無弦の琴

内藤 亮

文字の大きさ
上 下
9 / 12

しおりを挟む
 冷やりとした地面が心地いい。起き上がった芳は、ひりひりする頬に手をやって、縄が解かれていることに気が付いた。傍らに転がっている菊乃の三味線は木片の残骸と化していた。糸はもちろん駒を変え皮を張り直したりと、何度も手をいれて使ってきた三味線だが、こうなっては修理のしようもない。芳は丁寧に木片を集めた。これでもう、菊乃に繋がるものはすべて無くなってしまった。
 ひどく喉が渇いている。とにかく水だ。芳は手水所にむかった。身体のあちらこちらが熱を持ってずきずきと痛むが、地面に転がっている間に酒気は抜けたようだ。柄杓で何杯も水を飲んだ。最後の一杯は味を確かめるようにゆっくりと飲み、胃袋に水が到達するのを確かめることができた。
 酒のせいで混乱していたのだろうか。やはりあれは夢だったのではないだろうか。芳は恐る恐る声を出してみた。いろはにほへと。ひどく掠れた声だが紛れもない自分の声だ。
 芳は喉元にそっと触れた。熱っぽい皮膚の下で血管がどきどきと脈打っている。肉の熱さが幼いころを思い出した。
 軒下にかけられた巣の中で、薄くつるりとした皮膚で赤い肉を包んだ燕の雛が折り重なっている。親鳥を待っているのだ。足元では昌也が梯子を支え、次は俺だぞ、と囁いた。芳は大きく頷くと、雛にもう一度触れた。まだ目も開かない雛は、頼りないほど柔らかな身体の内に似合わぬほどの高い熱を秘めていた。この小さな塊が、やがては空を自在に滑空するようになるのだ。
 声が出せるという事実が、菊乃の三味線を失った喪失感を瞬く間に打ち消してしまった。何やら後ろめたい気持ちになる。母さん、ごめんなさい。謝りながらも身体の奥底が熱く疼いていた。思うままに三味を奔らせ声をのせたい。やはりこの仕事が好きだ。
 芳はゆっくりと歩き出した。帰省しているという軍医はまだいるだろうか。声がきちんと出せるようになったら唄を習いたい。自分の芸で客を酔わせたい。タガが外れたように思いが溢れてくる。自分がこれほど欲深かったとは。思わず苦笑がもれた。
 砂利を蹴散らす音に顔を上げると、昌也だった。
「家にまだ戻ってないってきいて。無事だったか」
 喘ぎあえぎ昌也は言った。足袋はだしで走り回って探していたらしく、足袋が泥と汗で汚れている。裾が大きく割れ、全身、汗で濡れそぼっていた。昌也はようやく息を継ぐと、大声をあげた。
「怪我してるじゃないか!」
 子供の頃のように顎に手をかけて傷を仔細に見ようとする。大の男にそれはないだろう。芳は慌てて後ろに下がった。
「声が、出るんだ」
「え」
「声が出るんだよ」
 芳はことの顛末を話した。ひどく興奮しているせいか、言葉に詰まったり話の内容が前後する。夢中になって言葉を紡いでいるうちに、昌也の受け答えがいつしか途絶えていることに気が付いた。
「昌也?」
「よかったな」
 喉に何かがからまったような声で昌也が言った。
「前に話していた軍医、まだこっちにいるかな。診て、もらいたいんだ」
 区切りをつけてゆっくり話せば、昔と同じように話すことができるようだ。コツを掴んだ芳は、用心深く言葉を紡いだ。
「それだけ話せるなら医者なんていらないんじゃないか。あの軍医、まだしばらくはこっちにいるって話だから。もちろん俺、連れていくけど」
 こみ上げてくるものを堪えているらしく、声がかすれていて妙に早口だ。
「あ、ありがとう。なんていうか、その、声を出してもいいっていうお墨付きが欲しいのかも」
 また声が出なくなる恐怖にはもう耐えられそうもない。
「そうか。分かった。任せとけ」
 昌也は即座に答えた。口のきけない弟分の気持ちを汲むのは長年の習慣だ。言葉少なにそう言うと、とうとう堪えきれなくなったらしく、目元を袂でごしごしとこすった。よかった、よかったとつぶやきながら涙を拭っている。
 夜も更けてきたのだろう。吹き始めた東風が身体の熱を心地よく溶かしていく。黙々と歩いていると、不意に昌也の声がした。頭の中が自分の事で一杯だった芳は、はっとして顔を上げた。
「母さんを驚かせてやろう」
 まだ赤い目をしているが、いたずらっぽい口調はいつもの昌也だ。
 昌也が勢いよく玄関の引き戸を開けると、青い顔をした静恵が上がり間口に正座して待っていた。
「芳!」
「只今、母さん」
 静恵の目と口が真ん丸に開いている。
「おまえ、声が……」
 あとはもう、言葉にならない。静恵が涙を流すのを初めてみた。どうせ才などない。声など出なくていい。浅薄な自負心から殊更に斜に構えてきた自分がひどく卑小に思われて、いたたまれなくなった。
「心配をかけてすみません」
「無事でよかった」
 ようやくそういうと、静恵は袂で顔を覆った。嗚咽を堪えている静恵の背中に触れると、いままで知り覚えていたはずの身体よりも、ずっと小さく肉の薄い身体だった。幼稚な自己憐憫から意固地になっていた血のつながらない息子は、今までこの小さな身体にどれほどの重荷を背負わせていたのだろう。
「母さん、今までありがとう。もう、大丈夫だから」
「これでやっと、菊乃に顔向けができる……」
 静恵はまた、目頭を押さえた。
「唄の稽古、つけていただけますか」
 静恵は驚いたように顔をあげた。
「習うには、もう遅いでしょうか」
 たとえ金になる芸にならないとしても、自分の唄を三味にのせてみたい。以前には感じたことのない強い気持ちが溢れていた。
 芳の硬い表情に気が付いた静恵は、まだ涙で光っている顔のまま大きく笑った。
「そんなことはないよ。いつも私らの唄を聴いていたろう。耳ができていればなんとかなるもんさ」
「よろしくお願いします」 
 静恵が言う事に間違いはない。芳は再び端座すると、深々と頭を下げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白物語

