悪役公爵令嬢のご事情

あいえい

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悪役令嬢だと責めるのでしたら、どうぞ真実をご覧ください。

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1.

 普段であれば、めったに訪れる者のいない中庭の一角に、鈴を転がした様な声が響いた。
「どうか、おやめください、ヴァルトハウゼン公爵令嬢」
 ミア・シュトラウスは胸の前で手を組み、慈愛に溢れ、しかし強い意志を持った瞳で、この国で最も尊貴な令嬢をひたと見据えた。聖女として託宣を受けたミアは平民出身でありながら、王侯貴族の通うこの学園へと入学した。たどたどしかった彼女の振る舞いも、第2学年となった今では、聖女としての自覚と自負に裏付けされ、素晴らしく様になっていた。

それもこれも、彼女の美質を尊び、彼女が生来持つ美点を伸ばし、平民上がりのぎこちなさを押し和らげ、上品な貴族令嬢の振る舞いさえ身に付けさせた、心強い味方達のおかげだった。今も、入学当初の彼女なら、ヴァルトハウゼン公爵令嬢の名前を叫んでいただろう。それがどうだろうか、きちんと「ヴァルトハウゼン公爵令嬢」と呼び掛けている。目下の者から、身分の上の者に呼びかけるのは礼儀に反することではあるが、ミアは聖女だ。だから、これは許容範囲なのである。

そんなミアの信奉者の筆頭である、第3王子であるヴォルフガングと、その護衛騎士であり近衛騎士団に所属する精鋭でもあるグレゴールは、今も彼女の傍らにピッタリと寄り添っていた。いつもであればあと4名ほどの眉目秀麗な紳士たちが、ミアを守護していた。いずれも高位貴族の子弟である彼らは、それはそれは親身になって彼女を陰に日向に支援した。
ミアを疎ましく感じる貴族子女も少なからずいたが、彼らの向こうを張ってミアを不当に虐待するような学生はめったにいなかった。それに、様々な機会を逸らさずに聖女としての真価を発揮した彼女は、今では学園だけではなく貴族の中でも広く受け入れられ、尊敬すら集めるようになっていた。成人した暁には、聖女としての功績が認められ、領地はなく一代限りという縛りはあるものの、国王直々に伯爵位を授けられ、正式に貴族の仲間入りをするともっぱらの噂だった。

そんな彼女をしても、今目の前にいる冷酷な美貌を湛えた令嬢に相対するまでには、2年もの歳月を要した。

エレオノーラ・ルドミラ・フォン・ケーニッヒ=ヴァルトハウゼン

 王国の王侯公爵を除いた3公爵の筆頭の家柄で、過去にも何人もの王女が降嫁し、あるいは王妃を輩出してきた名門である。現在、王家には3人の皇子のほか、王女はおらず、他の公爵家にもまた未婚の令嬢はいないことから、彼女が実質的に王国最高位の未婚の令嬢だった。
 ヴァルトハウゼン公爵家唯一の実子であり、未来の女公爵として幼い頃から最高の教育を施された彼女は、立派にその期待に応え、明晰な頭脳と公爵家の後継者にふさわしい魔力を有していた。その上、この美貌である。ミアの様な光り輝く金髪と、夏の湖面の様な澄んだ青い瞳こそ持たないものの、闇を切り裂き、夜の闇を照らす月光の様な美貌を否定するものなどありはしなかった。その上、自然と首を垂れてしまうような気品を備えた彼女を前にすると、王子であるヴォルフガングですら気後れしてしまう程であった。

 細やかなレースが意匠された手袋をはめた手に、華奢な扇を胸の下で持ち、目の前に執事と思われる青年を跪かせたヴァルトハウゼン公爵令嬢は、冷やや表情を浮かべたまま、ミアたちへと視線を移した。
「今、なんと仰いまして?ミア・シュトラウス様」
 思わず身をすくませた、後じさりしそうになったミアだが、そっと腕に触れたヴォルフガングの腕に勇気づけられ、握りしめた両手にぎゅっと力を込めて、言葉を重ねた。
「アヒムさんを虐げるのはおやめくださいと申しました!私、知っているんです。ヴァルトハウゼン公爵令嬢がアヒムさんや侍女さんをいじめているのを。確かに、彼は貴女に拾われ、執事として貴女に仕えているかもしれない。でも、彼だって感情のある一人の人間なんです。十年以上も不平不満も漏らさずにあなたに仕えて、もう十分彼は貴方に尽くしたはずです。そんな彼に、こんな仕打ち、ひどすぎます。どうか、もう彼を自由にしてあげてください!」
 ミアは感極まったのか、顔を手で覆うとわっと泣き出した。そんな彼女をいたわるように、愛おしげにヴォルフガングとグレゴールが彼女の肩や背中を優しく撫で、君は優しく強い人だ、どうか泣かないでと囁いた。
 突然、ほとんど言葉も交わしたことのないような聖女から、思いもかけぬ慈悲の言葉を投げかけられたアヒムは、茫然とした表情で彼女たちを見つめた。
彼の額や頬、白い襟から覗く首元には大小の青黒い痣が覗いている。もともと、正統派の王子然としたヴォルフガングのような華やかな美しさはないものの、アヒムもまた、ひっそりと咲く白百合の様な白皙の美貌を持つ青年である。
「自由・・・ね。アヒム、あなた、私から解放されたいと思っているの?」
