海を奔る竜

内藤 亮

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『平杓堂』(へいしゃくどう)

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 あれ以来、啓恭は四日の日の市に行ったことはない。
 啓綜は儀式のように何か欲しいものはないか、と聞くのだが、啓恭も儀式のように何もいりません、と答える。そのうち、啓綜は何も言わなくなった。
 遅くまでハーリーの練習があるというのは嘘ではないが、それは息子への配慮ともいうべき口実なのを啓恭は知っている。
 ある日、道場に通う町百姓の男が、父には馴染みの女がいる、と、声を潜めて啓恭に耳打ちした。百姓は親切にもその女が切り盛りしている『平杓堂』という飯屋の名と店のある場所まで教えてくれたのだ。
 中高の精悍な顔立ちに上背のある引き締まった体躯。若い頃から女に持てたという風貌は今も衰えていないから、やもめの父に手を差し伸べる女がいても不思議ではない。
 啓恭が家のことを一通り出来るようになると、父は何かしら理由をつけて外に泊まるようになった。
 いつも空咳をしているような息子と二人きりで飯を食っても美味くはないだろう。女の許へ通う父を詰るつもりはなかった。啓恭は慣れた手つきで薬湯を煎じ、薬を腹に収めると早々に床に就いた。
 目を覚ますと雲ひとつない晴れ渡った空が広がっていた。まだ日が昇って間もないというのに、太陽は早くも容赦ない日差しを投げかけ、鮮やかな紅色の花をつけた夾竹桃が渇いた地面に濃い影を落している。
 いつものように門前を掃き清め、打ち水をする。小さな畑に水を遣って母屋に戻ろうとしたら、また咳が出始めた。今年は夏雨が長引いたせいか喘息がひどい。息が詰まるような発作に襲われ、思わず地面に膝をついて咳いていると、背中をさする者がいる。
「大丈夫?」
 女の声だ。ようやく咳が収まって顔を挙げると、声の主と目が合った。
 慌てて立ち上がり会釈をする。啓綜の傍らに少女が立っていた。少女は喘息の発作に恐れをなしたかのように、啓綜の袂をぎゅっと握ってこちらを見ている。目元が啓綜とそっくりだった。
 「千諒ちあきと申します。平杓堂の女将をやっています。これは娘の千遥ちはるです」
 女が名乗り、少女がぴょこんと頭を下げた。 
「これから共に暮らすことになった。千遥はお前の妹だ」
 啓綜が簡潔に説明した。
 『平杓堂』と聞いてすぐに状況を理解したが、まさか妹までいるとは思わなかった。あの百姓が言っていた女が千諒なのだ。客商売と聞いていたから、もっと派手な姿を想像していたが、千諒はごく地味な身なりをしていた。やや吊り上がった一重の眼には聡明そうな光が宿っていて、気遣わし気に自分を見つめている。
「息子の啓恭だ」
 喉元からはまだ唐紙がこすれるような音がしていて声が出せないから、啓恭は黙って頭を下げた。
「これから朝餉でしょう。手伝うわ。水屋に案内してくれる?」
「はい。ありがとうございます」
 ようやく声が出た。千諒は持参してきたらしい襷を取り出すと笑いかけた。
「さて、何からはじめましょうか」
「ええと。そこに鍋がありますから。汁のほうをよろしくお願いします」
 ちょうど飯も炊けている。啓恭は羽釜から櫃に飯を移し、握り飯を作り始めた。いつもの仕事だから、手慣れたものだ。
「こんなに沢山……。全部握り飯にするの?」
 千諒は目を丸くしている。
「はい。子の日は門下生の皆さんに昼餉を振舞うと、父が決めているのです」
 空腹で目をぎらつかせている門下生を見かねて、たまには腹いっぱい飯を食べる日があってもいいだろう、と啓綜が言い出したのである。
「啓綜さんらしい」
 千諒が微笑んだ。
「母が亡くなってからは僕の仕事なんです」
「手伝うわ」
「ありがとうございます」
「ひどく咳いていたけれど。どこか加減でも悪いの?」
「喘息の持病があって」
「本当にそれだけ?」
「大したことはありません。心配なさらないでください」
 思わず素っ気ない返事をしてしまった。千諒ははっとした顔をしたが、すぐに笑顔に戻り傍らで飯を握り始めた。
 朝餉は今握ったばかりの握り飯と、みそ汁、香の物だ。なんとはなしに黙ったまま、四人で膳を囲んでいると、啓綜が誰にともなく言った。
「その、突然の話で驚かせたな」
「本当に。いつもそうなんですから」
 千諒と千遥がクスリと笑った。
「兄さんは算術が得意なのでしょう。高等学校に進んだら急に算術が難しくなって。手を焼いているの。あとで教えてください」
 躊躇なく兄さんと呼ばれ臆しそうになる。
「お役に立てればいいけれど」    
 啓泰が生きていれば千遥と同い歳だ。父は道場を継ぐことができる身体の丈夫な子供がよほどに欲しかったに違いない。
 父はこの母娘と新しい暮らしをはじめたいのだ。頭では分かっているが、いざ現実に直面すると、胸の中に冷やりとしたものが滑り込んでくる。
 千遥の他愛ないおしゃべりに愛想よく相づちをうちながら、啓恭は自分がこの場に居るのがひどく場違いな気がしていた。
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