海を奔る竜

内藤 亮

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優等村

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 朝夕の風が秋めいてきた。吉蔵の前を内務部の佐竹が歩いている。佐竹は運転手つきの車に乗ってやってきたのだが、車に乗ったままの視察では、さすがにまずい、と思い直したのだろう。今は車から降り、背広姿のまま視察中だ。
 実った砂糖黍が秋風に吹かれている。畑に目をやった佐竹は、「ふむ」と言ったきり、仏頂面をして歩いている。評価はこの後ので決めるのだろう。前任よりはましな役人が来るかと淡い期待をしていたのだが、この男も所詮は同じ人種なのだ。ヤマトンチュはそんな奴ばかりだ。
 畑を一通り案内した吉蔵は、佐竹を堆肥の発酵倉庫に連れて行った。
「こちらの倉庫で搾汁の済んだ黍がらや雑草をし尿と混ぜ、攪拌しながら熟成をさせて肥料を作ります」
 まだ出来上がっていない堆肥は生々しい糞尿の臭いがした。中途半端に発酵している黍の臭いが混じり、慣れている者でも中に入るには覚悟がいる。佐竹はハンカチを鼻に押し当て、辟易とした顔をしていた。
「こうやってよく攪拌し、空気を入れてやらないと、植物やし尿を分解する微生物が死んでしまうのです」
 吉蔵は作業をしていた市助に声をかけると、自分も一緒になって勢いよく堆肥を攪拌しはじめた。臭気がむっと立ち昇った。
「よ、よく分かった。早くここから出してくれ」
 いままでふんぞり返っていた佐竹がとうとう悲鳴を上げた。一張羅の背広にも、さぞかしたっぷりと臭いが沁みついたことだろう。
 我が村の班長殿は実に優秀だ。挨拶をして、作業に戻った市助は笑いをこらえるのに苦労した。
「ささやかではありますが、酒席を設けております。どうぞこちらへ」
 吉蔵がそういうと、佐竹は露骨にホッとした顔をした。

 集会所は先代の村長の家を手直しした昔ながらの民家である。女たちが集まり、酒肴を整えていた。
 あの時は啓恭に妹を誉められ、いい気分になって宴で唄うことを許してしまったのだが、やはり心配になってくる。
 今までのハナなら行かないはずだ。この話は当然断るものと、どこかで安心していたのだ。
「内務省の役人の接待でハナに唄をうたってほしい、と吉蔵に頼まれた。どうする?」
「まぁ」
 ハナは顔を紅潮させ、目を輝かせた。
「私の唄が役に立つなんて」
 両の手のひらで頬をおさえたまま、ハナは行きます、と答えたのだった。
 今日のハナは、藍色の芭蕉布を着て、古風に結い上げた髪に簪をさしている。人目を惹くと思うのは兄のひいき目だけではなさそうだ。ハナを見慣れているはずの吉蔵まで驚いた顔をしている。
「やあ、ハナ。今夜はよろしくたのむ」
「宴が終る頃に迎えに行くよ」
「俺が送る。ハナに唄を頼んだ班長の責任だ」
「吉蔵は他の仕事もあるだろう。そもそもお前の家はうちと反対方向だ」
 ハナは面白そうな顔をして、吉蔵と市助のやり取りを黙ってきいている。
「まあ、市助さんじゃないの! ハナちゃん、綺麗になっちゃって」
「聡子さんじゃないか。久しぶりだな。いつ帰ってきたんだ?」
「一昨日。勤めていた印刷工場がまる焼けになって、社長は雲隠れ。未払いのお給金もどうなることやら、よ」
「そりゃあ、災難だったな」
「次の仕事が見つかるまで、叔父の家に居候中なの」
 聡子が早口で付け加えた。
 聡子は幼い頃に両親を亡くし、叔父夫婦のもとで育った。子沢山の叔父の家で、いつまでも厄介になるわけにはいかないのだ。
「ご主人は?」
 市助は何食わぬ顔をしてきいた。聡子が気兼ねしながらも叔父の家にいるのが、妙だった。
