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第5話 側近コンビ

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 ベスタ家の書庫は広い。

 何代前かの先祖が本好きだったようで、三部屋ほど壁をぶち抜いて並べられた本棚の中に、当時でも貴重だった書物や巻き物などがきっちり整頓された状態で詰め込まれている。

 とはいえ、他国の人間に読まれてマズイものはあらかじめ移されているはずだ。それに、精霊の力は口伝でのみ継承されるので文字として残ってはいない。

 聳え立つ本棚の合間を縫うようにして、ミゲルとベアトリーチェは窓際の読書スペースに向かっていた。
 二人の後ろにロレンツォの姿はない。扉の外で用が終わるまで待機している。たとえ護衛騎士とはいえ、賓客の時間を邪魔するわけにはいかないからだ。

 窓際には先客が一人いた。机に積み上げた本の隙間から微かに見えるのはミゲルと同じ灰色の髪だ。
 近づく足音に気づいたのだろう。本に埋もれるように読書に耽っていた青年が顔を上げてこちらを見た。

「ミゲル、遅かったな」
「すみません、マッテオ。少々事情がありまして」
「事情?」
「読書のお邪魔をしてごめんなさいね」

 ミゲルの背後からひょこっと現れたベアトリーチェに、マッテオの眉が跳ねる。こちらも先日のエンリコと同じ仕草だ。長く共にいると癖も似るのだろうか。

「これはこれは、麗しき姫君のご登場ですな。まるで世界が一気に色づいたようだ」

 皮肉めいた口調に面食らう。リカルドもミゲルも温和だから、マッテオもそうだと思っていた。
 どう返していいのかわからず黙るベアトリーチェに、ミゲルが眉を下げて囁く。

「申し訳ありません。マッテオは偏屈な男でして。ああ見えて歓迎しているのですよ。ベアトリーチェ様があまりにもお美しいので、照れているのです」
「……とても、そうは見えないのだけど」
「素直じゃないだけです」

 しれっと言うミゲルに苦笑しつつ、勇気を出してマッテオに近づく。
 その手にはケルティーナの古語で書かれた巻物が握られていて、植え込みでのミゲルの話はベアトリーチェを救うための方便だったのだと気づいた。

「一人で読めるほど、マッテオ様は古語に堪能なのね……。もしかして、ミゲル様も?」
「一通りは読めますが、専門的な単語はわかりません。マッテオも自分の専門以外の単語は不得手です。いずれベアトリーチェ様に翻訳をお願いしようと思っていたのは本当ですよ」

 最後の言葉は、おそらく慰めだろう。ケルティーナ人でもないのに読めるとは驚きだ。
 客人を質問攻めにしてはいけないと思いつつも、好奇心が疼く。

「古語をどこでお知りになったの? ランベルト王国の方は皆さん読めるのかしら」
「いえ、読めるものはほとんどおりません。私たちが読めるのは、ケルティーナ人の森番から教わったからです。四百年前に移住してきた方々の子孫で、先祖代々フランチェスカの森を守ってくれているのですよ」

 ミゲルの言葉に、ベアトリーチェは「まあ!」と声を上げて目を丸くした。

 ——お母様ったら! ランベルト王国にもケルティーナ人はいるじゃないの!

 遠い他国でも上手くやれている先人がいるのなら、ベアトリーチェにだってできるはずだ。
 カテリーナへの説得材料が増えたことを内心喜びながら、今度はマッテオに話しかける。

「何をお読みになってらっしゃるの? お役に立てることはある?」
「医学書ですな。今のところ専門分野なので、何とか読めます。ご心配なく」
「専門分野……ということは、お医者様なの? すごいわ!」

 ケルティーナに医者は少ない。いても産医か薬草医ぐらいだ。そもそも怪我は精霊の力で治してしまうことも多いから、病気の予防や対症療法に特化したともいえる。

 興味津々でマッテオの手元を覗き込むと、いかにも小難しい文章が綴られていた。どうやら毒草についての所見らしいが、知識のないベアトリーチェにはよくわからない。

「そんなに大したものでは……。医学校を出たわけでも、きちんとした医者に師事したわけでもありませんしな。ただ資格があるというだけで」
「……お医者様になられたのは最近なの?」
「いや、かれこれ十年ほど前になりますな」
「じゃあ、技術も十分お持ちなんじゃない! 謙遜なさらないでくださいな。人を救いたいという気持ちに、学校を出たかどうかなんて関係ないでしょう?」

 小首を傾げると、マッテオは苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んだ。

 ——もしかして、余計なこと言っちゃった?

