10 / 18
上り日ど拝みゆる(あがりてだとおがみゆる)
しおりを挟む
伸びあがって沖合を眺めながら、千遥が大声を出した。
「あ、戻って来たわ!」
双眼鏡で海を見ていた千遥はさすがに目が早い。
一位は太一の舟、その後を警察部の舟が追い上げていた。啓綜の舟は遥か後方だ。
すべての舟が港に帰って来た。空砲が二度鳴り、競漕が終了した。啓綜の舟に駆け寄った三人は思わず息をのんだ。皆、頭からずぶ濡れになり、黙りこくっている。
「くそっ。あいつらわざとだ」
宗太が頭から鉢巻をむしり取ると、地面にたたきつけた。怒りで目が吊り上がっている。
「あいつら?」
「まっしぐらに俺たちの舟に向かってきやがった。そんなに薩摩が大事なのかよ」
宗太が吐き捨てるように言った。審査係に、と言いかけた啓恭は口をつぐんだ。審査係の男が警察部の所長とさも親し気に話しているのが目に入ったからである。
「まあ、そういうわけだ。俺達にはどうしようもない。怪我人が出なくて良かった」
亨江が淡々と言った。
「太一さんの舟が優勝したのよ。今夜は平杓堂で祝賀会ですよ」
とりなすように、千諒が皆に声をかけた。
与那嶺道場の者だけでなく、太一や漁師仲間も肩を落として歩いている。薩摩に負けたことよりも、同郷人が薩摩に加担したことが皆を打ちのめしていた。
「またか……」
頬を腫らしている啓恭を見て、普猷は顔をしかめた。
「今何枚だ」
「三枚」
仏頂面のまま、啓恭は答えた。
方言札のことだ。方言札はもとはフランスの軍隊に端を発するのだという。標準語の使用を徹底させるため、方言を使うと罰として木札を首からかける。黒々と『方言札』と書かれた札を首からぶら下げるのは大変な不名誉だとされていた。札を外すためには方言を使っている者を見つけ、その者に札をかけるしかない。相互の監視によって方言撲滅をはかる巧妙な制度だ。札を外すために、わざと足を踏んだり急に殴りつけて、あが(痛い、の意)と言わせたりする。札をかけられるのはいつも弱い生徒だった。
長年、普猷の薫陶を受けてきた啓恭は、琉球の文化に誇りを持っていた。元々独自の文化や風習を持ち、国家への帰属意識が希薄だった沖縄で、何よりも重視されたのが初等教育の普及だった。本土の学生に追いつけ追い越せ、というのがウチナーの教師たちの至上目的だ。札を自ら掛けるようになったのは、弱い者いじめになりかねないこの制度が気に食わなかったせいもあるが、ヤマトゥに尻尾を振り闇雲に方言禁止を押し付ける教師に心底腹が立ったからだ。
平気な顔をして何枚もの札をぶら下げている啓恭は扱いづらい問題児だった。体罰を受けても、
「先生、非暴力、不服従ってご存知ですか」
などと平然としてうそぶく。普猷の薫陶を受けてなまじ弁が立つだけに始末が悪い。しかも、こういうときは、教師よりも淀みのない標準語で滔々と持論を述べるのだ。
身体のことを知って捨て鉢になっていた頃だから、啓恭は教師を恐れなかった。少々の体罰を加えても全く意に介さない生徒に、教師はほとほと手を焼いていた。
「気持ちは分からなくもないが……。もう少し巧くやれんのか」
「先生を見習っているだけです。巧くやったら意味がありません。僕は間違ったことはしていません」
啓恭は傲然と顔を上げ、言い放った。
普猷自身、中学生の頃に校長排斥のストライキを起こし退学になった強者なのだ。普猷は困惑した顔をして頭をかいた。
「ほどほどにしろ。万一のことがあったらどうする」
先週は終礼後にさんざん校庭を走らされたらしく、啓恭は図書館に辿り着いた途端、卒倒したのだ。
「沖縄のこんな俚諺を知っているかい」
沖縄の言葉で、普猷は二つの俚諺を暗唱した。
上り日ど拝みゆる、下がり日や拝まぬ
食を与ふる者は我が主也(ものくゐすどわーおしゆう)
昔から主を平気で変える娼妓主義が骨の髄までしみ込んでいる。沖縄人はそうやって生きるしかなかったんだよ……。
そう言って、普猷は寂しそうに笑った。
あの頃は鬱積した気持ちの矛先が欲しかっただけなのかもしれない。普猷の話は教師を弁護する詭弁のようにしか思えず、ふて腐れたまま家に帰ったのを覚えている。普猷は単に沖縄人の悲劇を嘆いたのではない。そうした県民性を培った社会を憂いていたのだ。
薩摩から金を貰って舟を漕ぐ。あの男たちは何を思っていたのだろう。
ふと気が付くと、啓綜達は遥か前方を歩いている。慌てて追いかけようとしたら、
「与那嶺道場の方ですか」
