悪役公爵令嬢のご事情

あいえい

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外伝2-3 感情の在処と戸惑い

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外伝2-3 感情の在処と戸惑い

 見栄えもよく、金払いの良いアヒムはどこに行っても歓迎された。愛想のないところが玉に瑕だが、気ままな一人旅でそれが問題になることなどなかった。窮屈なお仕着せから解放され、誰に気兼ねすることもない生活は彼にとって楽だった。
 公爵邸を離れてから、1年以上が過ぎたある夏の日、アヒムはとある港町に滞在していた。数週間の予定で借りていた宿屋は清潔で、窓を開けると潮の香りがツンと鼻を突いた。その日も食事をしようと、鮮魚を扱う安くてうまいと評判の店に足を運んだ。彼が店に入ると、ガタイのよい、よく日に焼けた男たちが気安げに近寄ってきて、アヒムの周りの席に陣取った。今日の稼ぎは済んだのか、昼日中から酒盛りに興じる者たちもいた。
 アヒムとしては有難迷惑な話だったが、それを指摘するのも面倒で、いい加減にあしらいつつ、今日のおすすめ料理から何品かを注文した。今でこそ男たちはアヒムの顔を見れば親し気に集まってくるが、初対面の時は随分険悪だった。このあたりの店は昼は食堂をしているが、夜になると途端に酒場に早変わりした。この店もご多分に漏れず、夜になれば店に並ぶのは酒とその肴で、テーブルとテーブルの間では肉付きの良い陽気な女たちが酌をして回っていた。その日、このあたりにはない、上品な身なりの秀麗な容貌をしたアヒムが店を訪れると、女たちは目の色を変えた。一見のそれはもう男前で素晴らしく金払いのいい若い旅人が、宿屋に部屋を取ったことは港町ではすでに周知の事実だった。
 面白くないのは男たちである。男たちの中には、漁師だけではなく傭兵や冒険者といった腕っぷしに自信のある者たちが多かった。折しも、港では大型の魔物が海を荒らしており、少なからぬ兵士や冒険者が討伐に当たっていたが、中々成果をあげられないでいた。漁に出られない男たちは、ムシャクシャした気持ちを酒と女で発散していたのである。
 そんな時に現れた美貌の旅客に女たちの視線を独占され、男たちの中でもとりわけ短気な若者の一団が、早速アヒムに絡んだというわけだった。両者の体格差は歴然としていた。男たちの胸板はアヒムの2倍以上あり、丸太のごとき腕につかまれれば旅人の細腕などひとたまりもないだろう。女たちはむごたらしい未来を想像して、顔を青ざめさせた。周りのやじ馬たちはそれを止めるどころか、楽しい娯楽とばかりにはやし立て、煽った。
「食事をしに来ただけなのだが、店を間違えたようだな」
 ため息をつき、店を出て行こうとするアヒムの肩を男たちの一人が掴み、ねじ上げようとしたその瞬間、男の重厚な体が吹き飛んだ。店の最奥の壁にぶつかってのびた男の腕は、奇妙に曲がっていた。それを見た周囲の男たちは瞬時に臨戦態勢を取ると、それまで野次馬を決め込んでいた男たちもまた、アヒムに対して戦意をみなぎらせた。
 心底どうでもよさそうな顔つきで、彼らを見渡していたアヒムは、宿屋の女将は業突く張りな顔をしていたから、今から滞在期間を短縮すると言っても、返金に応じないだろうと想像した。仕方ない、面倒だがさっさと片付けるに如かずということか。思考を切り替えたアヒムが一同を見渡すと、身構えていた男たちが一斉に飛び掛かってきた。女たちは息をのみ、修羅場を予期してギュッと目をつぶった。
