11 / 23
10
しおりを挟む
一昨日はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。その翌日もまだ雨が降っていた。今日は久しぶりの晴天だ。皆、どこかに出かけたのだろう。
色々と理由をつけてはみたが、とにかく客が来ない。電話は何本かあったが、田村が休みだと伝えると、客はすぐに電話を切ってしまう。最初は意気込んでいたが、さすがにボディブローのようにこたえてくる。ずっと客のこないサロンに立っているのはかなりの苦行だった。
昼食の時間は田村の居る母屋に顔を出すのだが、これもまた、気が重い。田村は痛々しそうな顔をして、黙って極上の紅茶や緑茶を淹れてくれるのだ。
「いつも美味しいお茶をありがとうございます」
「あのさ、そんなに気を落とさないで」
「そういう風に見えますか、やっぱり?」
「そういう風に見えないよう、頑張ってるのが分かる」
「田村さんには参るなあ」
「千怜さんじゃないと、っていうお客さんもきっとでてくるから。まあ、気長に、ね」
「ありがとうございます。そろそろお店に戻ります」
「うん、よろしくね」
田村の目の腫れはほとんど分からないくらいになっている。そういえば、いつ田村は店に戻るのだろう。
それにしても、客がこない。千怜はトイレに行く時間も惜しんで電話の前にへばりついていた。道具のチェックをしてもう一度シンクに磨きをかけた。とはいえ、客が来ないから床もシンクも綺麗なままだ。悶々としていると、ようやく電話が鳴った。
「カットサロンタムラです」
「店長はまだお休み?」
まただ。仕方がないのだ。千怜は努めて声のトーンを明るくした。
「ご心配おかけしました。来週から店に出ます」
「そう。これから伺ってもいいかしら?」
「はい! お待ちしています」
自分を指名してくれる客なのだ。よほど舞い上がっていたらしく、名前をきくのを忘れてしまった。今のところ、千怜が髪を切った女性の客は木本だけだ。電話口の声のトーンは低かったから、木本ではないのは確かだった。
もう一度、店内が整っているかチェックをする。待っているときも美しく。突然、佐野の言葉が頭をよぎった。急いで落ち着いた顔を作り、客を待つ。
「こんにちは」
「野中さん! こんにちは!」
「ま! 名前、覚えていてくださったの!」
突然の来店に千怜も驚いたが、野中はそれ以上に驚いたらしい。
「昌伸さんは、ここにきて初めてのお客様でしたから。ペチちゃんとナナちゃん、元気ですか」
愛犬の名前を出すと野中はさらに驚いた顔をした。
「二匹でいたずらばっかりしてるわ。今日は貴女にカットしてもらいたくて。ほら、店長がいる時だと頼みづらいじゃない?」
「半額キャンペーンは終わったのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ」
鏡越しに千怜をしげしげと見ていた野中が言った。
「あなた、せっかくのその容貌を利用することは考えないの?」
「?」
「モデルさんとか。玉の輿を狙うとか。そっちの方が面白いでしょ?」
「そういう業界には、このくらいの顔の人なんて沢山いますよ。それよりも、色々な方を綺麗にする方が楽しいんです。自分の顔は歳をとる以外、変化なんてないんですから」
「いいお答えねえ」
野中が惚れ惚れとした顔をした。
「ええと、どのくらいお切りしましょうか?」
野中のヘアスタイルは緩やかにパーマのかかった長めのボブだった。いかにも奥様といった雰囲気の、品のあるカットだ。いつ切ったのかは分からないが、バランスは保たれていて、まだ切る必要はなさそうだった。
「昌伸を見ていたら、短めも悪くないかなあって思って。イメージチェンジしてみたくなったの。この歳でおかしいかしら?」
「そんなことはありませんよ。お似合いだと思います」
野中が安心したように微笑んだ。
「一センチくらい切りましょうか?」
「もう少し切ってみて。お任せするわ」
「はい」
「パーマはどうなさいますか?」
「染色もパーマもいらないわ。あのね、」
野中が声をひそめた。
「トリートメントで染まる便利なヘアカラーを見つけたのよ。自分で染めてみたの。どうかしら?」
「綺麗に染まってますよ。お上手ですね」
「よかった。店長には内緒よ」