 クラスのマドンナだった聡子の崇拝者は一人や二人ではなかった。年は聡子のほうが二つ上だが、市助も、もちろん崇拝者の一人だった。東京の人と結婚した、と人づてに聞いたときは、さすがは我らのマドンナだ、と市助は自分を納得させたのだ。
「カフェーの女給と駆け落ちしたわ。ウチナーンチュの女がヤマトンチュの女に完敗ってわけ」
 聡子はカラリとした口調で言うと、ちょっと肩をすくめた。市助が言葉を探していると、聡子はさっさと話題を変えた。
「ハナちゃん、今夜は唄うのでしょう。お化粧してあげるわ」
「ありがとう、聡子さん。お化粧をするなんて、はじめてなの」
 ハナの声が弾んでいた。華やいだ顔をみて、市助は驚いた。それから反省をした。身なりには構わない質なのだと思っていたが、ハナもやはり年ごろの娘なのだ。
「まかせてちょうだい。紅を差すだけでも別人のようになるわ」
 聡子がそう言うと、ハナは頬を赤らめた。

 当然の顔をして上座に座った佐竹の横に村長が座り、歯の浮くような世辞を並べ立てている。地割制度がようやく廃止され新しい世の中になる、と若者らしい期待をしていた吉蔵だったが、生活は何も変わらなかった。今も昔も、百姓は自分達を搾取する役人にへつらわねばならないのだ。吉蔵は苦い酒を口に含んだ。
 ハナが唄いはじめた。さっきまで酌をしろ、と佐竹に執拗に言われていたが、ハナは無作法なことがあってはならないから、ときっぱり酌を断っていた。今は聡子が酌をしているが、佐竹は仏頂面のまま酒を飲んでいる。
 最初の唄は収穫を寿ぐ唄だった。ハナの小柄な身体の何処から、というような声が三弦にのって部屋いっぱいに響いた。古い唄を何曲か唄い、最後の曲は恋唄だった。
 王府に召された女が昔の恋人を偲ぶ、という唄だ。女を手配していた村長はぎょっとした顔をしたが、ウチナーグチを解さない佐竹は、つまらなそうな顔でハナの唄を聴いている。
 酒宴が終わったら、手配しておいた女のもとへ佐竹を案内することになっている。あと少しでこの不愉快な酒席が終わるのだ。別室に控えている運転手に声をかけようと、吉蔵が席を立った、その時である。
「辛気臭い歌だな。それは何の唄だ?」
 佐竹が問いかけた。村長が口ごもっていると、ハナが答えた。
「愛しい人を思う唄です」
「ほう。それはちょうどいい」
 佐竹が席を立ちハナの手を握った。
「やめてください」
 ハナは佐竹の手を払いのけた。
「気の強い女だな。盲目というのも面白い。村長、今夜はこの女に決めた。商売女は食傷気味でな」
 村長の眼が泳いでいる。困惑した顔が吉蔵にむけられた。
「待ってください。それでは話が違います」
 村長も村長だ。吉蔵は、ハナと佐竹の間に強引に割って入った。背中越しにハナが震えているのが分かった。
「ハナ、もう大丈夫だ」
 優等村など、知ったことか。むくりと怒りがこみあげてくる。村長の言葉を鵜呑みにした自分にも腹がたった。
 その時だ。部屋の電灯が何度か点滅し、ふっと消えた。正座していた聡子の首が、がくり、と前に折れた。再び顔をあげた聡子は、佐竹を睨みつけている。
「おお、そこにおるは佐竹じゃな。あの夜の仕打ち、忘れぬぞ」
 目が吊り上がっている。腹の底から湧き出るような声の主は、聡子とは別人だった。
「こ、この女は、何を言っているのだ」
「わしの名はイトじゃ。忘れたとは言わせぬ」
 聡子が佐竹に飛びかかった。
「た、助けてくれ」
 佐竹は腰でも抜けたらしく、そのまま這って逃げようとした。聡子は容赦なく佐竹にのしかかり、首を絞めあげている。部屋にいた者たちは、なす術もなく呆然としている。佐竹の顔が赤くなり、やがて青くなった。
「お止めください。どうか、どうかお心を鎮め、お還りください」
 ハナは三線を手にとり、古い言葉の魂鎮歌を唄いはじめた。聡子が佐竹から離れ、くたり、と座った。
 電灯が何回か点滅し、部屋が再び明るくなった。聡子は夢からさめたような顔をして茫然としている。佐竹は真っ青な顔をして、許してくれ、許してくれと顔を畳に伏せたまま、うわごとのように呻いていた。
 聡子は、ひっくり返された膳のものを見て、目を丸くしている。
「お前はイトと名乗っていたぞ」
 村長に問われても、聡子は首をかしげるばかりだった。
「か、官舎に帰る」
 佐竹がフラフラと立ち上がった。
「お顔の色が真っ青ですよ。大丈夫ですか」
 聡子が今にも倒れそうな佐竹を支えようとすると、佐竹はひっと悲鳴を上げ、また尻もちをついてしまった。
 佐竹は帰る、帰る、と子供の様に泣き出した。吉蔵と運転手の二人がかりで、佐竹をなんとか車に乗せた。車を送り出した頃には、東の空がうっすらと明るくなっていた。
 集会所に残された四人が押し黙ったまま座っていると、市助が縁側から顔を出した。控えの部屋で宴が終わるのを待っていたのだが、ハナの戻るのがあまりにも遅い。心配で来てしまったのだ。
「ハナを迎えにきたのですが」
 料理や酒が床に散らかっている。ハナは部屋の真ん中で三線を手にしたまま、放心したように座っていた。
「何かあったのですか」
「お前もこっちに上がれ」
 村長が事情を説明した。
「聡子、おまえもユタなのか?」
 聡子の祖母はユタだった。
 ユタは古来のシャーマニズムに由来する女の祈祷師で、神に祈りを捧げ信託を告げるノロから派生したものと考えられている。
 ユタは死んだ者の魂を己におろし、死者の言葉を伝えるだけではない。揉め事の仲裁、病の治癒、失くした物や相性の判じ、冠婚葬祭の日取りまで決める、集落の相談役でもあった。聡子の祖母は集落最後のユタだったのだ。
「そんな前近代的なものを村長は信じているのですか。そもそも、私はユタになる修行などしておりません」
 ぴしゃりと言われ、皆、余計に気味が悪くなった。黙りこくったまま、互いの顔を窺っている。重苦しい沈黙を破ったのは村長だった。
「イト、というのは隣村の娘でな。許婚がいたそうだ。佐竹に手籠めにされて、自害したと聞いた。まさかイトのマブイが聡子に降りるとは……」
 村長はこめかみを押さえ、小さく首をふった。
「何にせよ、大事に至らなくて良かった」
 吉蔵が言った。
「そうだな……」
 片付けを手伝いに来た女達の声がする。長い夜が終わったのだ。

 吉蔵が搾汁機使用の順番表を携えてやってきた。優等村の指定はあんなことがあっては厳しいだろうと、市助と聡子、ハナの三人で話している最中だった。聡子の姿に吉蔵はおや、という顔になったが、ちょうどいい、と座敷に上がってきた。
「佐竹が神経衰弱になって役人を辞めたぞ」
 開口一番、吉蔵が言った。
「誰からきいたんだ?」
 内務省の人事など百姓が知る由もないのだ。ハナと聡子は驚いたように顔を見合わせている。
「佐竹の運転手がウチナンチュでな、こっそり村長に教えてくれたそうだ」
「今度来る役人が、少しはましならいいがな」
 冷静に言う市助を妙に思いながらも、吉蔵は話をつづけた。
「あの夜以来、イトのマブイがここらにまだいるんじゃないかって、村長がひどく怖がってな。ユタを招こう、と本気で相談されて、参っている」
 学校で禁止されたのは方言だけではない。沖縄独特の習慣や慣習も因習とされ、ユタなど、その最たるものだった。今では公の場でユタの話などしないし、ユタを堂々と名乗る者もいない。村長がユタを探している、などと噂になっては困るのだ。
「そのことなんだが。内密の話がある。誰にも言わないと約束できるか」
 三人に見据えられ、吉蔵は思わず頷いた。市助が促すと、聡子が口を開いた。
「私、イトさんの妹と同じ工場で働いていたんです」
 同郷の者同士、イトの妹、ユリと聡子はすぐに親しくなった。聡子が育った村の話をすると、ユリも打ち解けて少しづつ、自分の事を話すようになった。