アヒムがさっと手を振ると紫の光がさっと酒場を照らした。女たちが恐る恐る目を開けると、屈強な男たちがうめき声をあげながら床に這いつくばる光景が広がっていた。
ミシリ
 店の床がアヒムの魔力を受けて大きくきしんだ。男たちは自分たちを襲った圧に逃れるすべもなく、目や鼻、口からだらだらと水を垂らしていた。
「そこまでにしてもらえないだろうか」
 店の2階から重厚な声が響いた。女たちはその姿を見てほっと安堵の息をついた。現れたのは港の顔役のひとりで、このあたり一帯のギルドマスターを務める男だった。精悍な顔つきの男はゆっくりと階段を降りると、周囲を見渡して苦笑した。
「こりゃまいったな。お客人に、うちの若い者たちがご無礼を働いようだ。俺はギルドマスターを任されているギュンターという者だ。こいつらの代わりに俺に謝らせてくれ。大変申し訳なかった。どうか、おれの顔に免じて、怒りを収めてはいただけないか。このままではこの建物が持たないだろう。ここの親父の作る料理は絶品でね、ここがなくなると多くの者が悲しむ」
 深々と頭を下げた男をじっと見つめていたアヒムは、ゆっくりとその手を下げた。その途端、魔法が解けて男たちは解放されて、ぐったりと床に転がった。しばらくして何とか身を起こした男たちは、アヒムをまるで化け物を見るかのように見つめた。
それ以降、男たちはアヒムを敬遠するようになったが、ギュンターや一部の者たちは気安く話しかけるようになった。特に魔法で生計を立てている者たちはアヒムを尊敬のまなざしで見つめるものも少なくなかった。
 そうして数日がたった頃、アヒムが例の食堂で遅い昼食をとっていると、ギュンターが彼の向かいの席に座った。
「席は空いているようだが」
 店内はガラガラで、さっき3人の傭兵たちが席を立った今、アヒムとギュンター以外には誰もいなかった。
「いやあ、そうつれないことを言ってくれるなよ。たまにはこうやって誰かと一緒に飯を食うのも悪くないだろう?」
「間に合っている」
「はは。おい、おやじ、この人と同じものを俺にもくれ」
 ギュンターが声を掛けると、カウンターの奥で気難し気な男が頷いて、厨房へと消えた。間もなくして食事が運ばれてくると、ギュンターは何も言わずに食事をはじめた。ギュンターのそのいかつい見た目に反した、上品な所作にアヒムは目を止めた。古株の冒険者の一人が、ギュンターは自分たちとは違っていい所の出だと言っていたのを思い出した。
 アヒムが食事を終えた後も席を立たず、静かに座っている様子に、ギュンターはニヤッと笑うと黙々と食事を続けた。
「話は何だ」
 ギュンターが食事を終えてコーヒーを一杯飲み終えると、アヒムは口を開いた。
「飯につき合わせて悪かったな。やっぱり食事は一人でするもんじゃない、誰かと一緒に食べると格別うまく感じるよ」
「それはよかった。食事も終わったようだから、話が特にないならこれで失礼する」
「おっと、待った。話ならあるさ。もう少し付き合ってくれよ。実は、なんだ、厚かましい願いだが、その腕を見込んで頼みごとを聞いてはもらえないかと思ってな。勿論、その分の礼はさせてもらう」
「ギルドマスターなら、所属の冒険者たちに頼めばいいだろう」
 アヒムは、金にも名誉にも興味はない、と言って断った。