月並
歴史・時代
“白鬼(しろおに)”と呼ばれているその少女は、とある色街で身を売り暮らしていた。そんな彼女の前に、鬼が現れる。鬼は“白鬼”の魂をもらう代わりに、“白鬼”が満足するまで僕(しもべ)になると約束する。シャラと名を変えた少女は、鬼と一緒に「満足のいく人生」を目指す。 ※pixivに載せていたものを、リメイクして投稿しております。 ※2023.5.22 第二章に出てくる「ウツギ」を「カスミ」に修正しました。それにあわせて、第二章の三のサブタイトルも修正しております。

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

春暁に紅緋の華散る ~はるあかつきにくれなひのはなちる~

ささゆき細雪
歴史・時代
払暁に生まれた女児は鎌倉を滅ぼす……鶴岡八幡宮で神託を受けた二代将軍源頼家は産み落とされた女児を御家人のひとりである三浦義村の娘とし、彼の息子を自分の子だと偽り、育てることにした。 ふたりは乳兄妹として、幼いころから秘密を共有していた。 ときは建保六年。 十八歳になった三浦家の姫君、唯子は神託のせいで周囲からはいきおくれの忌み姫と呼ばれてはいるものの、穏やかに暮らしている。ひとなみに恋もしているが、相手は三代将軍源実朝、血の繋がりを持つ叔父で、けして結ばれてはならないひとである。 また、元服して三浦義唯という名を持ちながらも公暁として生きる少年は、御台所の祖母政子の命によって鎌倉へ戻り、鶴岡八幡宮の別当となった。だが、未だに剃髪しない彼を周囲は不審に思い、還俗して唯子を妻に迎えるのではないか、将軍位を狙っているのではないかと憶測を絶やさない。 噂を聞いた唯子は真相を確かめに公暁を訪ねるも、逆に求婚されて…… 鎌倉を滅ぼすと予言された少女を巡り、義理の父子が火花を散らす。 顔に牡丹の緋色の花を持つときの将軍に叶わぬ恋をした唯子が選んだ未来とは?

源次物語〜未来を生きる君へ〜

OURSKY
歴史・時代
元特攻隊員の主人公が最後に見つけた戦争を繰り返さないために大切な事……「涙なしでは読めない」「後世に伝えたい」との感想を頂いた、戦争を調べる中で見つけた奇跡から生まれた未来への願いと希望の物語……この物語の主人公は『最後の日記』の小説の追憶編に出てくる高田さん。 昔、私にある誕生日プレゼントをくれたおじいさんである高田さんとの出会いをきっかけに、大変な時代を懸命に生きた様々な方や縁のある場所の歴史を調べる中で見つけた『最後の日記』との不思議な共通点…… 様々な奇跡を元に生まれた、戦時中を必死に明るく生きた元特攻隊員達の恋や友情や家族への想いを込めた青春物語 ☆カクヨムより毎日転載予定☆ ※歴史的出来事は公平な資料の史実を元に書いていて、歴史上の人物や実際にある映画や歌などの題名も出てきますが、名前の一部を敢えて変えているものもあります(歌詞は著作権切れのみ掲載)

葉桜

たこ爺
歴史・時代
一九四二年一二月八日より開戦したアジア・太平洋戦争。 その戦争に人生を揺さぶられたとあるパイロットのお話。 この話を読んで、より戦争への理解を深めていただければ幸いです。 ※一部話を円滑に進めるために史実と異なる点があります。注意してください。 ※初投稿作品のため、拙い点も多いかと思いますがご指摘いただければ修正してまいりますので、どしどし、ご意見の程お待ちしております。 ※なろう、カクヨム、ノベルアップ+でも投稿中

ライヒシュタット公の手紙

せりもも
歴史・時代
ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを巡る物語。 ハプスブルク家のプリンスでもある彼が、1歳年上の踊り子に手紙を? 付き人や親戚の少女、大公妃、果てはウィーンの町娘にいたるまで激震が走る。  カクヨムで完結済みの「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」を元にしています https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129 なんか、あれですよね。ライヒシュタット公の恋人といったら、ゾフィー大公妃だけみたいで。 そんなことないです。ハンサム・デューク(英語ですけど)と呼ばれた彼は、あらゆる階層の人から人気がありました。 悔しいんで、そこんとこ、よろしくお願い致します。 なお、登場人物は記載のない限り実在の人物です

蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻

初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。 1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。 霧深き北海で戦艦や空母が激突する! 「寒いのは苦手だよ」 「小説家になろう」と同時公開。 第四巻全23話

照と二人の夫

三矢由巳
歴史・時代
江戸時代中期、家老の娘照(てる)は、十も年上の吝嗇な男孫右衛門と祝言を挙げる。だが、実家の事情で離縁せざるを得なくなる。そんな彼女に思いを寄せていたのは幼馴染の清兵衛だった。 ムーンライトノベルズの「『香田角の人々』拾遺」のエピソードを増補改訂したものです。

処理中です...