海を奔る竜

内藤 亮

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父と息子

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 強かに肩を打たれたせいで右手が痺れたままだが、ここで引くわけにはいかない。啓恭けいきょうは歯を食いしばり、トンを握り直した。
「もう一手、お願いします」
「もうよい」
 啓綜けいそうが静かに言った。
「でも」
「よい、と言っている。もう休め」
 声音に混じる微かな苛立ちに、啓恭は思わず言葉をのんだ。啓綜はそのまま踵を返すと、道場を出ていった。息を継いだ途端、滝のような汗が噴き出して床板を濡らす。啓恭は腰が砕けたようにその場に座り込んでしまった。
 泊手とまりて以外で接点を見いだす術がないから、少しでも繋がりを探そうとして稽古を繰り返す。が、親子の距離が縮まることはなかった。それどころか、稽古をすればするほど互いの気持ちが離れていくような気さえした。
 啓綜も同じに感じるらしく、稽古の後、親子の間にはいつもいいようのない重苦しさが漂うのだった。
 井戸の傍らで汗をぬぐっていると、啓綜の呼ぶ声がする。母屋に向かうと、出かける支度を整えた啓綜が玄関先で待っていた。
哈日ハーリーの練習があるからこれから出かける。今夜は町のほうに泊まる。留守を頼むぞ」
「はい。わかりました」
 燃え盛るような夕暮れの中、啓綜の姿が遠ざかっていった。
 哈日は豊穣と海の安全を祈願する神事だが、舟を漕ぐ男達にとっては単なる神事ではない。男達は己の自負と体面をかけて競艇に力をそそぐのだ。若い時から舳手だった啓綜は、この時期は門下生と共に毎日のように練習に励んでいる。
 子供の頃は弟の啓泰けいたいと共に爬竜バーロンの艫によく乗せてもらった。練習の興奮が冷めやらぬまま、声高に喋りながら夕餉を食べる男三人を、母の多津は笑いながら見守っていたものだった。
 爬竜の語源は、舟を爬行する竜に見立てたことに由来する。櫂の爪で海を裂き、すべるように奔る舟はまさに竜だ。
 眼下に目を馳せると、爬竜が数艘、朱鷺色に染まった海に浮かんでいるのが見えた。哈日に参加してもいい、しかるべき歳になったが、自分が漕ぎ手に選ばれることはない。これから先もあの美しい爬竜に乗ることはないだろう。
 日が落ちても、啓恭は佇んだまま、暗くなっていく海を見つめていた。
 
    
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