「返す言葉もないが、俺たちの手に負えない化け物が出ちまったんだよ。それで、長いこと漁師たちも海に出れない日が続いていて、上からも下からも突き上げがすごくてな。正直お手上げの状態なんだよ」
「ギルドで手に負えないなら領主に話を持っていけばいい。このまま漁に出られない日が続けば、確実に納税に影響するから、領主としても手を打たざるを得ないだろう」
しかし、魔物に手を焼いていたギュンターは神がくれたこの機会を逃す手はないと確信していた。
「男爵はもうご存知だ。そもそもギルドも男爵から直接依頼を受けているのさ。すでに、お抱えの魔術師や騎士たちもとっくに討伐に加わているが、全く歯が立たないのが現状だ」
 ギュンターは領主の男爵と母方の血筋でつながっていて、年も近く気安い間柄と言ってよかった。そのため、長引く事態を収束するため、男爵にもアヒムに関して話を通してあり、男爵もまた実力のある魔術師の来訪を天祐と考えていた。
アヒムとしては縁も義理もないこの場所で、アヒムは恩を施すつもりは毛頭なかったが、ギュンターというと何度アヒムに断られても引き下がるつもりはこれっぽっちもなかった。
翌日以降も執拗に食い下がるギュンターに、アヒムが苦虫を噛み潰したような顔つきになっても、ギュンターの説得は続いた。
「このとおりだ。実は、この港は交通の要所になっているんだが、ここが封鎖されているせいで、とあるお貴族様の船団が、隣の港で立ち往生しているんだ。その方々は領主様の主家筋に当たる方で、領主さまも頭を抱えていてね」
 この日もギュンターの言葉を聞き流しながら食事をしていたアヒムは、ギュンターの漏らした言葉に目を上げた。初めて反応を返したアヒムの様子に、ギュンターは勢いづいて続ける。
「それが、ここだけの話そのお貴族様って言うのはなんと、あのヴァルトハウゼン公爵家の方々なんだ。最近新聞を見たか?国に嫁がれた王女様が二人目を出産しただろう、そのお祝いの名目で外遊に出かけてようやく帰国なさるという先に、ここで足止めを食らっちまったと言うわけさ」
 久方ぶりに耳にした旧主の名にアヒムは目をしばたいた。それからもギュンターは何やかやと説明を続けていたが、アヒムは上の空で物思いに耽っていた。それをどう解釈したのだろう、アヒムが適当に返していた相槌を、了承の意味だと強引に解釈したギュンターは、それじゃあ、明日の朝に集合なと言って、アヒムの肩を叩いて、そそくさと出て行った。
「ちょっと待て、まだ参加するとは」
 アヒムの返事も聞かずギュンターは嵐のように去っていった。彼の座っていた席には二人分の食事代が置かれており、アヒムはため息をついた。
 翌朝、アヒムは気が乗らないながらも、指定されていた場所に赴いた。そこには案内の漁師を始めとしてすでに何人もの騎士や魔術師、冒険者たちが集まっていた。アヒムを見つけるとギュンターが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「おお、来てくれたんだな。助かったぜ」
「参加するには一つ条件がある。それを呑めないなら、この話はなかったことにさせてもらう」
「おお、そうかそうか。何でも言ってくれ」
「どんな方法でもいい、目視できる範囲まで魔物をおびき出してくれ。あとはこっちでなんとかする」
 アヒムの提案に、ギュンターは一瞬戸惑いを見せたが、アヒムが淡々と同じ言葉を繰り返すと、分かったと言って頷いた。

 ギュンターから伝えられたアヒムの要求に、集まった面々はアヒムの身を案じて難色を示したが、ギュンターに説得されて何とか納得した。
「醜いな」
 漁師と魔術師たちの陽動によって、姿を現したのは、大型の帆船を優に超えるほどの巨大な化け物だった。蛸とも烏賊ともつかぬ見た目のそれは、毒々しい色彩の体表に、ぼつぼつとした幾つもの巨大な突起が生えており、怒り狂って何本ものグネグネした足をあわらした。怒りで我を忘れているのか、大きな目玉をぎょろぎょろと動かして、小さな敵たちを海に引きずり込もうとしているところだった。
「頼む、アヒム!」
 切羽詰まったギュンターの叫び声に、アヒムは眉一つ動かすこともなく、静かに片手をあげるて手首を弧を描くように半回転させると、小指から順にゆっくりと指を閉じていった。
 宙づりになった巨大な怪物はアヒムの指の動きに操られるように、伸ばしていた足を折りたたむと、最後にはその巨大な胴までもが奇妙にねじくれ、内側へ内側と折り畳まれていった。宙に浮いたその化け物は、赤黒い丸い塊になってしきりに蠢いていた。ぎょろぎょろと敵を探していた目玉がアヒムをとらえた瞬間、アヒムは軽く握っていた手のひらを固く握りしめた。
化け物の断末魔が早朝の港町に響き渡った。驚いて家から飛び出した人々が目にしたのは、朝日を背に、悍ましい色をした巨大な塊だった。塊からは黒々としたおびただしい量の液体が海に降り注ぎ、大波となって埠頭を襲った。
 最後の一滴まで搾り切ると、アヒムはようやく掌を開いた。そのとたん、宙に浮いていた球体は重力を取り戻し、海へと崩れ落ちていったのだった。
 そこから先はまるでお祭りのような騒ぎだった。多くの漁民たちが快哉を上げ、冒険者や兵士たちは雄たけびを上げた。港は興奮の坩堝に陥った。