 ヴァルトハウゼン公爵令嬢は扇をパらりと開き、口元にかざすと、跪くアヒムに問いかけた。アヒムははっと彼女を仰ぎ見ると、顔色をさっと変え、間髪入れずに否、と答えた。
「そんな言い方、アヒムさんが正直に答えられるはずがないじゃないですか!」
ミアは嗚咽をこらえながらアヒムの言葉を遮る。
「身分を盾にしてそんな風に聞かれたら、違うって言うしかないじゃないですか」
 可憐な顔を怒りで赤らるミアを見やって、ヴァルトハウゼン公爵令嬢は、扇の陰で小さくため息をついた。
「仕方がありませんね。そのご様子ですと、聖女様や殿下達も、この場でいくら釈明したところで納得していただけませんでしょうし。そうですね、では、こういたしましょう」
 扇を閉じると無感動な表情はそのままで、ヴァルトハウゼン公爵令嬢はミアたちに向き直った。
「次の休日に我が家に皆様をご招待いたしますわ。そこで、私がする説明に納得いただけなければ、喜んで聖女様の仰る通りにいたしましょう」
 その言葉にミアはパッと表情を明るくする。しかし、すぐに隣のヴォルフガングを伺いみた。彼は仮にも王子であり、休日とはいえ簡単に出歩くことができるような軽い身分ではない。
「ヴォルフガング様・・・」
 ミアの潤んだ瞳に見つめられたヴォルフガングは、頬を染めると優しく微笑んだ。
「心配無用だよ、ミア。ヴァルトハウゼン公爵邸へはアロイスを訪ねて何度も訪れているし、急に出かけることになったとしても問題ないさ」
 その言葉に、そうですねアロイス様のお家でしたね、とミアがにっこりと笑うと、ヴォルフガングはますます笑みを深くした。
「あら、でしたら当日はアロイスも同席させますわ。そうすると、せっかくですからリヒター卿もお呼びいたしましょう」
 ヴァルトハウゼン公爵令嬢の義弟であるアロイスと、大神官の子息であるアナスタージウス・リヒターもまたミアの守護者の一人だった。
「思いもかけず大勢になりましたが、致し方ありませんでしょう。アヒムも当日は自分の言葉で自由にお話しなさい。いいわね」
 令嬢の言葉にアヒムは逡巡するかのように目を伏せたが、深く首を垂れ、是の意を示した。



数日後、アナスタージウス・リヒターは青白い顔をしながら、公爵家から差し向けられた馬車に揺られていた。
「あの、大丈夫ですか、アナスタージウス様?やっぱり今からでも席を変わったほうがいいんじゃ」
 アナスタージウスは首を横に振りながら、向かいに座ったミアに弱々しい笑みを返した。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう、ミア嬢。別に馬車に酔ったわけじゃないから安心してよ。君こそ馬車は苦手だと言っていただろう。気分はどう?」
「私は大丈夫です。流石に王国一番のお金持ちの公爵家の馬車だけあるっていうか、座席もゆったりしているし、クッションもふかふかなので、ほとんど揺れません。お家の前にこんなに立派な馬車が現れた時は吃驚しちゃいました」
 ヴァルトハウゼン公爵令嬢であるエレオノーラは約束通り、ミアに招待状を送ってくれただけではなく、足を持たない彼女のために馬車まで出してくれた。事前に神殿に寄ったようで、馬丁の手を借りて馬車に乗った彼女は、身に着けた神官服に負けないくらい白い顔をしたアナスタージウスに出迎えられたのだった。
「やっぱり、顔色が悪いですよ。せめて膝の上のお荷物だけでも持ちましょうか?」
 ミアが膝の上にある金の装飾の小箱を指さすと、アナスタージウスは箱をしっかりと抱きしめた。
「い、いや。大丈夫、本当に大丈夫だから。これはお使いというか、僕が今日呼ばれた理由というか、とにかく、大丈夫だから。ああ、ほら公爵邸の門が見えたよ。後半刻もせずに到着するだろう。一度は耳にしたことがあるだろう?公爵邸の花園はそれは見事なものでね。その花園とまではいかないけれど、門からの景観も素晴らしいんだ。先々代の公爵夫人は当時の国王陛下の王女だったけれど、彼の夫人が庭園だけではつまらないと言って、手を加えられてね。それは趣味の良い方だったそうだから、今でも都で1,2を争う眺望が得られるはずだよ」
 その言葉を裏打ちするように、眼前に迫った素敵な眺めにミアが感嘆の声をあげる。それを横目に見ながら、アナスタージウスはこっそりとため息をついた。
――何で僕がせっかくの休日に公爵邸に行かなければならないんだ。ここのところヴァルトハウゼン公爵家とは距離を取るようにしていたのに。殿下達にも遠回しにだが、ヴァルトハウゼン公爵、特にエレオノーラ嬢には関わるなと注意を促してきたはずなのになあ。

 ヴァルトハウゼン公爵邸に到着した彼らを出迎えたのはアヒムだった。彫刻の様な美貌を持つヴォルフガングに劣らず、アヒムも端正な顔つきをしていた。上背もあり、細身ながらも引き締まった体つきは堂々としていて、召使に見られるような卑屈な感じはみじんもなく、挙措には気品すら感じられた。
ミアは手を借りて馬車から降りすると彼に向き直って、その顔をじっと見つめた。
「アヒムさん、こんにちは。傷の具合はどうですか?」
ミアの問いかけに、アヒムはお心遣い痛み入りますと答えると、直ぐに踵を返した。
