めてくれたのか、とほっと胸を撫で下ろした瞬間、エミリアは腰の剣を抜き、サミュエルに切り掛かってきた。
反撃するのは容易かった。剣に明るくないエミリアの攻撃を躱すことなど、目を閉じていてもできるはずだった。
しかし、頭ではそう冷静に判断しているのに体が動かない。縫い止められたように、足が地面から離れなかった。
「サミュエル様!」
テオが飛び込んできた気配がしたが、目の前が真っ白になって何もわからない。気づいたときには、胸から矢を生やしたエミリアがバルコニーに倒れていた。
「お嬢様!」
悲鳴をあげて駆け寄り、エミリアの体を抱え上げる。その途端、ぬるりと嫌な感触がした。鼻をつく鉄錆の匂いが周囲に広がっていく。
恐る恐る手のひらを見ると、そこにはエミリアの体から流れ落ちた血がべったりと張り付いていた。いや、手だけではない。服も、エミリアにもらったペンダントも、そして視界も、全てが燃えるような赤に染め上げられていた。
「嫌だっ! こんな……! テオ、なんでだよ! なんで撃った!」
「まだわからないんですか! エミリア様はあなたを守るためにこうしたんですよ!」
駆け寄ってきたテオに肩を掴まれる。落ち着かせようと顔をのぞき込む彼の目は真剣だった。らしくなく取り乱している様子で、顔もひどく青ざめている。サミュエルは従者のこんな姿を見るのは初めてだった。
「もうすぐカルロと近衛騎士団が城内に入ってきます。あなたがフランチェスカに与していたことが公になれば、タダじゃ済まない。アヴァンティーノにも塁が及ぶ!」
だから、エミリアを撃ち抜いたと言うのか。カルロの命を果たしたのだと既成事実を作るために。一気に頭に血が上り、テオの胸ぐらを掴む。サミュエルの殺意を込めた眼差しにも、テオは怯まなかった。
横っ面を張り飛ばそうと拳を振り上げたとき、微かに袖を引く感覚がして、弾かれるように視線を落とす。血に塗れたエミリアが、サミュエルの膝の上で必死に首を横に振っていた。
「……やめろ……テオの言う通りだ……お前は……いい従者に、恵まれたな……」
「しゃ、喋らないでください! 今、マッテオさんを呼んできますから!」
「待って……行かないで……」
震える手でエミリアが縋り付く。その手に力はこもっていない。だが、振り払うことはできなかった。
焦燥感が胸に広がる。こうしている間にも、エミリアの顔は血の気が失せていく。
「でもっ! このままじゃ……」
「いいんだ……カルロは……裏切りものを、許さない……こうしなければ……お前は……」
けふ、とエミリアが血を吐いた。今にも目から光が消えようとしている。
サミュエルは縋り付くようにエミリアの頬に触れた。それに応えて、エミリアもサミュエルの頬に手を伸ばす。
触れた手のひらは、氷のように冷たかった。
「私が死んだら……ここを出るんだ……ロドリゴ、卿と……合流して……生きて……生きてくれ、サミュエル……」
苦しげに息を吐き、エミリアは微笑んだ。自分の死を悟った人間の、儚い微笑みだった。
「さ……最後に……一度、だけ……本当のな、まえ……呼んでもらいたかった、な……」
エミリアの体から力が抜けた。頬に触れていた手が無常にも地面に落ちる。目を閉じた彼女はもうぴくりとも動かない。どれだけ揺さぶっても応えてはくれない。
喉の奥から慟哭がほとばしる。獣のような唸り声が、自分の声だとは信じたくなかった。
「エミリア! エミリアっ! 目を開けろ! 駄目だ! 死んじゃ駄目だっ!」
「サミュエル様……もう……」
肩を掴むテオの手を振り払う。誰が何と言おうとも、エミリアが死んだと認めたくなかった。
楽しそうな笑顔も、ふわふわと柔らかな赤い髪も、自分をまっすぐに見つめる強い瞳も、もう二度と見れないのだと思いたくなかった。
「嫌だ……嫌だっ! 認めない! 俺はこんな結末、絶対に認めない!」
エミリアの頬に涙がこぼれ落ち、赤い筋となって滑っていった。徐々に失われていく体温を繋ぎ止めるように、強く強く抱きしめる。
そのとき、胸が熱くなった。比喩ではない、物理的に熱を発しているのだ。胸元に下げたペンダントが光り輝いている。まるで炎を閉じ込めたように。
その輝きは徐々に大きくなっていって、サミュエルの視界を覆い尽くした。
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