 後日、アヒムを訪ねたギュンターは金貨の詰まった袋をアヒムの前に置き、改めて礼を言った。アヒムは袋を押し返すと、困っている奴に配ってやれと言って受け取らなかった。
 それから、アヒムを見る皆の目に尊敬と親しみの光が灯るようになった。アヒムは行く先々で、老若男女問わず親し気に話しかけられるようになり、辟易することになったのだった。
「なあ、来週の明日にはこの港を出て行くってのは本当か?」
 その日も、アヒムが食堂に行くと、漁から帰ってきたばかりの男の一人がアヒムに話しかけた。
「そのつもりだ」
「あんたがいなくなると寂しくなるな。特に女たちががっかりするだろうぜ」
 違いない、と言って周囲から笑いが起きる。
「なあ、真面目な話、あんた女たちからの誘いを全部断ってるって本当か?」
 アヒムが黙っていると、もったいねえといって男たちは色めきだった。
「素人女も、商売女も誰も嫌だっていうじゃねえか。すると、男が好きなのか?」
「オレは器量よしの売れっ子男娼の誘いも断ったって聞いたぜ」
 男たちのゲスな勘繰りに辟易したアヒムが店を出ると、何処で様子を見ていたのかギュンターが声を掛けてきた。
「まあ、悪い連中じゃないんだが。品がよくなくてね、申し訳ないが、勘弁してくれよ」
「別に気にしていない。それより何か用か」
「用ということもないんだが、宿屋を替えたというのは本当か?」
「その話か」
 アヒムがうんざりした様子で答えると、その様子だと本当のようだなと言ってギュンターが笑った。アヒムは中の上の宿に居続けで部屋を取っていたが、魔物討伐以降、そこに忍んで来る者たちが後を絶たなかった。彼らはきまって夜アヒムが寝床に入ると、部屋に忍び込んできた。多くが女たちで、たまに若い男も含まれていた。彼らはあられもない格好でアヒムのベッドににじり寄り、アヒムが目を覚ましていることに気付くと、頬を染めて笑った。蝋燭の光に照らされた、肉食獣を思わせる彼らの笑みを思い出して、アヒムは眉を顰めた。
「いい迷惑だ」
 僅かな好奇心もあり、初めの頃は、女たちの好きにさせてみたこともあった。しかし、彼の上に馬乗りになって、肢体をくねらせる美女たちを前にしても、アヒムの男が反応することはなかった。自身の身体と技術に自信のある女たちが焦りを見せるころ、アヒムは低い声で、冷たく出て行けと言って女たちを追い出した。
 その後もそんなことが続いたから、アヒムはとうとう部屋を引き払うことに決めたのだった。このあたりでも最も上等の宿に部屋を移したアヒムは、勝手に人を部屋に入れるなと宿の主人に金貨を握らせた。
「てっきり俺はあんたが嫌気がさしてこの町を出て行っちまうんじゃないかと思ったよ」
「別に、予定を変えたくなかっただけだ」
 アヒムはこれと言って予定のない気ままな旅だったが、主要な町に着くとそこを拠点に数週間滞在することにしていた。それでも面倒事が起これば、早めに切り上げることも珍しくなかった。煩わしさを感じているにもかかわらず、敢えて予定に拘泥するのは彼らしくなかった。彼もまた敢えてその事実から目を背けているようだった。
「そうか、それならいいんだけどな。俺としてもせっかく知り合いになったことだし、もう少し親交を深められると嬉しいと思っていたところだったんだ。そうそう、前に話していた公爵様御一行が数日以内に入港されると連絡が来たよ。港で馬車に乗り換えるということで、領主さまから警備を厳重にするようにとお達しがあったところだ」
「そんなことを部外者に話していいのか」
「隠してもそのうち知れる話だ。それにあんたもきっと気になる話だと思ったもんでな。魔物討伐の話を持っていった時、ヴァルトハウゼン公爵家の名前を出してからなんとなく様子がかわったからな。まあ、ついでに警備に加わる気になってくれりゃあ百人力、なんていう下心もあったりして。考えておいてくれ」
 にかっと笑うとギュンターは、アヒムの肩を一つ叩いて去っていった。
 知らず知らずのうちに、顔に出ていたのか。アヒムは頬に触れた手をぎゅっと握りしめると、港湾を振り仰いだ。数日後にはヴァルトハウゼン公爵家の船がここに到着するのか。宿屋に戻ったアヒムは、公爵家を出る際に餞として贈られた品々を取り出した。懐中時計や上等な皮手袋など、旅に出るアヒムにふさわしい品が多かった。一番下にしまわれていたのは白い封筒だった。表書きは白紙で、裏返すと上品な筆跡で「あなたの旅が実り豊かなもでありますように」と記されていた。これを贈った少女の好んでいた冒険譚の一節である。中にはヴァルトハウゼン公爵の証明が記された白紙小切手が同封されていた。
「いよいよという時になったら、使いなさい」
 出立の前夜、エレオノーラは部屋を辞去するアヒムに封筒を差し出した。その少々高慢な口調を思い出し、我知らずアヒムはうっすらとほほ笑みを浮かべた。鞄の奥深くしまわれていた封筒からは、彼女が好んでいたラベンダーがほのかに薫った気がした。
 エレオノーラはデビュタントを迎えているはずだ。今回のヴァルトハウゼン公爵の外遊は、正式にレディーとして認められた彼女のお披露目も兼ねているのだろう。恐らく、あの美しく傲慢な少女なら、他国の社交界などものともせず微笑みを振りまいていることだろう。ふと思い立ったアヒムは呼び鈴を鳴らすと、一月以内の隣国に関わる記事の掲載された新聞を持ってくるようにいいつけた。