「それでは、こちらへどうぞ。皆様お揃いです」
 アヒムの案内で二人はエレオノーラ専用の居間へと通された。
「ミア」
彼女の姿を見とめたヴォルフガングが真っ先に声を掛けてきた。部屋の中には彼の他に、グレゴールと、エレオノーラの義弟でミアとも親しいアロイスが緊張した面持ちで座っている。
「ごきげんよう、シュトラウス様、リヒター卿。お二人ともよくいらっしゃいました。これで、皆さまそろいましたね。せっかくですからお茶を戴きながらお話いたしましょうか。甘いお菓子の他に、軽食もご用意いたしましたの。リヒター卿は早朝からのお勤めの後にすぐお連れしてしまいましたから、お食事がまだでしたでしょう?無理を聞いていただいた心ばかりのお礼ですので、遠慮なさらずに召し上がってくださいませ」
 エレオノーラの優雅な微笑みに、アナスタージウスは赤みの差し始めた顔を再び蒼白に変えた。
「神の僕として朝の務めは当然のことです。ヴァルトハウゼン嬢にご配慮いただくようなことではございませんので。わたくしのことなどご放念いただいて結構です。あ、ああ。そうでした、御申しつけ通り、こちらをお持ちいたしましたので、ご確認をお願い致します」
 アナスタージウスが小刻みに震える手で金の細工の施された小箱を差し出すと、エレオノーラが受け取るよりも先に、さっと横から手が伸びると無表情のアヒムが受け取り、エレオノーラへと渡した。アナスタージウスはこぼれそうになる悲鳴を喉の奥でぐっとこらえると、彼女から最も離れた席へと座った。
「最近は熱心に神に仕える様になったという噂は本当だったんだな、アナスタージウス。当第一の遊び人と言われた男の陰は見る影もないというわけか」
ははは、とヴォルフガングが笑声を上げると、アナスタージウスは過分な褒言に身の置き所がありません、神の僕として当然のことですと言って顔をひきつらせた。
 直ぐに新しいお茶と軽食や、季節の果物、焼き菓子などが配られてきた。その中で、お茶を配る侍女の袖口からのぞく白い腕を目にして、ミアはさっと顔色を変えた。彼女が非難を込めた目つきでエレオノーラを見つめると、エレオノーラはうっすらと笑みを浮かべた。
「義姉上、そろそろご説明を戴けないでしょうか。僕はなぜこの場に自分が呼ばれたのかわからない」
 エレオノーラの義弟であるアロイスが苛立ちを隠そうともせずに答えた。神経質な美貌を持った彼はヴァルトハウゼン家門の連類の子弟であるが、鬼才と名高かった彼は、幼い頃に養子として公爵邸へ迎えられていた。
「アロイス。貴方にとっては皆さま気心の知れた方々かもしれませんが、私にとっては初めてのお客様。言葉をお慎みなさい」
 エレオノーラが目をわずかに細めると、アロイスの顔にさっと羞恥の色が走った。弟が失礼を致しましたというと、ヴォルフガングが磊落に笑った。
「ヴァルトハウゼン嬢。そう格式張らずともよい。それより、私も多忙の身。早速本題と行こうではないか。何よりもミアの為にもな。心優しい彼女はこの数日心配で気が気でなかった様子。哀れみのためとはいえ、彼女の心の僅かでもほかの男が占めているなど耐えられそうにないからね」
 ヴォルフガングは隣に座らせたミアの手にやさしく触れ、そっと口づけた。
「殿下」
 ミアが頬を染めて彼を見つめると、ヴォルフガングは慈しむような微笑みを浮かべる。
「それもそうですわね。アロイス、本日皆様をお呼びしたのはね、アヒムに関することなのよ。貴方とは今朝までなかなか顔を合わせる機会がなかったから、事前にお話しできなくてごめんなさいね。シュトラウス嬢はアヒムの今の境遇にそれはそれはお心を痛めてくださっているの。先日学園で、アヒムを自由にしてあげて欲しいと言われたわ」
「なっ、それは本当ですか、義姉上。ミア嬢?」
 ミアは大きく頷いた。
「はい。そうです。ヴァルトハウゼン公爵令嬢がアヒムさんを跪かせて、激しい口調で責めていらっしゃるのを見たんです。その場には殿下とグレゴール様もいらっしゃいました。今までも何度もヴァルトハウゼン公爵令嬢が、アヒムさんや侍女さんたちに辛く当たっているという噂は聞いていましたが、実際に目撃して噂は正しかったのだと確信しました。実際にアヒムさんは怪我をされていましたし、先ほどお茶を運んでくださった侍女の方も、袖口から包帯がのぞいていました」
 アロイスは薄紫色の瞳に狼狽の色を浮かべる。視界の端では、アナスタージウスが両手を組み、沈痛な面持ちでうつむいていた。
「なんてことを」
「その通りです。いくら自分に仕えているからと言って、やっていいことと悪いことがあります」
 アロイスの言葉に力を得たミアがさらに言いつのろうとすると、アロイスが短くその言葉を遮った。
「違う」
「え?」
「違います。今の言葉は義姉に対してのものではなく、貴女に対していったのです。ミア、貴女は善良な人だ。聖女にふさわしい慈愛の心を持っていますが、この件に関しては全くの思い違いを、ひどい誤解をされている」
 眉間に深いしわを刻んで秀麗な顔をしかめるアロイスに、ミアとヴォルフガング、グレゴールの三人は虚を突かれたように顔を見合わせた。アナスタージウスもおおよその経緯を察したのか、深いため息をついた。
「あら、アロイス、その位にしてくださるかしら?続きは私からお話しさせていただくわ」
 エレオノーラはアナスタージウスから受け取った小箱の横に、もう一つ丁寧に布張りのされた同じ位の大きさの箱を置くと、そっと蓋を開けた。そこには一枚の巻物が納められていた。リボンをほどいたその巻物を、恭しく受け取ったアヒムがミアたちの前に広げて見せる。
「まずはこちらをご覧になってくださいまし」
エレオノーラの言葉にヴォルフガングがアヒムの手元をのぞき込み、目を見開いた。
「これは?」
「アヒムの雇用契約書ですわ」
 エレオノーラはうっすらと笑みを浮かべた。
「だが、しかし」
 ヴォルフガングは困惑を隠せない様子で言葉を途切らせると、ミアを挟んだ隣に座るグレゴールに視線を遣った。グレゴールもまた戸惑い、眉間にしわを寄せながら、食い入るように書面を見つめている。
「あの、これはどういう意味でしょうか?」
 ミアがヴォルフガング達と書面を交互に見つめ、おずおずと言った。
「あら、シュトラウス嬢はこういった書面をご覧になるのは初めてですか?」
 はい、と恥じ入るように言ったミアに、一つ頷いたエレオノーラは説明を加える。
「恥ずかしいことなどございませんよ。シュトラウス嬢のお立場では、こう言った書類を目にすることがなかったとしても、しようのないことですわ。ご自宅の召使たちの雇用管理は御母上、もしくは神殿側のどなたかがなさっていらっしゃるのでしょう?」
 思いがけずエレオノーラの言葉にほっとしたミアは、今は母が管理をしているはずですと言った。
「そうなのですね。きっとこれから主人として、こうした書類を目にする機会もあるはずですよ。今、その書面でご覧いただきたいのは、そちらの契約満了日の書かれている欄です」
 エレオノーラの言葉に、アヒムがそっとその部分を指し示す。すると、ようやくミアもヴォルフガングやグレゴールの戸惑いを理解したのか、その大きな瞳をさらに見開いた。
「あ、あの。これだと、アヒムさんの雇用契約は735年に終了となっているように見えるのですが・・・」
 ミアがアヒムの顔を伺いみると、彼は赤い瞳にかかる長い睫を伏せながら小さく頷いた。
「左様でございます」
 ヴォルフガングが3人の困惑を代表して口を開いた。
「何か事情があると推察するが、聞いてもよいのか?」
 彼の言葉にエレオノーラは初めてにっこりと微笑んだ。
「勿論でございます。その為に皆様をお呼びしたのですもの」
「誤解だと、先程アロイスも申していたようだが?」
「ふふ。誤解か否かは皆様のご判断にお任せいたしますが、まず、真っ先に申しておきたいことは、その書面に記されている通り、このアヒムと我がヴァルトハウゼン公爵家の雇用契約は6年前には終了となっているということです。これは厳然たる事実であり、文末にはアヒム本人の直筆署名と、わが父であるヴァルトハウゼン公爵の署名、捺印がされております」
 そこで一旦、言葉を切ると、エレオノーラは何かを思い出すかのように、ふっと睫毛を伏せた。
「もう既にご存知の方もいらっしゃるようですが、アヒムは私が5歳の時に拾った孤児でした。幼い少女の気まぐれと言ってもいい行為でしたが、とにかく、アヒムは公爵家の使用人として正式に迎えられました。その後、知能の高さと魔力適性の高さなどが判明してからは、しっかりとした教師も付けて、能力に見合った教育も施されましたわ。長じてからは私付きの執事として仕える様になりました。そうするうちにアヒムも成人を迎える年になり、私も思うところもありましたので、父上にアヒムの身の振り方と言いますか、将来的なものを相談いたしましたの。その頃にはアヒムの忠勤ぶりは評判になっていましたし、何より一執事としておくには惜しい能力と、実績を積み重ねていましたから。そこで、父上はアヒムに別の職掌に就くか、公爵家との契約を解消するかを提案されましたの。もちろん、退職となった暁には十分な退職金と、年金の支給もつけて、それとは別に我が家が認められている騎士爵の一つを授けることになりました。結局アヒムは、公爵家を出ることを選択しました。そうよね、アヒム?」
 アヒムは自身の雇用契約書を再び小箱に収めると、相違ございませんと言って頷いた。
「で、では、アヒムはもう公爵家の者ではないのか?」
 ヴォルフガングの問いにアヒムは静かな瞳で見返すのみで、口を開かない。ミアとグレゴールもまた、そんなアヒムの様子に困惑したように顔を見合わせた。
「アヒムの立場ですか」
 エレオノーラがふ、っと皮肉気な笑みを口の端に浮かべた。
「ヴァルトハウゼン公爵家におけるアヒムの立場がお知りになりたいと?ねえ、アロイス。殿下がこうおっしゃっている以上、お伝えした方がよろしいわね。でも、私からお伝えするよりも、親しい友人である貴方から伝えた方が信憑性が増すと思うのだけれど、どうかしら。」
 急に水を向けられたアロイスはびくりと肩を揺らすと、しばらく前から眉間に固定されたままだった皺をさらに深く刻んだ。
「申し上げてよろしいのですか?」
