カットサロン◇タムラ

内藤 亮

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 今朝も一緒に食事の支度をした。とはいっても、ここ数日の朝食はほとんど田村が作っている。
 いままで料理をしたことがない、というのが本当なのかと思うようなたくみな包丁さばきだ。玉ねぎのスライスがみるみるうちに出来上がる。
「そのくらいあれば十分ですよ」
「料理って、面白いね」
 玉ねぎは氷水にさらして、田村お勧めのパテに添えた。料理をしたり食事をしている間は、田村とのこれからの関係をぐるぐる考えているのがいったんオフになる。豆の香りを楽しみながらコーヒーを飲んでいると、田村が言った。
「千怜さんと一緒だと、買い物の額が違うね。あんなに沢山買ったのに。びっくりだよ」
「いつもより、随分贅沢してるつもりですよ」
「あれで!」
「せっかくの同棲期間なのに、母子家庭モードだと申し訳ないでしょう」
 田村が声を出して笑った。思っていることをそのまま言うと、田村はよく笑うのだ。
「僕はお金がちっとも貯まらないんだよね。そんなに贅沢してないのに」
「田村さんみたいな消費もありですよ。私みたいな人間ばっかりだったら日本経済が衰退します」
 田村がまた笑った。
「田村さんに初めてお会いした時、華がある人だな、って。この仕事の大切な要素です」
「僕はね、千怜さんのテクニックにびっくりしたんだよ。世の中にこんなに正確無比なカットをする人がいるんだって。正直、ちょっと焦った」
「そんな、大げさな。田村さんの技術に惚れ込んで、ここで働きたいって思ったんですよ」
「そうなの?」
「当たり前じゃないですか」
「千怜先生にそういわれると、嬉しいな」
「先生はやめてください」
 大真面目な顔をしていうと、田村はくすりと笑った。
「今夜は外で食事しよう。二人で過ごす最後の夜だよ」
 口を開きかけると、 
「節約はなし。もう予約をとってある」
「う、はい。楽しみにしています」
「うん」
 それでよし、というように田村が頷いた。
「田村さん、髪、伸びてきましたね。私でよろしければ、少しカットしましょうか」
 明後日から店が始まるというのに、無造作すぎるヘアスタイルだった。田村らしくない。ベリーショートだった襟足が、今はシャツの襟にかかっていた。
「嬉しいな。よろしくたのむよ」
 サロンで待っていると、田村がティーシャツに着替えてやってきた。さすがにカットする側の事を考えている。こういう格好だとケープを付けやすいし、後始末も簡単なのだ。 
「どの位、切りますか」
「お任せで」
「田村さんともあろう方が、そんなことでいいんですか」
 どんな要望でも応えてみせる、と意気込んでいたのに、力が抜けてしまった。
「いつもお任せ、だったから……」 
 田村が目を伏せた。
 田村の髪が伸びたままの理由が分かった。
「あの……、私がカットしてもいいんですか」
「もちろん」
 鏡に映った田村の眼が潤んでいる。気が付かないふりをして、田村の髪に鋏をいれた。
 互いに無言だった。鋏の音だけがサロンに響いた。

