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与那嶺(よなみね)家
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先の廃藩置県で、琉球王朝は終焉し、薩摩藩出身の役人が実質的な権力者となった。一連の琉球処分後、充分な補償をされたのはごく一部の有力士族だけだったから、里之子や筑登之といった采地を持たない多くの士族は、身分も王府からの手当もなくなって、王朝時代よりもさらに生活が逼迫した。慣れない商売に手を染め、失敗する者も多かった。
与那嶺家は里之子に属する中流士族だった。代々武道を重んじる家柄で、啓綜も幼い頃から泊手の手ほどきをうけた。
琉球の唐手には大きく分けて三つの流派がある。首里の王族が継承発展させた首里手、那覇士族を中心に発展した那覇手、そして、泊港の庶民を中心に発展した泊手、の三つだ。
琉球王朝時代から第二の貿易港だった泊では、中国や朝鮮、遠くはシャムやマラッカとも交易が行われていた。そうした土地柄、泊手には中国武術はもとより、様々な格闘技の要素が含まれているといわれている。
啓綜とて、武道で食べていくつもりなどもちろんなかったのだが、泊手のおかげで慣れない商売に手を出さずとも済んだのだ。
屋敷周りの僅かな土地しかないが、家族が食べる程度の野菜はとれる。購うのは、米と魚くらいのものだ。そもそも、扶持を貰っていた頃から与那嶺の家は貧しかったのだ。質素倹約は今に始まったことではない。
啓綜は家族の食い扶持を稼げば十分だと考えていたから、束脩は破格の安さだった。屋敷の片隅で開いた道場には、そんな啓綜の人柄に惹かれた門下生が集まるようになった。一度人が集まりだすと、人が人を呼び、与那嶺道場はたちまち有名な道場となった。
実践を重んじる泊手の稽古は、当世風の型を重んじ美しさを競う唐手と違って、昔ながらの厳しいものだ。門下生は、周辺の百姓やかつての里之子、筑登之といった貧しい士族の子弟がほとんどだ。皆、日ごろの生活の鬱憤を発散させるから、稽古は自ずと苛烈なものになる。
門弟の暗い情念を稽古で燃焼させ、日々を生き抜く活力に昇華させるのが道場主の務めだ。武道に秀でているのはもちろんだが、そうした考えを受け継ぐ者が欲しい。それが啓綜の願いだった。
待望の長男、啓恭は仮死で生まれた。産婆は産声を上げる力もない蒼白い赤子を逆さにして尻を叩き、赤子はようやくか細い産声を上げた。乳も満足に飲めない赤子が丈夫に育つはずもなく、啓綜は長男に道場を継がせることを早々に諦めた。
啓恭はすぐに乳を飲まなくなったから、多津は程なくして身ごもった。翌年に生まれたのが弟の啓泰だ。東方大主(沖縄土着信仰の最高神)に父親の願いが通じたのだろう。啓泰は力強く乳を飲み、健やかに成長した。
啓泰の成長ぶりは目を見張るものがあった。本格的な稽古を始めてまだ間もないが、めきめきと力をつけ、啓泰が放つ鋭い打ち込みは、時として啓綜をたじろがすほどになっている。
「今日の稽古はここまでだ」
啓綜は、思わず笑顔になった。門下生との稽古が終わった後、二人きりで稽古をするのが最近の日課となっている。
「もっと稽古したいな」
「続きは明日だ。飯にしよう」
啓綜は息子の頭を荒っぽく撫でた。
「只今、帰りました」
啓恭だ。学校の授業はとうに終わっているはずなのに、今日も帰りが遅い。大方、図書館で本でも読んでいたのだろう。
「啓泰、少し啓恭の相手をしろ」
薄暗くなった道場の中でも、啓恭の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。
「兄さん、棒と手、どっちがいい?」
啓泰が無邪気に尋ねた。
「おまえの好きな方でいいよ……」
消え入りそうな声で啓恭が答えた。
「じゃあ、手だ」
啓泰はいかにも嬉しそうにそう言うと、そそくさと上着を脱ぎ始めた。
素手の手は互いの身体の動きが良く分かるよう、上半身裸になるのが流儀だ。啓恭も、ぐずぐずと準備を始めた。
弟の啓泰のほうが拳一つ背が高い。しなやかな筋肉に覆われた身体は、少年らしい活力が漲っていた。啓泰はその場でぴょんぴょんと跳ねながら、今や遅しと「始め」の合図を待っている。
啓泰と並ぶと、啓恭の身体はさらに貧弱に見えた。肉の薄い身体は青白く、いつも俯いているせいで、余計に小さくみえる。
たとえ道場を継ぐことが叶わなくとも、少しでも心身を鍛えてやりたい。啓綜は、日頃に増して蒼い顔をしている啓恭に声をかけた。
「練習なんだ。気負う必要はない。思い切ってやってみろ。では、始め!」
互いに一礼し、対峙した途端、啓泰が最初の一撃を仕掛けた。啓恭が上段の回し蹴りを辛うじて払うと、瞬時に下段への鋭い蹴りが放たれる。内膝を蹴られないよう、啓恭は慌てて防御した。互いの向う脛がぶつかって鈍い音を立てた。
体勢を崩した啓恭の鳩尾に、鋭い直突きがねじ込まれる。啓恭は腹を押さえたまま、その場に倒れ込んでしまった。勝敗はあっという間だった。
「兄さん、大丈夫?」
黙って頷くと、啓恭はようやく立ち上がった。