「父上のご了承を戴いているわ。それに、このまま誤解されたままお返しすると、不利益の方が大きいでしょう。まあ、どちらにせよ外聞のよろしくないということに変わりないけれど」
 義姉上がそうおっしゃるのでしたらと言って、アロイスは眼鏡をくいっと上げると、アヒムに視線を遣った。
「彼は確かにヴァルトハウゼン公爵家と雇用関係にはありません。今の彼は賓客というか、何というか。自発的な好意で我が家に尽くしてくれているといったほうがよいでしょうか」
 思いがけない返答に、ミアたちが目を見開く。
「賓客、ですか?」
皆の視線がさっとアヒムに集まった。いくら幼い頃から尽くしてくれたとはいえ、孤児で平民上がりの元執事にそのような表現をするだろうか。一方で当のアヒムはというと何の感興も湧かないといった表情でエレオノーラのそばに佇んでいる。
「義姉上、やはり私の口から説明するのは少々・・・」
 アロイスの窮まったと言った態の台詞に、肩をすくめたエレオノーラは傍らのアヒムに顔を向けた。
「だそうよ。あなた自身の口から説明なさいな」
「何を申し上げればよろしいのでしょうか」
「まずはあなたの身分と立場をはっきりさせたらよいのではないかしら。その上で、何故あなたが今この屋敷にいて、執事まがいのことをしているのか、ありのままを皆様にご説明申し上げたら?」
「ありのままですか」
 沈思するように目を伏せたアヒムは「指輪を持ってきたのでしょう」というエレオノーラの言葉に、小さく頷くと、懐から小さなすり切れた巾着を取り出した。
「あなた、まさかそんなものに入れて保管しているの?」
 美しい顔をひきつらせたエレオノーラに、頓着する様子もなく「はい」と短く答えたアヒムは、一堂の前に件の指輪を差し出した。
「これは、いや、まさか」
 ヴォルフガングが思わずと言ったように声を上げた。
「アヒム、君は、いったいこれをどうして?」
「2年前に国王陛下から下賜されました」
 アヒムの平然とした答えにヴォルフガング達は目を見開いた。

「殿下?」
 ミアの問いにハッとしたヴォルフガングは驚きを隠せない様子で言った。
「確か兄上が、2番目の兄上がこれとよく似た指輪をお持ちだったはずだ。3年前に大規模な魔族の討伐があっただろう。グリゴースの周辺は魔物たちが跳梁跋扈して、十数年来の悩みの種だった。何度も討伐隊が組まれたが、中枢部に迫ることすらできなかったのだが、3年前の北伐で兄上率いる第2師団と義勇兵達が見事に魔族たちを一掃したのだ。その時、特に勲功甚だしかった者たちに下賜されたものの一つが指輪なんだ。勲功によって魔石が異なっていて、兄上がお持ちの物は紅であった。勲一等を授けられた最功労者には、国宝でもある紫の魔石を使った指輪が陛下から直接下賜されたはずだ」
 思いもかけない話にミアとグレゴールは顔を見合わせた。
「アヒム、いや、貴殿がこれを下賜されたということは、その時に爵位も賜ったのではないか?」
 ヴォルフガングが言葉遣いを改めたことにミアたちも気づいていた。
「はい。伯爵位を賜りました」
「貴殿の名を教えてくれまいか?」
「アヒム・フォン・エルトマンと申します」
 ヴォルフガングの問いにアヒムは表情を変えることなく平然と答えた。
「うそっ!」
 ミアが黄色い悲鳴を上げた。それもそのはず。討伐が成功した当時、平民から一挙に伯爵へと上り詰めた、救国の英雄に国民たちは熱狂した。その上、凱旋式にもその後の数々の祝賀会にも姿を見せなかった英雄に対して、民衆の好奇心は否応なく高まった。共に戦った戦友たちもまた、その人となりについて口をつぐんだため、その実像を知る者はほとんどいなかった。熱狂は伝説となり、伝説は物語や演劇へと昇華された。彼を題材とした舞台は連日満員御礼となる、当たりの演目の一つとなっていた。
「え、え?でもどうして、エルトマン伯爵様がエレオノーラさんの執事をしているの?」
 ミアの困惑した声に、ヴォルフガング達もまた同意を示した。彼らはアヒムをじっと見つめると、アヒムが口を開くのをかたずをのんで見つめた。
「お嬢様の隣に私以外の者が立つなど考えられませんから」
 平坦な声で言い切ったアヒムの台詞に、一同の視線が一斉にエレオノーラに集まった。
「つまり、ヴァルトハウゼン嬢のために?」
 え、え、そういうこと?、とミアが上気した頬を両手で押さえながら問いかけると、アヒムが口を挟むより早く、エレオノーラが鋭い声で遮った。
「違うわ」
「え?」
「皆様誤解なさっています。全く、違います。先程の台詞の意図するところは、私の為などではないわ。そもそも、私はアヒムを執事に戻すつもりなど微塵もなかったのですもの」
「では、私以外の者を執事に据えると?」
 アヒムの瞳に初めて感情の色が灯った。エレオノーラはキッと彼の顔を見据えると、忌々しげに言った。
「そうしたくとも、お前が阻止するのでしょう」
「当然です。さあ、こんどは、どこの馬の骨をお傍に置こうとお考えなのですか?まさか、執事ではなくアロイス様を・・・?」
 アヒムの瞳孔がひゅっと縮小し、赤い瞳から抑えきれぬ魔力がゆらりと立ちのぼった。射すくめられたアロイスの細い顎に冷や汗が足らりと流れる。
 巷では公爵家の後継争いが長らく噂されていたが、エレオノーラの成人を以て正式に後継者に指名されることが決定していた。国王からもすでに内諾を得ており、これが覆されることはまずもってなかった。そこで、改めて取り沙汰されたのが養子であるアロイスの立場であった。後継者からは外されたとはいえ、当代きっての秀才で、ヴァルトハウゼン公爵の信頼も篤い彼を、令嬢の伴侶として迎えるつもりなのではないかという噂が、まことしやかに流されたのである。
「ひっ。ご、誤解だ。確かに社交界でそんな噂が流れているらしいが、それは縷言の類であって、私は常々言っているように、成人し次第、分家を作ってこの家を出ていく!公爵様にもご了承を得ている!もちろん、義姉上を外からお支えしていくつもりではあるが、右腕などというものや、ましてや夫の座を狙うような愚かな野望は一切、全く、微塵も持ち合わせていない」

 蒼白になったアロイスが一息にまくし立てると、半眼になって彼を見つめていたアヒムは興味を失ったように視線を逸らせた。
「左様でございますか。それならよろしいのですが。では、お嬢様・・・」
 再びアヒムはエレオノーラに視線を戻すと、彼女に覆いかぶさらんばかりに詰め寄った。
「お嬢様から離れろ、この無礼者めが」
 ドカン、という轟音の後に、ぱしり、と乾いた音が響いた。
「それ以上お嬢様に近づいてみろ、ただでは置かぬぞ」
 敵意を隠そうともせずに、エレオノーラとの間に割って入ったのは、部屋を後にしたはずの侍女の一人だった。エレオノーラ専属の侍女の中でも最も彼女のそばにいることの多い者であり、ミアが腕に巻かれた包帯を見咎めた者でもあった。
 侵入者の突然の登場に、グレゴールが腰に佩いた剣に手をかけると、ヴォルフガングを背後に庇った。
「己の立場をわきまえぬ愚か者が。今度こそ、この私が鉄槌を下してやる」
「ふん。お嬢様のために手心を加えてやったものを。思い上がるのもほどほどにしろ」
 瞬時に戦闘態勢に入った二人から桁違いの魔力があふれ出し、ぶつかり爆発せんばかりになる。一触即発の事態に一同が唾を飲み込んだその時、エレオノーラの低い声が割って入った。
「二人ともそれまでになさい。メイ、お客様の前よ。アヒム、曲がりなりにも私の執事を名乗るのであれば、時と場合を弁えなさい」
 彼女の一喝に二人は魔力を一瞬にして収めた。まさに鶴の一声。
「承知いたしました」
 二人はすぐさまエレオノーラの傍らにひざまずき、首を垂れた。
一方で、戦闘態勢を解いた二人の様子に、万が一の場合には主人ヴォルフガングの盾になるべく、主人の前に立ちはだかっていたグレゴールもまた警戒を解き、ほっと、腰を下ろした。
グレゴールはそっと首を巡らせ、一瞬にして戦場と化した部屋の様子を眺めた。エレオノーラの趣味だろうか、瀟洒なつくりの部屋の中には、メイが突入の際に蹴破ったと思われる扉の破片がそこここに散らばり、凄惨な光景を演出していた。隣室へと続くその扉にはキイキイと哀れげな音を立てて、外れかけた蝶番が揺れていた。
「驚いたな。勿論アヒム、いやエルトマン伯爵のこともだが、貴女の侍女がこれほどの戦闘力をもっているとは。流石はヴァルトハウゼン公爵家というべきか。なあ、アロイス」
 我に返ったヴォルフガングが飽きれたような、感心したようなよくわからない感想を漏らすと、グレゴールも頷いた。
「いえ、流石にすべての侍女がというわけでは。義姉上の侍女が特別なのです。中でも、そちらの侍女殿は別格と言いますか。そうだろう、メイ殿」
 アロイスが力なく首を左右に振り、メイに説明を促した。メイはエレオノーラが頷くのを確認すると、一同に向き直り、はきはきと告げた。
「お嬢様の御身の安全を第一に、我々は昼夜を問わずお仕えしております。特にこの」
 そう言って忌々し気に、隣に立つアヒムを睨みつけると、アヒムもまた不愉快そうに目を細めた。
「痴れ者からお嬢様をお守りすることがわたくしの使命でございますれば、恐れ多くもお嬢様の寝室の続き部屋を賜っており、ことが起こった際には身命を賭してお嬢様のためにこの身を捧げる所存でございます」
「ええ、と。痴れ者とは」
 戸惑いを隠せない声を上げたのはすっかり当初の勢いを失ったミアだった。
「勿論、アヒムと申す、この悪夢の様な男のことでございます」
「異国の出身のメイド殿には、我が国の身分の上下が理解できないらしい」
 メイの歯に衣着せぬ物言いにアヒムがじろりと睨みつけた。
「は。十分理解した上でお前に最もふさわしい表現をしたまでだ」
「負け犬がよく吠えることだ。口では大層なことを言いながら、一度でも私に勝てたためしがあったか?」
 唇の端に嘲りを浮かべるアヒムに、メイがギリリと歯を食いしばる。
「アヒム。そんな風に言うものじゃないわ。皆様、メイは魔力の点で、アヒムに及ばないところもあるのですが、それでもアヒムと亘りあえる稀有な人材なのですわ」
 助け舟を出すように微笑んだエレオノーラに、メイが頬を染めうっとりと瞳を潤ませ、アヒムが不快気な表情を浮かべた。ミアやヴォルフガングたちは訝し気に首をひねる。
「メイ、ボンネットをお取りなさい」
 エレオノーラの言葉にメイはボンネットを外した。
「まあ」
 ミアが賛嘆の声を漏らした。窓から差し込む昼下がりの日差しに、メイの銀糸のような髪が輝いた。ボンネットの陰に隠れていた瞳の色も今でははっきりと見て取ることができた。髪の毛と同じ銀のまつ毛に縁どられたその瞳は、金色に輝き、小麦色の肌は健康的な明るさを持っていた。
「メイ、改めて皆さんにご挨拶をなさい」
 エレオノーラが促すと、メイは小さく頷いた。
「エレオノーラ様の侍女を務めております、マイアと申します。姓はございません」
 簡潔な自己紹介にミアが目をぱちくりと瞬かせた。
「まさか」
 焦ったような声を上げたのはヴォルフガングである。
「幾つか質問をしてもよいか?」
 エレオノーラが頷くと、メイはどうぞ、と促した。
「生まれはどこだ」
「マーロでございます」
「育ちは?」
「決まった場所はございません。あちらこちらを点々としておりました」
「メイとは愛称か?」
「左様でございます。こちらに参りました時に、エレオノーラ様が付けてくださいました」
「幾つの時に洗礼を受けた?その場所は?」
「12の時に。ラッツィオの教会で」
 その返答にヴォルフガングはひゅっと息をのんだ。グレゴールやアナスタージウスもまた目を剥く。
「マーロ出身の、ラッツィオで洗礼を受けた、銀髪に金眼の妙齢の女か。随分若く見えるが、年は幾つだ」
「今年で28になります」
「はあ、では決まりだな」
 ヴォルフガングが呆れたようにため息をついた。
「ドラゴンスレイヤー」
 グレゴールがぽつりとつぶやく。グレゴールの言葉にようやくミアも思い当たったのか、驚きのあまりぽかんと口を開く。
「ヴァルトハウゼン嬢。一体どこで彼女を?」
 目を細めて成り行きを眺めていたエレオノーラは愉快気に口を開いた。
「エケイリアの港で、でございます、殿下。数年前に父上の外遊についていった際に、スカウト致しましたの」
 エレオノーラが人の悪い微笑みを浮かべた。
「ほ、本当に、あの、ドラゴンスレイヤーのマイア様なのですか?演劇にもなっている、英雄の?」
 ミアが身を乗り出さんばかりにすると、メイは頷いた。
「左様でございます。しかし今は既に引退した身ですので、ただの侍女とお思いください」
「ご納得いただけまして?」
 エレオノーラは一同を見渡すとにっこりとほほ笑んだ。
「メイは私の大切な守り刀なのですわ。口惜しい話ですが、アヒムと一対一でも引けを取らない者はそうそうおりませんの。我が家にはメイを始めとした何名かの特別な訓練を受けた侍女がおりまして、日夜私にピッタリと侍ってくれていますの。そのおかげで私は安心して過ごすことができるのですわ。先程メイが申しました通り、彼女の私室は私の部屋と続き部屋になっておりますの。プライベートを犠牲にさせてしまって申し訳ないと思っているのですが、こればかりはメイ以外には任せることができない大切なお役目。彼女には心から感謝しておりますのよ」
 エレオノーラがメイの手を取って礼を言うと、メイは膝をつき、女性にしてはごつごつと筋張った両手でエレオノーラの手を包み込むと、熱っぽい声音で言った。
「何をおっしゃいます。エレオノーラ様の御身が大事。不届き者アヒムが始終付きまとっているせいで、ご自室に至っても気の休まる間もないこと、本当にお労しゅうございます。私の力が及ばないばかりに、エレオノーラ様にご不便をおかけして、誠に申し訳ございません」
 ぎりりと音がしそうなほど歯を食いしばると、メイはアヒムを睨め付けた。
「わたくしが剣技にばかりかまけず、魔術にももっと精通していさえすれば、あの者にきっぱりと引導を渡してやることができましたのに」
「メイは立派に務めを果たしてくれているわ。あまり無茶をしないでね、ようやく傷もふさがって、痣も目立たなくなってきたのよ」
 エレオノーラはもう片方の手で、そっとメイの前髪を掻き揚げると、化粧で隠し切れない青黒い痣が姿を覗かせた。
「ま、待ってください。まさか、メイさんのその包帯の原因って」
 ミアが声をあげると、皆の視線が一斉にアヒムに集中した。
「決闘に男も女もございませんので。叩きのめしただけです」
 涼しげな顔で言いのけるアヒムに皆は愕然とした表情を浮かべた。
「くっ」
 メイが忌々しげな表情を浮かべ、唇をかみしめる。
「その決闘の原因は何だったかしら」
 エレオノーラが暗い瞳で問いかければ、アヒムはとろりと微笑んだ。
「あの者が悪いのです。あれしきの能力でお嬢様のお傍に侍ろうなど、おこがましいにもほどがあります」
 それに、と言ってアヒムは熱く濁った瞳でエレオノーラをじっと見つめる。
「私ほどお嬢様のことを想っている者などおりませんのに。お嬢様と私の間を裂こうとする者は何者であっても私の全力を以て徹底的に排除することにしております」
「私がそれを望んでいると?」
「お望みでしたら喜んで」
「はっ。全く話にならないわね」
 学園の中庭で見せたような険悪な空気がエレオノーラに漂う。あの日も本来であればメイもエレオノーラに付き従って学園に言っていたはずだったが、前日のアヒムとの決闘の傷が元で発熱し、公爵邸で療養せざるを得なくなっていた。
「ええ、と、義姉上。申し訳ありませんが、ご説明の続きをした方がよろしいのでは」
 その場を取り持とうと声を上げたのはアロイスだった。アナスタージウスもまた同意するようにぶんぶんと首を縦に振った。
エレオノーラは眉間の皺もそのままに、机に置かれたもう一つの小箱の中からもう一つの羊皮紙を取り出した。
「アヒムの立場をお尋ねでしたね。こちらをご覧いただければ、皆様の好奇心も十分満足させられると思いますわ。あまり愉快な話ではございませんが、もうしばしお付き合いくださいませ」
 次は何が出てくるのかとミアたちが顔を見合わせた。
「皆様、私に関する噂をお聞きになったことがありますかしら。私の婚約をめぐるあの不愉快な噂のことですわ。公爵令嬢である私に、この年になるまで婚約者の一人もいないのは、なぜかというお話しです。ゴットフリート卿はお聞きになったことがないかもしれませんわね、でも、ご婦人方とも親交の深いリヒター卿はもちろんご存でしょう?」
「お、俺、いいえ、私がなぜご令嬢の噂話を存じ上げていることがありましょうか」
 突然話を振られたアナスタージウスは、目を白黒させ視線をエレオノーラとアヒムの間で彷徨わせた。
「あら、お気遣いいただかずともよろしいのですよ」
 エレオノーラが微笑み、アヒムがすっと目を細めると、アナスタージウスは口の端をわずかに痙攣させた。
「い、一体どのようなお話か、私は分りかねます・・・。ここ数年私は神殿にこもりきりで、社交界にもなかなか顔を出すことを控えておりますので。で、ですが、ヴァルトハウゼン公爵令嬢のご結婚をめぐる話題ともなれば、他のご婦人たちが注目されるのは当然のことかと」
「まあ、流石はリヒター卿。お優しいこと。皆様、内々のお話でしたが、実は、以前にはリヒター卿と婚約のお話もございましたのよ」
 エレオノーラの言葉に、ミアたちは目を見開いた。アヒムに見据えられたアナスタージウスの顔色は青を超え、既に紙のように白くなっている。
「リヒター卿が神官になると正式に決定して、そのお話もすぐになくなりましたけれど。それに、第2王子殿下とも一度そんなお話が挙がりましたわね」
「あ、兄上と?」
「左様ですわ。年齢が釣り合わず、申し訳ないからといった趣旨のそれは丁寧なお断りのお言葉をいただきましたわね」
「初耳だ」
 第2王子はヴォルフガングの腹違いの兄で、皇位継承権を放棄し、軍人としてその名をはせていた。子爵家から妃を迎え入れており、数人の子息令嬢に恵まれていた。腹違いで、年も随分離れていることもあり、兄弟とはいえ、ヴォルフガングとは疎遠な関係であった。
「私がデビュタントを迎えてからこちら、その他にも何名かのご令息とのお話が持ち上がりましたが、なんとも不思議なことに、親しくお付き合いするよりも早く、全てあちらからお断りされましたの。一つ一つ細かい理由は申しませんが、それぞれ、なるほどというご事情がございましたから、そういう廻りあわせもあるのだろうと考えておりましたわ。ですが、不思議なことに皆様方は不自然なほど、私やヴァルトハウゼン公爵家との接触を避けられるのです。婚約のお話が持ち上がる前には、そんなことは全くございませんでしたから、それはもう露骨なほどの変わりようで。今でもささやかながら交流があるのは、リヒター卿くらいでございますわね。そうこうしている内に、婚約がまとまらないのは、きっと私に問題があるに違いないという噂まで流れる始末。私にとっては全く身に覚えのないお話で、困惑するばかりなのですわ。そもそも、成人前の私が皆様とご一緒する機会など、舞踏会くらいしかございませんのに。それも挨拶をかわすか、ダンス一曲分の時間くらいでしょう。全く、どうしてこんなことになってしまったのかと、頭を悩ませておりますの」
 そういって、エレオノーラは憎々し気にアヒムを睨みつけた。一同、その視線の意味するところを悟り、言葉も出ない。
「そうはいっても、ヴァルトハウゼンの娘として、結婚は義務ですもの、避けて通れるものではございません。対外的にはもう少し先の発表になりますが、私がヴァルトハウゼンの後嗣となることは、既に陛下からの許可もいただいていること。皆様もご存じの通りですわ。私と家門を内外共に支えうる能力を持ち、釣り合いの取れた紳士と成人したら時を置かずに婚約し、一年以内に婚姻を結ぶことになっております。まだはっきりと決まっておりませんが、父上は2人をその候補としてお考えになっておりますの。誰であれ、私もその決定に従う心づもりですわ。その候補というのが、こちらに書かれている二人ですの。あら、ちょうどこの部屋に二人ともそろっておりますわね」
 エレオノーラは席を立つと、一同が囲む卓にその書付を差し出した。ヴァルトハウゼン公爵の署名が記されたその書面には、アロイス・ルドミラ・フォン・ケーニッヒ=ヴァルトハウゼンとアヒム・フォン・エルトマンの名が連なっていた。
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