と呼び止められた。
「あ、戻って来たわ!」
双眼鏡で海を見ていた千遥はさすがに目が早い。
一位は太一の舟、その後を警察部の舟が追い上げていた。啓綜の舟は遥か後方だ。
すべての舟が港に帰って来た。空砲が二度鳴り、競漕が終了した。啓綜の舟に駆け寄った三人は思わず息をのんだ。皆、頭からずぶ濡れになり、黙りこくっている。
「くそっ。あいつらわざとだ」
宗太が頭から鉢巻をむしり取ると、地面にたたきつけた。怒りで目が吊り上がっている。
「あいつら?」
「まっしぐらに俺たちの舟に向かってきやがった。そんなに薩摩が大事なのかよ」
宗太が吐き捨てるように言った。審査係に、と言いかけた啓恭は口をつぐんだ。審査係の男が警察部の所長とさも親し気に話しているのが目に入ったからである。
「まあ、そういうわけだ。俺達にはどうしようもない。怪我人が出なくて良かった」
亨江が淡々と言った。
「太一さんの舟が優勝したのよ。今夜は平杓堂で祝賀会ですよ」
とりなすように、千諒が皆に声をかけた。
与那嶺道場の者だけでなく、太一や漁師仲間も肩を落として歩いている。薩摩に負けたことよりも、同郷人が薩摩に加担したことが皆を打ちのめしていた。
「またか……」
頬を腫らしている啓恭を見て、普猷は顔をしかめた。
「今何枚だ」
「三枚」
仏頂面のまま、啓恭は答えた。
方言札のことだ。方言札はもとはフランスの軍隊に端を発するのだという。標準語の使用を徹底させるため、方言を使うと罰として木札を首からかける。黒々と『方言札』と書かれた札を首からぶら下げるのは大変な不名誉だとされていた。札を外すためには方言を使っている者を見つけ、その者に札をかけるしかない。相互の監視によって方言撲滅をはかる巧妙な制度だ。札を外すために、わざと足を踏んだり急に殴りつけて、あが(痛い、の意)と言わせたりする。札をかけられるのはいつも弱い生徒だった。
長年、普猷の薫陶を受けてきた啓恭は、琉球の文化に誇りを持っていた。元々独自の文化や風習を持ち、国家への帰属意識が希薄だった沖縄で、何よりも重視されたのが初等教育の普及だった。本土の学生に追いつけ追い越せ、というのがウチナーの教師たちの至上目的だ。札を自ら掛けるようになったのは、弱い者いじめになりかねないこの制度が気に食わなかったせいもあるが、ヤマトゥに尻尾を振り闇雲に方言禁止を押し付ける教師に心底腹が立ったからだ。
平気な顔をして何枚もの札をぶら下げている啓恭は扱いづらい問題児だった。体罰を受けても、
「先生、非暴力、不服従ってご存知ですか」
などと平然としてうそぶく。普猷の薫陶を受けてなまじ弁が立つだけに始末が悪い。しかも、こういうときは、教師よりも淀みのない標準語で滔々と持論を述べるのだ。
身体のことを知って捨て鉢になっていた頃だから、啓恭は教師を恐れなかった。少々の体罰を加えても全く意に介さない生徒に、教師はほとほと手を焼いていた。
「気持ちは分からなくもないが……。もう少し巧くやれんのか」
「先生を見習っているだけです。巧くやったら意味がありません。僕は間違ったことはしていません」
啓恭は傲然と顔を上げ、言い放った。
普猷自身、中学生の頃に校長排斥のストライキを起こし退学になった強者なのだ。普猷は困惑した顔をして頭をかいた。
「ほどほどにしろ。万一のことがあったらどうする」
先週は終礼後にさんざん校庭を走らされたらしく、啓恭は図書館に辿り着いた途端、卒倒したのだ。
「沖縄のこんな俚諺を知っているかい」
沖縄の言葉で、普猷は二つの俚諺を暗唱した。
上り日ど拝みゆる、下がり日や拝まぬ
食を与ふる者は我が主也(ものくゐすどわーおしゆう)
昔から主を平気で変える娼妓主義が骨の髄までしみ込んでいる。沖縄人はそうやって生きるしかなかったんだよ……。
そう言って、普猷は寂しそうに笑った。
あの頃は鬱積した気持ちの矛先が欲しかっただけなのかもしれない。普猷の話は教師を弁護する詭弁のようにしか思えず、ふて腐れたまま家に帰ったのを覚えている。普猷は単に沖縄人の悲劇を嘆いたのではない。そうした県民性を培った社会を憂いていたのだ。
薩摩から金を貰って舟を漕ぐ。あの男たちは何を思っていたのだろう。
ふと気が付くと、啓綜達は遥か前方を歩いている。慌てて追いかけようとしたら、
「与那嶺道場の方ですか」
と呼び止められた。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる