海を奔る竜

内藤 亮

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伊波普猷(いはふゆう)

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 敏い人だ。忘れ物を取りに帰って急に発作が起きたのだ、と弁明をすると、千諒は青い顔をして唇を引き結び、それ以上何も聞かなかった。
 千諒は申し分のない母親だ。私的な領域に立ち入ることは決してないし、具合の悪い時は行き届いた世話をしてくれる。大陸伝来の薬膳料理も得意で、手間を厭わず食事を作ってくれる。おかげで以前のような酷い喘息の発作に悩まされることもなくなった。
 千遥は夕飯が終わるとそそくさと宿題を持ってくる。算術が苦手だというが、小さな手がかりを提示するだけで難なく問題を解く。ひょっとしたら自分よりも算術が得意なのではないか、と思うくらいだ。泊手の相手、といっても型の練習につきあうだけなのだが、それだけで千遥は大喜びだ。啓綜は仲のいい兄妹を目を細めて見守っている。
 自分は幸せだ。頭では分かっているのだが、新しい家族の待つ家に帰る前に一息つきたいような気がするのだった。学校が退けると、いつものように真っ直ぐ図書館へ向かった。
 書架の前に佇んで本の背表紙を見ていると、
「啓恭じゃないか!」
 張りのある声が響いた。館長の伊波普猷だ。普猷は、東京帝国大学を卒業し、沖縄で初めての文学士となった秀才だが、周囲の期待をよそに卒業後は迷うことなく沖縄に帰って来た。今は、沖縄県立図書館の館長を務めながら、沖縄中を歩き回って古老の話を聞き、古い文献を収集して古琉球の研究をしている。
「資料の整理、手伝ってくれてありがとな。これ、ほんの気持ちだけど」
 そう言って茶封筒を取り出した。
「いただけません。勉強をさせてもらったのは僕なんですから」
「たいして入ってないから気にするな。好きな本でも買えばいい」
 気さくに言うと、普猷は封筒を手に押し付けた。
「予科に進むのだろう?」
「……」
「あの成績ならどこにでも行けるぞ」
「勉学はもういいです。家を出て働きます」
「また急な話だな」
 啓恭が俯いて普猷のくたびれた革靴の爪先を見ていると、
「平杓堂の飯が毎日食べられるなんて羨ましいな」
 普猷が朗らかに言った。
「僕がいないほうが皆は……」
 道場には父の信頼が厚い門下生が何人もいる。千遥に養子でも取れば道場の存続は安泰だ。
「おまえが家を出たら誰が一番辛いと思う? 与那嶺の家はこれから四人なんだぞ。男は弱い生き物でね。ついフラフラっとなることがあるんだな。ま、そんなに難しく考えるな」
 そういって、普猷は啓恭の肩をポンっとたたいた。
「何だか実感がこもってますね」
「知っているのか」
 普猷は妻子のある身にもかかわらず、忍冬すいかずら夫人と道ならぬ恋をしていた。この手の噂が広まるのは早いのだ。
「先生は有名人ですから……」
「まあその、褒められた話じゃないけど……」
 琉球研究では右に出る者のない大学者の普猷が、しどろもどろになっている。啓恭は思わず噴き出した。
 千諒が来てから、家は再び家族の集う場として本来の機能を取り戻したのだ。多津と啓泰が亡くなって以来、あちらこちらに淀んでいた冷やりとした空気が一掃され、二人の位牌を収めた仏壇にはいつも花が添えられている。四人で食卓を囲み、たわいない話をする。屈託のない千遥の笑顔は久しく忘れていたものを思い出させた。千諒の勧めで通うようになった新しい医者は、脆弱な身体との付き合い方を教えてくれた。新しい風が吹き始めたのは千諒のおかげなのだ。
 あの時。身体が水底に沈んでいくようだった。冷たい水になぶられるがままになっていると、不意に身体が浮き上がるような心地がした。胸の中に千諒の匂いが満ちている。目を開けると涙で潤んだ瞳がこちらを向いていた。あの匂いと温もりは、揺るぎのない母親の愛情そのものだった。
「先生、ありがとうございました」
「おう」
 苦笑いしながら、普猷が片手をあげた。
 今まで足元ばかりみていた。目を上げると沈み始めた太陽が空を茜色に染めている。啓恭は家路へと急いだ。
「母さん、ただいま!」
「お帰り、啓恭」
 初めて母さん、と呼ばれた千諒の顔がほころんだ。水屋の格子窓から差し込む残光の中で佇む千諒は紅色に輝き生気に溢れている。今までこの人から笑顔を奪っていたのは他ならない、自分なのだ。
「なんだかお腹が空いて。手伝います」
「まあ、ありがとう」
「今日は一度も喘息の発作が出ませんでした。母さんの煎じ薬のおかげです。あの、いつもありがとう」
 思わず急きこむような口調になった。
「どういたしまして。早速だけど頼んでもいいかしら。そこのからし菜、洗ってくれる?」
「はい!」
 力みすぎた返事に千諒が小さく笑った。
 






















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