 佐竹の横暴ぶりは他の村でも目に余った。だが、砂糖の買い取り価格に村全体の命運がかかっているのだ。身内が手ひどい目に合っても、表立って意義を唱える者はいなかった。
「自害だったから、満足な葬式も出してやれなかったって、ユリさん泣いていたわ」
 話をしながら、聡子の眼は潤んでいる。
「なるほど。それで合点がいった。聡子は昔からそうだったものな」
 聡子と同学年だった吉蔵は苦笑いした。
 聡子のことをマドンナ、と最初に言い出したのは女子生徒だった。臆さずに自分の意見を述べ、正しいとなれば率先して行動を起こす。聡子は、生徒達の憧れと尊敬の的だったのである。
「ハナちゃんにまで、あんなことをして。佐竹を少し懲らしめてやろうと思ったの」
「少し、どころじゃないぞ。ハナがいなかったら、佐竹は死んでいたかもしれんのだ」
「え?」
「覚えていないのか? お前は佐竹の首を絞めてたのだぞ」
「気が付いたら古い唄が聞こえていて、佐竹さんが足元に倒れていたの……」 
「案外とユタの素質があるんじゃないか」 
 市助が言った。その場にいなかった市助は、この話がいささか滑稽に思えてならないのだ。やめてよ、と聡子が言い返したが、その顔は真っ青だった。
「イトさんのお墓がどこにあるか知ってるか」
「ええ」
「砂糖黍の刈り取りまでまだ間がある。近いうちに、四人でイトさんの墓参りにいかないか。佐竹の悪行を止めてくれたんだ。清明節シーミーには早いが、イトさんに礼を言うくらいならいいだろう?」
「そうしましょう」 
 聡子が真っ先に賛成した。

 ウチナンチュは、本土の人間のように、気軽に墓参りに行くのをよしとしない。その代わり、清明節(旧暦の三月頃)に盛大な墓参りをする。親族が大勢集まって、墓前で宴席を設け、歌ったり踊ったりするのである。
 イトの両親に事情を話し、四人は墓前に線香をそえ手を合わせた。
「俺たちの村とこの村が優等村に選ばれたのもイトさんのおかげだ。ありがとうございます」
 つい先日、内務省から通知が来たのだ。二つの村を優等村に選ぶ代わりに、今回のことはくれぐれも内密にして欲しい、と言われたらしい。そこらの取り決めは役人と村長とのやり取りだから、吉蔵も詳しい話は知らない。
 墓参りが終わっても、吉蔵は話したいことがあるようだった。聡子も叔父の家にはまだ帰りたくないらしく、何とはなしにぐずぐずとしている。
「もう少し、ゆっくりしていったら。うちは二人だけだから、遠慮は無用よ」
 ハナが水を向けると、市助も言い添えた。
「そうだな。四人で集まるなんて、子供の時以来だ。一緒に飯でも食おう」
「支度は市助さんも手伝うの?」
「料理はハナがするから、火の加減を見るくらいだがな」
「今日は私が手伝うわ」
「そうか。助かる。先に始めててもいいか」
 市助が聡子に遠慮がちに徳利を見せた。
「ええ、どうぞ」
 聡子は笑みをこらえながら、快くこたえた。
「私より料理が上手ね」
 器用に包丁を使うハナにいたく感心していると、気配を察したハナが、いつものことだから、と恥ずかしげに目を伏せた。
「兄さんと二人だけの食事だと、静かすぎていけないわ。どうぞ召し上がれ」
「いただきます」 
 相変わらずの質素な夕餉だが、憧れのマドンナが目の前にいるのだ。市助の盃をあける速度が、はやくなった。
「マブイがやはり降りてきたのかな」
 吉蔵は両手を膝の上に置いたままだ。酒はもちろん、箸を取ろうともしない。
「まだ気になるのか。吉蔵は案外と小心者だな」
 はやくも酔いの回った市助が気持ちよさそうに笑った。
「停電になったのも、偶然にしてはできすぎている」
「停電なんて、しょっちゅうだろ」
 当時は発電能力が低いせいで、停電など珍しいことではなかった。とはいえ、照明に使う小さな電球くらいしか電力は使わないから、停電になっても生活にさして不都合はない。
 ユタなど鼻から信じていない市助は、そういうと、芋の煮転がしを口に放りこんだ。