 不安に駆られてオロオロしていると、突然吹き出したミゲルが腹を抱えて笑い出した。

「ご、ご心配なく。マッテオは気分を害したわけではありません。内心思っていたことを言い当てられて恥ずかしがっているだけです」
「そ、そうなの? 失礼なことを言ったのでなければよかったけど……」
「マッテオを口で黙らせた人間はベアトリーチェ様が初めてですよ。いいものを見せていただいてありがとうございます」
「ミゲル! さっきから一言多いぞ!」

 不貞腐れたように読書に戻るマッテオに、自然と笑みがこぼれる。確かに癖がありそうだが、悪い人ではなさそうだ。

「マナー講習はもう終えられたの?」
「おかげさまで」

 さっきまで爆笑していた気配を一欠片も残さず、ミゲルがにこやかに答える。その気安い様子にこちらの口調も軽くなる。

「ケルティーナとランベルト王国ではマナーも違う?」
「そうですね……。基本的な仕草は似通っていますが、拝謁の際にローブの裾に口付けをしたりはしませんね。たとえ相手が国王でも、ランベルト王国では跪くだけです」
「あら、こちらでも口付けするのは拝謁や求婚の時ぐらいよ。女性は精霊様の化身で、男性はその従者という考え方だから、口付けは恭順を示す証なの。ああ、でも、あくまでマナー上の話であって、実際は対等よ。ランベルト王国でもそうでしょう?」

 それには答えず、ミゲルは灰色の瞳を優しげに細めてベアトリーチェを見つめた。

「ご紹介いただいた講師の方ですが、ベアトリーチェ様の家庭教師も務めていらっしゃるのですね。ベアトリーチェ様のカーテシーは見事だとおっしゃっていましたよ」
「それだけは得意なの。エンリコ様にも褒めていただいたのよ。この髪飾りも!」

 自慢するようにくるりと回ると、窓から差し込む日差しに反射して、髪飾りのアメジストが美しく光った。
 エンリコに褒めてもらったあの日から、嬉しくてずっとつけているのだ。何しろ家宝なので侍女のニーナは毎日ハラハラしているが、見ないフリをしている。

「エンリコ様が髪飾りを褒めた? カーテシーも?」
「え? ええ、そうだけど……」
「……農場をご案内していただいた時、馬車の中で会話は続きましたか?」
「そ、それなりに続いたと思っているのだけど……」

 急に様子を変えたミゲルに口籠もる。巻物の字を追っていたマッテオも、いつの間にか目を剥いてこちらを凝視しているので、かなり気まずい。

 二人は困惑するベアトリーチェに目もくれず、顔を突き合わせてヒソヒソと話し始めた。「まさか」とか「槍が降るぞ」とか聞こえてきて、気になって仕方がない。

「あの……ひょっとして私、エンリコ様に何か失礼を……」
「いえ! それはありません!」

 大声を出した自分が恥ずかしかったのか、ミゲルは少し頬を赤らめ、コホンと咳払いをした。

「その……普段はそんなに口数が多い方ではないのですよ。女性を褒めるなんて、フランチェスカの小麦が枯れるよりも珍しいことです」

 どの程度の比喩なのかはよくわからないが、何か貴重な体験をしたことはわかる。エンリコに少なからずよく思われていたという事実に、心臓がドキドキと騒ぎ出した。

「あ、あの、詳しく聞かせてもらってもいい? エンリコ様のこと、もっと知りたいの」

 おずおずと切り出すベアトリーチェに、ミゲルは満面の笑みを浮かべた。





 まだ頬が熱い。ミゲルが語る素のエンリコの姿に笑ったりときめいたりしているうちに、窓の外はすっかり薄暗くなり、書庫の中にも長い影を落とし始めた。

 微かに残ったひだまりに寄せ集まるように座る三人の真ん中には、ほかほかと湯気を立てるポットがある。喋りすぎて喉が渇いたので、ロレンツォに用意してもらったバナヌティーだ。

 しかし、用意した本人はこの場にいない。「一緒に飲む?」と誘ったものの、すげなく断られてしまった。部屋を抜け出したことをまだ怒っているのかもしれない。

 お茶を淹れようとするミゲルを制し、三人のカップにゆっくりとバナヌティーを注ぐ。甘い香りが周囲に広がり、常に不機嫌そうなマッテオの顔も少し緩む。

「……うまいな」
「ええ、本当に。リカルドが自慢するのもわかります。この味が忘れられないと、しきりに言うものですから」
「お気に召したようでよかったわ。もうすぐ干し終わるから、ぜひ持って帰ってね。弱った人も元気になるって言うぐらい、バナヌは栄養満点なの。だからきっと、エンリコ様のお父様の体調も良くなるわ!」

 バナヌをお土産にしようと思ったのは、そのためでもある。にこにこと笑うと、ミゲルとマッテオは互いに顔を見合わせ、ふっと微笑んだ。

「それはありがたいことだな」
「そうですね。とても楽しみです」

 穏やかな空気が書庫の中に満ちる。

 三人はしばらく黙ってバナヌティーを堪能していたが、やがて空になったカップを置いたミゲルが、眼鏡を外してふうっと息をついた。
 頭痛がするのか、揉みほぐすように指を添えた眉間には皺が寄っている。

「大丈夫? 目がつらいの? お医者様……はマッテオ様がいたわね」

 マッテオはちらっとミゲルを見て「病気や怪我じゃない」と簡潔に答えた。

「ミゲルの視力が悪いのは右目だけなんだ。無理やり両眼鏡をかけているから、どうしても疲れやすくなる」
「片眼鏡は市場に出回ってなくて、ファウスティナ……ランベルト王国の北端まで行かねば手に入らないのです。片目だけ度がないものに変えたくとも、フランチェスカの加工技術ではそれも難しくて」

 国土が広いと、広いなりの苦労があるらしい。なんとかしてあげたいが、ベアトリーチェの精霊の力では視力までは回復できない。
 腕を組み、うーんと唸っていると、ふと亡くなった祖父の顔が頭に浮かんだ。

「そうだわ! お祖父様が使っていたモノクルを差し上げるわ! うちには他に目が悪い人はいないから、まだ形見分けしていないはずよ。遺品で申し訳ないけど……」

 ナイスアイデア! と両手を打ち鳴らすと、ミゲルは目に見えて狼狽えた。

「と、とんでもない! そんな大事なもの、いただけません!」
「いいのよ。お祖父様も『道具は必要とする人に使われることが一番幸せだ』って言ってたわ。だからきっと、喜んでくれるはずよ」
「しかし……」
「ミゲル。ありがたくいただいておけ。あまり固辞するのも失礼だぞ」

 マッテオの一押しにミゲルは唇を噛み、少し考え込むと、観念したように「ありがとうございます」と頭を下げた。

「ベアトリーチェ様はとてもお優しいのですね。私のような使用人にまで……」
「そんなことないわ。ケルティーナでは当たり前のことだもの。それに、きっとエンリコ様だって同じことをするはずよ」

 あえてエンリコの名前を出すと、ミゲルは嬉しそうに笑った。

「そうですね。エンリコ様とベアトリーチェ様は似ていらっしゃるかもしれません」
「あら、光栄だわ」

 お世辞かもしれないが、好きな人と似ていると言われて悪い気はしない。

「ケルティーナでは、身分の垣根はそれほど高くないのですか?」
「そうね……。ここは島国でしょう? 山や海で土地が分断されているせいもあって、他領とはあまり積極的に関わらないの」