田村のカットのあと、自分がカットをするのだ。パーマも染色もなし、となるとカットの技術がダイレクトにでる。久しぶりの緊張感がよみがえってきた。野中は顔の輪郭が昌伸とよく似ている。もっと活動的なヘアスタイルも似合いそうだった。
丁寧なカットだ。改めて田村の技術に惚れ惚れとしながら、千怜は野中の髪に慎重に鋏をいれていった。
「いかがでしょう? 後ろはこんな感じです」
綺麗な項が見えるくらいまでカットをした。手鏡で後姿を見せると、野本の顔がぱっと輝いた。
「まあ、なんだか若返ったみたい!」
シャギーを入れすぎると以前の髪型に戻すとき苦労する。控えめなシャギーにして、ぎりぎりまで短く切ってみた。軽くなった髪型はこれからの季節向きだと思う。
「こういうのもいいわね!」
野中が料金を払っていると、田村が顔を出した。
「お久しぶりです」
「お加減はもういいの?」
「はい、おかげさまで。そろそろ身体をならさないと、と思って。あ、そこ、いいよ。僕が掃くから」
「でも」
「初日はまずアシスタントから、だろ? 会計お願いします」
田村がいたずらっぽくお辞儀をした。
「いいですね、そのカット」
「でしょ。今度もまた、吉野さんお願いしようかしら」
「参ったなあ。またお客さんを取られそうだ」
「じゃ、また」
「ありがとうございました」
二人で並んでお辞儀をすると、野中は笑いながら手をふって店を出て行った。
「やっていけそうじゃない? もう少し休んでようかな」
「ずる休みはいけませんよ。待っているお客様が沢山いらっしゃるんですから」
「はいはい」
田村はまだ何か言いたそうだ。
「どうなさいました?」
「ごめん。野中さんとのやり取り、立ち聞きしちゃったんだんだ。他人を綺麗にするのが楽しい、か。いいねえ」
ということは、野中とのやり取りをずっと聞いていたのだろうか。そういえば、田村はカットが終わったころを見計らったように出てきたのだ。
そのまま店に残るのかと思っていたら、田村は、後はよろしく、と母屋に引っ込んでしまった。
色々と理由をつけてはみたが、とにかく客が来ない。電話は何本かあったが、田村が休みだと伝えると、客はすぐに電話を切ってしまう。最初は意気込んでいたが、さすがにボディブローのようにこたえてくる。ずっと客のこないサロンに立っているのはかなりの苦行だった。
昼食の時間は田村の居る母屋に顔を出すのだが、これもまた、気が重い。田村は痛々しそうな顔をして、黙って極上の紅茶や緑茶を淹れてくれるのだ。
「いつも美味しいお茶をありがとうございます」
「あのさ、そんなに気を落とさないで」
「そういう風に見えますか、やっぱり?」
「そういう風に見えないよう、頑張ってるのが分かる」
「田村さんには参るなあ」
「千怜さんじゃないと、っていうお客さんもきっとでてくるから。まあ、気長に、ね」
「ありがとうございます。そろそろお店に戻ります」
「うん、よろしくね」
田村の目の腫れはほとんど分からないくらいになっている。そういえば、いつ田村は店に戻るのだろう。
それにしても、客がこない。千怜はトイレに行く時間も惜しんで電話の前にへばりついていた。道具のチェックをしてもう一度シンクに磨きをかけた。とはいえ、客が来ないから床もシンクも綺麗なままだ。悶々としていると、ようやく電話が鳴った。
「カットサロンタムラです」
「店長はまだお休み?」
まただ。仕方がないのだ。千怜は努めて声のトーンを明るくした。
「ご心配おかけしました。来週から店に出ます」
「そう。これから伺ってもいいかしら?」
「はい! お待ちしています」
自分を指名してくれる客なのだ。よほど舞い上がっていたらしく、名前をきくのを忘れてしまった。今のところ、千怜が髪を切った女性の客は木本だけだ。電話口の声のトーンは低かったから、木本ではないのは確かだった。
もう一度、店内が整っているかチェックをする。待っているときも美しく。突然、佐野の言葉が頭をよぎった。急いで落ち着いた顔を作り、客を待つ。
「こんにちは」
「野中さん! こんにちは!」
「ま! 名前、覚えていてくださったの!」
突然の来店に千怜も驚いたが、野中はそれ以上に驚いたらしい。
「昌伸さんは、ここにきて初めてのお客様でしたから。ペチちゃんとナナちゃん、元気ですか」
愛犬の名前を出すと野中はさらに驚いた顔をした。
「二匹でいたずらばっかりしてるわ。今日は貴女にカットしてもらいたくて。ほら、店長がいる時だと頼みづらいじゃない?」