 その晩、初めてアヒムは夢の中で女を見た。

 カーテンから漏れる月影に、部屋全体がうっすらと浮かび上がっている。部屋の奥に人の気配を感じ、薄い帳を開くと、そこに女がいた。年のころは幾つほどだろうか、少女の名残を残す頬から顎、首筋のラインがやけにしろく浮かび上がっていた。細い肩にかかった一房の髪が、薄い肌着の上をさらりと滑り落ちると、白い夜具の上へ散らばった。
 あの髪に触れたら、どれほどのやわらかさを感じるのか。
一つ瞬きをすると、次の瞬間にはアヒムは夜具の上にいた。軽く瞠目した彼の膝に、女の白い手が重ねられる。身を乗り出した女から微かに甘い香気が立ちのぼった。彼の顔を下から覗き込む女の顔上半分には陰がおりている。女がわずかに首をかしげると、つややかな髪が一筋、女の頬にかかった。口の端についた髪をアヒムがそっと耳に掛けると、女はくすぐったそうに微笑んだ。
何かに魅入られたようにアヒムはその指を滑らせた。彼の指は青白い月光のおりた女の髪の生え際をやさしく撫でると、花びらのような耳朶をやわやわともてあそんだ。その軽い愛撫に女が軽く身を引くと、アヒムはそのまま女と共に柔らかな夜具へと倒れこんでいった。
彼の腕に閉じ込められた女は初めて声をあげた。真上から覗き込んで見た女の瞳は艶を孕んみ潤んでいる。
アヒムは夜具に広がる女の豊かな髪に指をうずめた。想像通りのやわらかな感触に、その指で髪をかきあげると、髪は清水のようなしなやかさで彼の指から流れ落ちていった。
アヒムは陶然とした。
いつの間にか夜衣を脱いでいたアヒムの肌に、女の白い肌はひたりと、すいつくように触れ合った。アヒムが柔らかなふくらみをたどって手を滑らせると、女の全身をめぐる血が沸き立ち、女の青白い肌は次第にうす紅色に色づいていった。女の肌理から立ちのぼる甘い香りに、すっぽりと覆いつくされたアヒムは軽くめまいを覚えた。なめらかな滑沢を得た女は身をそらし、僅かな声をあげて花弁のような湿潤に彼を迎えいれた。桃果の如き艶をもった深いくびれを何度も往復したアヒムは、その最奥で己を解き放った。