「よし。そこまでだ。二人ともよくやった」
今の組み手で啓恭は汗まみれになっているが、啓泰は汗一つかくでもなく、けろりとした顔をしている。啓泰がもう一試合やる、と言い出す前に啓綜は急いで言った。
「もうすぐユッカヌヒーだな。お前たちは何が欲しい?」
与那嶺家は里之子に属する中流士族だった。代々武道を重んじる家柄で、啓綜も幼い頃から泊手の手ほどきをうけた。
琉球の唐手には大きく分けて三つの流派がある。首里の王族が継承発展させた首里手、那覇士族を中心に発展した那覇手、そして、泊港の庶民を中心に発展した泊手、の三つだ。
琉球王朝時代から第二の貿易港だった泊では、中国や朝鮮、遠くはシャムやマラッカとも交易が行われていた。そうした土地柄、泊手には中国武術はもとより、様々な格闘技の要素が含まれているといわれている。
啓綜とて、武道で食べていくつもりなどもちろんなかったのだが、泊手のおかげで慣れない商売に手を出さずとも済んだのだ。
屋敷周りの僅かな土地しかないが、家族が食べる程度の野菜はとれる。購うのは、米と魚くらいのものだ。そもそも、扶持を貰っていた頃から与那嶺の家は貧しかったのだ。質素倹約は今に始まったことではない。
啓綜は家族の食い扶持を稼げば十分だと考えていたから、束脩は破格の安さだった。屋敷の片隅で開いた道場には、そんな啓綜の人柄に惹かれた門下生が集まるようになった。一度人が集まりだすと、人が人を呼び、与那嶺道場はたちまち有名な道場となった。
実践を重んじる泊手の稽古は、当世風の型を重んじ美しさを競う唐手と違って、昔ながらの厳しいものだ。門下生は、周辺の百姓やかつての里之子、筑登之といった貧しい士族の子弟がほとんどだ。皆、日ごろの生活の鬱憤を発散させるから、稽古は自ずと苛烈なものになる。
門弟の暗い情念を稽古で燃焼させ、日々を生き抜く活力に昇華させるのが道場主の務めだ。武道に秀でているのはもちろんだが、そうした考えを受け継ぐ者が欲しい。それが啓綜の願いだった。
待望の長男、啓恭は仮死で生まれた。産婆は産声を上げる力もない蒼白い赤子を逆さにして尻を叩き、赤子はようやくか細い産声を上げた。乳も満足に飲めない赤子が丈夫に育つはずもなく、啓綜は長男に道場を継がせることを早々に諦めた。
啓恭はすぐに乳を飲まなくなったから、多津は程なくして身ごもった。翌年に生まれたのが弟の啓泰だ。東方大主(沖縄土着信仰の最高神)に父親の願いが通じたのだろう。啓泰は力強く乳を飲み、健やかに成長した。
啓泰の成長ぶりは目を見張るものがあった。本格的な稽古を始めてまだ間もないが、めきめきと力をつけ、啓泰が放つ鋭い打ち込みは、時として啓綜をたじろがすほどになっている。
「今日の稽古はここまでだ」
啓綜は、思わず笑顔になった。門下生との稽古が終わった後、二人きりで稽古をするのが最近の日課となっている。
「もっと稽古したいな」
「続きは明日だ。飯にしよう」
啓綜は息子の頭を荒っぽく撫でた。
「只今、帰りました」
啓恭だ。学校の授業はとうに終わっているはずなのに、今日も帰りが遅い。大方、図書館で本でも読んでいたのだろう。
「啓泰、少し啓恭の相手をしろ」
薄暗くなった道場の中でも、啓恭の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。
「兄さん、棒と手、どっちがいい?」
啓泰が無邪気に尋ねた。
「おまえの好きな方でいいよ……」
消え入りそうな声で啓恭が答えた。
「じゃあ、手だ」
啓泰はいかにも嬉しそうにそう言うと、そそくさと上着を脱ぎ始めた。
素手の手は互いの身体の動きが良く分かるよう、上半身裸になるのが流儀だ。啓恭も、ぐずぐずと準備を始めた。
弟の啓泰のほうが拳一つ背が高い。しなやかな筋肉に覆われた身体は、少年らしい活力が漲っていた。啓泰はその場でぴょんぴょんと跳ねながら、今や遅しと「始め」の合図を待っている。
啓泰と並ぶと、啓恭の身体はさらに貧弱に見えた。肉の薄い身体は青白く、いつも俯いているせいで、余計に小さくみえる。
たとえ道場を継ぐことが叶わなくとも、少しでも心身を鍛えてやりたい。啓綜は、日頃に増して蒼い顔をしている啓恭に声をかけた。
「練習なんだ。気負う必要はない。思い切ってやってみろ。では、始め!」
互いに一礼し、対峙した途端、啓泰が最初の一撃を仕掛けた。啓恭が上段の回し蹴りを辛うじて払うと、瞬時に下段への鋭い蹴りが放たれる。内膝を蹴られないよう、啓恭は慌てて防御した。互いの向う脛がぶつかって鈍い音を立てた。
体勢を崩した啓恭の鳩尾に、鋭い直突きがねじ込まれる。啓恭は腹を押さえたまま、その場に倒れ込んでしまった。勝敗はあっという間だった。
「兄さん、大丈夫?」
黙って頷くと、啓恭はようやく立ち上がった。
「よし。そこまでだ。二人ともよくやった」
今の組み手で啓恭は汗まみれになっているが、啓泰は汗一つかくでもなく、けろりとした顔をしている。啓泰がもう一試合やる、と言い出す前に啓綜は急いで言った。
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