「半額キャンペーンは終わったのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ」
鏡越しに千怜をしげしげと見ていた野中が言った。
「あなた、せっかくのその容貌を利用することは考えないの?」
「?」
「モデルさんとか。玉の輿を狙うとか。そっちの方が面白いでしょ?」
「そういう業界には、このくらいの顔の人なんて沢山いますよ。それよりも、色々な方を綺麗にする方が楽しいんです。自分の顔は歳をとる以外、変化なんてないんですから」
「いいお答えねえ」
野中が惚れ惚れとした顔をした。
「ええと、どのくらいお切りしましょうか?」
野中のヘアスタイルは緩やかにパーマのかかった長めのボブだった。いかにも奥様といった雰囲気の、品のあるカットだ。いつ切ったのかは分からないが、バランスは保たれていて、まだ切る必要はなさそうだった。
「昌伸を見ていたら、短めも悪くないかなあって思って。イメージチェンジしてみたくなったの。この歳でおかしいかしら?」
「そんなことはありませんよ。お似合いだと思います」
野中が安心したように微笑んだ。
「一センチくらい切りましょうか?」
「もう少し切ってみて。お任せするわ」
「はい」
「パーマはどうなさいますか?」
「染色もパーマもいらないわ。あのね、」
野中が声をひそめた。
「トリートメントで染まる便利なヘアカラーを見つけたのよ。自分で染めてみたの。どうかしら?」
「綺麗に染まってますよ。お上手ですね」
「よかった。店長には内緒よ」
田村のカットのあと、自分がカットをするのだ。パーマも染色もなし、となるとカットの技術がダイレクトにでる。久しぶりの緊張感がよみがえってきた。野中は顔の輪郭が昌伸とよく似ている。もっと活動的なヘアスタイルも似合いそうだった。
丁寧なカットだ。改めて田村の技術に惚れ惚れとしながら、千怜は野中の髪に慎重に鋏をいれていった。
「いかがでしょう? 後ろはこんな感じです」
綺麗な項が見えるくらいまでカットをした。手鏡で後姿を見せると、野本の顔がぱっと輝いた。
「まあ、なんだか若返ったみたい!」
シャギーを入れすぎると以前の髪型に戻すとき苦労する。控えめなシャギーにして、ぎりぎりまで短く切ってみた。軽くなった髪型はこれからの季節向きだと思う。
「こういうのもいいわね!」
野中が料金を払っていると、田村が顔を出した。
「お久しぶりです」
「お加減はもういいの?」
「はい、おかげさまで。そろそろ身体をならさないと、と思って。あ、そこ、いいよ。僕が掃くから」
「でも」
「初日はまずアシスタントから、だろ? 会計お願いします」
田村がいたずらっぽくお辞儀をした。
「いいですね、そのカット」
「でしょ。今度もまた、吉野さんお願いしようかしら」
「参ったなあ。またお客さんを取られそうだ」
「じゃ、また」
「ありがとうございました」
二人で並んでお辞儀をすると、野中は笑いながら手をふって店を出て行った。
「やっていけそうじゃない? もう少し休んでようかな」
「ずる休みはいけませんよ。待っているお客様が沢山いらっしゃるんですから」
「はいはい」
田村はまだ何か言いたそうだ。
「どうなさいました?」
「ごめん。野中さんとのやり取り、立ち聞きしちゃったんだんだ。他人を綺麗にするのが楽しい、か。いいねえ」
ということは、野中とのやり取りをずっと聞いていたのだろうか。そういえば、田村はカットが終わったころを見計らったように出てきたのだ。
そのまま店に残るのかと思っていたら、田村は、後はよろしく、と母屋に引っ込んでしまった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
台本集(声劇)
架月はるか
大衆娯楽
フリー台本(声劇)集。ショートショートから、長編までごちゃ混ぜです。
ご使用の際は、「リンク」もしくは「作品名および作者」を、概要欄等にご記入下さい。また、音声のみでご使用の場合は、「作品名および作者」の読み上げをお願い致します。
使用に際してご連絡は不要ですが、一報頂けると喜びます。
最後までお付き合い下さると嬉しいです。
お気に入り・感想等頂けましたら、今後の励みになります。
よろしくお願い致します。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる