赤い小鳥は空を羽ばたく夢を見る

遠野さつき

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第12話 崖下の告白

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「俺はね、お嬢様が想像できないようなひどい環境で生きてきました。スラムって知ってます? ゴミにまみれた土地の中で、ゴミみたいな人間が這いつくばるように生きているところです」

 いつからそこにいたのはわからない。物心ついた時にはすでに周りには誰もいなかった。
 生きている価値も見出せず、残飯を漁り、泥水を啜る日々。そこでニケは同じく身寄りのないメリッサと出会い、共に盗賊まがいのことをするようになった。

「あいつは精霊の力が強かったから、子供二人でも十分にやっていけました。……でも、家族ってわけではなかったですね。あいつは俺のこと、ただの便利な犬っころだとしか思ってなかったし」

 そんなある日、ユスフ領の使者だと名乗る男がスラムまでニケを探しにやってきた。
 今思い出しても胸がムカつくほど偉そうな男だったそうだ。しかし、スラム育ちのニケにとっては、男の存在は天から垂らされた蜘蛛の糸にも等しかった。

「一も二もなく飛びつきましたよ。これでまともなメシが食べられると思ってね」
「……どうして、ニケを探していたの?」
「俺の母親はユスフ家の使用人だったそうです。産む前に逃げたみたいですけどね。無理やり手籠にして孕ませた子供が、女かどうか確かめにきたんでしょう」

 あまりにひどい話に顔をしかめる。そんなベアトリーチェに、ニケは「よくあることですよ」と小さく笑みを漏らした。

「向こうにとっては残念な結果でしたが、血縁は血縁です。俺は父親であるユスフ領主に引き取られることになりました」

 ケルティーナにおいて、血は何よりも濃い。ベスタ家がそうであるように、周りを身内で固めるのはどの家も同じだ。盗賊稼業で鍛えた腕が惜しいと思ったのか、ニケと共にメリッサもユスフ家に召し抱えられた。

 とはいえ庶子だ。まともな家族扱いはされない。兄弟たちからは見下され、使用人たちからは遠巻きにされる。そして、ありとあらゆる汚れ仕事や力仕事をさせられるうちに、ニケは十七歳になっていた。

「愛情なんかなくてもね、メシさえあれば人は育つもんです。いつの間にか俺は一端の密偵に成長していました」

 ちょうどその頃、ベスタ家の跡取り娘が、十歳を過ぎてもまだ精霊の力が発現しないらしいと噂になっていた。

 ベスタ家といえばケルティーナ一の財力と精霊の力を受け継ぐ家系だ。もし跡取り娘にこのまま精霊の力が発現しないとなれば、ケルティーナの勢力図は書き換えられる。うまく立ち回ればおこぼれに与れるかもしれない。他領、特に力の弱い下級貴族たちは色めきたった。

 そして、それは遠く離れたユスフも例外ではなかった。噂の真偽を確かめるため、ユスフ領主はニケをベスタ領に送り込んだ。このまま発現しないようならよし。もし発現した場合は芽を摘むつもりで。

「じゃあ、海辺に倒れていたのはわざとなの……?」
「カテリーナ様は用心深くて、正攻法じゃ無理ですからね。近くの村に潜んでしばらく観察した結果、あなたの情に訴えるのが一番確実だと判断しました」

 淡々と答えられ、わなわなと体が震える。怒りなのか、それとも悲しみなのか自分でもわからない。それを見たエンリコがそっと手を握ってくれた。

「……御者の仕事に就いたのは、密偵にとって都合がよかったからなのね」
「御者になれば外に出る機会が増えて、ユスフと連絡を取ることも容易になりますからね。そうやって俺は定期的にやってくるメリッサにベスタ家の情報を流していました」

 ——何よ、それ!

  叫びそうになるのを必死にこらえていると「でも……」と呟いたニケが縋るようにベアトリーチェを見た。

「ベスタ家の暮らしはとても楽しかった。最初こそ疎まれていましたが、真面目に仕事をするうちに徐々に受け入れられて、今では家族みたいに優しくしてくれる。初めてだったんです。人間扱いされたの」

 切なげに細められたとび色の瞳が揺らぐ。

「だから、俺はいつしか願うようになりました。このままずっと、お嬢様の力が発現しなければいいと」

 しかし、その願いは叶わなかった。ベアトリーチェに精霊の力が発現した夜、周囲が祝福の声を上げる中で、ニケはただ一人絶望感に身を焦がしていた。

「浮遊の力や眠りの力まで持っているとは思いませんでしたが、それがなくとも、お嬢様の力の強さは規格外です。これが明らかになれば、間違いなくお嬢様を殺せと指示が来る。幸いにも、カテリーナ様は成人までお嬢様の力の強さを隠すつもりだったから……」

 ちら、と視線を向けられたエンリコが後に続く。

「ずっと嘘の情報を流していたそうだ。発現したものの、ベアトリーチェ嬢の力は弱い。脅威にはならないと」

 ——え? なんでエンリコ様がニケの事情を知ってるの? 

 戸惑いつつエンリコを見つめるが、何も答えてはくれない。向かいのニケも同様だ。問い詰めたい気持ちを飲み込み、ニケに続きを促す。

「だからユスフはどこよりも早く求婚してきたのね。力が弱いのなら、簡単に御せると思って」
「そうです。本当に馬鹿でしょう?」

 はは、と渇いた笑いが漏れる。その眉間には深い皺が刻まれていた。

「お嬢様に精霊の力が発現したことで、他領の貴族たちは甘い夢を見ることを諦めました。嘘の情報を流し続けるうちに、ユスフも何も言ってこなくなった。だからこのまま、俺のことなんて忘れてくれると思ったのに……」
「お前の事情など知るか。見当違いの恨みをぶつけてくるなよ」

 ニケに睨みつけられたエンリコが負けじとニケを睨み返した。目の鋭さも相まって、迫力があり過ぎて怖い。
 ともあれ、エンリコが来たことでユスフ領は千載一遇のチャンスを得た。敵の懐には身内がいる。その上、ベアトリーチェの精霊の力が弱いと知っているのは自分たちだけ。今なら、女王や他領に悟られる前にベスタ家を潰すことができる。賓客を守りきれなかったとあれば、失脚は免れないからだ。

 襲撃を決意したのは求婚を断られた恨みもあったかもしれない。必死に伸ばした手をすげなく振り払われるのは、とても悲しいことだから。

「農場でメリッサがあなたに毒を盛ろうとした時、心臓が止まりそうでしたよ。あいつは人を殺すことに躊躇しませんからね」

 焦ったニケは必死に説得を試みた。ベスタ家が失脚すれば、ベアトリーチェはただの少女だ。ユスフに復讐する力もない。だから、ベアトリーチェだけは殺さないでくれと。

 ——やっぱり、ニケは私を守ろうとしてくれたのね。

 しかし、エンリコを襲ってベスタ家を貶めようとしたことは到底許せることではない。自然と言葉も尖る。

「なら、小庭での話は全部嘘だったのね。襲撃の邪魔をされないように、体よく私を言いくるめたんだわ。あなたのこと、本当に心配してたのに!」
「……今さら信じてもらえないでしょうけど、本心でしたよ。ついに過去に首根っこを掴まれたと思って、本当に怖かった。まさか、捨てたはずの方言が出るなんて……」

  それも嘘なの、とは言えなかった。

 この後に及んで甘いだろうか。しかし、深く息をつき、両手で顔を覆って項垂れる姿はとても演技とは思えなかった。

 書庫でのマッテオたちの言葉が頭をよぎる。

『人の記憶というものは、ひょんなことで蘇るものだからな』
『以前に同じ体験をしたことがあるのかもしれませんね』

 ニケはユスフ領で様々な仕事をさせられたと言っていた。客の荷下ろしをしたこともあっただろう。そばにいるのはランベルト王国人だと思って、無意識に気が緩んだのだ。

「……農場に火をつけたのも、あなたの仲間ね。警備を減らそうとしたんでしょ」
「メリッサですよ。ベスタ家の護衛は熟練ですからね。できるだけ消火を長引かせるために調整役が必要でした」
「精霊の力なら温度も勢いも自由自在だものね。そんなにお母様が怖かったの?」

  皮肉めいた口調にもニケは動じなかった。それどころか、まるで子猫を見るような目で微笑まれて気勢が削がれる。スラム育ちのニケにとっては、ベアトリーチェの反抗など可愛いものなのだろう。

「あなたを産んで力が弱くなったとはいえ、カテリーナ様の経験と知識は侮れません。それに、被害が大きくなりすぎて女王の近衛騎士団が出張ってきても面倒ですから」

 他領の人間にここまで言わしめるとは、一体現役時代はどれほど暴れ回っていたのか。今の状況も忘れてつい頭を抱えた時、ベアトリーチェはようやく違和感に気づいた。

「それじゃあ、小庭であなたたちを逃したのは誰なの? メリッサが農場にいたのなら、他にも女性の仲間がいるってことじゃない」

 崖上で捉えられていた残党の中にはいなかった。襲撃の夜に捕らえられた盗賊団——を装っていたユスフの人間たちも男だけだったはずだ。

「……わからないんです。襲撃の翌朝、俺はカテリーナ様たちを迎えに農場へ行きました。目を盗んでメリッサを問い詰めましたが、知らぬ存ぜぬを貫くばかりで……」
「何それ。全員を知ってるわけじゃないの?」
「信用されてなかったんだろ」

 さらっと放たれたエンリコの嫌味に、ニケが渋面を浮かべる。

「俺が把握しているのはメリッサを除けば全員男です。他に密偵がいるとは聞かされてない。ただ、ベスタ家の使用人だということはわかっています」

 どうして使用人だとわかるのか。目で訴えると、ニケは言いにくそうに答えた。

「エンリコ様を襲撃した夜、俺、鍵は閉めて出たんです。万が一にも、お嬢様が襲われないようにしないとって……」
「えっ? 開けたのはエンリコ様じゃないの?」
「俺が出たのは窓からだ。勝手口には近づいてもない」

 確かエンリコの部屋は二階だったはずだが、なかなかワイルドなことをする。

「最初は俺もそう考えたんですけどね。違うって言うから……。なら、可能性があるのは使用人しかいません。屋敷にいればドリスを摘むことも、井戸に毒を仕込むことも容易にできますし」
「ちょ、ちょっと待ってよ。毒を入れたのは……ニケなんでしょ?」

 恐る恐る伺うと、ニケは悲しそうに笑った。

「万が一にもお嬢様が飲んでしまう可能性があるなら、俺は実行しませんよ。現に俺の忠告を無視して飲んじゃったじゃないですか」

 その時点では毒が仕込まれていると知らなかった。だから、井戸水を飲まないように止めたのは、ただお腹を壊すのを危惧したからだという。

「本当にあなたは人の言うことを聞かない。頼みますから、少しは周りにいる人間の気持ちを汲んでくださいよ」
「うっ……。ご、ごめんなさい……。反省してるわ」

 ニケにじろっと睨まれ、いたたまれない気持ちになる。

「で、でも、どうしてそこまでして私を守ろうとしてくれたの? ベスタ家の娘なんだから、ニケからすれば私も標的の一部なんでしょ。力の強さを知ってるなら尚更、殺してしまった方が楽だったんじゃないの?」
「さっき言ったでしょう。ベスタ家の暮らしは楽しかったって。俺を真っ先に人間扱いしてくれたのはお嬢様ですよ。それに、俺はあなたが……」
「密偵だって人間だ。五年も一緒に過ごして情が湧いたってことだよ。そうだろ? ニケ」

 ニケの言葉を遮り、エンリコが口を挟んだ。その目は相変わらず鋭い。ニケが何を言おうとしていたのか気になるが、火花を散らせて睨み合う二人を取りなすため、とりあえず今は話を進めることにする。

「エ、エンリコ様がニケの事情を知っていたのは、井戸の一件の後に話し合ったから?」
「……ご察しの通りです。エンリコ様の話を聞いたカテリーナ様とエルラド様に呼び出され、俺は全てを告白しました」

 ベアトリーチェが屋敷に戻ったのは、ロレンツォが去ってだいぶ経ってからだった。気持ちが落ち着くまで小庭にしゃがみ込んでいたからだ。ミゲル達にはかなり迷惑をかけてしまったが、その間に話し合いがなされたのだろう。

 だとすれば、ニケがここに現れた時のエンリコの態度にも納得がいく。近寄ってきても落ち着いていたのは、こちらに危害を加えないと知っていたからだ。

「……ニケなら、いくらでも言い逃れできたわよね。どうして正直に話したの?」
「使用人の中にもう一人密偵がいるのなら、一刻の猶予もありません。井戸に毒を入れるようなやつです。次はもっと容赦のない手段を取ると思いました」
「お母様たちが呪いの言葉を吐くはずよね……」

 さすがの二人も、信じていた使用人に裏切られて平静でいられなかったに違いない。

「屋敷で捕まえた黒ずくめたちから聞き出せなかったの?」
「あいつらはただの雇われですよ。万が一失敗してもユスフに繋がらないように、詳しい話は何も聞かされていません。俺と同じスラム育ちですから、捨て駒にはピッタリでしょう?」
「……そんな言い方、やめてよ」

 自嘲的な笑みに胸がつまる。たとえ裏切られたといえど、今まで積み重ねてきた思い出が消えるわけじゃない。自分をないがしろにするような言葉は使ってほしくなかった。
 沈むベアトリーチェを慮ったのか、繋いだエンリコの手に力がこもる。

「とはいえ、カテリーナ様たちも他領の介入を疑っていたからな。話は早かったよ」
「まさかユスフだとは思ってなかったようですけどね……。ヴィットリオ様も驚いていましたよ。ロレンツォさんはそれほどでもなさそうでしたけど」
「じゃあ、襲撃された翌朝のヴィットリオはまだ何も知らなかったのね……」

 弟の穏やかな笑顔を思い浮かべる。嘘はついていない、という言葉は正しかったわけだ。

「全て知っているのは、お母様とお父様とヴィットリオ……あとロレンツォだけ? 他の使用人には話してないのよね?」

 ベアトリーチェがペンダントを求めて自室に飛び込んだ時の様子からすると、ニーナは何も知らないはずだ。使用人が密偵だという前提がある以上、無闇に真実を明かすのは危険が伴う。人選は限られていただろう。
 ニケは頷くと、ベアトリーチェの推測に補足をしてくれた。

「ミゲル様とマッテオ様、そしてリカルド様もご存じですよ。ニーナさんには話しませんでした。カテリーナ様が巻き込みたくないとおっしゃったので」

 カテリーナの言い分はよく理解できた。しっかりしているように見えて、ニーナはひどく心配性で臆病なところがある。もし話していたら、さらに寿命が縮んでしまっていただろう。
 それに見送りの意思など聞かず、窓から飛び出そうとしたベアトリーチェを死に物狂いで止めたに違いない。

「ニーナはお婆様の代からの古株よ。今さらベスタ家を裏切るとは思えないわ」

 それは願望が入った言葉だっただろう。しかし、ニケは「そうですね」とベアトリーチェを肯定する姿勢を見せた。ニケの教育係はニーナだったから、今でも恩義を感じているのかもしれない。

「ニーナさんなら勝手口に鍵をかけられる。それは他の古参の方々も同じです。彼らにはベスタ家に牙を剥く理由がありません。そもそも血縁ですし……。もう一人の密偵は、俺が潜り込んだ後に紹介で雇われた人間だと思います」

 山狩りをしたのも密偵にプレッシャーを与えるためだったらしい。仲間が捕まるかもしれないと思えば、多少なりとも動揺するものだ。しかし、どれだけ罠を張っても、相手は尻尾を出さなかった。

「だから、誘き寄せるために俺が囮になったんだ。城下に向かうという情報をわざと流してな。逃げた残党はそう多くない。精霊の力持ちなら、必ず加勢に来るはずだと思った」
「えっ……」

 フランチェスカに戻ると決めたのは、父親の体調が悪くなったからではなかったのか。ベアトリーチェの心の声を察したエンリコが言葉を続ける。

「父の体調云々は嘘だよ。リカルドにぶん殴られたのも、それが理由だ。ケルティーナのために身を危険に晒すことが許せなかったんだな」
「当たり前でしょう!」

 農場で聞いたリカルドの決意を思い出し、一瞬で頭に血が上った。ここまでいきり立つことも、まあない。
 崖上で聞いたマッテオの言葉の意味がようやくわかった。エンリコの望みを叶えるため、リカルドは覚悟を決めたのだ。ミゲルとマッテオだって、本音は止めたかったに違いない。

「あなたはフランチェスカの大事な跡取りなのよ⁉︎ なんで、そこまでして……!」
「それを俺に言わせるのか?」

 強い眼差しで見つめられ、それ以上言葉を紡げなくなる。ただ黙って見つめ返していると、エンリコの青い瞳に抗えない熱が宿ったような気がした。

「俺はあなたを……」
「残党を野放しにするわけにはいかなかったんですよ。あいつらはお嬢様の力を身を持って知っている。これがユスフに伝わればタダじゃ済みません。それに、今のあいつらの本当の狙いは、お嬢様なんですから」

 エンリコの言葉を遮り、ニケが静かな声で続けた。

「ユスフ領は年々精霊の力を持つ女性が減っています。だから、お嬢様の力の強さを知って考えを変えたんだ。殺すのではなく、餌にした方が得だと」
「餌って……」
「ベスタ家を潰した上であなたを手土産にすれば、望む褒美は何でも与えられる。メリッサのやつ、そう言って残党たちを唆したんですよ。あいつにとって、任務の失敗は何より避けたい事態ですからね。そうですよね、エンリコ様?」

 何故かニケにじろりと睨みつけられたエンリコが後を引き受ける。

「……ベスタ家を完全に潰せば、あなたを守る鳥籠はなくなる。いくら精霊の力があるとはいえ、まだ十六歳だ。親を失った小鳥がどうなるかは、言わずともわかるだろう? それに……」
「力を抑える方法はいくらでもある」

 二人の言葉が頭の中に鳴り響く。手足が冷たくなってきて、カタカタと震え出した。エンリコが手を握ってくれていなかったら、恥も外聞もなく泣き叫んでいただろう。ともすれば崩れ落ちそうな体を必死で支え、絞り出すように声を出す。

「……私に、子供を産ませようとしたってこと?」

 母親を思い出したのか、小さく「クズでしょう」と吐き捨てたニケが口元を歪めた。

「ユスフのことがなくても、カテリーナ様はずっと恐れていました。どれだけ力があろうとも、あなたは成人前の少女です。複数で襲えばひとたまりもない」
「じゃあ、力が発現してすぐに見張りが増えたのは……」

 ——家に縛り付けるためじゃなく、私を守るため?

「待って、待って……」

 顔を両手で覆い、ふらりとその場に立ち上がる。今までずっと誤解していた。家を継がせるためだけに、自由を制限されていると思っていた。

 でも違ったのだ。ベアトリーチェほど力が強い女は否応なく狙われる。それを防ぐには家族という大きな鳥籠の中にいるのが一番安全だったのだ。カテリーナも、祖母も、いや、ケルティーナに生きる女なら、誰しも同じ経験があるのかもしれない。

 だからこそ、みんな必死でベアトリーチェを留めようとした。そんな苦悩も知らずに、ただ外の世界に憧れていたなんて。

「私……私……お母様になんてこと……」

 広いところで息をしたくて、よろめくように岩の窪みから抜け出す。その時、こちらに駆け寄ってくる見慣れた人影に気づいた。

 いつもアップにまとめた赤毛に、ベアトリーチェと同じはしばみ色の瞳。袖から覗くのは、いつも優しく撫でてくれるシワシワの手だ。口元には常に穏やかな笑みを湛えて、見るだけでこちらを安心させてくれる。

「ニーナ……? どうして、ここに……?」
「心配で追いかけてきたんですよ! 急に窓から飛び出していくものですから……。ああ、でも、よかった。茂みや草が倒れている方向に来て正解でしたね」

 ほっとした表情を浮かべるニーナに、こらえていた涙がボロボロとあふれ出す。

「ニーナぁ!」
「あらあら、子供みたいに。安心してください。もう大丈夫ですからね」

 ニーナはあやすような口調で、両手を広げたベアトリーチェを抱きしめた。

 その瞬間、胸に衝撃が走った。背後でニケとエンリコがベアトリーチェの名前を叫ぶ声が聞こえる。呆然と見下ろした胸には、鈍く光るナイフが突き刺さっていた。

 急速に狭まる視界の先で、篝火に照らされたはしばみ色の瞳が、獲物を見つけた猫の目のように輝いていた。
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