 わずかに開いた窓の隙間から流れ込んでくる、早朝の港の喧騒にアヒムはそっと目を開けた。頭がぼんやりとしている。体を起こしたところで、体の中心部に不快感を覚えた。
(夢だったのか)
 身を清め、身支度しながら昨夜の夢を思い返す。生理的発露に、夢を伴うのは初めてだった。
 ふとテーブルに顔を向ければ幾束もの新聞記事が目に入った。広げられた記事の挿絵に、夢の女が重なる。そこに描かれていたのは、父公爵に伴われ初めての外交の舞台に立った公爵令嬢の麗しい似姿だった。
 アヒムはぐしゃりと額髪をかきあげると、顔をしかめながら部屋を後にした。

 貴賓を迎えるための最終確認をしていたギュンターは、珍しい客人を迎えて目を見開いた。
「話がある」
 ギュンターはギルドの執務室にアヒムを通すと、人払いした。
「どうした?初めてじゃないか、あんたが訪ねて来るなんて」
 ソファに山積みされた書類や本などを押しやって、スペースを作るとそこへ座れと声を掛ける。アヒムはソファにクリーンの呪文を掛けてから腰かけた。その様子を苦笑しながら見ていたギュンターは、隣の一人掛けソファに座ると来意を問うた。
 アヒムは前かがみになって膝に肘をつき、両手で顔を覆ったまましばらく動かなかった。彼のつむじを見つめながら、ギュンターは面白い話が聞けそうだとにやりと笑った。
「私は性的倒錯者かもしれない」
 地を這うような声音で発せられたアヒムの台詞に、ギュンターは手に持った書類を取り落としそうになった。
「そりゃまた、厄介な話だな。つまり、なんだ、具体的にいうと?というか、何でそんな話になったんだ」
 アヒムが顔を覆った指をわずかにずらすと、絶望に沈んだ赤い瞳が覗いた。
「年端もゆかない子どもを抱いた」
「なっ・・・」
「夢の中で」
「は、夢?」
「夢にきまっているだろう。実際に子供を抱くはずがない」
 殺気を込めて言われたギュンターは、みぞおちのあたりがきゅっと縮こまるのを感じた。
「まあ、そう言った類の夢を見るのはそう珍しくもないことだが」
「私は今までそんな経験はない」
「初めてだと?」
 頷いたアヒムに、ギュンターはポリポリとこめかみを掻いた。
「まあ、そんなこともあるかもしれない、・・・のか?夢は無意識の表出ともいうしなあ、隠れた願望が現れたとしてもおかしくないが。因みに子どもというと幾つくらいだったんだ、その夢の中の相手ってのは」
「はっきりとはわからないが、恐らく十三から十五くらいの間じゃないかと思う」
「その年頃なら、子どもというほどの年齢でもないだろう」
「前の店で働く娘を見て、同じことがいえるか?」
 ギルドの向かいでは今年十四歳になる看板娘が、元気の良い掛け声をあげながら海鮮スープを売っていた。
「ああ、すまん、無理だな。だが、たまたまってこともあるんじゃ・・・」
 そう口にしつつ、これまでアヒムがさんざん妙齢の女たちに口説かれ、夜這いを仕掛けられても、全く反応しなかったことに想到して、ギュンターの声はだんだん小さくなっていった。
「最悪だ」
 アヒムは深いため息をついた。
「まあ、人生いろいろあるってことだ。何とか折り合いをつけていくっきゃないだろうなあ。それにしても、こんなことを俺に相談してくれるとは、ようやく俺に心を開いてくれたってことか。うれしいねえ」
「違う」
 ギュンターが顎を撫でながら照れ臭げに笑うと、アヒムがすぐさま否定した。
「ひでえ。そんなバッサリ否定しなくてもいいんじゃねえか。ん?だったらどうして俺のところに来たんだ」
 首をひねるギュンターに、アヒムは頭を下げた。
「自分の性癖を確かめたい。手を貸してくれ」
 年端のいかない少女にしか劣情を抱けない性的倒錯者か否か、それを確信するまでは落ち着いていられない、そのために協力して欲しいとアヒムは言った。深刻な様子のアヒムに、これで確信した日には自決しかねないんじゃないかと考えつつ、ギュンターは慎重に口を開いた。
「もし、そうだったらどうする?」
「自分にまじないを掛けた。別に死にはしない」
 確信した瞬間、局部が物理的に使い物にならなくなる呪いだという。具体的な作動方法は怖くて聞けなかった。アヒムの苦悩の深さを理解したギュンターはガシガシと頭をかいていった。
「そりゃあ、伝手がないこともないが。最近はお上の取り締まりが厳しくてなあ。だが、まあ方法がないこともない」
 そう言ってギュンターがくりだしたのは、様々な魔道具を扱う店が並ぶ一角だった。最も奥まった怪しげなその店には、古い映像用魔具がずらりと並んでいた。ギュンターが店主に二言三言、言葉を掛けると、渋い顔をした店主は3個の映像石を差し出した。
「見逃してくれるってのは本当なんだろうな。中々入荷しない貴重な品なんだぜ」
 ギュンターが約束は守るさと言って、店主の肩を叩いた。映像石を持ったギュンターに連れられて、店の奥の扉をくぐると、そこには狭い幾つもの部屋が並んでいた。間口は狭いが、奥行きのあるつくりになっているのだろう、部屋の扉には小さな石がはめ込まれており、いくつかの部屋のドアにはめ込まれた石は赤く光っていた。どうやら、赤く色が変わっている部屋は使用中ということらしい。
 空き部屋の一つに入ったギュンターは映像石を指し示して、作動方法を教えた。
「もうわかっているかと思うが、ここはいろんな映像を貸し出していて、客が選んだ映像をこの道具で見ることができる」
この3つの水晶に保存されているのは、実際に演じてるのは成人した女だが、小柄で幼い見た目の俳優が出演しているという。
「俺は通りを出たところの店で飯でも食ってるから、ゆっくり確認してくれ」
 そう言ってギュンターは部屋を出て行った。部屋の中には防音魔法が掛けられており、外に音漏れする危険はなさそうだった。アヒムは嫌悪に顔を歪めながら、一つ目の映像石に手を伸ばした。

「おお、随分早かったな。もっとかかると思っていたんだが」
 アヒムが目の前の椅子に腰かけると、まだ食事途中だったギュンターが軽く目を見開いた。
「それで、どうだった?」
 ギュンターが声を潜めると、アヒムは眉間のしわをますます深くして、吐き捨てるように言った。
「クソが」
「つまり?」
「何も感じなかった。いや、悍ましさだけは十分味わわせてもらった。それに、映像石の一つは本当の子どもだった、虫唾が走る、関わったやつら全員殺してやりたい」
 嫌悪に体を震わせるアヒムの言葉に、ギュンターは色を成した。
「なんだと?くそっ、あの狸ジジイ、おい、悪いが俺と一緒に店に戻ってくれ」
「あまりにも忌まわしくて、思わず」
「なんだ、ぶっ壊しちまったのか?」
「いや、次に再生したら全ての映像が消えるよう、呪文を掛けた。ああいった物は、不具合がないか、貸出後に確認するだろう」
「おいおい、じゃあ急がないとまずいじゃねえか」
 ギュンターとアヒムは来た道を戻ると、店主を吊るし上げ、しかるべき所につきだしたのだった。
 全てのけりがついて、二人がようやくギルドの執務室に戻った頃には、月が中天を過ぎていた。
「ところで、お前の疑念は晴れたのか?」
「ああ。自分は少なくとも年端も行かない子どもに劣情を抱くような獣ではないことがわかった。逆に、そんなクズを見かけたらすぐさま全身が爛れて腐れ落ちる呪いをかけてやると誓う」
 そう言い切るアヒムからはゆらりと殺気が立ち上っていた。
「同感だ。今回は胸糞わるいことに巻き込んじまって、悪かったな」
「あんたのせいじゃない」
「いや、結果的にあれを放置していたんだから、俺に非がある」
 ガシガシと髪を掻きむしると、ギュンターはどっかりと椅子に身を沈めた。グラスに注いだ度数の高い酒をグイっと一杯あおると、アヒムを見つめて言った。
「他に心当たりはないのか?そもそも、ああいった類の夢を見たのは初めてだったんだろう。今までになかったことが突然起こったのなら、当然きっかけがあるはずだ。昨日の夜に何か変わったことはなかったのか?」
 前夜・・・。強いて考えようとしてこなかった可能性に思い至ったアヒムは、眉根を寄せて押し黙った。
「おいおい、その様子じゃ何か思い当たることがあるんじゃねえか。何があった」
 砕けた物言いになったギュンターにアヒムは大きなため息をついた。
「昔・・・。昔の知り合いを見かけた」
「ほう。昔の知り合いねえ。そりゃあ女か、幾つだ?」
「最後に会った時は、13になる年だった」
 苦虫を噛み潰したようなアヒムに、ギュンターは、それだと言って手を打った。
「冗談じゃない!」
「何が、冗談じゃないんだ?これほどはっきりしたこともないじゃねえか」
 色を成して否定するアヒムに、ギュンターは両手をあげて見せる。
「あんたの心はその子を見て反応したんだ。否定するっつーんだったら、夢で逢った女の顔は?はっきり見えなかったって言っても、雰囲気位は分るだろうよ。肌の色や髪の色はどうだった?輪郭は?女の声はどうだったんだよ?覚えがあるんじゃないのか?」
 今や答えは明白だった。夢で見た女と、記憶の中の少女が、そして新聞の記事に描かれていた令嬢の面影はピッタリと重なっていた。
「ほら、決まりだな」
 ギュンターのニヤニヤ笑いも意地の悪い台詞も、アヒムには届いていなかった。口許を手で覆ったアヒムの顔は耳まで赤く染まっていた。
「最悪だ」

 自分はエレオノーラを好いている。

 その事実はアヒムを打ちのめした。一度自覚した感情は瞬く間に彼の心を覆いつくしてしまった。気がついてみれば、全ての事柄が繋がってみえた。他人に一切興味のない自分が、エレオノーラにだけ感情を揺さぶられたのも、彼女に反発したのも、全部彼女に対する心の在処を物語っていた。アヒムにとって出会った瞬間から彼女だけが特別だった。
 だからといって、どうになろう。己の心を自覚したところで、彼とエレオノーラの間には身分の壁が大きく立ち塞がっていた。新聞の記事にも書かれていたではないか。この麗しの令嬢は果たして一体誰の手を取るのだろうか、と。もう既に数多の求婚の手紙が令嬢の元に届いているという。多くの貴族の男たちがこぞって、この絶佳を手に入れようと手を尽くしているのだ。彼女は既に身分も、莫大な財産も手中にしており、その上、将来の絶大な権勢も約束されている。
 アヒムは生まれて初めて絶望した。彼の生まれて初めて自覚した感情は、既に儚く散ることが運命づけられているかのように思われた。
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真実の愛は素晴らしい、そう仰ったのはあなたですよ元旦那様?

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5人の旦那様と365日の蜜日【完結】

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