「唄を教えてくれた叔母がよく言っていたの。マブイにも届くように心を込めて唄いなさいって」
「ハナの唄が聴きたくて、マブイが本当に降りてきたのかもしれんな」
 酒の力も手伝っているのだろう。漬け物と飯を交互に口に運びながら、市助は平気な顔をしている。
「これからはユタの真似事なんて、絶対しないわ。ハナさんがいなければ大変なことになっていたのだもの」
「そうだな……」
「イトさんは私だけでなく、村の人々も守ってくれたのよ。イトさんのマブイが悪いことをするはずがないわ」
 ハナに促され、聡子もようやく箸を取った。
「これに懲りて、今度査察管になるやつは、よほどの朴念仁か恐妻家だな」
 市助が軽口をたたくと、吉蔵の顔にもやっと笑みが戻った。
「魂鎮めの唄、なんてよく知っていたな」
「そんな唄は習った覚えがないのよ。それなのにあの時、唄っていたの」
「ハナに唄を教えた叔母が、これはいかん、と慌てて教えてくれたのかもしれんぞ」 
 まだ酔いの残っている市助が気持ちよさそうに言うと、三人は深々と頷いた。
「ハナちゃんはどうやってあんなに沢山の唄を覚えるの? それも古い琉球言葉の唄ばかり。私にはとても覚えられないわ」
「覚えるというか……。何度も三線と唄を聴いて、手と、耳と身体全部で覚えるの。私は帳面に書いて覚えることが出来ないから。そもそも音は帳面には残せないし」
 そう言って、ハナは笑った。
「ハナ、そのことなんだが。市助もきいてくれ」
「急に改まって。なんだ、言ってみろよ」
 機嫌よく市助が言った。
「親戚のつてでな、東京の配電会社で働かないか、と誘われている。ハナ、俺と一緒に来ないか。東京には盲学校もある。点字を習えば、ハナも読み書きが出来るようになるんだ」
 ハナは目を見張って、両手で自分の胸を抱いている。ハナの身体が小さく震えていた。
「ハナちゃん、お行きなさい。お兄さんには私がついていますからね」
 市助も驚いたが、そう言った当人が一番、驚いている。
「私ったら……」
「いいのか」
 市助の声が掠れている。
「私はやっぱりここが好きみたい。今回のことでよく分かったの」 
 これはやはり、何か不思議な力が及んでいるに違いない。ハナは身を固くして、成り行きに耳を傾けていた。
「ハナ、返事はすぐでなくてもいい。俺はいつでもお前の力になる。それだけは忘れないでくれ」
 吉蔵は思わずハナの手をとったが、市助の視線に気がついて、あわててその手をひっこめた。市助は俯いて笑いを堪えている。
「私、行きます」
 ハナが言った。蒼白な顔は強ばっているが、その目はひたと前を見据えていた。
「ハナをよろしく頼む。お前の両親と畑は俺にまかせとけ」
 ハナと吉蔵は、端坐すると深々と頭を下げた。
「班長殿、頭をあげてくれ。頭を下げるのは俺のほうだ。ハナを宜しく頼む」
 市助も頭を下げた。
「みんな、頭を下げちゃって。困った人たちねぇ」
 一同はようやく頭を上げ、互いに照れくさそうな笑顔になった。
 市助は、聡子と一緒なら、なんでもできるような気がした。春からは聡子と共にこの地を耕すのだ。
 虫の鳴き声が急に賑やかに聞こえてきた。

 秋も深まった頃、市助がナタ豆の苗を携えてやってきた。ハナも一緒だ。
「ハナの唄が村を救ったぞ!」
 座敷に上がるなり、市助が言った。
「そういえば、おまえ、学校は?」
 市助が怪訝そうな顔をした。
「少し風邪を引いて休んだ。今茶をいれるから、詳しい話しを聞かせてくれよ」
 啓綜は私塾を手伝いに、千諒は店だから、家にいるのは啓恭だけだ。啓恭は身軽に水屋に立つと、すぐに茶と菓子を盆にのせて持って戻ってきた。
「月餅か。旨いな。さすがに、平杓堂の主の作ったものは違うな」
 一口食べたハナも、目を細くして菓子を味わっている。
「母と千遥が聞いたら喜ぶよ。気に入ったら持ってかえってくれよ」
 少しでも滋養のあるものを食べろ、と千諒が松の実やカボチャの種子を入れた月餅を作ったのだ。ゴマ油が隠し味で餡に練り込んであり、千遥がクコや種をこれでもか、というほど入れている。病明けで、食べあぐねていたのだ。
「いいのか?」
「こんなに沢山、一人じゃあ食べきれないよ。残すと二人の機嫌が悪くなるんだ。もらってくれると助かる」
 市助とハナはさもありなん、と思ったのだろう。二人して目配せをして、笑いを噛み殺している。
 あの日、作業を手伝って市助の家から帰ると、案の定、熱がでた。無茶をするからだ、と培元に小言を言われた。
 日ごとに機能の衰えていく己が身体をじっと抱えていると、底なしの沼に沈んでいくような心地がして、大声を上げそうになる。  
 雲の切れ間から日が差すように、身体の軽いときがある。そんな日はじっとしてはいられない。とことんまで身体を動かしていれば、埒もない思いに捕らわれないですむのだ。
 賑やかにしゃべっていると、千遥が帰ってきた。縁側から座敷に上がるなり、
「起きて平気なの?」
 と、咎め立てた。気持ちは分からなくはないが、来客の前で不躾にすぎる。
「市助がナタ豆の苗を持ってきてくれたよ」
 問いを無視してそう言うと、千遥は慌てて市助とハナに挨拶をした。
「ハナさんの唄でマブイが降りたそうだ」
 二人に話しを促すと、千遥は不承不承腰をおろした。
 いざ話しがはじまると、千遥は好物の月餅を食べるのも忘れて、話しに聞き入っている。
「イトさんのマブイがみんなを守ってくれたのね」
 千遥が感じ入ったように、嘆息した。
「佐竹に一矢報いて、イトさんもやっと成仏できたんだろうな。優等村に二つの村が選ばれるとは。ノロの力も大したものだ」
 啓恭が言うと、市助が笑った。
「先生の弟子がそんなことを言ってもいいのか」 
「いいんだよ」
 啓恭も笑いながら答えた。
 普猷は非科学的なことを嫌った。婦女子がノロの神託などを信じるのは無知蒙昧のせいだ、と沖縄の後進ぶりを嘆いている。
 だが。努力だけではなす術もない袋小路の中で、何を拠り所にして生きればいいというのだ。苦界穢土の中、人知を超えたものにすがりたくもなるのが人の性なのではないか。
「それでな」
「まだ話しの続きがあるのかい?」
 市助とハナが互いに顔を見合せている。
 お前から話せよ、と市助が促した。
「刈り入れが終わったら、吉蔵さんと東京に行きます。点字を学んだら、私も読み書きができるそうなの」
 ハナの声が弾んでいる。
「素晴らしいわ!」
 千遥はハナの手をとった。
「点字の新聞もあるそうだよ」
 まあ、とハナが目を輝かせた。生まれてこのかた、ずっと薄明の中で生きてきたのだ。学校にも行かれなかった。字が読めれば、沢山のことを学べるのだ。世の中のことを知ることが出来るのだ。ハナは目の前の霞が晴れ渡るような心地がした。
「点字は、母音を表す点と行の位置を示す、たった六つの点で出来ているそうだ。平仮名などより、ずっと合理的に出来てきいる文字だそうだよ。ハナさんなら、すぐに覚えられるさ」
「啓恭さんにそう言ってもらうと、心強いわ」
「ハナさんが居なくなると寂しくなるわね」
「そうだな。市助は一人で大丈夫なのか?  市助の料理は、食べられたものじゃないからな」
「こいつ、言ったな」
 本当にそうなのよ、とハナが千遥に囁いた。
「まぁその、一人というわけではない。実は今の話の聡子と、一緒になることになってな」
 と、照れ臭そうに白状した。
「その話しも、ぜひ詳しく聞かせてくれ」
「聡子は幼なじみだしな」
 素っ気なくそう言ったが、満更でもないらしく、市助は鼻を膨らませている。
 話しが長くなりそうだ。啓恭は笑いをこらえながら、二杯目の茶を淹れた。

 
 


 
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