悪役公爵令嬢のご事情

あいえい

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外伝2-2 アヒムの旅立ち

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外伝2-2 アヒムの旅立ち

 アヒムがヴァルトハウゼン公爵家で使えるようになってしばらくの時が経った。アヒムは様々な教育を施された。公爵家にふさわしい立ち居振る舞いから、歴史、数学、語学、哲学、音楽に美術と、実学だけではなく様々な教養に至るまで、さまざまな学問、芸術を叩きこまれた。ひとえに彼の抜きんでた能力を、最大限引き出そうとする意図によるものだったが、それはエレオノーラのちょっとした意趣返しをきっかけに始まった。
アヒムは一通りの教育を受けた後、彼の持つ膨大な魔力制御のための指導を受けつつ、時折エレオノーラの小姓として侍るようになった。
教師や先輩の使用人たちからの彼の評判は上々で、愛想はないものの、優秀な少年に好感を抱いた。アヒムは淡白な少年で、好悪をはっきりと示すことはなかったが、ただ一人、エレオノーラの前でだけはどこか不服そうな、気難し気な態度をとることがあった。と言ってもあからさまに表に出すことはなかったが、彼のそんな様子に幼いエレオノーラは気づいていた。
 アヒムはエレオノーラの授業中に、傍に侍る時が少なくなかった。そんな時のアヒムは、なぜこんなことを学ぶのか理解に苦しむ、こんなものを高尚な文学だ芸術だと言ってありがたがる奴らの気が知れないと心の内で感じながら、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。教師はアヒムの無表情の中に、まさかそんな不遜な感情が潜んでいることに気付いていなかったが、エレオノーラは別だった。
「アヒムにも私と同じく授業を受けさせてみたらどうかしら」
 アヒムはとても優秀だと魔術や剣術の先生方が仰っているというじゃない。向上心もあって、その上、教えられたことは一度で全て覚えてしまうとね。確かに、貴族の子弟ではないアヒムに、貴族と同じ教育の機会を与えるなんて異例なことだけれど、特別な才能には特別な配慮が必要だと思うの。私の授業中もとても興味深そうに耳を傾けているのよ。とかなんとか。
 数日後、アヒムの教育プログラムは大幅に見直されることになった。もともと、彼の潜在的能力は非常に高く、使用人が受けるような実学重視の授業はとうに修了していたし、魔法学の授業も教師以上の実力を示して見せたから、それは当然のことといえた。それでも、哲学や、文学、美術、音楽、幾何学や天文学といった、彼の生まれ持った身分に適当と思われる範疇を大幅に超えた教育が施されることになったのは、全てエレオノーラが原因だった。初めてその話を耳にしたアヒムは開いた口がふさがらなかった。
その後、アヒムに対して浮かべる彼女の含み笑いを目にするたびに、アヒムのエレオノーラに対する反抗心はいや増しに増していったのだった。

それからさらに歳を重ね、成年を迎えたアヒムはしばらく前から正式にエレオノーラ付きの執事として、彼女の傍に侍るようになっていた。全ての教育課程を非凡な成績で修了したアヒムは、公爵家の中でも一目置かれる存在になっていた。公爵からも目を掛けられ、あと数年もすればより重要なポストに取り立てられるだろうともっぱらの評判だった。
もともと眉目秀麗な顔立ちをしていたが、長ずるにしたがって、ますますその秀麗さに磨きをかけていった。そのためアヒムに憧れ、好意を寄せるものは非常に多かった。しかし、誰もが彼の特別になることを望んだが、誰も彼にとって何ものになることもできなかった。
アヒムは何でもできる代わりに、生物無機物を問わず何に対しても心を動かされることはなかった。
ただ、なぜかエレオノーラだけはずっと苦手だったし、どちらかと言えば嫌いだったから、出来ることならば執事の仕事も誰かに代わって欲しかった。
そのエレオノーラは非常に美しい娘に成長した。まだデビュタント前ではあったものの、その美しさはすでに様々な貴族達の口の端にのぼっていた。
エレオノーラとアヒムの、美しい少女と白皙の美貌を持った青年執事の並ぶさまは、一対の絵の如き秀麗さで、ご婦人方や令嬢達の憧憬のため息を誘った。

「アヒム、あなたって本当につまらない男ね」
 庭園を見渡せるテラスで、初夏の訪れを告げる爽やかな風を感じながら、エレオノーラは眉根を寄せてアヒムをみつめた。
「左様でございますか」
 エレオノーラのお気に入りの茶器で紅茶を淹れる手を休めず、慇懃ながらもそっけないアヒムの返しに、エレオノーラもまたこくりと頷くだけの返答をした。
アヒムの淹れた紅茶に口を付けた彼女の髪に結われた白いリボンが、風に誘われて蝶のようにひらひらと揺れる様にアヒムは目を奪われた。
しばしの沈黙ののち、主人の不興を察したアヒムは、膝をつき、胸に手を当てて首を垂れた。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。よろしければ浅学非才なこの下僕に、お嬢様の胸の内をご教授願えませんでしょうか」
 殊勝な声音でそういえば、頭をあげなさいという言葉が降ってきた。今にも舌打ちしそうな口調に顔をあげれば、形の良い眉を心底嫌そうに歪めた少女の瞳と出会った。
「本当に良い性格をしているわね。浅学非才だなんてふざけたことを。あなたみたいに全ての教師がほめたたえるような頭脳と、王宮魔導士ですら到底及ばない魔力を備えた人間が、そんな風に卑下して誰が悦ぶというのよ。あなたの才能に及ばないすべての人間に対する強烈な嫌味だわ。全く気に入らないことに、執事としての仕事も完璧だし、お父様からの信頼も篤くて前途は洋々、その辺の貴族のご令嬢が頬を赤らめポーっと見つめてしまうくらい整った容貌までもっていて、憎らしいったらないわね。あなたにとっては、できないことを探す方が難しいとか言うんでしょう」
 苛々と紅茶に口を付けているエレオノーラの様子に、アヒムは小さく首をかしげる。
「完璧なところが、お嫌なのですか」
 アヒムの台詞に虚を付かれたエレオノーラの眉間のしわが一層深く刻まれた。エレオノーラは歳の頃に似合わない、老人じみた深いため息をついた。
「よくもそんな言葉を口に・・・。いいえ、自惚れでもなんでもなく、心の底からそう思っているのでしょうね。はあ、アヒム、あなたのどこが完璧なのよ。いくら知識を詰め込んでもあなたの瞳はいつもうつろで、空っぽじゃない。どんなに素敵なエチュードも、多くの人々を感動させる絵画も、演劇も、心躍るような冒険譚も、歴史も、哲学も、結局どれもあなたの心を動かすことはできなかったのね。別にいいのよ、反社会的なことでも暴力的なことでもない限り、どんなことに感銘を受けても構わないの。でも、あなたはそうじゃないでしょう?ここにきて、6年以上たつのに誰にも関心はないし、何でもできるくせにどんな仕事にも娯楽にも興味を示さない。あんなにすさまじい魔力を持っていても、それを役立てようとも思わないで。もっと悪いことに、何の興味関心もないことに対して、どうとも思っていないということよ。まだ従兄弟のトミー坊やの方がましだわ。今日は立てたから明日は戸棚まで走って行って、砂糖菓子の入った壺に頭を突っ込んでやろうと、それはそれは冒険心に満ち溢れた毎日を送っているわ」
 ようやく歩きはじめたような子どもと一緒にしないで欲しい。そんなアヒムの心の内を見透かしたように、エレオノーラは大仰にため息をついて見せた。
「ああ、やっぱり公爵家に引き取ったのは失敗だったかしら。いずれにせよ私の執事なんかにするんじゃなかったわ。資金援助だけして、騎士団とか、侠客に預けた方がよっぽどよかったのじゃないかと思うわ」
 悩まし気に言葉を続けていた少女は、傍らに立つ執事の瞳が一瞬揺れたことに気付かなかった。
――まただ。
エレオノーラの言葉に、いつも凪いでいる心が、まるでやすりでなでられたようにざわりと波打った。肌が泡立つような不愉快な感情が湧いてくる。ああ嫌だ、他人といる時にはこんな風に感情を掻きたてられることなどないのに。エレオノーラの顔を見て、彼女の言葉を耳にすると、なぜだか言い知れない焦燥感に苛まれるときがある。それが不愉快で仕方がない。
アヒムはそんな自分の感情を振り切るように、口を開いた。
「そんなことをおっしゃっている暇がおありでしたら、新しい弟君をお迎えする準備についてお考えになったらいかがですか」
 この度ヴァルトハウゼン公爵は、親戚の優秀な男の子を引き取ることを決心した。まだ後継者をどうするかは決めていないものの、実子はエレオノーラただ一人。彼女が公爵家を継ぐにせよ、それともどこかへ嫁ぐにせよ、スペアとなりうる子どもを手元で養育する必要があると考えたのだった。
「今私ができることなんてないわ。お部屋も決まったし、新しい家具も、お洋服も、おもちゃまで、もうすっかり準備はそろっているもの。私ができるのは、アロイスが屋敷に付いたら、せいぜい愛想よく出迎えて、優しくしてあげて、午後にはお菓子とお茶を入れてあげるくらいよ。夜になって、寂しがるようなら、絵本の2冊くらいは読んであげてもいいわ」
 尊大な態度で言うエレオノーラが実は、面倒見のよい少女であることをアヒムは知っていた。彼女のことだから、きっと義弟が来ればしっかり姉として面倒を見てやるのだろう。そんな未来が容易に想像できる。アヒムはなぜか再びもやもやとする胸に蓋をして、エレオノーラの肩にかけるためのストールを探しに部屋の中へと戻って行った。
 
 それからしばらくして、予定通りアロイスが公爵邸に引き取られてきたのだが、初めての挨拶を交わした後、なぜか彼は怯えた様子でアヒムを避けて回った。エレオノーラはこれではアロイスと親しくなることどころか、家族としての交流すらできないと言って、新しい弟と過ごすときはアヒムを遠ざけ、別の執事を伴うようになった。この措置によって、アロイスは新しい姉に親愛の情を抱くようになり、姉と弟の仲睦まじい様子に、ヴァルトハウゼン公爵も胸を撫で下ろした。
しかし、一方で接点がなくなったはずのアヒムを、アロイスはますます怖がるようになった。他の召使たちはしきりに首をかしげたが、
「小さいお子様の中には魔力にとても敏感な方がいるといいます。お坊ちゃまもきっとそうなのでしょう。私としては少々寂しい気が致しますが」
アヒムが憂いをおびた微笑を浮かべながらいうと、なるほどと、皆が納得したのだった。

 アヒムに転機が訪れたのは、それからさらに2年が経った頃であった。家令はアヒムに、家令から公爵閣下とお嬢様からお話があったのだが、と切り出した。
「お前がこのお屋敷に来てから、もうずいぶんと経ったね。小さくて枯れ枝のようだったお前を、エレオノーラ様がお連れになった日を今でもよく覚えているよ。背を追い抜かれたのは一体何歳の時だったか。お前も知っているとおもうが、幼少期から公爵家にお仕え申し上げている召使たちは、20歳を迎えると、雇用契約を見直す決まりになっている」
 そこで家令は一度言葉を切ると、アヒムの様子をうかがった。
「はい、存じております」
 彼の返事に一つ頷くと、家令はアヒムの雇用契約書を取り出した。
「アヒム、お前の考えを聞く前にいくつか話しておくべきことがある。まず第一に、お前の務めぶりは公爵閣下やお嬢様も高く評価なさっている。お前の去就のいかんに関わらず、お前のその抜きんでた能力と、ヴァルトハウゼン公爵家に対する忠勤ぶりに報いるために、公爵閣下から騎士爵が授与されることが決まっている。このまま公爵家に残るのであれば、必ず今よりもずっと高い席を用意すると約束しよう。だが安心しなさい。仮にここを離れるとしても、悪いようにはならない。十分な退職金と、将来的に勤務年数と忠勤に見合った年金も支給されるし、望むのなら最高の紹介状を用意することもできる」
「はい」
「お前のことだから、お仕えしているお嬢様のお考えが気がかりだろう。お嬢様はお前を手放すことに異論はないとおっしゃっている。過去の小さな親切で、お前のような才能を人所に縛り付けるような真似はできない、宝の持ち腐れだと仰っていたよ。なんともお嬢様らしい言い分じゃあないか。公爵閣下や私はお前に残って欲しいと思っていたのだが、あの方はお優しい方だ。お嬢様はお前がどんな選択をしたとしても、決して否定しないで欲しい、その上で、出来得る限り最大限の好意で報いてやって欲しいと仰っていたよ」
 エレオノーラはその台詞をどんな顔をしながら口にしたのだろうか。選択、と彼女は言ったのか。アヒムのことを何も望まないつまらない人間だと言った口で、彼の選択を尊重するとエレオノーラは話したという。アヒムは心をぐらぐらと揺さぶられるような心持がした。何故だ、何故そんなことをいえるのか。
「流石のお前でも、直ぐに答えは出ないようだね。それでもよい。じっくり考える時間を与えるようにと公爵閣下も仰せだった。お嬢様は明日から数日間はお従姉妹の家で過ごされることになっている。お前の同伴は不要とのことだ。よくよく考えて答えを出すのがよいだろう」

 アヒムが家令に返答したのはそれから数日後のことだった。特にやりたいこともなく、行きたい場所もなかったから、どれだけ考えても同じことだった。その上、家令の口から語られたエレオノーラの気持ちを思い返すたびに、心が潮騒のようで不愉快な気持ちが募っていった。気分転換になるかと市場まで出てみたものの、心が晴れることはなかった。
それでも、市場の喧騒を聞きながら、ふと、王都を出てみようかという気分になった。考えてみれば、幼い頃から今までずっと王都から出たことはなかった。
 特別な思い入れがあるわけでもなかったが、仕事仲間がいつか国中の名所を回る旅をしてみたいと言っていたのを思い出し、それもよいかと思ったのだった。幸いなことに、知識も、身を守るための剣術も、魔力も余りあるほど備えていたから、困ることはないだろう。そうと決まれば、話は早かった。
 その日の夜には家令に自分の意思を伝えた。特に問題もなく希望は通り、公爵家を出ることになった。公爵は約束通り騎士爵を授与し、多額の退職金と、通行手形を用意してくれた。歳が来れば年金も支給されるという。
「そう。よかったわね」
 エレオノーラに公爵邸を出ることにしたと告げた日、彼女はそっけなく答えた。彼女はアヒムがどこに旅立つのか聞きもしなかった。彼女が浮かべた微笑みにアヒムは胸がチリリと傷んだ気がした。
 
公爵家を後にする日、エレオノーラの姿はなかった。前日の夜に、挨拶を済ませていたから、アヒムもきっと彼女ならそうするだろうと思っていた。そうして、仲間たちがくれた餞別を荷物に入れると、8年間過ごした屋敷を後にした。彼は一度として振り返ることはなかった。
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