海を奔る竜

内藤 亮

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海を奔る竜

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 皆で朝餉を食べていると禾が息を切らせてやってきた。
「仕事が急に入ってな。昼には戻る」
 かつて禾が取り上げた赤子が、初めての子を産むのだという。頬を紅潮させ、目を輝かせている禾はいつもより十は若く見えた。
「一緒に行ってもいいですか」
「もちろんじゃ」
 禾が間髪を入れず言ったので、千諒も啓綜も頷くしかない。
「禾さん、少し待って」
 畑から戻った千諒は、ハンダマー(キク科の野菜の一種)を山のように抱えていた。鉄分が豊富で貧血にいいとされている。沖縄に昔から伝わる命薬の一つだ。
「これはこれは。何よりじゃ」
 禾は大きな包みを押し頂くようにして受け取った。
「では、行くぞ、啓恭」
「はい!」
 美祢の家は同じ高橋町のはずれにあった。禾の足は速く、後をついて歩く啓恭はたちまち息が上がった。手入れの行き届いた小さな家と畑が朝の真っ新な日光の中で輝いている。
「こっちですよ」
 真っ黒に日焼けした初老の女が手招きした。
「芳三は?」
「大阪に出稼ぎにいってます」
 寝間から美祢のしっかりした声が返ってきた。
「では私はこれで。これから市場に行かないとなもんで」
 女の背負いかごには春野菜が山のように入っている。
「ほ、そうじゃった。知らせてくれてありがとう」
 女は笑顔で応えると市場へと出かけていった。美祢はこぶしを握り締めて陣痛を堪えている。
「よしよし。今準備する。啓恭、湯を沸かせ」
「はい」
 美祢の準備は行き届いていた。土間にはきれいに洗った盥が置かれていて、調理場の石台の上には晒と産着がきちんと畳んである。
 湯が沸いたので竈の火を落とし、啓恭は寝間の外から声をかけた。
「早く部屋に入れ」
「いいのですか」
「当たり前だ」
 部屋に入ると、美祢が膝を立て股を大きく開いてうめき声をあげている。目のやり場に困って立ち尽くしていると、
「お前はそっちだ。手を握ってやれ」
「はい」
「わしが合図をしたらいきめ!」
 小さな手なのにこちらの手が壊れるのではないかと思われるような強い力だ。額に浮かぶ汗をぬぐってやりながら、啓恭は美祢の呼吸に合わせて自分も腹に力を入れていた。
「肩が出たぞ。もう少しじゃ。ほれ、いきんで!」
 美祢が最後に呻吟すると、元気な産声が上がった。
「生まれたぞ! 男の子じゃ」
 美祢の身体から力が抜けて、大きなため息がもれた。
「美祢の処置をする。赤子を産湯にいれてやれ」
 今まで美祢と繋がっていた臍の緒が朝日の中で艶々と光っている。禾は臍の緒を糸で縛り赤子を美祢と切り離すと啓恭に手渡した。おっかなびっくりぬるぬると濡れた赤子を抱いていると、禾がてきぱきと指示した。
「頭と首を支えればいい」
 言われた通りに頭を支え盥に張った湯に入れてやると、赤子はぷかりと水に浮かんだ。柔らかな皮膚は脂で覆われていて手が滑りそうになる。何とか洗い終えて産着で包むと、赤子はさらに勢いよく泣き出した。
「さ、済んだ。ほれ、抱いてやれ」
 美祢は襟をくつろげると、早速に乳をやり始めた。乳房は青い血管が浮き上がり、誇らしげに固く盛り上がっている。赤子は小さな口を尖らせて乳房にむしゃぶりつくと一心に乳を吸いはじめた。
「あがっ(痛い!)」
 赤子の乳を吸う力に美祢は目を丸くしている。
「ほ、元気な子じゃ。赤子が乳を飲むとな、身体の回復が早まるんじゃ」
「そういわれると。お腹の奥がぎゅうぎゅう縮んでいるのが分かるわ!」
「じゃろう」
「私もこうやって生まれたのね。親子共々お世話になりました。禾さん、ありがとう」
 美祢が笑みを浮かべた。ついさっきまで歯を食いしばっていたとは思えないような晴れやかな顔だ。
「産婆冥利につきるのう。一人で大丈夫か」
「ええ、大丈夫です」 
 美祢が答えた途端、玄関先で若い女の声がした。
「美祢ちゃん、何か手伝うことある?」
「ほらね。幼馴染なんです」
 美祢がくすり、と笑った。
 眩いほどの陽光が美祢の家を隅々まで照らしている。黄色い花をつけたチンクワー(島カボチャ)が勢いよく蔓を伸ばし畑から這い出ていた。門を出ても座敷から女たちの華やいだ声が追いかけてきた。
「お前が生まれた日は雨じゃった」
「いかにもそんな感じですよね」
「最後まで話を聞け。多津の最初の子は流れてな。お前が生まれたときは夫婦して手を取り合って喜んでいた。やれ腹を下した乳を吐いたと、少しでも何かあると大騒ぎでの。しょっちゅうわしの所に来ておった」
 自分が生まれた時のことを聞いたのは初めてだった。
「子を思わない親はいないぞ」
「ええ。よく分かってます。だから困るんです。心痛ばかりかけている親不孝者なのに」
「困るとはなにごとじゃ。全く、お前は」
「禾さん、今日はありがとう。新しいマブイに席を譲るのも悪くない」
 快活にしゃべっていた禾が急に黙り込んでしまった。真っ青な天空へ垂直に昇っていく雲雀に気を取られているふりをしていると、禾は懐紙を取り出して素早く目元を拭い、盛大な音をたてて鼻をかんだ。 