 早めに着替えてサロンに来て、というので行ってみたら、田村が仕事用のギャルソンエプロンを点けてスタンバイしていた。
「ここに座って。これから千怜さんのヘアとメイクは僕が担当するから」
 田村が断固として宣言した。いつもの田村だった。さっきカットした髪はムースで整えられていた。アレンジができるよう、あえて長めのカットをしたのだが、やはり上手い。夜のディナーに相応しい装いだった。
「ちゃんと口紅もつけてるじゃないですか」
「そのメイクは身だしなみのレベルだよ。いいから座って」
 仕方なく、鏡の前に座った。
 髪を湿らせながら、田村はカットの具合を子細にチェックしている。
「何処でカットしているの?」
「近所です」
「カットする時は僕に言ってよ」
「お忙しいのに申し訳なくて」
 仕事とプライベートを分けたかったからだが、いまそれを言う必要はない。
「で、これで幾らとるわけ」
 値段を教えると、田村は目を剥いた。 
「お流しなしのカットだけですけれど、すごいでしょう? 一回短くすると楽ちんで、もう後戻りできませんね。お店に行けば自分で後始末をしなくてもすむし」
「だからって、このカットはないよ」
 田村が憤慨して言った。
「野本さんじゃないけど、勿体ない。僕が千怜さんだったら、もっとお洒落するよ。で、楽しみまくるな、きっと」 
「リスクヘッジかしら」
「?」 
「女でいいことってあんまりないですよ」
「そんなものかなあ」
 なんとなく胡麻化していたヘアスタイルがみるみるうちに整えられていく。田村は会話をしていても手を動かす速度が変わらない。チェーン店では数をこなしてなんぼだったから、千怜はいまだに会話を続けながらカットするのが苦手だった。
「女の人はスカートもパンツスタイルもありだけど、男はスカートをはくわけにはいかないし、化粧も普通はできないでしょ。つまらないよ」
「田村さんなら似合いそうですよ」
「御冗談を。自分はそういうことができないから。人を綺麗にする側の仕事をしようって、決めたんだよ」
 化粧品や茜里の服を選ぶときの嬉々とした姿を思い出した。淡々とした口調が、かえって田村の痛みを露わにしていた。
「私がこの仕事を選んだのは、食べていくためです」
 田村は手を休めずに、話の先を促した。
「熱で学校を休んでいたら、突然、義父がやってきて。私が一人だと分かると、義父はベッドに入ってきました。そこに母が帰って来て。ぐちゃぐちゃのパジャマを見た母は、私が義父を誘惑したって言って、半狂乱です。私の言うことなんて、全然耳に入りませんでした」
 リズミカルに動いていた鋏が止まった。田村の顔は紙のように白くなり、鋏を持つ手がぶるぶると震えている。
 年頃になると、母によく言われた。
「ちょっとばかり可愛いからって、いい気になっちゃだめよ」
 母特有の冗談だと思って聞き流していたのだが、いつしか母は自分の娘を対等の女として見ていたのだ。義父の災禍は過去の記憶へとトーンダウンしたが、母親の怒りで引きつった顔は今も忘れることはできない。
「昔の話です。おかげで、家を出る決心がついたんですから」
 千怜は椅子から立ち上がると、田村の手から鋏を取り上げてカウンターの上に置いた。  
 両親は早世した、でずっと通してきたのだが、嘘をついたまま裕太と暮らしたくなかった。このままでは日向の匂いのする裕太と一緒に暮らすことはできない。そう思ったのだ。
 封印した記憶は、いつしか腐敗臭を放っていた。もう大丈夫と思っていたはずなのに、いざ話始めると身体の震えが止まらなかった。
 話を聞き終えた裕太は、黙ってハグをして赤ん坊をあやすように背中をさすってくれた。弟分のくせに。そう思ったのに涙が勝手にこぼれた。あの日、初めて裕太の前で泣いたのだ。
「カット、これで終わりですか」
「い、いや」
「よかった。このままだと困るなって」
 たいしたことではない、というように私はちょっと笑ってみせた。田村はカットを再開したが、途中、何度も手が止まった。
 カットに時間がかかったのは仕方がない。とはいえ、出来栄えはいつもの田村だった。運動部の学生のようだったショートカットが柔らかい雰囲気のカットになっている。項がいかにも女性らしく綺麗にみえた。
「こういうのもあり、ですね!」
「気に入ってもらってよかった。千怜先生の髪を切るのは緊張したよ」
 思わず吹き出すと、田村は硬い笑顔で応えた。
「次はメイクをしないと」
 カットをしているうちに田村の手の震えが収まっていた。ここは調子を合わせるしかなさそうだった。
「はあ、よろしくお願いします。でもね、ばっちりのフルメイクは勘弁してください」
「はいはい、まかせて」 
「アイラインもいれるんですか」
「そうだよ、当たり前でしょ」
 尖った黒い棒が目の前に迫ってくる。思わず目を閉じたら田村に注意された。
「ほら、目、ちゃんとあけて」
 必死で目を見開いていたが、眼球がカサカサになってくるのが分かる。もう堪えきれない。
「うわっ、水が出た! アイメイクの時に涙をこぼしたらダメだよ」
「ダメっていわれても。アイラインとかマスカラって苦行以外の何ものでもないですよ。瞬きができないんですよ」
「そのくらい、我慢しなくちゃ。女の人は自分が綺麗になっていく時間も楽しむものなんだよ」
「手早くしないとって、そればっかり思っていました」 
「普通にやっても千怜さんのヘアメイクは十分早いんだから。もう少し、こう、なんというか」 
「サロンっぽく優雅にですね」
「千怜さんには参るな。さ、出来上がりだ。いかが?」
 田村はもう一度、髪を手櫛で整えると、鏡台から身体をずらした。千怜は鏡に映った自分の姿を見て、息をのんだ。
 精気に満ちた女がこちらを見返している。ライトに映えて瞳が輝いていた。
「深い森の色だ。吸い込まれそうになる」
 囁くと、田村が額にそっとキスをした。
「そろそろ出かけようか」
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