 そんなに仲も良くないし、とは言わずにおく。

「その分身内との繋がりが深くて、使用人も血縁や血縁からの紹介で固めるから、一つの大きな家族って感じなのよね。家族に大きな差をつけたりはしないでしょう?」

 ミゲルが納得したように頷く。

「では、ロレンツォ様やニーナ様も?」
「そうよ。紹介された人もいるけど、古参や主要な使用人は大体血縁者ね。あ、でも、ニケ……御者だけは違うの」

 ニケは血縁まみれのベスタ家の中では珍しく、素性不明の使用人だ。
 今と違ってまだ自由に外に出られた頃、海辺で倒れていたところをベアトリーチェが拾った。

 おそらく船のマストか何かに頭をぶつけて海に落ちたのだろう。目覚めた時には何もかも忘れた状態で、身分を示すものも一切持っていなかった。わかるのは十代後半ぐらいの見た目ということだけ。

 当然、カテリーナたちはニケを置くことに反対したが、ベアトリーチェの強固な説得に折れ、晴れてベスタ家の一員になった。ニケという名前もベアトリーチェがつけたものだ。

「記憶喪失……ということですか?」
「そうなの。ここにきて五年ぐらい経ったけど、まだ何も思い出せないみたい。明るく振る舞っていても、きっと不安だと思うわ……。家族が帰りを待っているかもしれないし、せめて出身地でもわかればいいんだけど」

 ため息をつくと、顎に手を当てて何かを考えていたミゲルが小さく呟いた。

「……もしかすると、西の方のご出身かもしれません」
「えっ、どうしてわかるの?」
「荷下ろしの時に『たいぎい』とおっしゃっていたので。同じ言葉をフランチェスカの森番たちが使っていました。彼らの先祖の出身地はケルティーナの西の方です」
「そういえば、そんなことを言っていたな。ケルティーナの方言に関する資料、確かさっき読んだぞ」

 そう言って、マッテオは机の隅に積んだ本の中から一冊を取り出し、ものすごい速さでページを捲り始めた。どうやら読んだ本の内容は大体覚えているらしい。

「たいぎい、たいぎい……。あった。これじゃないか?」

 案外細いマッテオの指の先を辿る。そこには確かに『たいぎい』の文字が見えた。意味は『面倒くさい』と『だるい』を合わせたものらしい。

「ユスフ領……かろうじて本島だけど、ここから遥か西にある領地だわ。……でも、なんで突然? 今まで『たいぎい』なんて口にしたことなかったのに」
「人の記憶というのは、ひょんなことから甦るものだからな」
「以前にも、同じ体験をしたのかもしれませんね」

 そういえば、右も左もわからない中でも御者の仕事だけはすぐに覚えていた。馬の扱いも巧みだし、故郷でも誰かに仕えていたのかもしれない。

「希望が見えてきたわ! ありがとう、二人とも!」
「お役に立てたなら何よりです」

 その時、外から馬の嗎が聞こえ、噂の張本人が庭を横切っていくのが見えた。

 織物工房の見学が終わったらしい。ニケが操る馬車の脇には、エリュシオンに乗ったリカルドがぴったりと付いている。
 その手綱捌きには迷いがない。いつの間にか、エリュシオンと以心伝心の仲になったようだ。

「もうそんな時間ですか。何だかあっという間でしたね」
「そろそろ解散だな。本を片付けねば」
「お手伝いするわ!」

 山と積まれた本を三人で手分けして片付ける。
 背が低いベアトリーチェは下の段の担当だ。床にしゃがみ込んで一心不乱に本を詰め込んでいると、棚の下に隠れるように古びた手帳が落ちていることに気づいた。

 大きさは手のひらよりも少し大きいぐらいで、クタクタになった革張りの表紙には何も書かれてはいない。
 中をパラパラと捲ると、どうやら誰かの手記らしいということがわかった。

 ——これ、このままにしておくとマズいわよね?

 古語で書かれているし、字の癖がひどいので解読には時間がかかるだろうが、ところどころに精霊の力の記述がある。古語が読めるマッテオたちの目に触れさせるわけにはいかない。

 二人がこちらに注意を向けていないことを確認して、ベアトリーチェは手帳をこっそりとローブの中にしまい込んだ。

 ——たぶん先祖の誰かなんでしょうけど、なんで文字に残すのよ! 子孫に迷惑かけないでよね!

 どの時代にも破天荒な人間はいたらしい。

 自分を棚に上げてぷりぷりと怒りながら、ベアトリーチェは本の片付けを再開した。
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