海を奔る竜

内藤 亮

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示現流と泊手

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 どうにか動けるようになったから診療所には一人で行くつもりだったのだが、千遥が一緒に行くと言って譲らない。結局、二人で診療所まで行くことになった。
 診察室の中までついて来ようとするので、なんとかそれは止めさせた。穿刺している姿は人に見せたくない。
 上半身裸になって、ベッドに腰かけ、小さな丸テーブルに頭と腕を載せる。体勢が整うと、培元は手際よく肋骨の間に針を入れた。幼い頃は穿刺が怖くて、診察日が近づくと夜も眠れなくなったものだが、何度となく施術を受けるうちに痛みにも慣れたし、培元の手際が並々ならないものであることも知った。細いゴム管を伝わって、薄い紅色をした胸水が大きなビーカーに溜まっていくのを見ているうちに瞼が重くなってくる。うつらうつらしていると、いつのまにか培元の渇いた手が胸に触れて針が抜かれていた。
「終わったよ。もっと早くに来い。こんなに水が溜まるまでほったらかしにしたらいかんぞ」
「ありがとうございました。酸素が美味しいや」
 おどけて金魚のように口をぱくぱくさせると、培元が痛ましそうな顔をしたので軽口をたたくのはやめにした。
「このところ何だか調子が悪くて」
 日頃磊落な培元が顔を曇らせ、ふっと目を逸らせた。
「背が随分伸びたな」
「関節がきしきしいってますよ」
「成長する身体の隅々にまで血を巡らせる心臓は大忙しだ。働きすぎるから発作が起きる」
 培元の団栗眼が宙をさまよっている。暫しの沈黙は言葉を探す真摯な医師の姿だった。
「これからは発作の間隔が段々と短くなる。覚悟しておけ」
 奥歯を噛みしめてでもいるのか、肉の厚い培元の頬が硬くしまっている。
「はい。覚悟しておきます」
「強いな、お前は」
「いざとなったら分かりませんよ。それで、この心臓はあとどのくらいもつんですか?」
 培元が質問に答えるまで、暫しの間があった。
「大きい発作があったら、厳しい状況になる。すまない、俺にもいつ、そうなるかは分からない」
「謝らないでください。気まぐれなこいつが悪いんですから」
 啓恭は左側の胸を指で弾いた。
 こういう日がいつか来るのは分かっていたような気がする。人前では声を張り、顔を上げて歩き、冗談をとばす。今まで子供じみた自負心だけで身体を支えてきたが、もうすぐその必要がなくなるのだ。
 発作の苦しみに耐えかねて死を願ったことは一度や二度ではない。あとは何も考えずにこの身を東方大主に委ねてしまえばいいのだ。
「くれぐれも無理はするな。少しでもおかしいと思ったら直ぐに来い。来るのが無理なら俺が行く」
「ありがとうございました」
 独逸帰りの医者もそうだったが、どのくらい生きられるのかという質問には、培元でさえ、答えられないのだ。寿命を決めるのは人の力ではない。天命とはよく言ったものだ。なんくるないさ。琉球にはいい言葉がある。
 診療室を出ると千遥が俊敏な鹿のように走り寄ってきた。
「大丈夫なの」
 眉根を寄せて、小さな変化も見逃すまいと一心に顔を見つめている。
「楽になったよ。僕も試合に出ようかな。尚昭君のご指名なんだろ」
「兄さんが出なくても、私があんな奴やっつけるわ」
「またそういう乱暴なことを言う。嫁の貰い手がなくなるぞ」
「そんなこと兄さんが言わないで!」
 むきになって言うので啓恭は慌てて謝った。
「悪かった。そんなに怒るなよ。今度の練習、一緒にいいかな」
「ええ。久しぶりに兄さんの棒をみれるのね! 手も見たいわ。兄さんの手は優美なんだもの」
「千遥と手で殴り合いをするのか?」
「それもいいわね」
「勘弁してくれよ」
 千遥がクスクスと笑った。案の定だ。千遥の機嫌がたちまちよくなった。

 千遥と共に道場に入ると、啓綜が驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「もう加減はいいのか」
「はい」
「啓恭とやるか」
 千遥が満面の笑みで頷いた。啓恭が棒の用意をしていると、
「木刀がいいわ」
 千遥が言った。示現流も練習は棒を使うから、今日も当然棒を使うもの、と思ったのだが千遥の考えは違うらしい。木刀のほうが危険なのはいうまでもない。当たり所によっては命を落とすことさえあるのだ。困惑して啓綜の方を窺うと、啓綜がにやりとして頷いた。 
 男女平等という客家式の考え方は啓綜にも浸透しているようだ。娘にも門下生と同じ稽古をつけているのだ。全く呆れた父娘だ。
 一礼して、千遥と対峙した啓恭は気を引き締めた。木刀で、と言っただけのことはある。構えに隙がない。
 千遥が最初に仕掛けてきた。上段からの打ち込みを躱すと、返す刀で右の籠手を打たれた。思いがけず鋭い打ち込みだった。
 どう仕掛けても、千遥の木刀は確実に啓恭の右手首に伸びてくる。ようやく千遥の木刀をからめとり、渾身の力で打ち払うと、木刀があらぬ方向に飛んでいった。
「さすがね、兄さん。もう一手、お願いします」
 千遥の声が弾んでいる。
「勘弁してくれ。これ以上やったら手が壊れる」
 何度も打ち据えられた手首は青紫色になっている。
「父さんと二人で考えたのよ」
 千遥が誇らしげに言った。連日、夕飯もそこそこに遅くまで稽古をしていたのはこのためだったのだ。本当に困った父娘だ。

 試合は瞬く間に終了した。
 尚昭の右手がずるりと木刀から滑り落ち、刹那、千遥に強かに胴を打たれていた。女に負けた衝撃と痛みで、尚昭はすぐに立ち上がることができなかった。
「尚昭さん」
 千遥が右手を差し出した。
「示現流のこと、もっと知りたいわ。今度手ほどきしてくださいな」
「ええと……」
 言葉に詰まっていると、
「だから。握手してください」
 千遥の華奢な手が尚昭の手をしっかりと握った。耳まで赤くなっている尚昭を佳純は面白そうに眺めている。
「千遥さん、女子とも思えない腕前ですね。おっと失礼。こういう言い方はいけないんでした。一試合どうです」
「いいですね。よろしくお願いします」
 佳純は啓恭をじっと見ていたが、ふと眉をひそめた。
「心臓か」
「え?」
「うちの爺さんと同じ薬の匂いがしたから。先日の酒席で兄自慢をたっぷりと聞かされてね。是非とも一手、と思ったんだが……」
「一試合なら」
「しかし」
 まただ。病のことが分かると、皆、潮が引くように自分から遠ざかっていくのだ。
「大丈夫です」
 返事を待たず、啓恭は襷をかけて準備をした。
「兄さん、しっかり!」
 千遥が目を輝かせて啓恭との対峙を今や遅しと待っている。尚昭も目を輝かせている。ここで立ち合いを断るのは礼を欠くことになるだろう。佳純は申し出を承諾した。
 佳純は道場の高弟だ。啓恭は柳のようにふわりと立っているのだが、示現流の必殺と言われている一の太刀を躱され、それに続く打ち込みも躱された。対峙しているうちに、相手が病人であることをすっかり忘れてしまった。最後に放った八双からの渾身の一撃が啓恭の肉を捉えた。
 一礼すると啓恭は崩れるように床に膝をついた。心臓が早鐘のように脈打っている。差し出された佳純の手を婉曲に断り、ゆっくりと立ち上がった。
「跡取りがこの有様だ。父も運が悪い」
 試合の緊張が緩み、つい自嘲めいたことを口にしてしまった。佳純の顔がたちまち曇り、瞳が落ち着きなく宙をさまよっている。啓恭は急いで笑顔を作った。
「相手をしてくださってありがとうございました。また、よろしくお願いします」
「こちらこそ宜しく。いい試合をありがとう」
 佳純は掠れた声で言うと、目を伏せたまま控えの席に戻っていった。固唾をのんで見守っていた千遥がほうっとため息をついた。
「どう? 兄さん、すごいでしょう」
 千遥は、自分のことのように誇らしげな顔をしている。尚昭は渋々ながら同意した。一本取られたとはいえ、啓恭はあの佳純とほぼ互角に戦ったのだ。
「ね、父さん。示現流の道場に私も行ってみたいのだけれど」
「それは許さん」
 いかに娘の頼みとはいえ、薩摩隼人の巣窟のような道場に通わせる訳にはいかない。啓綜は途端に渋い顔になった。千遥が兄さんも何か言ってくれ、と言わんばかりにじっとこちらを見ている。
「今日の他流試合はとても勉強になりました。お二人に来て頂いたらどうでしょうか」
「僕たちで宜しければぜひ。こちらからもお願いします。泊手をもっと知りたいのです。教えていただけますか」
 佳純も言い添えた。
「嬉しい! 父さん、それならいいでしょう」
「うむ」
 ようやく啓綜が頷いた。

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