 床につく時間が長くなるとみるみるうちに足の肉が落ちていった。自力で厠に行かれなくなったら、と思うと切羽詰まった気持ちになる。いったん床につくと起き上がれなくなりそうだった。啓恭は勢いをつけて起き上がると、身支度を整えた。
 畑の作物だけでなく雑草も勢いを増している。今日は草抜きをすることにした。禾は美祢の所に寄ってくると言っていたから、来るのが遅くなるだろう。今頃は女二人、話に花を咲かせているに違いない。
 畑に座り込み、周りの雑草を抜き終えたら少しずつ尻をずらしていく。夏雨間近の容赦のない太陽が頭の上から照りつけ、茅で切れた傷に汗が沁みる。積み上げた雑草の山が膝を超えたあたりで、もう身体のあちらこちらが痛み始めた。今更ながら、百姓には頭が下がる。立ち上がって強張った背を伸ばすと、数艘の爬竜が海に浮かんでいるのが目にはいった。気の早い者たちが哈日の練習を始めたのだ。
 むくろになっていては禾が来た時に困るだろう。まだ早いが休憩することにした。庭の隅にあるアンバーギィ(百日紅)が涼し気な木陰をつくっている。根元に座り幹に身体を預けると、滑らかな木肌が火照った肌を心地よく冷やした。
 啓綜の子供の頃からあったというこの木は、啓恭が物心ついた頃にはすでに幹を張った老木になっていた。アンバーギィの名の通り、油を塗ったようにすべすべした太い幹は登るのが一苦労だったが、木の中ほどが大きく枝分かれしていて尻が丁度よく収まる場所がある。木に登ると、母屋も道場も生い茂った葉陰に隠れ四方に見えるのは海だけだ。海原に目を馳せ潮騒に耳を澄ませていると、重い枷のような体の存在を忘れることができた。木の上は幼い啓恭の特等席だった。
 練習が佳境に入ったらしく、爬竜は船尾から白波を立てている。漕ぎ手が変わっても、舟は毎年この海を奔る。ウチナーンチュは遥か昔からそうやって舟を漕いできたのだ。沖合に目を馳せると、舟を浮かべた海原と蒼穹が溶け合っていた。二つの青が混ざったところにニライカナイがある。
 なんということはない。啓恭は大きく伸びをした。草抜きの再開だ。
「もうすぐ昼時だぞ」
 振り返ると啓綜が腕組をして立っている。啓恭は慌てて立ち上がった。
「お帰りなさい」
「何を見ていた」
「海を見ていました」
 咄嗟にそう答えていた。
「何か欲しいものはないか」
 海を奔る爬竜に目をやったまま、啓綜が言った。
「いえ、何も」
「お前はいつもそうだ」
 返す言葉が見つからず曖昧な笑みを浮かべていると、
「禾もそろそろ来る。中に入れ」
 啓綜はため息をついて、母屋へ入っていった。

 東京から普猷の本が届いた。師の筆はますます冴え、行間から古老の息遣が聞こえ、琉球の風景が豊穣な色彩を帯びて蘇ってくるようだった。早く先が読みたいと気持ちは逸るのだが、身体が付いていかない。啓恭は本を閉じるとため息をついた。物を食べるのも億劫で、薬湯を飲んでは眠る。ここ数日はその繰り返しだった。読書は諦めてうつらうつらしていると、枕元の空気が動いた。
「寝ているのか」
 目を開けると、尚昭が上から顔を覗き込んでいる。
「起きているよ」
 尚昭が眉根を寄せて顔を見ている。布団から身体を引きはがすような心地がしたが、よいしょ、と殊更に威勢のいい掛け声をかけて身体を起こす。
 尚昭がほっとしたように足を崩して座り直した。分かりやすい男だ。思わず苦笑いが漏れた。布団に胡坐をかいたまま視線を巡らすと狭い部屋に人が溢れている。
「一体、何事だい?」
 亨江、市助、宗太。佳純もいた。皆、あの時と同じ、揃いの芭蕉衣を着て鉢巻をキリリと締めている。
「哈日の前祝だ。お前も参加するんだぞ」
 尚昭は有無を言わさない口調でそういうと、芭蕉衣をぽん、と掛け布団の上に置いた。
「待っててやるから。早く着替えろ」
 舟を漕ぐことはおろか、浜まで歩くのもままならないのだ。渡された着物を前に、どう返事をしたものか考えていると、
「着替えるの、手伝ってやろうか」
 佳純が早くも兵児帯に手をかけている。
「俺だって脱がすのは得意だぞ」
 亨江が佳純から芭蕉衣を取り上げた。
「さあ、どうする啓恭」
 宗太が笑いをこらえている。
 啓恭は芭蕉衣を手に取った。衰えた身体を人前に晒すのは気が引けるが、もたもたと着替えるのは余計に気まずさを増す。潔く浴衣を落とし下帯一つになると、皆がさりげなく目を逸らせるのが分かった。手早く着替え、腹に力を入れて真っ直ぐに立つ。
「これでいいかい?」
 新しく仕立てた芭蕉衣なのだろう。袖を通すと染めたての染料の香りがした。
「よく似合うぞ」
 壁を伝ってそろそろと歩き始めると、後ろから抱き上げられた。
「一度、抱きたいと思っていたんだ」
 示現流の高弟は、軽々と啓恭を抱えたまま涼しい顔をしている。
「佳純さんが言うと冗談にきこえませんよ」
「本気だよ。外に人力車を待たせてある」
「ありがとう」
 佳純の肩に捉まりながら、啓恭は礼を述べた。
「ちょっとは動揺してくれよ。つまらんな」
 佳純が顔をしかめると、皆がどっと笑った。
 外に出るのは久しぶりだ。夏を思わせるような強い日光が目を射た。
「ゆっくりやってくれ」
 亨江が声をかけると車夫は頷いて静かに車を引いた。タイヤが砂を食み人力車が動き始める。
「俺たちは先に行って舟の支度をしているから」
 尚昭一人が車の傍らを歩いている。
「啓綜先生が、本番前に壮行会をやろうって言い出したんだよ」
「父さんが……」
 潮の香りを含んだ柔らかな風が頬を撫でた。緩い下り坂の先には日差しを受けて輝く青い海が見えている。幼い頃から何度も上り下りした坂道だ。マジムンよけの石敢當には今日も花が供えてある。屋根の上のシーサーは相も変わらずぎょろりとした目でこちらを睨みつけている。坂道を下ると、銀の帯のような安里川が見えてきた。
 今まで慣れ親しんできた風景を一つずつ心に刻みつけていく。人力車の速度に合わせてゆっくりと流れていく景色がいつの間にかぼやけていた。尚昭はこちらを見まいとして、頑なに前を向いて歩いている。
「さあ、着いたぞ」
 尚昭の声で啓恭は目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。眼前に大海原が広がっている。濃厚な磯の香が身体を包んだ。
 美しく彩色された爬竜が浅瀬に係留されている。千遥と千諒、禾がすぐ隣に係留されたサバニに乗っていた。
「兄さん」
 千遥がサバニの上から大きく手を振った。驚いて尚昭の顔を見ると、
「女がいきなり爬竜に乗ると海の神様に怒られるかな、と思ってさ。サバニなら目をつぶってくれるだろ。いつかは女も爬竜に乗る日が来るよ、きっと」
 真っすぐな顔をして尚昭が言った。
「お前もずい分と変わったな」
「さっさと乗れよ」
 尚昭は舟を砂浜に引き上げると、ぶっきらぼうに言った。
 舳手は啓綜だ。亨江はあの日と同じ舵手を担っている。佳純が啓恭の後ろに座って身体を支えた。
「市助、しっかり漕げよ」
 啓綜に声をかけられ、
「任せてください!」
 と、市助が力強くこたえた。
 尚昭は宗太とともにサバニに乗り込んだ。
「ありがとう、父さん」
 啓綜は照れ臭そうに頷くと、すぐに舳手の顔に戻った。
「しっかりつかまっていろ。さあ、行くぞ」
 舟が滑るように走り出した。すぐ横を走るサバニの真ん中では、千遥が真っ赤な顔をして櫂を漕いでいる。
「競漕じゃないんだぞ。そんなにがんばらなくてもいいよ」
 舳手の宗太が千遥に声をかけた。
「負けたくないの!」
 千遥が振り返って尚昭に同意を求めると、尚昭が大きく頷いた。
「宗太、本気でいこうぜ」
「全く。お前らには敵わんな。禾さん、千諒さん、しっかりつかまっていてくださいよ!」
「私も漕ぐわ」
「わしものんびりしているわけにはいかんのう」
 宗太は苦笑したまま、小さく首を横に振ると、力を込めて櫂を漕ぎ始めた。
 爬竜とサバニが白波をたてて海を奔っている。沖縄人も鹿児島人も、男も女も舟を漕ぐ。啓恭は潮風を胸いっぱいに吸い込むと、静かに目を閉じた。

                            了





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